「感情をシェアしたいんだよ」
ごんちゃんの言葉が蘇る。
ごんちゃんは名古屋にいた時に仲良くさせてもらった1人だった。
そして助けてもらったこともたくさんあった。
何年も前、ごんちゃんが繰り返し繰り返し言っていた言葉が、今になってわかった。
私が人と関わる時に大切にしてるポイントがいくつかある。
特に相手の心や人生そのものに関わってくる重大な場面では尚更のこと。
その部分が全く合わず、伝えても理解されないどころか全くの見当違いなことを言う、そんな友達を前に私は6時間近くイライラした。
というのを前回書いた。
相手はプロとしてやってるからこそ余計と許せない気持ちが強かった。
私が許す許さないの問題ではないけれど、どうしてもそこだけは私の中で譲れないところだから仕方ない。
6時間怒りまくった翌日、別の友達に会った。
私は最初に1時間ほど時間が欲しいとお願いした。
わかって欲しいとか聞いて欲しいというのとも違う。
今思えば「私はこう思うけど、貴女はどう思う?」を聞きたかった、そしてその部分をお互いにシェアしたい、そんな風だったかなと思う。
自分の正しさを証明したいわけではない。
だけれど、あまりにも違いすぎる友達を前にして、私は自分が信じてる・大切にしてる世界が他の人たちからどう映るのか、とにかく全く違う人に聞いて意見が欲しかった。
基本的に同じ話をした。
多少情報の量は調整したけれど、それでも話の筋も内容も基本は同じ。
翌日に会った友達は全く違う反応だった。
話の意図を汲むだけじゃなく、そこに対して自分はどう思うかどう感じるかも教えてくれた。
長い付き合いの友達だから、別に私に気を遣ったりもしない。
本音で伝えてくれる。
結論から言えば「わかってもらえた」だった。
ぶっしーが合ってるよとか、その子が間違ってるよとかそんなことを問うてるわけではなくて、本当にこの信じてるもの・大切にしてるものが他の人たちからはどう映るのかを知りたかった。
友達が大切にしたいものも私が大切にしたいものも同じ方向にあった。
今振り返ると、感情が共有された、だから私もものすごく満たされて癒された、そう思う。
だいぶ話が変わるけど、ホロスコープの情報というものがどういうタイプのものなのか、2人の友達を前にして明確になった。
私が最初にホロスコープを見た時同様、わからない人たちから見たらあの意味不明な記号たちと線が何を意味するのかはさっぱりわからない。
あんな暗号めいたところから何が読み解けるというんだろう?と思う。
360度の円の中に、何だかよくわからない記号たちがいくつもあって、それが何かを意味するだなんて素人目にはさっぱりわからない世界だったりする。
ホロスコープを調べている時に、ある人がホロスコープの情報というのは高度なもので誰でもアクセスできるわけじゃないと言っているのを見た。
私にはその意味がいまいちわからなかった。
だけど、2日連続でホロスコープが何かをよく知らない友達を前にした時、その言葉の意味が初めてわかった。
初日の友達には、私はホロスコープの情報をほとんど開示しなかった。
何なら、資料も何も持って行かなかった。
それは正解だった。
色々伝わらなかった時に、ホロスコープの情報は伝えても、多分活用方法を誤るだろうなと思った。
私が何でホロスコープをこれほどまでに読み解こうとするのか、その理由については話した。
ホロスコープが自分を紐解く自分専用のヒントになることは、実例をいくつか交えて説明した。
それを話してもいまいちな反応で、これ以上伝えても無理だろうなと思った。
1ヶ月半も調べ倒したら、否が応でも色んな情報が飛び込んでくる。
もちろん情報として、何も一部の人だけじゃなく万人に受け入れられやすいものもある。
私は星読みができないから、私が手にしてるのはプロの方たちが読み取った情報を自分用に必要なところだけ残す方法を採っている。
私の場合、今の情報よりも自分を読み解く用の情報を探してる。
だけど通常は今の情報がブログなんかのトップに来たりするわけで、気になれば読む。
数人ぐらいのものを読むと、その中で共通してるポイントがいくつかあることに気付く。
その中でもさらに自分の日々の生活においてのヒントが示されてることも多々ある。
私はそこをメモしてる。
だって「天王星が牡牛座に入った」などと言われても素人にはわからない(今はそこもだいぶ説明できるようになった)。
その天体たちのエネルギーにより自分たちがどう影響を受けるのか、その影響によってどういう可能性が生まれやすいか、そこはいくつか記事を読めば共通項があるからわかる。
