「メイ、足引っ張って欲しいの?」
「うん!」
引っ張ろうとしたら、メイは起き上がって、私の布団までやってきた(距離にして50センチほど)。
さらに向こうにいる妹から
「メイ、史子にマッサージして欲しいの?」
と聞かれてる。
メイは私のすぐ隣りで「うん!」と言ったかと思うと、たちまち自分のパジャマのズボンのすそを膝上までまくり上げた。
それでまた仰向けに横になり、私がオイルマッサージを始めるのを待ってる。
5分としないうちに寝息を立てて寝始めた。
無理もない。
2歳4ヶ月の子が、昼寝なしでずっとハイパーテンションで今日1日過ごしたんだから、すぐに寝落ちした。
私の方が昼間昼寝をして、その時もメイは「ふみこいない!」と言って家中探し回り、私を見つけると私にちょっとだけ話しかけ、またすぐに階段を降りて階下へ、そしてまたすぐに階段を上って私の布団の元へ来て話しかける。
それを繰り返すこと10数回。
メイが途中から来なくなったのか私が寝落ちしたのかはわからない。
その後2時間は寝た。
その間もメイはずっとスーパーハイテンションで遊び続けてた。
マッサージには驚いた。
2歳でも体の記憶とか感覚の記憶ってすごくて、メイの中で「ふみこにしてもらう足のマッサージは気持ちいい」とインプットされてる。
そして今回はとうとう自ら足を露出してスタンバイするという、頭脳の発達具合まで披露してくれた。
妹がメイの向こう側で「史子のマッサージは極上マッサージだもんね」と言っていた。
そう言われることはとても光栄なことだった。
肌と肌を合わせて、そしてメイは私に自分の体を預ける。
私なら大丈夫、自分にとって絶対に安全だということを知ってる。
私はそれがどれだけ凄いことなのかを知ってる。
20代の頃、いわゆる虐待とか育児放棄の末に施設で暮らすことになった子どもたちを見てたからわかる。
1歳9ヶ月か10ヶ月の子どもが入って来た時、その子は自分の兄弟以外には自分のことを指一本触れさせなかった。
どうしても身体的な世話をする以上、大人側も体を触らざるを得ない。
最初はそれさえも拒否されてた。
そしてその拒否の具合は、この世の終わりかと思うぐらいに金切り声を上げて発狂していた。
世話に関してはそのうちさせてくれるようになったけれど、抱っこさせてくれるようになるまではまた別の段階があって、その子は賢さも手伝ってけっこうな時間を要した記憶がある。
だからその子が3歳になった辺りの時に、その子を初めて行く皮膚科に連れて行った時。
皮膚科の玄関に着いた途端、初めての見知らぬ場所を前に、その子はその場で動けなくなって私にしがみついて泣いた。
私はすごく感動した。
この子の中で安全圏とそうではないところの分別が生まれてきて、そしてその新しい場所に対して怖さみたいなのを抱いて、そしてその瞬間自分が絶対的に知ってる私にピッタリとくっついて自分の安心感みたいなのを得ようとする。
その一連の流れがわかって、すごくすごく感動した。
人間が生きていくのに絶対的に必要な能力、生存本能的なものと言ってもいいかもしれない、それは2歳までに75%、6歳までに100%習得する。
私はたまたまそういうことを専門的に大学で習ったから知ったけれど、本当はこんな大事な情報、世の中のみーんなに広めて教えた方がいいと思う。
そこが崩れるとどれだけ大変なことになるのか、それはその人の生涯に大きく影響するぐらいのことなのに、そんなことは今の日本で知ってる人は相当少ないと思う。
だから政府も企業も無知な政策、産休育休とか本気でその大切なことわかってる⁉︎と言いたくなるぐらいの、アホな体制を延々と敷いてることに唖然とする。
私はその情報を初めて習った時、本気で驚いた。
2歳ってまだほとんど言葉を知らない。
なのに、生きていくのに必要な能力、それは危険察知能力とか、善悪の判断とか、自分を大切に守ることとか、それらの75%を習得するなんて、最初冗談かと思った。
でもその理論を知るとすごくよくわかる。
