2018年5月13日日曜日

情報と長い独り言

「情報」についての考察。

「考察」って言うとなんか頭が良く見える(笑)←勘違い。

元を辿ると、金曜日の昼下がりのこと。

ホロスコープでいくつもの円を書く必要が出てきて、方眼のノートが欲しくなった。

出かけついでにノートもどこかで買おうとは思ってた。

信号待ちをしてたら斜め右に「文房具」の看板。

こんなところに文房具屋⁉︎と思って、急遽その文房具屋へ。

そこは大型の書店とカフェと文房具屋とが重なったところで、これまでに数度通った道なのに全然気付かずにいた。

パチンコ屋並みのでかい駐車場の奥に店舗があるのと、街路樹と看板が重なってるのとが災いして、全くその存在に気付かなかった。

入ってみると、お店の中は程よく空いていてとても雰囲気が良かった。

カフェは今度近くに来たら利用したい感じを漂わせていた。

占いコーナーに行って(ここ1ヶ月は本屋に行ったら必ず占いコーナーに直行)、見たことない本はないかなと思ったら、なんと2冊も超有名な占星学の本があった。

辞書みたいな分厚い本で、それを手に取り、ご自由にどうぞの1人用の椅子とテーブルに座ってその2冊を読んだ。

それ見てすぐに気付いた。

私の1冊目の占星術の本は、やっぱり出逢うべくして出逢うようになってたことを。
(『星を使って、思い通りのわたしを生きる!』(著)海部 舞)

その2冊の本は、「占星学」というだけあって、学術的な視点から書かれていた。

それが言葉は難しいし、興味のない歴史は書かれているし、そして最大に私の中でフィットしなかった理由が、読んでいて気持ちが下がることだった。

他の人はわからないけれど、少なくとも私のホロスコープは普通にそうした普遍的な法則だけで読むと、あまり良いことは書かれていない。

私の受け取り方の問題ではなく、明らかに他の組み合わせの時にはない暗いネガティブなことがかなり書かれている。

いわゆる「凶相」と呼ばれるものが書かれる。

教科書のような本だから仕方ないけれど、とにかく読むとどよーんとする。

もし、これらの本が私のホロスコープに関するファーストブックだったら、私は今みたいにホロスコープは勉強しなかった。

多分読めば読むほど気が滅入るから。

でも、きちんと私がそちらに興味を持てるよう、それにピッタリの本が1冊目として手元にやって来た。

1冊目の本は、ホロスコープそのものよりも、ホロスコープに描かれている自分の設定を使ってどう自分の人生を生きていくかみたいな話になってる。

だから、導入として一番大切なことを教えてもらった。

単にホロスコープを調べてるというよりも、私はその先のものに焦点が当たっている。

そして、その焦点の部分を明確にしてくれたのは、実はその本以外に1冊もない。

だから普段目標設定とか大嫌いで基本一切やらない私が、言葉にできなくても心の中で「これ!」という感覚を持って勉強できてるなんて、はっきり言って奇跡中の奇跡。

家に帰ってきてから、ふとそれらの理解できなかった本たちのレビューが気になってアマゾンで調べた。

そしたら、先にそのファーストブックの海部舞さんという人の本が出てきたから、ついでにその本のレビューを読んだ。

本人もブログでそれとなく言っていたけれど、ものすごい酷評されている。

私は星1つのレビューをいくつか読んでみた。

そして最後に星5つの人のレビューを読んだ。

何でこんなにも票が割れるのか、レビューを両方読んでわかった。

星5つの人がわかりやすく書いてくれてた。

大切なのは、その本をどの視点で読むのかということ。

ホロスコープの具体的な知識を得るには確かに物足りない。

私のマニアックな情報たちはほとんどネットで持ってきているから、それはわかる。

でも彼女は専門知識を伝えるために本を書いていない。

少なくとも私が感じたことは「自分を生きる」と決めた自分が少しでも星たちから情報を得てそれを自分に活かしていくための処世術とか心構え的な話だと思って読んでる。

さんざんセラピーだのワークショップだのセッションだのと受けまくった私からしたら、ホロスコープはもっと具体的で且つ客観的、さらにはそこから自分専用のヒントがもらえるなんてこれ以上ないツールだと思ってる。

