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2017年12月25日月曜日

年末までの予定2017


名古屋メモリーズを書くことと匿名で新たなブログを開設することをこの1ヶ月ぐらいの間でこのブログで宣言していたことは今も日々頭の中に入っている。

自分の名前の意味の紐解き作業の学びも覚えている。

日々の出来事を記すノートも、そして今度は新たに記録に残したいことも全部全部頭の中にある。

そしてこれだけはどうしても時間を作ってでも書きたいことが「今年の一文字」。

その文字は11月中には決まっていたし、そしてその文字にした理由がどんどん後付けのように増えていっている。

それはきちんと残したい。

どれもしたいこと。

そこに加えて、引っ越しによる荷物の片付け作業と大規模断捨離活動も待っている。

あと11日もすれば2017年も終わるのに、やりたいこととそのための時間の比率がおかしなことになっている。

名古屋メモリーズと新たな匿名ブログの両方は、来年以降に持ち越そうかなと早くも思っている。
 

実はさっき、今思い付いた名古屋メモリーズのある1つのストーリーを途中まで書き上げた。

6年半の名古屋生活の中で、そして私の人生そのものの中で、最重要事項となるような人との出逢いがあった。

それは私の心の恩師のような人との出逢いで交流だった。

書きながら、当時は何とも思わなかったことたちが、今振り返るとそこに至るまでに実に有り得ないトラブル的なことがいくつも重なっていて、多分普通に考えたら考えられないようなことたちがたっくさん起こっていたことを改めて知った。

人生で大切なものに行き着く時というのは、そういうものなのかもしれない。

予め予定して段取りや計画もきちんとしたところではなく、そうしたことをしてなかったり、もしくは予定が不可抗力的に書き換えられたりしたところに、ひょっこり現れる、そんな風かもしれない。

そしてその心の恩師的な人に出逢った日、私は人生で自分の人生を変えた本にも出逢っている。

その本はちょっと変わった本で、私の恩師いわく「この本に出逢う人は、本屋で出逢ったという人が多分皆無に近いくらいに少なくて、みんな一風変わった形でこの本と出逢う」と説明していた。

高価な壺でも売られてしまうんじゃないかと思った位に殺風景だった、名古屋の一等地にあるビルの6階の部屋の中のホワイトボードにその本は置かれていた。

その部屋で後に私はコーチングもNLP(神経言語プログラミング)も両方学ぶことになるけれど、その本は常に置いてあるわけじゃなく、むしろ置いていない時の方が多かったことも後々知った。

この本を私は何人かの人にプレゼントしたことがある。

最後にプレゼントしたのは何年前でそれが誰だったかも忘れた。

忘れたけれど、私は久しぶりにその本をプレゼントしたいという人が今目の前にいることに今日の夜道の運転中に思い付いた。

今行っている職場に新入社員の子が1人いる。

私が仕事を辞める時、又は彼が今のところから異動で去る時にプレゼントしようと決めた。

はっきり言って、ほとんど話したことがない。

話したことはないけれど、面白い感性の持ち主だろうなぁと思って見ている。

そしてせっかくの素敵な感性が社会という組織の中で埋もれそうになっているのも見ていて伝わってくる。

周りの人たちからよく「ぶっしーは人の何を見ているの?」と聞かれるけれど、自分でもよくわかっていない。

よくわかっていないけれど、何かを感じることは感じるし、そして何かを発している人に対してはやたらとアンテナが立つ。

その子にも何だか知らないけれどアンテナが立つのと、今思い出した、私はその子がする挨拶を見てその子の挨拶には人を癒す力があることをすぐに知ったんだった。

なんなら本人にもそれっぽい感想を直接伝えたことがある。

ぱっと見は新入社員ゆえの元気で礼儀正しい挨拶のように映る。

だけど彼の挨拶はそれ以上のものを持っている。

これはみんなが持っている力じゃないから、彼独自の才能みたいなものだと思う。

だけれど今はそれが委縮しているのか、若干歪んだ大人社会の中に染まりつつあるのか、その部分が曇り始めている。

もちろん挨拶の仕方なんて本人の自由だし、本人が自分で決めてすることだから、私がとやかく言うようなことじゃないのはよくわかっている。

本当におせっかいおばちゃんだと思う。

しかも私は何様なんだと、自分の立ち位置も考えたらさらにおかしいのはよく知っている。

だけど、そういうその人個人が持っている才能がしぼんでいく姿を見るのは、決して気持ちの良いものじゃない。

本当にちょっとだけ手を出したくなっている自分がいる。
(手を出したいと言うとセクハラみたいだ 汗)