これは私が感じたことだけれど、天体たちのエネルギーを活かすためには、自分との対話が必要不可欠になると思う。
例えば天王星の牡牛座なら、自分に合うもの合わないものを自分の五感の感覚を使ったりしながら選び取っていく、そして最終的には自分が大切だと思うものを残して他の不要なものは手放す、そんなイメージを私は持ってる(もちろん、土台の考え方はプロの占術家たちからの情報)。
その合う合わないの判断は、1人1人が違うものさしを持っている。
そのものさしは本人にしかないものだし、本人にしか読み解けない。
だから自分との対話が必要になる。
でもそれをしてないと、天体たちの流れを活かすのは難しいかなと思う。
初日の友達は、自分との対話を本当にやろうとしない人だから、私はホロスコープの情報も伝えなかった。
私の方でわざと情報を制限した。
翌日に会った友達には「家出してきた人みたいだね」と笑われたぐらいの荷物を持って出かけた。
本は20冊近く、さらには本の中でも今必要なメッセージとわかるところには数ヶ所付箋まで貼って持って行った。
自分のホロスコープの鑑定書も、学びのノートも、とにかくあらゆるものを持ち込んだ。
私のものを見せたいのではなく、それが何らかのヒントになるというのは事前のメールのやり取りの時にピンときたから、それで持参した。
友達が書いたことは数行でしかない。
でもまさしく友達の話は、今の天体の流れに沿ってた。
だから情報があった方が自分の立ち位置がわかるだろうなと予想できた。
それ故に家出するかのごとく荷物を持って行った。
読みは大正解で、私のメモした情報やホロスコープの情報が大活躍した。
彼女はその情報をキャッチするだけの受け皿を用意していた。
そのために用意したのではなく、普段の彼女の心掛けにより用意がなされたと言った方が正しい。
だから、私は私が知り得た情報は余すことなく伝えた。
良い風にその友達がその友達自身のために活かすことがはっきりとわかったから、せっかくの情報、どんどん持って行って!という感じだった。
2人とやり取りしてわかった。
ホロスコープが何であんな風に暗号みたく表示されるか。
わざと誰でもアクセスできないようにしてるのは、その情報を扱えるだけの力を個人で付けないと誤った風に使われるからだと思う。
昔は占星術は国家の秘密機構的なところでごく一部の人たちしか扱わないようにしてたらしい。
それで国家のトップを決めたり法律や制度を定めたりするのにも使われてたらしい。
それは乱用を恐れてのことだったのかもしれないなと思った。
ホロスコープとは全く関係ないところの情報で、その最初の友達が私が伝えた情報をすでに自分の都合の良いように使ってることが話からわかったから、私は危険を感じた。
要は何か上手くいかなかった時に、相手に責任転嫁をするための言い訳に情報を使ってるとわかったから、私は怖くなってしまった。
私が伝えたのはそういう意味ではなかった。
1人1人の人が何かしらの施術を受けた後さらに良くなるためのヒントだった。
それは自分の先の人たちに還元されるための情報であって、決して自分を擁護するための言い訳として使うものじゃない。
でも友達は明らかに自分を擁護するために使ってたことが話の中でわかった。
しかも話の感じからして、その情報を与えられた人は楽になったどころか余計と苦しくなったり責められた感じがしたのではないか…と想像せざるを得なかった。
だから、ホロスコープの情報なんて怖くて出せなかった。
情報が一人歩きするだけじゃなく、その先の関係のない人にまでおかしな風に影響が出るかもしれない、と感じたから。
だから口を閉じた。
その流れを見て、ホロスコープが誰にでも使えるものではないというのがわかった。
私がしたいのは感情を共有することなんだとわかった。
別に情報を制限したいわけじゃない。
できる限り、私が良いと思う情報は周りの人たちに伝えたい。
知ってることで自分以外の人たちにも役立つのは嬉しい。
そういうのはどんどん循環させてみんなで良くなっていけばいいとも思ってる。
【後日談】
友達は、1ヶ月前に友達が見た看板を私が見つけられなかったと言ったから、わざわざ見に行ってくれたらしい。
私はそもそもの場所を知らないから、何となくの目星をつけて探すしかできなかった。
だから別に見つけられなくても気にならなかったし、友達の話の流れの方があまりに不思議すぎて疑う気持ちなんて一ミリも湧かなかった。
その友達は看板を見に行って驚いた、と切り出した。
「ねぇぶっしー、ほんとどういうことだと思う?
