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2018年3月19日月曜日

本物のお店vs残念なお店


2月の終わりに友達の提案でいちごのスイーツに特化したお店に立ち寄った。

地元ではすごく有名らしく、私も別の友達からそこのスイーツおいしいよと教えてもらっていた。

場所も知らないしスイーツをわざわざ買いに行くようなことも基本的にしない私は、その誘いがなければ自分で行かないから二つ返事で付いて行った。

店内は売場とカフェスペースとで、それぞれ各10~12畳ほどの広さでとても狭かった。

狭さはいいとして、気になったのはその売場の方に置いてある畳半畳ほどの大きさで高さは2m以上はあるだろう冷蔵機能を搭載したおしゃれなショーケースだった。

ショーケースには但し書きがあって、イタリアかどこかから直輸入で取り寄せたショーケースで、国内では修理不可能のものだから「絶対にさわらないでください」みたいなことが書かれた紙が貼られていた。

目を引くショーケースだから絶対にみんな見てしまう。

ましてや狭い店内ですごい存在感を出してるから近くに寄って見る方が人間心理として普通だと思う。

それに加えてショーケースの中には数少ない種類のお持ち帰り用のスイーツが入っていて、それは要はメニューそのものでもあるからみんな見てしまう。

別に触らないけれど、その言い方の刺々しさに何か冷たいものを感じた

そして私の立ち位置はどうも良くなかったらしく、何度も店員さんの邪魔になっていたし(他のお客さんたちとの兼ね合いで、他に立ち場所がなかった)、その都度丁寧だけど邪険に扱われてる感が本当に少しだけど出ていた。

空気でわかっちゃう感じだった。

しかも店主と思しき私とそんなに年の変わらないだろう男性から「店内ご利用ですか?」と言うことを聞かれた時も、何かその「絶対にさわらないでください」のオーラと同じような冷たさを感じた。

何かが本当にずれてるお店というのが私の感想だった。

いちごのシャーベットを私は頼んで、それは友達の車でみんなで食べたけれど、あぁ残念、消毒の味がした。

多分生のいちごを売りにしているから相当消毒とかには気を使っているんだと思う。

それゆえに消毒の味が残ってしまって、バカ舌でも気付いちゃうレベルだった。

お客さんもけっこう入ってはいたけれど、とにかく居心地の悪さはベスト3、ここ近年では堂々の1番という感じの店だった。

再訪はないし、お金を払ってまであのお店の商品を食べたり買ったりしたくないと思った。
 
誕生日の日、私は色々考えた結果、海辺でひとりピクニックを決行することにした。

どこかのお店でケーキを食べても落ち着かない感じがしたから、反対にケーキを道中で買ってそれを持って海に行こうと決めた。

海に行くまでの道ですぐ道沿いにあるケーキ屋を検索した。

1軒ヒットした。

よく考えたらそこはこのブログたちをアップするのによく使うネットカフェと同じ敷地内にあるお店で、あぁたしかに駐車場はさんで向かい側にあったなと思った。

前評判も聞いたことがないけれど、こじんまりとやっているのは知っていた

ちなみによくよく思い出すと、多分カットケーキを1つだけお店で買うのは人生で初めてだったと思う。

すごく緊張した。

たった1つのケーキを買うってお店からしたら迷惑とは違うけれど、あまりありがたい買い方ではないんじゃないかなと思った。

でも1つしかいらないから、1つだけを注文した。

「以上でよろしいですか?」というようなことも聞かれなかったのかもしれない。

とても丁寧に「かしこまりました。これからお包みするので少々お待ち下さい」というようなことを言われた。

とても感じが良かった。

「持ち歩きはどの程度のお時間でしょうか?」
「1時間ぐらいです」
「では1時間分の保冷剤を一緒にしておきますね」
と笑顔で言われた。

たった1つのケーキにそこまでしてもらうのが逆に恐縮したけれど、このお店はカットケーキ1つの時もホールケーキ1つの時も同じように対応してくれるんだろうなぁと思った。個数とか売上じゃなくて、目の前のお客さん1人1人を大切にしてくれるんだろうなぁというのがひしひしと伝わってきた。

本当に気持ちの良い対応だった。

最初の注文時から最後の清算時まで本当ににこにこと笑顔で、それが作った笑顔じゃないのは見ていて伝わった。

実際に海に着いてからケーキの箱を良く見てみるとこんな風になっていた。


あぁ本当に愛情に溢れてる対応でものすごく納得した。
ご愛嬌じゃなくて本物の愛情が入っている。

本当においしいものを作りたくて、そして食べる人がそれを食べておいしいと感じるような笑顔がこぼれるようなものを作りたい、そういう想いに溢れてるのが伝わるケーキだった。