それが「そうだ、あの本を渡したらいいんだ」というところに行き着いたんだと思う。

そんなこんなのことを考えていると、年末までのやりたいことスケジュールだけじゃなく、先々のやりたいこともぽろぽろと出てくる。

しばらくは、やりたいことの採算や必要性は考えず、思い付いたことは順に着手してみようかと思っている。

例えば今先延ばしにしているブログの開設がある。

こういう時、以前の私なら「あぁやろう!って決めたのにやってない自分…。なんか口ばっかりで嫌だな」とか「やるやる言って結局やらなかったりして」とか、そういうことをしょっちゅう思っていた。

今は少し違っていて、然るべきタイミングでやることになると思っているし、又はやらなかったとしたらそれはやる必要がないからやらないと思っている。

やるようになっていることは、どんな手段を使ってでもやるし、時間を置くことがそれを始めるベストタイミングになるということもこれまでの経験で学んだ。

ちなみに新ブログについて言えば、まだ自分の中でどういうスタイルで書くのかというのが定まっていない。

書くは書くと思うけれど、どんな視点から言葉を紡ぐのかはちょっとまだ定かじゃない。

そのうち明らかになるだろうし、その時のタイミングを待ったらいいとも思っている。

ということで、残りの2017年私は何を詰め込むのか楽しみだし、反対に何をしないと決めるのかも終わってからの楽しみだなと思っている。
(2017年12月20日)

自画自賛


今日こそは部屋を片付けてしまおう!と意気込みを持って片付け始めたのはいいけれど、順番を間違えた。

その時に自分がいた場所から一番近い段ボールを開けたのが運の尽き。

その中には自分が気に入って買った食器たちが入っているとばかり思っていた。

ところが開けて見たら、中は日記や過去のスケジュール帳、人からもらった手紙、自分が書いた手紙…そんなものたちが中心の箱で、見始めたらもう片付けはどこ吹く風状態になってしまった。

さすがに片付ける前よりも始めた後の方が散らかり出して、今日は一旦やめた。

読むこともやめたし、こうして書きたいことは先に書くことにした。

 

色んなものを過去に手放したけれど、私はスケジュール帳やノート、手紙なんかは全部取っておいてある。

あとスクラップノートなるものがあって、それは何をスクラップするかと言えば。

人からプレゼントされた時のパッケージや包装紙、そこに小さなメッセージが添えられていればそれも一緒に。

家族旅行で泊まった宿の夕食のお品書きとか。

思い出の瞬間を切り取って貼っておく。

これはかさばらないし、思い出も残せるから、自分で思い付いた方法と言えどもとても良い方法だと思う。

これを他の人にも紹介したことがあって、その人からもものすごく誉められた。

ちなみにその方は自分の子どもたちが書いた絵や手紙、写真を中心に貼ったそうだ。

そしてその方が人生で一番追い込まれた時(裁判・警察沙汰になったほどの出来事に巻き込まれた)、そのスクラップブックを抱きしめていくつもの夜を乗り越えたと後日教えてくれた。

それが自分のお守りになってくれたともその方は言っていた。

写真のスクラップブックはたしか2代目のスクラップブックだと思うけれど、このスクラップブックには他にもストーリーがある。

表紙を飾っているシールたちは、ある企業のマスコットキャラクターとのこと。

朝活で知り合った人がその企業に当時勤めていて、いつだったかの飲み会の席でそのシールをたまたま持っていて配ってくれた。

自分もそのデザインを考えたとのことで、細かいストーリーは忘れたけれど、その時の楽しい思い出はうすぼんやりと記憶に残っている。

そのシールは長いこと私は大切に保管していた。

何に使うか全く使い道が思い付かず、どこかのタイミングで使うようになるまで待とうと決めていた。

それでそのスクラップブック(100均で購入)を使い始める時、表紙が素っ気ないからそこで「そうだ、あのシールを貼ろう!」と思い付いて貼った。

そのシールは一生残しておきたかったから、スクラップブックはそういう意味でもってこいの場所だった。

シールをくれた本人にもそのことをメールで知らせた。

こんな風に使うことになったということとそのお礼と。

そうしたら反対に本人からもお礼のメールがきた。

その人はそのシールの大企業は中途で退職して、自分の夢を叶えるために奥さんと一緒に実家のある県へ戻った。

その人の実家は薬局を経営していて、夢を叶えるまでの仕事として実家の薬局を手伝っていた(今もしていると思う)。

私が連絡した時というのは、全国で初めての薬局とあるお店とを組み合わせた店をオープンさせた時で、その人はそこの店長さんとして動き出したばかりとのことだった。

社内の朝礼なのかそういう類いのちょっとしたコミュニケーションの場で、その人は「最近あったいいこと」をみんなでシェアするというのをちょうど始めたらしい。

そんな時に私がそのシールの話をメールでしたから、それをそのまま「最近あったいいこと」として話した、本当に良いタイミングだったことを教えてもらった。

そういうストーリーもついているスクラップブックになっている。

 