その本は、ホロスコープの枝葉の部分にはほとんど触れていない。

だから、そこから自分専用のヒントを得るのは確かに難しい。

だけど、木があったとするなら、そもそもの幹の部分を、ものすごくわかりやすい形で書いてくれてる。

本の一部を抜粋すると。

「まずは、星を解読し、自分の魂の設定を知ること。
そしてさらに、大切なのは、それを知った後に、自分という存在をひたすらに生きるということ」(p.45)

はっきり言って、細かな自分専用ヒントはネットで探せば何かしら出てくる。

物によっては、何人もの人たちが説明してくれてるから、実に多種多様なヒントを手にすることもできる。

だけど、そもそもそのヒントを探すにしても「何で探すの?」「何を求めてるの?」という部分がわかってないとトンチンカンなことになる。

それは「自分を生きたい」という明確な部分がないと、いくらたくさんヒントがあっても使いこなせない。

その本はとにかく一番大切なところをとてもシンプルにわかりやすく伝えてくれてる。

だからこの情報のすごさがわかる。

そして、私みたいに難しい言葉で説明されるとそれだけで拒絶反応が起こる人からしたら、その部分のハードルをものすごく下げてくれるだけでどれだけありがたいか。

反対に星1つや2つの人たちは、明らかに読む視点が誤ってる、と思った。

1人の人は「私は今十分幸せですから言わせてもらいます」ぐらいなことまで書いていて、逆にもっとその不幸せ感や自分の中の求めても満たされない不足感が際立ってた。

その人たちは、表面的な情報しかキャッチできていない。

そしてそこは海部舞さんもわかっていて、あえて情報をかなりコンパクトにして伝えている。

そう言えばいつかのブログの中で、同じ情報を流しても取り方は千差万別、そしてその時のその人自身の器によって受け取れる量も変わるということが書いてあった。

私はその感覚はわかる。

なぜなら、とにかくスピでなくても同じ内容の話を色んな人たちに伝えることをずっと仕事でしてたからわかる。

同じことを伝えるにしても、相手がわかるかわからないかはまた別の次元の話になる。

特に子ども相手の時は、年齢によっても理解力は違うから、それぞれの子どもに合わせた伝え方は絶対に必要だった。

コールセンターの仕事をしてた時もそうだった。

会社として伝える情報は基本的に一緒でも、相手の理解度はお客さんによって違ってた。

ということは、お客さんの受け取る情報も理解に応じて違っていた。

中には、何を誰がどう伝えても伝わらない人というのもいた。

言い方がストレート過ぎるけど、頭の良し悪しではない。

ものすごくエリート街道的な人でも全く意味の通じない人を時々見かけたから(当時は顧客の職業もわかる仕事だったから、こんな使えない人があんな有名企業にいるんだと驚くことが度々あった)。