張りきって海辺まで出たのはいいけれど、着いた時から突風で寒すぎて車の中に避難。

そのうち雨まで降り出してピクニックは中止せざるを得なくなった。

だからケーキも家で食べた。

ずっと行方不明だった漆塗りのお盆も出てきて、そこにきれいにセットして食べた。

写真見た友達と仕事の人から「ここどこ?」と聞かれたぐらいに素敵なセットになった。


食べて美味しいのはすぐにわかった。

繊細な感じで作られているのもわかった。

間違いなくまた今度そのお店に買いに行く。

それくらいにおいしいケーキだった。

2018年2月17日土曜日

メガネ女子

2017.10.28

「メガネ女子」という言葉を数日前初めて聞いた。

うっかり「私もメガネ女子」などと口走らなくて良かった、と後からネットで「メガネ女子」なるものを検索した時に思った。

世の流行にうといから、世間一般で言われる「メガネ女子」が一体どういうタイプの女の人を指すのかはわからないけれど、少なくともネットで出てきた「メガネ女子」たちは皆揃って美人だった。

「メガネ女子かぁ…」などと思いながら、ふわっとメガネの思い出が2つ浮かび上がってきた。

 

まさか「メガネ女子」が人生のヒントをくれるとは思わずに出てきた思い出たちだった。

 

今でこそ私はメガネを日常的にかけて、人に会ったりする時や飲み会や結婚式なんかの席に出席する時だけコンタクトをするようになっているけれど、元々は反対で普段コンタクトをしていてオフや必要な時にだけメガネをかけていた。

その「メガネ」がこんな会話を毎週生み出していた。

 

「ぶっちゃん、今日夜勤でしょ?メガネかけてるもんね~!」

 

家庭の事情(虐待とか)で家では暮らせらない子どもたちが生活する施設で働いていた頃のこと。

夜勤は15時から翌日のお昼の12時までの勤務だった。

途中仮眠程度に寝るのは3時間あればいい方だった。

当然そんな長い時間コンタクトを着用するには目がしょぼしょぼするし、朝の戦場と化したような時間にコンタクトを着ける余裕があるならその分ごはん作りか他の諸々の支度をする時間の方が必要だったから、夜勤の時は毎回メガネだった。

だから子どもたちの中で「私がメガネをかけている=私の夜勤の日」という図式が出来上がっていた。

いつだったか何人かの子どもたちに言われたことがあったけれど、子どもたちにとってその日誰が夜勤に入るのかというのはものすごい一大事で、学校から帰ってくるとまずは大人たちの勤務が出ているホワイトボードを見るとのこと。

だから子どもたちと「ぶっちゃん、今日メガネかけてる!夜勤だね」なんていう会話は、こうして文字にすると大したことない会話でしかないけれど、それは「今日は一緒だね」というようなニュアンスも含まれていたと思う。

5年半働いたその場所で単純に計算すれば270回前後の夜勤をしたと思うけれど、その会話は最初の頃から最後辞める時までずっとずっと続いた。

それも1人2人じゃない、何人もの子どもとその会話を交わした。

 

そんなことを「メガネ女子」の言葉を皮切りに思い出していたら、自分がどうしてその道に進もうかと思ったのかを、久しぶりに鮮明に思い出した。

 