40年近く生きていれば、色んな荷物が増えていく。

一般的な片付けの方法を紹介する雑誌や本では、そうした手紙とか紙ベースのものは本当に残したいものだけ残してあとは処分しましょう的な方法を紹介していることが多い。

私はそれを見るたびに毎回違和感を覚えていた。

本当の本当に、その時のことを思い出せる手掛かりとなるもの、それが手紙やスケジュール帳のような類いは、本当に不要なら捨てたらいいと思うけれど、そうでなかったら私は残しておくことのメリットを声を大にして言いたい。

たしかに物理的にはかさばる。

だけれど、その時のことはもうその時にしか存在しない。

例えば今の私が10年前の28歳の自分に戻って、当時の記憶をたどりながら当時の気持ちを書いたり当時あった出来事を見たまま感じたままに書いて残すなんていうことはもうできない。

10年前と変わらない感性もあれば、10年後の今では全く違う感性となっているものもある。

その時のことはその時にしかやっぱり残せないようになっている。

その時その瞬間に見た風景は、もうその時にしか見えない。

その時に交わした会話も、その時限りの会話。

どんなに記憶力が良い人でも、そんな毎日の色んなことは憶えていられないだろう。

私は片付けることも時間も忘れて、それらに没頭して読みふけっていた。

色んなことが鮮明に思い出されたり、忘れていても大事なシーンは甦ってきた。

そしてそれを残そうと決めたこれまでの自分の選択にただただ感心した。

捨てずに残そうと決めた過去の自分から今の自分にプレゼントされたような気分だった。

みんながみんなそれをしたらいいとは言わないけれど、残すことでうんと後になってからそれらがかけがえのないものに変わっていることは間違いない。

私は自分の老後の楽しみとして、自分が残したものたちを風通しの良い部屋でこの木のテーブルで美味しいお茶やコーヒー・お菓子と共に眺めるというのがある。

想像するだけで、どれだけ楽しい老後の余暇かと思う。

それは雨や雪が降って外に出たくないような日でさえも楽しめる。

年老いてからもそんなことしてたら暇になる時がない気さえしている。

 

日を改めて自分の書いた一言日記や、仕事の時の研修で書記係をして残しておいたノートに書かれていたものを紹介しようと思っている。

特に仕事の研修の時のノートは、まさに「生きる知恵」が書き連ねてあった。

それはとても素晴らしいものだから、私が独り占めするんじゃなくて、他の人も目に触れるこの場で紹介したら、そのノートは今以上に活躍の場を増やすことになる。

そういう機会を与えられる方が、そのノートも喜ぶような気がしている。

2017年12月19日火曜日

断捨離2日目~元の感情をたどる~



薄々は気付いていたけれど、服を整理しないと日常的に困るということがわかって(今朝出勤前、服を探すのに5分かかった)今日は服を整理した。

服は必要性が高いとわかっていても、それを仕分けるのは発狂レベルだった。

昨日の初日は、思い出深いものがたまたまスタートだったから楽しく物と向き合えていたけれど、今日の服関係は自分の弱点ともろにかぶっていて楽しいどころかさっさと終わらせたいの一心だった。

私が物を少なくしたいという理由の1つに、極度の整理整頓が苦手ということがある。

過去にテレビで整理整頓が得意な人と不得意な人とでは、脳内でどのような処理が行われているのかを対比させる番組があって、私はそれを見てものすごく納得した。

色んな種類の本と4段ほどの本棚、全く同じものを、整理整頓が得意な人と不得意な人に渡して、それぞれの人がどんな風に片付けるのかを実験するという内容だった。

得意な人というのは、最初から本全体と棚とを見て完成図が頭の中に浮かんで、あとはその完成図通りに高さも大きさもばらばらの本たちを順序良く並べていくのだそうだ。

「~だそうだ」と書いたのは、私には全くない能力だから、完成図が頭の中に浮かぶ感覚もわからないし、実際に映像を見ていてもその人の動きそのものが私には全く理解できないプロセスだった。