スピの話になるともっと顕著で、いくら伝えても伝わらない人がいることもわかる。

変な話だけど、スピの知識の有る無しじゃない。

知識があってもわからない人には何を言っても伝わらないし、反対に全く知識がない人でもわかる人にはなぜか伝わる。

だから海部舞さんの本も、私もどこまでわかっているのかはわからないけれど、少なくとも星1つや2つの人たちとは違った視点で読んだことだけはわかった。

知識が欲しかったらネットの方がもっとマニアックなことを教えてくれるのは間違いない。

だけど、そこじゃない。

そしてそこじゃないところは、相当色んな人たちのホロスコープ情報を読んでも意外に言ってる人が少ない。

だから、情報をどんな風に活用できるかというのは、本当に読む側のセンスだなと感じた。

話がだいぶそれたけれど、本当に言いたかったことはそこじゃない。

私自身が自分のホロスコープを読み解くために色んな情報をネットで探し回ってた時、自分に合う合わないの情報があることがはっきりとわかった。

私は「凶」とか「ハード」と呼ばれるものをかなりな数で自分のホロスコープの中に持ってる。

持ってる本人からすると、それが普通でそれがこれまでの人生だから、それを凶だのハードだのと言われると切なくなる。

確かに色々大変ではあったけれど、それは凶のタネを持ってたからそうなったと言うのでは絶対にないと思ってる。

むしろ私は、ホロスコープを読み解き出してわかったことは、そうした苦しいとか辛い経験こそが私の場合大切で、そこから色んな生きるヒントを得ること、さらにはその過程で知り得たことを人とシェアすること、そういうものが必要としてあったのではないかと思ってる。

だから単純に「◯と△が組み合わさると凶です」的な解釈をする人たちの情報は「凶」を前提として伝えてくるから、全く耳に入らない。

解釈は丁寧に書かれていても、いざそうなったらどうするのかというヒントがない。

だから怖がらせるだけ怖がらせて、で、どうしろと?という部分が欠如してるパターンが多いからタチが悪い。

だけど、反対に「ホロスコープに良いも悪いもない」と言い切る人たちの情報はすごくいい。

確かにハードになりやすいし、その分苦しさや辛さも生まれやすいけれど、それを自分の中で上手に活かしたり取り込むことで違う可能性が開ける、ということを伝えてくれてる。

しかも苦しさや辛さが生まれるそもそもの理由についてまで説明してくれてるから、この上なくありがたい。

その過程を踏まえての解消法まで紹介してくれる人たちもいて、本当に素晴らしい。

ちなみに私が共通してそういう人たちが言ってるなと思ったのは、凶と呼ばれるような時というのは、その苦しみを与えるのが本来の意図ではなく、それが起こることで本来の大切なものに気付くこと、または本来の自分の生き方に戻ること、そのためにそういうことが起こりやすくなる、と書かれている。