大学4年になった年、福祉の現場実習に8ヶ月450時間費やすことが卒業単位の一部だった。

私の大学は、自分自ら実習先を探し出すことになっていた。

頭ではわかっていたけれど、私は得意の先延ばしをして、そして本当にもう決めないと卒業が間に合わないという頃、ようやく重たい腰を上げて探し始めたのだった。

当初私はスクールカウンセリングを実習先として希望していた。

そこで受け入れ実績のある数校に連絡を入れたけれど、どこもすでに実習生を受け入れていてこれから先数ヶ月は空きがないと断られた。

担当教授のところに行って相談しに行ったら「選択肢は2つ、このどちらかで探すように」と言われた。

1つは、分野を変更して障害なりホームレスなり高齢者なり別の施設や組織に行く。

もう1つは、あくまで「児童福祉」にこだわるのであれば虐待された子どもを保護しているグループホームへ連絡するように言われた。

私の中で「子ども」と関わること以外に選択肢はなかった。

虐待は全く興味関心もなければ、専門知識も全く持ち合わせていなかった。

だけど、子どもと関わるのであればもうそこしかないと言われ、それで渋々グループホームへ連絡したのだった。

見学・面接・人物調査と経て、ようやく受け入れが決まり実習が始まった。

私が子どもにこだわったのは、別に子どもが好きだからという理由じゃない。

自分が子どもの頃、色んなことを吐き出す場所がなくて、それで今度大人になった自分はそういう場を作りたいと思った。

好きだからということはなくて、家と学校しか基本的に選択肢のないような子どもの頃に、絶対的に安全な場・自分の気持ちや思いを言える場、そういうものが自分が欲しかったから、だから私は子どもにこだわった。

という感じで始まった実習ではあったけれど、当初からそんなのどこ吹く風状態だった。

子どもたちはむしろ私の神経を思いっきり逆撫でしてくれ、8ヶ月中3分の2以上の時間は実習も嫌だったし、子どもと関わるのも心底嫌だったし、1日も早くさっさと終わらせてしまいたかった。

最後の1~2ヶ月位だったと思う。心境に変化が生まれた。

私の実習先で生活していた子どもたちは、虐待やそれに付随して受けたダメージの度合いからして、最重度の次に重たい重度に近い子どもたちだった。

障害ということではなく、心の傷・ダメージがとてつもなくでかかった。

ぱっと見は普通の子どもたちと何ら変わらないけれど、口を開けば罵詈雑言当たり前、大人をおちょくり、試し行動と呼ばれる行動を本人の気が済むまでやり続けてくる。

試し行動は、相手が信用できるかどうかを見るための子どもなりのテストみたいなものだと私は教わった。

だから最初の数ヶ月はひどい惨状だった。

そしてそこを超えたぐらいから少しずつ子どもたちがなつき始めた。

それでようやく子どもたちが可愛いと思えるようになったし、そして子どもたちと関係を1から作る楽しさ・面白さみたいなものもわかるようになってきた。

色んなことがあったけれど、2つとても印象に残っていることがある。

1つは英語での本の読み聞かせ。

ブレークは11歳の男の子だった。

高機能自閉症という分類になると思うけれど、ぱっと見は普通の男の子。

だけど自閉症特有のこだわりの強さで人間関係のトラブルは日常茶飯事だったし、そしてブレークのルールと世間のルールは互いに平行線状態で、ブレークが納得できないことはどこまでも納得できないままだった。

そんなブレークは頭脳がずば抜けていて、特に言葉の読解力は半端ない力を持っていた。

当時小学校5年生にして、大学生が読むレベルの文章をすらすらと読み、理解できる力を持っていた。

そんなブレークとは、最初の数ヶ月ずっとずっと仲たがいをしていた。

大人げない私は、自分より10こも下のブレークと本気で言い争いをしていた。

私も頑固で、絶対におかしいと思うことはどこまでも譲らなかった。

そんなブレークもやっぱり小さな男の子で、夜寝る時は必ず誰かしら大人から本を読んでもらっていた。

最後の1ヶ月ほどだろうか。

ブレークはその本読みの係に私を指名するようになった。

私は正直すごく嫌だった。

係に指名されるのは名誉なことだったけれど、とにかく私の下手くそな英語の発音を披露してまでする本読みというのが本当に嫌だった。

最初の日だったような気がする。

私はブレークに正直に伝えた。

「本読みの係に指名してくれるのはうれしいんだけど、私よりもっと上手に読める人たちが他にいるから、その人たちに読んでもらう方が聞きやすいだろうと思う。他の人と代わろうか?ブレークも私の英語の本読みが上手じゃないのは知ってるでしょ?」

そうしたらブレークは答えた。

「フミコ、あのね、フミコの英語が上手かどうかなんて重要じゃないんだよ。ぼくはフミコに読んで欲しいんだよ!」

ブレークの言葉を聞いて私ははっとさせられた。

別に上手か下手かなんてどちらでもいい。

それよりもブレークにとっては私との時間が大切だった。

2人で過ごす時間を大切にしようと思ってくれていた。

私はブレークにごめんねとありがとうを言って、そのまま本読みを始めた。

よくつっかえるし、何なら読み方がわからないとブレークに教えてもらうし、とても寝る前の入眠効果なんか全く期待できないどころかますます頭が冴えそうな本読みだったけれど、それでもブレークはその時間にとても満足してくれていた。

