どこの誰かはわからないけれど、7月に書いた記事を読んでくれたらしい。
タイトルを見ただけじゃ自分が何を書いたのかわからなくて、その中身を読んでみた。
何でピンポイントでその記事がヒットしたのかは知らないけれど、そのピンポイントで引っかかってくれたどこかの誰かにありがとうと言いたい気持ちになった。
私はその中で変化したものと変化せずに残ったものとを対比させて書いていた。
変化したものも残ったものも不可抗力的ではあったけれど、特に残った方は私に安心感や自信のようなものを残してくれた。
そんな風に自分が書いたことも思ったことも、その文章を読むまでは忘れていた。
指折り数えて、その時から4ヶ月ほどになる。
変わらないものは相変わらず変わらないままなんだなぁと気付いた。
本当にこの1年はめまぐるしかった。
去年の10月10日から今年の今日11月7日まで、木星がさそり座にあった。
(明日8日に射手座に移動する)
テーマは主に2つで、
・変化を受け入れる
・自分にとって何が一番大切かを見極める
だった。
さそり座自体が、「破壊と再生」「変容」を意味するから、その通りのテーマがどんどん人生の中に流れ込んできた。
これから先の人生に持っていけないものは、とことん削ぎ落としされた。
反対に、今後も残ることが正解なものや必要なものは手元に残った。
7月に書いた変化せずに残ったものは今も私の中にある。
解釈が難しすぎるけれど、努力なしで残ったことには変わりない。
「解釈が難しい」と言ったのは、残ることが正解な感じもしなければ、必要性も感じないから。
そのどちらにも属さないのに残った。
強いて言うなら、「愛」という基準があるなら、それは残る、これからも引き続くものなんだと思う。
しかも、その基準なら、残るものの中で堂々の第1位にランクインできるほどの条件を満たしている。
数日前、感情が大爆発した時に、もう全て要らない、何も思い通りじゃない自分の人生が本気で嫌だと思った。
来て欲しいものは来ない、お願いしてもないものは来る、何だこの人生(怒)(怒)(怒)、ってなってた。
ピーク過ぎて落ち着いてから、1つ1つゆっくりと紐解き始めた。
色々思い通りになってないのは相変わらずだけれど、色々と自分が願うのはこれまで通りでいいし、むしろ願った自分のままでいても別に誰に迷惑かけるわけでもないからいいか!と思った。
紐解きながら、この1年ぐらいのことを振り返っていた。
去年の10月以降から今に至るまで。
破壊と再生、変容をテーマに色々と起こったことを振り返っていた。
その7月の記事を読んで、そして今現在を見て、本当にこの1年もかなり色々とあったけれど、そして相変わらずアップダウン激しめの私は自分の軸もブレブレになりまくりだったけれど、唯一それだけは変わらない、変わらずにずっと在ってくれたというのがある。
色々望んだ通りではないにしても、見えない水面下において徹底的に軸となってくれていたんだなぁと思った。
7月の文章を残した私にも、ブンブンと手を両手で握って「よくぞ書いてくれました!」とお礼を言いたい。
今あの時と同じ文章はもう書けないし、当時の心情を100%模倣はできない。
でも文の中で4ヶ月ほど前の自分を見て、そして今の自分を見て、変わらない部分、色々あっても今に引き継がれた部分も改めてわかったから、それはそれでいいか、となった。
そして、どこの誰かは知らないけれど、それを読んでくれてありがとう!と思った。
そのどこかの誰かの足あとが私に「これ見といた方がいいよ」と言わんばかりのサインとなって、 それで結果的に自分の過去の足あとを見れるようになった。
変わらずに引き継がれているものがはっきりと見て取れた。
この1年は、はだかになった時に何が自分に残るかを見る時間だった、と思う。
ホロスコープの新月のテーマを調べていたら、それよりも木星のさそり座→射手座への移行や、天王星の牡牛座→牡羊座への移行(逆行中)の話題が目白押しだった。
それ読んでこの1年を振り返ったわけだけど、そのタイミングでどこかの誰かが7月の記事を読んでくれたから私もそれ読んで、そしてより一層濃密な振り返りとなった。
とにかく、はだかの自分は何を持っていますか?と聞かれてばかりいる内容だった。
正解でもなく必要でもないものがドンとあって、そうした理由に該当しなくても持っている・残っているってレア中のレアだと感じる。
もっと言うと、究極一番何もしていない・手すらかけていないものが、残った。
さっき言った「愛」基準で言えば、それだけたくさんの愛を自分が持っていたってことでもあるし、自分が愛に溢れていたってことでもあるし、そして愛をたくさん知ったってことでもあるんだと思う。
破壊と再生と変容の三重奏の中で、日々しれーっとしながら普通に在り続けたものにすごい生命力を感じる。
努力なしで持ち続けるもの、自分の中にあるものって、人生で一番すごいものだと思う。
心臓が私が何をしていてどんな気分でも動き続けてくれてるように、その今も私の中に在り続けるものは心臓みたいな感じで存在し続ける。
さっき「必要ではない」って書いたけれど、正しくは「必要か不必要か考えたことないもの」というレベルで、必要だとは考えたことないという感じ。
普段の生活で「心臓って必要だよね」「心臓持ったよね?」なんて思わない。
だけどきちんとあるし、きちんと私を生かすために全力で常にあってくれる。
その今在るものもそうで、「必要だよね」とか考えないけれど、常に在って、そして私の中心にいてくれるから自分も何だかんだあってもそこにきちんと戻れる。
破壊と再生と変容を繰り返す中で尚も残るもの、それはつまるところ、何よりも大切だから残っているということなんだろうなぁ…と思う。
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