反対に不得意な人は、とりあえず本を手に取って適当に並べ始めるけれど、途中からわけがわからなくなって、そして最後は押し込むようにして何の秩序もルールもなく本棚に置いていく。

こちらの方は自分そのもので、「そうそう、いつもそうなってるからわかるよ!」と思わずテレビに話しかけたくなるほどだった。

で、整理整頓がとても苦手な私が行き着いたのは、「物を少なくすることで整理整頓の量を減らす、またはその整理整頓そのものを生活の中から省く」ということだった。

これは画期的な方法で、私が唯一何年も続けていられる整理法(?)になっている。

余談だけど、今の仕事はものすごく大量の書類関係を整理したりファイリングしたりするのがメインになっている。

何の仕事かもよくわからずに始めただけあって、入ってから「自分にとって最高に苦手な作業満載」ということがわかった。

数ヶ月かけて自分なりのルールを作って、とりあえず今は困らない程度にはできるようにはなった。

そのルールが、

1:細かく分類する(クリアファイルやファイルで全部分類。基本書類同士を一緒にはしない。使う道具たちも事細かに分けて保管している)

2:仕分けたものに関しては「ふせん」を必ず貼る。そしてふせんには、いつ読んでもわかるように文章で何がどうなっているのかを書いておく(当初一言だけにしたら、下手すると翌日でさえもう何のことを意味しているのか自分のメモが理解できずに困ったから、とにかく文章で書くことを徹底している)

話が色々それた。

今日の服の仕分け・整理整頓は、途中からイライラする位に耐えられなくなってきた。

そしてイライラの大元となる原因がわかってはっとした。

整理整頓が苦手と言えども、私はこれがノートとか自分の書いたメモとかだと話は違っていて、それらはどれだけ大量にあっても苦にならない。

今日の服もイライラするものとそうでないものとがはっきりと分かれていた。

自分がそもそも気に入って手にしたものは、それこそ今すぐの置き場所が決められなくても全然気にならなかった。

反対に得だからとかただ同然でもらったり譲ったりされたものになると、途端に行き場がない×その個数分だけイライラすることがわかった。

結婚式でもらって帰ってきたナプキンとかはその最たる例だった。

自分がそもそもその物と出逢った時にどういう気持ちを抱いたかとか、その物に対して自分がどう使っていきたいかとか、そういうことが時間を経ることでより一層はっきりと出ることがわかった。

今回人からもらったハンカチタオルを3枚手放した。

もう十分すぎるほど使い込んだから平気だったし、最後はタオルに染みついたにおいが取れなくてそれが何よりも不快だったから、だから手放す時に何のわだかまりも生まれなかった。

反対に、多分もう10年以上前に購入したすごく気に入って買った大判のハンカチがある。

それは残したし、状態も10年以上前に買ったとは思えないぐらいにすごく良い。

本当に気に入っていて、特別な時にだけおろしてアイロンをかけて使っている。

デザインも肌触りも好きで、もし同じデザインのものが復刻版として出回るなら私は間違いなく買う。

それぐらいに好きだから、だから今手元にあって居場所が決められなくても全然気にならない。

 

断捨離2日目に学んだこと:

『最初手にした時の気持ちが大事!』

2017年12月5日火曜日

真夜中の料理分析

真夜中に目が覚めてしまった。
こういう時は、ボーッとしながら読めるブログをさらさら読み流すのが好きだ。
最近は調べ物のちょっとヘビーなブログが続いたから、久しぶりに料理ブログを覗いた。
とりあえず気になったタイトルのものをパッと開いて見た。
「ていねいな暮らし」を謳うブログ。
そこは料亭かと思うようなごはんの写真が掲載されていた。
しかも、その日が特別なんじゃなくて毎日がそんな風らしく、しかも私が最初に見たのは作り置きで決して一緒に食べるためのご飯ではなかった。
何品ものおかずとそれぞれを小鉢や小皿に入れて、普通にちょっといいとこのランチで3千円くらいの御膳みたいな様相だった。
真っ先に思ったのは、「これを食べる人、疲れないのかな」ということだった。
抜け目のない盛り付けに料理、なんなら難易度すっごく高い飾り切りまでしている。
どのぐらいかと言えば、りんごの皮を5ミリほどのギンガムチェック柄に仕上げる凄さ。
これが作り置きとは思えないすごいクオリティ。
豪華さや完璧さ、そんなのばかりが写真からは伝わって、もちろんそんなのは私の主観だけど、この料理って食べたらホッとできるのかななんて余計なお世話的な疑問を抱いた。
写真だけでお腹いっぱいになる感じの料理が毎日で、普通にカップラーメンとかジャンクフードが逆に食べたくなる、そんな感じさえした。