そしてそれ以降私もごちゃごちゃ言わず、まっすぐブレークの部屋に行って本読みをした。

こだわりの強いブレークだったけれど、よくよく思い出すと私の英語の発音については珍しく何一つ言ってこなかった。

間違えていても、普段なら小姑のように指摘するブレークが、その本読みの時間だけは本当にその時間を愛してると言わんばかりに静かだったし穏やかだった。

言葉を超えたコミュニケーションをブレークは私に教えてくれた。

そして人間同士の関わり合いの時に、言葉の上手下手はあまり関係ないということも教えてもらった。

それよりも言葉にはできない部分、目には見えない部分での繋がりの方が実はうんと大切だということも知った。

そうやって、人間関係を1から子どもたちと作る面白さをそこでは教えてもらった。

そして日々変化する関係に私はものすごく魅せられていた。

もう1つ印象に残っていること。

それは言葉の壁だった。

アメリカ生活4年目、英語はかなり達者になっていた。

授業も普通に英語で受けているし、色んな人たちと会話を交わすし、論文もたくさん書いたおかげで語彙もどんどん増えた。

日本帰国後すぐに受けたTOEICで925点を取り、それが相当なレベルであるというのは後から知った。

だけどそこまでの英語力があっても、やっぱり言葉の壁には勝てないということがわかった。

言葉の問題が顕著になる場面は2つあった。

1つは、子どもたちが自分の胸の内を明かす時、それは過去の超トラウマ級の話をする時も度々あったけれど、そういう時に私は100%理解できないのがものすごくもどかしかった。

すごく大切な部分のところが理解できなくて、それこそ私がこのブログに書いている言葉を丸っと理解するぐらいの語彙力がないとどうしても最後のところで寄り添いきれない感じが残った。

さすがに英語でここまでの差異を感じ取るだけの読解力や共感力はない。

その言葉を聞いても、それがどの程度重たいものなのか又は軽いものなのか、相手の表情や声質なんかで読み取れても、言葉として理解できる部分には限界があった。

もう1つは、言語は文化から生まれるとはよく言ったもので、文化に根付いた言葉を知らないことで日常的に困ることが多々あった。

例えば「だるまさんがころんだ」的な遊びが英語でもあるけれど、そういう誰もが知ってる遊びなんかを毎度毎度見聞きしないといけないのが若干私にはストレスだった。

これが日本語ならそこがクリアになって楽なのになぁといつも思っていた。

言葉の壁を感じたおかげで、私は卒業したら日本で子どもと関わる仕事をするってスパッと決められた。

大学4年間向こうにいると、卒業後1年間は特殊なビザの申請が可能で、そのビザを使って働くことができる。

周りの日本人の友達でもそれを使ってる子たちは何人かいたし、私も申請を考えなかったわけじゃない。

だけど私はアメリカに残るんじゃなくて日本に帰ることを決めた。

ブレークとしたようなやり取りを日本でしたいと思った。

せめて言葉の壁を感じないところで、もっと目の前の子どもに全力で向き合えるような状態で子どもと関わりたいと思った。

それが冒頭の「ぶっちゃん、今日夜勤でしょ?メガネかけてるもんね~!」の場面に後々繋がっていった。

ネットで見た美人なメガネ女子からは程遠い私の夜勤メガネではあったけれど、今となってはもうあの時にしか存在しなかったとても貴重なメガネトークだった。

もう生涯を通じて、私がメガネをかけているとそれだけで喜んでくれる子どもたちがいるなんていう体験、二度としないと思う。

「メガネ女子」なる言葉は決してそんな意味で聞いたわけじゃなかったけれど、私がその言葉を聞いて真っ先に思い出したのは、そんな子どもたちとの会話だった。

そしてその会話は私の心の中を一気に満たしてくれる、幸福活性剤的な存在に今はなっている。

2018年2月3日土曜日

イシダくんの予言



大学時代の友達リカの紹介でイシダくんに会えることになったのは、27歳の時だった。
リカとは1冊の教科書が縁をもたらした。

大学3年の頃、1年だけ違う大学で学べてそのまま単位も元の在籍していた大学に単位も移行できるというプログラムに応募して、それで実際にアメリカの南部の大学に通っていた。