私あの日確かに休日出勤して、運送屋に商品を搬入するために私の車を出して、そして上司に言われるがままに菓子屋に寄って。
で、帰り道その上司の案内の元、普段通らない道を通って曲がる場所間違えそうになった時、確認のために運転しながら目印となるものを探したんだよ。
ちょうどあの看板があったからそのまま読み上げたんだよ。
あのぶっしーが写真で見せてくれた工事の会社と同じ名前の看板だよ。
なのに、この間見に行ったらもうないの。
別の看板に入れ替わっていて、それがね、変なのがその入れ替わった看板っていうのが別に新品じゃないんだよ。
古くなって新しいのに替えるならまだわかるけど、そうじゃない。
そしてそもそもの看板がない。
私あまりにも混乱して、私はあの日本当にあの看板をこの目で見たんだろうか?とかそもそも本当に出勤したんだろうか?とか、そんなこと考えたよ。
ねぇぶっしー、どういうこと⁇」
友達は最後笑いながらも腑に落ちなさすぎると言っていた。
事の真相は当然わからないけれど、私は勝手に色々予想した。
看板の話の大切なところは、私ではなく友達が見たことと、そしてそれを友達が私に教えてくれたことだと思ってる。
去年の9月の終わりから私はあらゆる形である人を示すサインを目にしたり耳にしたりするようになった。
最初こそあまりにもすごいタイミング過ぎて、何なのかと思った。
あまりにも感情が乱れまくりだった当時、私は仕事が終わってからも真っ直ぐに家には帰らず、1人になれる場所にあちこち行ってはひたすら自分の気持ちを何時間にも渡って整理するみたいなことをしてた。
そんな風だったから、家に帰ってもご飯食べて片付けて風呂入って寝てみたいな、本当に最低限のことしかしてなかった。
当然テレビなんて見なかった。
なのに、一瞬、本当に1分どころか数十秒の話だと思う。
パッと目に入ったテレビ越しにその人と同じ名字の人の名前がテロップに出てたり、ドラマのキャストが同じ名前でその下の名前で呼ばれてたり。
そういう風にして、テレビをはじめ至る所で名前を目にしていた。
それは当時から今もあまり変わりなくて、多少回数は減ったなぐらい。
ただ、友達が見た時期というのは、明らかに目にできる、又は人づてでもその人の情報を耳にすることが完全になくなって2週間ほどの頃だった。
私はもうそれまでみたいに名前や情報を耳にすることがなくなるんだなと思ってた。
実際に回数は減った。
減ったけれど、今度はまた形を変えて見たり聞いたりするようになった。
その一番わかりやすくそして一番摩訶不思議な形だったのが、その友達の看板を見た話だった。
私も当然その起こる意図なんか全く知らないけれど、そこまでしてその情報に行き着く時、「あぁ元気なんだな」と思ったり何かしら別のことをその人のことで思い出したりする。
友達には、最近の面白い現象として、その制服を着たおじさんが我が家に来たり、その人が乗ってる車の宣伝がホロスコープを調べてる最中にでかでかと出てきたりしたよ、なんて話した。
ある時から不思議現象に関しては、何か証拠が残せる時は私は写真に収めたりする。
だからその画面に出てきた車の宣伝は写真を撮った。
同じ日の朝と夕方に全く別の記事で見つけたから、2回とも撮った。
友達が「これは一体何を伝えたくてこんなことになってるんだろうね?」と言いながらも、「何かに繋がるといいよね」と続けた。
私の気持ちをそっと包んでくれてるみたいで嬉しかった。
こんなの見たところで本人に会えるわけでもなんでもない。
本当に元気かどうかも知らない。
だけど、何か繋がってるなら本当に嬉しいし、繋がってなくてもおじさんの制服見りゃ萌えたし、友達の看板話も聞いてて気持ちが和んだ。
心にそっと元気玉を注入してもらえるみたいで、私はそれで元気になるんだからそれもありだと思ってる。
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