ふと一人暮らしの頃の自分の料理を思い出した。
色んな友達がうちに泊まりや遊びに来てくれて、特に泊まりの時は私はようやく外食できるー‼︎と心の中でガッツポーズしてたりしたけど、一応相手には「何が食べたい?」と毎回どの人にも聞いた。
「ぶっしーのごはん」
という回答率の高さと言ったらなかった。
ぶっしーごはんは毎回名もなき料理たちが並ぶ。
しかも味見はもちろんするけれど、手作りゆえ失敗することもある(食べれる範疇と判断しそのまま出してた)。
下手すると、相手の食べたそうなものじゃなく私が食べたいものやその時ハマりまくって食べてるものを出したりする。
それでもリクエストしてもらえるありがたさだった。
2人の友達は、具体的に何がどう良いかを言葉にして教えてくれたことがある。
食べててホッとする、心と体が喜ぶ、そんな感じらしい。
特別感や豪華さは皆無だけど、確かにホッとする感覚はあるかもしれない。
ありふれた食材とありふれた普通の調味料とで作られる。
ある時、アナウンサーから神職に転職せざるを得なかった方からお話を聞くことがあった。
その方は今沖縄にいて、沖縄の人たちの方言で「料理に気持ちを込める、愛情を込める」というような言い方があるという話をされた。
そういうのは食べると体がきちんとわかるというようなことを言っていられた。
私の料理がそんな崇高なものかどうかはさておき、確かに相手がいる時は「美味しく作ろう」ぐらいは思う。
まぁ作ってる最中はバタバタするから、そんなことさえ忘れてるけど。
今自分の料理や友達の家に行って友達が作ってくれた料理の写真を見返していた。
冒頭の料理家の写真にはない雰囲気は少なくとも感じ取れるぐらいにはあった。

見た目よりも相手を思う気持ち、そんなのはなんとなく感じられた。

2017年10月31日火曜日

生きているうちに出会うということ

1週間前の土曜日(2017.10.21)、母の兄である伯父が急死した。

 

その2日後の月曜日、台風がもろ直撃してるだろう道を車で辿りながら100キロほど離れた火葬場へ行った。

 

母の兄と言えども、男性優位と言わんばかりの母の実家では伯父に近寄ることは子どもの頃からなかった。

だから亡くなったと聞いても、どこか他人事のような、たしかに血のつながりがあるけれどどこか遠くのニュースを聞いているみたいな気分だった。

 

そして火葬場へ親族一番乗りで到着した私は手持ち無沙汰で、満員御礼の火葬場の他のご遺族たちの様子を横目で伺ったり、外の台風の様子を見たり、または東京と金沢からそれぞれ駆け付けている妹たちとラインをしながら過ごしていた。

 

悲しみもなく、それよりも我が親族が火葬場に遅刻している事実を知り、何ともいたたまれない気持ちに包まれていた。

 

伯父の死を悼むなんていう感触は一切なかった。

 

ようやく親族一同と伯父の遺体が火葬場へ到着した。

 

棺が火葬扉の目の前に運び込まれ、そこでようやく私は死んだ伯父と対面した。

 

自分でも何をどう感じ取ったのか言葉にはできないけれど、伯父を見た直後、ぼろぼろぼろっと涙が何粒かこぼれた。

 

私は頭の方から伯父を眺めたけれど、亡くなったばばちゃん(伯父や母の母、私の祖母)にそっくりだと思って見ていた。

 

伯父もばばちゃんから生まれた人なんだと、伯父を見ているのかばばちゃんを見ているのかわからなくなった位だった。

 

涙は悲しみなのか他の何かなのか最後までわからなかったけれど、単純に人の死はどこか悲しいものだと感じながら伯父を見送った。

 

火葬場でおにぎりやお茶、鳥の唐揚げにいかゲソの揚げ物を1つずつ口に入れて、2時間ほど控室で親族たちと待機した。

 

係の人が呼びに来て、火葬扉の前に再度集合した。

 

当たり前と言えども、扉が開いて骨と灰だけになった伯父の姿を見てあっけないと感じた。

 