色んなところに住んだけれど、人生の中で一番肌に合わない・しっくりこない土地柄だった。

しかも私の行動範囲も極端に狭く、覚えているのは歩くと端から端までは30分以上は普通にかかる広大な敷地のキャンパスと、超大型のWALMAARTくらい。

他にその町の風景が全く記憶にないという、人生の中でもかなり特殊な記憶の残り方をしている町だったりする。

元いた大学の私のお世話係の教授から、1教科だけ好きな教科を受けていいよと言われたのか、それとも外国語の分野でもう1つ単位が必要だから取るように言われたのか忘れたけれど、私は秋学期に中国語を選んで取った。

漢字があるから英語で他の言語を学ぶ中では一番楽だろうと思ったらとんでもなく、発音がそもそも難しく、文法も難解を極め、私は最後まで要領を得ずに中国語講座は終わった。

春学期になり使わなくなった中国語のテキストを、秋学期の教授のクラスに行き売りに行った(アメリカではそれをしてもおかしくない習慣だった)。

それを買ってくれたのがリカで、それでリカとは繋がった。

本当にたった1冊の教科書がその後こんなに長く繋がることになるとは思ってもみなかった。

 

日本に帰ってきてからもリカとは何回か再会した。

ある時、リカがイシダくんの話をしてくれた。

自分の大学時代の友達で、霊感が強く視える人がいるという話だった。

単純に興味関心が強かった私は、そのイシダくんに会ってみたい!とリカに言い、リカも実際に何人かの友達とイシダくんを引き合わせたこともあり、2つ返事でいいよと言ってくれた。

そして本当にその場がセッティングされ、東京でリカとイシダくんと3人で会ったのだった。

 

霊感が強くて何かが視えるという人に会ったのは、イシダくんが初めてだった。

色んなことを教えてくれたけれど、私の中で残っている話は3つ。

そしてその3つは本当にその通りだと今でも思っている。

ちなみにイシダくんは、そういう霊感的な力を仕事としてやっていくことは全く考えておらず、日本でサラリーマンしてますと言っていた。

スーツの着方が、大学教授とかにありがちな個性的なスーツ、言葉を換えればいまいちセンスを感じられない、というよりそのスーツどこで売ってるの!?というような一風変わったスーツを着てたのが印象的だった。

20代の若者とは思えない、髪型や容姿にあまり頓着しないタイプで、今の年齢の私ならそのイシダくんの良さをもっともっと好きになると思うけれど、当時は異性としてさえ捉えていなかった(←とても失礼)。

イシダくんの場合、お母さんが本物の霊能者で自分も遺伝的な感じでそういう力が子どもの頃からあったということだった。

リカが私に紹介してくれたみたいに、色んな人がイシダくんの元を訪れるらしいけれど、本当にやばいと思うとお母さんに繋げると言っていた。

自分の手には負えない人というのがイシダくんの中にあって、そうすると本当にそれを生業にしているお母さんを紹介し、その人の人生が少しでも良くなるようにという感じでお母さんが何か色々なことをするらしかった。

 

何せその時がそういう人に会ったのは初めてだったから、何を質問していいのかもわからず、リカは「みんなはこういうことをよく聞くで」と関西弁を普通に披露しながら私に説明してくれたのだった。

守護霊に関してはみんながよく聞くらしく、私も聞いてみた。

「フミコさんの守護霊は山ですね」

私はどういう答えが他にあるのか知らないからそう言われても「そうなんですね」と答えたけど、リカの方がむしろ「そんな山とかそういう自然のものが守護霊なんてことあるん?」と聞いていた。

イシダくんは「フミコさんの後ろに山が視えるから、そういうこともあるんでしょうね」と普通に答えていた。

リカいわく、これまでの人たちは先祖だったり何かしら人間の形をした守護霊的なものしかイシダくんの口からは聞いたことないようだった。

だから私の守護霊が山と聞いて、とにかくビックリしたと言われた。

その時はふ~ん位にしか聞いていなかったけれど、これは本当に当たっていると思う。

これは名古屋にいた時に初めて気付いたことだった。

名古屋市内には山はない。

そしてその前に住んだドミニカ共和国の首都にも山はない。

だけど私は必ずどういうところに住んでも山が見える景色の場所と縁があるようになっている。

生まれた土地は丸っと山の中にあるようなものだし、その後大学で住んだ町もかの有名なロッキー山脈のふもとの町だったし(これが山脈の一部かと思うと、とてもしょぼい山だった)、他にも縁あって行った土地はすべて山があった。

名古屋の時もドミニカの時もそうだったけれど、私はある会社や組織に所属はするものの普段の仕事する場所は本社ではなく別のところという具合で、その普段行くところが山の中にあったり山が見える風景を通って行ったりするようになっていた。