言葉を持たないからこそ、そして人の手を借りないと生きられないからこそ、その時期にどれだけ同じ人たちから日々世話をしてもらって、この世は安全なところだと肌で感覚で覚えていけるか、それが全てと言ってもいい。
1日に何回も泣いて何かしらの不快感を訴えて、そしてそれを解消してもらう。
その繰り返し繰り返しの中で、子どもたちはこの世が安心安全だということを本能レベルで学ぶ。
そのコミュニケーションなくしては生きられないし、本当に一歩間違えたら死ぬ。
子どもにとって、本気のサバイバルの毎日の日常において、いかに愛情を持って自分を大切にしてもらえたかは、その後の人生を大きく左右する。
私はその頃にダメージを与えられた子どもたちを見てたから、それが机上の理論じゃなくて、本当にそうなんだということがよくわかった。
だから、私はぶっちゃけ、仕事第一のお母さんたちを見て、すぐに現場復帰してキャリア優先する人たちを、大真面目に「子ども大丈夫?」と思ってしまう。
例えば父親が育休取って育てるとかなら、その親子はそういうことにしたんだなとわかる。
保育園ではプロが手厚く保育してくれるけれど、これは複数の人が見るのも実は悪影響で、極力限られた人、両親+祖父母ぐらいの人数が好ましいというのも、学んだ時に知った。
個人の事情が色々あるだろうから、それを考慮もせずそんなこと言うつもりはない。
だけど、大人の一方的な都合で、子どもが二の次になるのは違うと思う。
親が働かなきゃ子ども共々飢え死にするとかいうような人たちに対しては、そんなこと思わない。
むしろ全力で守るその姿に尊敬すら抱く。
だけど、完全に親側の単なる自分都合で仕事優先するその姿勢には、本気で疑問を感じる。
ねぇ、取り返しつかなくなるよ、って思ってしまう。
だって、キャリアは伸びるかもしれないけれど、子どものその超基本的な生きる力は、その時じゃないと後から育て直し的なことをしても手遅れに近いものがある。
絶対に無理とは言わないけれど、かなり難しい。
そんなこんなのことを知ってるから、メイが私に何の疑問も抱かずに、自ら素肌を露出させて、そして私に自分の体を差し出して触らせる、それがどれだけすごいことなのかがよくわかる。
妹と妹の旦那の2人だけでほぼほぼ育てて、こんなに素直で真っ直ぐな子に成長した。
そんなにたくさん会えるわけではないのに、「ふみこ」と言って私のところにやってきて、風呂も一緒に入ればマッサージもさせてくれる(させられる)。
本当にこのやり取りがどれだけすごいのか、それこそ奇跡だと思う。
だから私はメイにたくさんたくさん伝える。
メイが本当に好きなことを色んな方法で伝えまくってる。
「可愛い子はどこにいるかな?」とキョロキョロするフリして目の前のメイを探す。
「あ、ここにいた!」と言いながらメイをぎゅーっと抱きしめる。
もう家の中だと「可愛い」と言われるのを嫌がるらしい。
だけど、とりあえず私にはまだ好き放題言わせてくれる。
メイに「ぎゅーして!」と頼めばしてくれる。
頼まなくてももちろん本人自らもしてくれる。
とにかく本人がこの世にいることがどれだけ素晴らしいか、本人にもわかるようにたくさんたくさん気持ちを伝えてる。
もちろん、同じごっこ遊びエンドレスとかは耐えられないけれど(←そういう時はアンパンマン見よう!とか言ってすぐ逃げる私)、私たち大人はお互いにその役割を押し付けたりもかなりするけれど、それでもそういう小さなやり取りだけはできる限り大切にしたいと思ってる。
あと数年後には、「ぎゅーして!」なんて頼んだら「キモい」とか言われるから。
「メイだーいすき!」なんていう言葉は、今しか純粋に喜んでもらえないから。
だから、今しか伝えられないこと、それだけは惜しみなく伝え続けたいと思う。
ちなみに。
もう少し年齢が上がったり、中学生・高校生になった時は、大好きと言うとかマッサージは無理だけど、別の方法で伝えられることもみんな子どもたちが教えてくれた。
だからメイが大きくなった時は、またその時その時で手を替え品を替えしながら伝え続けるつもり。
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