2時間前にはたしかに存在していた肉体が、跡形もなく無くなっていた。

 

残ったのは、どこをどう見たら伯父だと判別したらいいのかわからない骨と灰だけだった。

 

肉体はこの世で生きていく時にお借りする乗り物のようなもの、ということを過去に何回か聞いたことがある。

 

本当にその通りなんだと、伯父の骨と灰を見て思った。

 

これが人生で30年ぶり二度目の火葬場体験だった。

 

30年前の小学校1年生の私が人間の死をそんな風に見つめることなんかできなかったから、実質人間の肉体が最後無くなる瞬間に立ち合うのは、今回が初めてと言ってもいいぐらいだった。

 

 

 

伯父の死から1週間経ち、また日常に戻ったには戻った。

 

1週間もあればまた色んなことを思ったり考えたりするわけだったけれど、自分が今の体と心を持って生きて、そして同じように私とは別の体と心を持って生きる他の誰かと出会うってすごいことなんだと思った。

 

それがこの1週間で何度も何度も響いたことだった。

 

葬式が明けてすぐの日だったと思う、仕事で1人の人が異動になって最終日を迎えたかと思う。

 

「思う」と言ったのは、その日はそもそも頭がぼーっとしていたのもあるけれど、当の本人がそこにいなかったから、結局その人がいつのタイミングでいなくなったのか、またいつその人に最後会ったのかわからないまま終わった。

 

片や姿かたちが無くなった人間一人に対して涙を流したかと思えば、いてもいなくても何も変わらなくて何も感じずに終わる人もいる。

 

反対に生きたまま離れる人も当然人生の中には登場してくる。

 

その生きたまま離れる人、これまでも色んな人が人生に出入りしたけれど、その離れてしまう人の中でも特別な存在の人というのがいる。

 

伯父の死を通して痛烈に感じたのは、そういう特別な存在の人たちとお互い生きているうちに出会えることのすごさだった。

 

名古屋に住んでいた頃のこと。

 

最初の半年は、仕事で顔を合わせる人以外で知り合いなど1人もおらず、とにかく「1人」ということを嫌という程感じた時間を過ごしていた。

 

ある週末、名古屋駅内の待ち合わせ場所としてよく使われる金の時計の近くを通った。

 

すぐ近くには高島屋もあるから、高島屋の客に待ち合わせの人たちにJR利用する人たちと、とにかく異常な程の人・人・人で溢れ返っていた。

 

どれぐらいの数の人たちとすれ違ったのかはわからない。

 

だけど、どんなにたくさんの人とすれ違っても、その中に「1人として自分の知っている人がいない」という事実を前に私は愕然とした。

 

下手したら寂しくて涙の1つも流したかもしれない。

 

こんなに世の中には人がたくさんいるのに、その中に1人として知ってる人がいないって、それは人がいても孤独そのもので1人の自分というのを嫌でも意識せざるを得なかった。

 

私はそういう「1人」で存在している自分というのを子どもの頃から実にたくさん経験している。

 

集団になじめなかった自分もそうだし、いじめられた時もそうだったし、外国で現地人たちと馴染めなかった時もそう。

 

日本にいても、共通言語を持ち合わせているのに誰とも言葉を交わさず1人でいるという時間をたくさん通過してきた。

 

だからこそと言ってもいいかもしれない。

肉体を持って、この自分でこの自分の姿かたちでこの声でこの心で他の誰かと出逢う、そしてその相手が自分にとってとても特別だったりするとさらに「これって奇跡だ」って思うのは…。

 

血のつながりがあっても遠くに感じる伯父みたいな人もいる。

 

反対に血のつながりがなくても、そして人生全体から見て会えている時間がものすごく少なくても、その人との出逢いがとてつもない大きな力で自分の人生に入りこんでくることもある。

 

それってどれぐらいの確率で起こることなんだろう…って、骨と灰だけになってしまった伯父を見た後この1週間位でよく考えたことだった。

 

 

目を閉じて両頬を両手で包みこみながらしばらくぼーっとしていた。

 

梅酒が効いているのか、手はかなり熱く、その手に触れたほっぺたも熱くなった。

 

肌と肌を合わせれば温かくなるのは当たり前の原理かもしれない。

 

だけど、もう肉体を持たない伯父はそういうことを経験することはできない。

 

そしていつかの私もそういうことから全て卒業することになる。

 

その時までに私はあと何人の人と肉体を持って出逢い、そして何か特別なものを感じ取ることができるだろう。


~伯父が亡くなった日の記録~