リカと知り合ったその大学の町だけが唯一例外中の例外で、私が最後までその町に愛着を持てなかったのももしかしたら山がないことが関係しているかもだし、そして何よりも私は当時人生で一番具合が悪くなった風邪なのか喘息なのか、変な病気のようなものにかかった。

医者にもかかったけれど薬を処方されて終わり、でも後にも先にも1日中寝ている時さえも咳が止まらず、それが3週間以上も続くという、本当に変な症状に見舞われた。

そんなことを思い出しながらも、イシダくんが「山が守護霊」と言ったのは妙に納得した。

 

イシダくんが伝えてくれた私の性格の1つに「物欲がとにかくない人。100人いたら100番目の人ですよ、物欲の強い順に並んだら」というものだった。

当時もなんとなくそうかもしれないと思ったけれど、今もだいぶそうだと思っている。

普通の女子たちがあれこれ集めたり買ったりするものに私は若い頃から興味がなかった。

気になるものがあると買う癖はあったけれど、物がなければないなりに生活できるし、それを不自由だとか物足りないとか思ったことがない。

流行にも無頓着だから、基本的に物は壊れるまで使い続けるし、携帯もそもそも操作を覚えるのが苦手ということもあって今も同じiphoneを4年近く使っている。

それで事足りてるから、私一人だけ流行遅れなところがある。

むしろ私が心惹かれるのは、世界に1つしかないもの。

だから今私の手元にあるものたちの大半は、他に同じものが世の中には1つもないとか、あったとしてもものすごく数が限られているとか、そういうものたちだ。


(左から)
私に向けられたメッセージの書
私に描かれたメッセージの絵
引退後工場を工房にして絵を描くファンキーなおじいちゃんから10年以上前に買った絵
ドミニカ共和国で出逢った陶芸家の外国人美人女性の作品
ドミニカに行く前に前職でお世話になった大先輩からいただいた書


(順不同・詳細の説明は後日)
ドミニカ共和国でしか採れないラリマールと呼ばれる水色の石とブルーアンバーという黄金色の石
夏に北九州で引いたおみくじ
1000年杉で作られたお守りみたいなの
オルゴナイト
ペンジュラム
ティンシャ
妹夫婦経由でやってきた義弟のお兄ちゃん夫婦がデザインしたコースター


最後のイシダくんの予言は、当時絶対に受け入れられなかった。

嘘だと思った。

そんなわけないと思った。

だけど本当にその通りになった。

イシダくんは当時付き合ってた人とは別れると断言に近い形で言った。

リカが後から

「今のフミコの話を聞いてる限りうちもその人と一緒になって欲しいと思ってんねん。

そういう人なかなかおらんで。

だけど、どういうわけかイシダくんのそういう予言は百発百中で、別れると言われた人たちは色んな事情で結局は別れちゃったし、反対に結婚すると言われた人たちはどんな事情があっても本当に結婚してんねん。

イシダくんには何が見えてんのやろね」

と言われたこともよく覚えている。

そしてその予言は予言じゃなく現実になった。

唯一違うとすれば、別れてからもストーリーがあるということだった。

あれから10年以上経つけれど、私はその現実にようやくなじんだし、今はその予言が悲しいとは思っていない。

人生に色んな人たちが登場してくるけれど、「救世主」のような存在はそうそう現れない。

その人は、恋も愛もたくさん伝えてくれたけれど、それ以上に救世主だった。

私の人生に本当に光をもたらしてくれた人で、私はその人なしでは今の自分にはなれなかったと思う。

 