だから本質と自分の今の生き方とに誤差のあまりない人はそうならず、反対にそのパワーをもっと発展的なことに使えるというのも記されていた(←こんな人ごく僅か)。

私が欲しいのは、そういう情報だった。

凶か吉かは、自分のことなら私が判断したらいい。

そうじゃなくて、そんなのを持って生まれてるなら、それをどう活かすのか、それを知りたい。

だって良いも悪いもなければ、絶対に強烈な設定を持って生まれてきても、打開策があるはずだから。

その視点の有る無しは、読むとすぐにわかる。

その視点の有る人の話はものすごい説得力があるし、読んでる私にも響く。

知識がなくても大事な部分が伝わるから、知識の足りないところは今度きちんと調べる。

調べるともっと意味がわかるようになる。

そして自分のこれまでの経験と重ねてどうだったかを振り返る。

自分の体験が自分専用の教科書になる。

「情報」という意味で、そこに付いてる色彩を見極める目だけは常に持っていたいなと思う。

そして合ってる合ってないは、自分の感覚が教えてくれる。

読むと元気になるのか、はたまたどよーんとするのか、それを見て判断している。



#つぶやき 長い独り言#
2018/05/13

今朝も朝から海王星だの冥王星だのとiPhoneで調べてた。

このiPhoneは5cと呼ばれるもので大きさはかなり小さい。

縦型の名刺にもう2、3センチ足したぐらいの大きさ。

もう一度言うと、ホロスコープに関する調べ物をしてた。

今のGoogleは、何かしら物やサービスを調べると、関連したものが勝手に広告で出てくるのは知ってる。

本当にこのリサーチ機能からの読み取り能力の高さには目を見張る。

そして私の年齢と性別がわかるのか、アンチエイジング系の化粧品やサプリなんかもよく画面上に表示されてる。

この2つのパターンはよくわかる。

だけど今朝寝ぼけた頭で見たものは違ってた。

スクロールして次の記事へ行こうとしたら、デンと画面半分を覆いつくす広告が出てきた。

まずその大きさの広告なんていうのは普段出てこない。

でも今日はその大きさのもの(←初めて)で、尚且つ車の広告だった。

朝から度肝を抜かれて目が覚めた。

私は車には一ミリも興味がないから、調べることは絶対にない。

だからGoogleの機能で勝手に車の広告が出てくることはこれまで一度もなかった。

なのに今朝は車の広告。

そしてただの車じゃなかった。

私が1人で勝手に縁を感じた人が乗ってるその車の広告だった。

「えっ⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎⁉︎」

朝から一気に目が覚めた。

何でその広告なのか、世間には数え切れないぐらいの車があるのに何でピンポイントでその車なのか、ましてや私は車は何1つ検索しないから普段は車の広告すら表示されない。

狐につままれた気分だった。

今日は日曜日。

仕事じゃないだろうから、いつも以上に元気なんだろうなと思った。

いつまでも慣れたようで慣れないけれど、私の無意識が見せてるんだろうか。

ホロスコープ調べにどっぷりハマっていても、その人のことは忘れないのになと思う。

忘れないから見せられたのか、それとも忘れるなよ的な意味で見せられてるのか…。

海王星の力は出逢いにも及ぶらしいことがわかった昨日。

無限大にある選択肢の中で、私の身に起こるのは必要なことだけ。

ピンポイントで出逢いももたらされる(らしい)。

だから、その人と出逢うのは予め人生の中で予定されてたことなんだと思う。

何の接点も共通点もなさすぎて見落としそうだったけれど、でも気付けるように要所要所でわかるようになってた。

今はもう私の記憶の中にしか存在しない人。

半径1メートル以内にいた時の方が幻に見えることもある。

本当にあんなに近くにいたのか、時々夢の中の出来事のように思う時がある。

物理的にすれ違って、気持ちはどこまでも私の一方通行で、何だか色々悲しかった。

今も同じように悲しい。

悲しくても時間も人生も進むから、普段はそこはなかったかのように蓋をしている。

思い出すといくらでも涙が流れることにビックリする。

もうどこかでバッタリ会うことなんかない。

交わらない。

会うことも交わることもないのに、車の宣伝、嫌でも目に入るぐらいのデカイ宣伝を画面の半分も使って見せてくるとは、意地悪過ぎる。

他のことは大凶とか思わないけれど、このことに関してだけは大凶だと思う。

出逢ったところでどうにもならないんだったら、最初から出逢わなきゃいいのにとか。

出逢ってもわからないまま、気付かないままでいられるよう、そっとしてくれてたら良かったのにとか。

しかも本人に会えないなら会えないでもう全く無縁の生活を完璧に送れるのであればいいけれど、何だろうこのコントロール不能な広告とか。

ピンポイント過ぎる。

色々考え出すと止まらなくなるから、もうそっとしておこう。

心への刺激が強すぎる。

書いていて気付いた。

悲しい理由は挙げたらきりがないぐらいにたくさんある。

その中で、あぁ…と気付いたこと。

交わらない人生模様もさることながら、相手の中に自分が存在してないことも悲しいんだとわかった。

その人の毎日の中に私は当然いないし、これからもいない。

私は自分の心の中のことだからよくわかる。

こんな風に誰かにとてつもなく惹かれることは、人生の中でもそんなにない。

しかも理由もなく惹かれるなんて、もしかしたら人生で最後かもしれない。

そういう人に人生で出逢わせてもらえたことは本当に感謝している。

何に感謝していいのかわからないけれど、とにかく感謝はしている。

だけど、せっかくそんな風に出逢えても相手の人生の中に自分がいないのは、頭で理解できても心はいつまでも理解できない。

受け入れがたい。

両想いになりたい!付き合いたい!とかそんな単純なことではなくて、やっと出逢えたのに縁がないまま一生を終えていくのが、心の一番深いところで強烈に悲しんでる感じ。


車の広告の意味なんて全くわからないけれど、あぁ今日も元気なんだねと思うことにして、私はまたホロスコープの調べ物を始める。

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