話がそれたけれど、イシダくんと会ったのはそれ一度きりだった。

一度きりの出会いにも関わらず、イシダくんの話はとても印象に残っている。

『カメハメハの夜』を書いた時からイシダくんのことはずっと頭にあった。

いつか文章にしてイシダくんを文章の中に登場させたいという願望も、そのずっと前からあった。

そうしたら今回イシダくんの伝えてくれたことと同じようなことを別の人からも伝えられた。

それは嬉しい偶然でもあり、自分をより知っていくためのヒントにもなっている。

そしてその嬉しい偶然がスイッチとなって、この文章に繋がっている。

2018年1月21日日曜日

ノート大集合


部屋を片付けている途中でふと思いつき、すべてのノートを畳に並べて写真に納めてみた。
たくさんあることは知っていたけれど、実際に並べて見ると圧巻だった。






約80冊。

あとから他の箱たちからもノートがちょいちょい出てきたから、ゆうに100冊は超える。

実際は120冊ぐらいあるんじゃないかと思う。

見にくいけれど、写真一番上の列のノートは新品でこれからそれぞれ使われる予定のノート。

2段目が今現在使っているノート。

3段目以降が基本的に今は使っていない又はものすごーく時々使うノート。

3段目以降の9割はすでに100%に近い形で使い終わっている。

今よく見たら、下の2段のノートの一部は現在進行形で使っている。
それぞれはこんな風。
 
・スケジュール帳代わりにその日にあったこと・行った場所を簡単に記すノート
・2017夏の思い出記録帳(まだ途中)
・雑記帳
・日記帳
・持ち歩き用メモ帳
・100日記録・心理ワーク記録
・家計簿的なノート
・生活メモノート
・レシピ帳
・誕生日の日にだけ書く日記帳
・読書記録
・チケットなんかを貼り付けておくノート
・人からもらったプレゼントの包装紙や思い出に残った何かを貼り付けるノート
・アイディア帳
・心理ワーク記録簿
・手紙下書きノート
・死ぬまでにしたい100のことを書くノート
・写経ノート(本で気に入った文章を書き写すための専用ノート)
 
ノートはいちいち見なくても、表紙を見たら95%は何に使っているかをすぐに言える。

私が色んな種類のノートにこだわるのはそのせいで、例えば同じキャンパスのノートを80冊とか持ってしまうと、いちいち表紙に何か書かないと何に使っているのかわからないから、だから一目で見てわかるように違う種類のノートたちを毎回色んなところから調達している。

10代の終わりから徐々に始まった記録の習慣で、20代の頃も数冊ノートを買っていた。

爆発的に買うようになったのは30代に入ってから。

そしてこの度2017年とてもショックなノート事情が明るみとなる。

B5やそれより小さいA6?B6?A5?よくわからないけれど、そういうサイズのノートの生産が大幅に減ったということ。

私は12月に東京でノート探しをするまでその事実に気付かなかった。

20代の頃、ようやく若者たちがみんな白黒の携帯をほぼ持つようになり、そして途中からはカラーの携帯(ガラケー)が台頭してきた頃。


それよりも今、ものすごい勘違いが発覚(驚)(○_○;)
「台頭」を私はずっと「だいとう」だと思っていた。
「だいとう」と打っても変換せずおかしいなぁと思い、もしや読み方が違う!?と思い、念のため、あくまで“念のため”読み方を調べたら、「たいとう」だなんて!?!?!?
使い方も間違ってないか、それもついでに調べた。
こんなにもあれこれ書くくせして、私は日本語がかなり弱い。
私の英語力やスペイン語力を知ってる友達からは、「何でそんなに他の言語ができるのに、日本語がわからないの!?」と毎回言われる。
特に熟語や四字熟語、ことわざなんかは言われても毎回ちんぷんかんぶんで困る。
漢字の読み方もよく間違えている。
それで思い出したけれど、いつだったか友達2人と話した時(男1、女1)、「めはまら」と言われて「『めはまら』って何?」と聞いて大ひんしゅくを買った。


ノートの話に戻る。

ガラケーが台頭してきた頃というのは、まだまだアナログ用品も充実していて、そういう意味でB5のノートも色んなデザインのものが売られていた。

私は東急ハンズやロフトの文房具売場が大好きで、それは今も変わらないけれど、10代の終わりでそういう店に出合い、20代は東京に行く度に、30代は名古屋で、それはそれは足繁く通い詰めていた。

どういうわけかノートコーナーに無意識にいつも立ち寄っていて、だからこそこのB5のノートのデザインの種類が激減したことにショックを隠せなかった。

高齢者もスマホを持つような時代になった今、ノート業界は大きく変化している。

「字がきれいに書けるノート」「東大生が使っているノート」とかいうような変なノートはたくさん今出ているけれど、本当に普通のノートの種類がとても少ない。

先月東京に行った際、日記帳を探すついでにノートも探したけれど、とにかくない。

びっくりする位になくて、そういうどうでもいい変なタイトルがついていて使い方が限定されるようなノートだけがやたらと増えたことだけはわかった。

あとは高級ノートが主流なのか、1000円近い値段のノートとかも数多く取り揃えていて、それにも驚いた。

高級ノートもいいけれど、庶民価格のノートも置いてくれ!!と切実に思った。

確実に手書きで物を書くという時代ではないから、ノートの種類が少ないのは仕方ない。

だけど私みたいに本当に使う人からしてみたら、この種類が少ないのは困る。

最近は、地方の蔦屋書店とかの文具売場の方が充実していることを知り、その手のノートはそういうところを探す方が早いことを知った。

写真の一番上の段にスヌーピーのノートがあるけれど、それはうちから少し離れたところにあるツタヤで購入してきた。


これはまだ使い道が決まっていないけれど、心理系ワークの記録簿とかアイディア帳とかに落ち着くと思う。

ノート繋がりで言えば、なんとその余波的なことは無印良品にも及んでいる。

12月だったと思う。

駅に行ったついでに無印にも立ち寄った。

そもそも「開きやすいノート」という96枚の分厚いノートがそろそろ終わりだから、ということでそれを買いに行った。

ノート売場を見た時に、通常あるだろう場所になかった。

丁度スケジュール帳とかで売場が多く取られているからだろうと最初は思い、文房具売場をくまなく探した。

あったはあった。

割引コーナーに。


嫌な予感がした。

このノートが30%OFFになんてこれまで一度もなったことがない。

2014年ぐらいから愛用していて、いつも別に買わなくても「私の持ってるノートと同じだ!」と目で確認していたから、それは間違いない。

とりあえず1冊持って行って、レジで店員さんに聞いた。

割引になっているけれど、これはモデルチェンジの予定なのかそれともそもそももう生産中止の予定なのかを。

「調べてみます」と言われ店員さんを待つこと数分。

「こちらのノート、今在庫ある分だけで、今後入荷の予定も新しいモデルの予定もありません」と説明された。

ガーン。

気に入って使っていたノートは今あるだけ…。

ただこのノート、分厚いだけあって使い切るのに1年は必要。

そんなにたくさん在庫を抱えても仕方ない。

だからその時は1冊だけ買ったけれど、年明けもう一度同じ店に行った時、確実に数冊しか残っていなかったから、もう1冊買い足した。







この無印の分厚いノートは、本当の雑記帳で、とにかく色んなことを書き残している。
 
2015年9月に書いたメモより。

「今日出逢う一期一会のストーリー
秋の日に暑さを感じて額をつたう汗かもしれない
前に進むヒントとなる本の一節かもしれない
ありあわせの食材で作ったごはんかもしれない
もう二度とはやってこない“今日”という1日を
メモするための暮しの手帖」


写真の上のメモは、「暮しの手帖」という雑誌の表紙に書いてある言葉。

その言葉が好きで、その下に自分の言葉を足した。

中は自由自在に使っている。

レシピを書くこともあれば、その日食べたもの、印象に残った出来事や風景、人との会話、自分の健康、友達の住所、読みたい本などなど、とにかく色々書いている。

次が3冊目

うれし悲し30%OFF

結局もう1冊買い足した

あと3年後とかさらにノートの生産は、無印だけじゃなくて業界全体が変化するんだろうなぁと思う。

デジタル化は止まらないだろうし、ますますペーパーレス(paper less)なんて言葉があるかわからないけれど、紙ベースでのデータ保管は好まれない=ノートの生産中止が増えるだろうなぁということは予想できる。

でも私は自分がどんなに年をとっても、やっぱりノートを持ち続けると思う。

もう最後、キャンパスのような王道のノートしか残らなくなったら、その時は表紙に好きな紙やシールでも貼ってデコレーションしてでも使おうと思ってる。

ノートはそこに足跡だけじゃなくて、その時の風景や雰囲気、空気も一緒に残されている。

だから開くと、その当時のことがよみがえる。

そしてその前後に何があったのかもノートを開けば一目瞭然になっている。

デジタルのデータでは絶対に再現できないものだから。

デジタルは1つ1つにタイトルをつけてフォルダなんかに入れて、わかりやすく見やすく整理はできる。

でもそれら全部を一気に見たり、じゃあ去年のものを見ようとなれば、また別ファイルを開くしかない。

私は自分がよぼよぼのばあさんになった頃、今書いているノートを見返すのが楽しみで仕方ない。

80、90になった自分が10代20代30代をどう過ごしたかを知るのは、もはやこのノートたちしかない。

それをしわが刻まれて皮膚の表面もかさかさになってるだろう指でぺらぺらとめくって、もしかしたら老眼鏡をかけているかもしれない目で、そっとそっとたどっていくのが面白そうだなと思ってる。