荷物の整理をしていた時にすーさんからの手紙が出てきた。
すーさんからの手紙はそれ1通だけだから、内容はおおよそ憶えている。
その手紙はもう何度読んだかわからない。
何度読んでも毎回色んな気持ちや感覚が出てきて、すごく新鮮な感じがする。
一度なんかは桜の木の下で読みたいと思い、すーさんの手紙を持って1人で花見に行ったこともあった。
その理由も今回読んでよくわかった。
すーさんは手紙の最後に「二〇十六年三月 桜の花咲く頃」と書いている。
だから桜の木の下でどうしても読みたかった。
とても粋な手紙で、どうしてすーさんと友達なのか、その手紙にすべて集約されているようだった。
今回改めて読んでみて、あぁそういうことかととても納得のいったことが1つ出てきた。
《ぶっしぃへ。
こんなに長い手紙をもらったのは初めてです。ありがとう。郵便受けに入っていた封筒のふくらみを見て「これは長いぞ」と思い、読み終って改めて封筒を見れば、82円の下に貼られた追加の10円の切手、とてもぶっしぃらしい手紙で嬉しく思っています。》
という出だしで始まっていた。
私はそんなところこれまで全く気にも留めずに流し読みをしていて、今回初めてすーさんがそんなことを言ってくれていたことに気付いた。
正しくは、顕在意識は完全にスルーしていた。
でも潜在意識はきちんとその部分を憶えていた。
ちょっとだけ心理学勉強しましたの風を吹かして言うと。
人間の意識は顕在意識と潜在意識に分かれている。
顕在意識は自分の頭で認識できるところ。
そして潜在意識は普段は全く意識に上がってこず、いわゆる無意識という状態に近い。
だからその潜在意識に何が格納されているのかなんていうのは、普段は気付かないし完全に忘れている。
で、顕在意識:潜在意識の割合だけれど、3%:97%と言う人もいるけれど、私が説明された中で一番しっくりきたのは、1%:∞(無限大)だった。
そして日々の色んなことは、たしかに頭で認識できてるのは顕在意識だけれど、実際は潜在意識の方が強く作用していて、だから頭で考えていることと実際の行動がちぐはぐだったりするのはそういうところから来ている。
もう少し言うと、カウンセリングやセラピーなんかでやりとりするのは、その潜在意識の方に働きかけていく。
頭でいくら「これが正しい!」と思ってもそうできないのは、心の奥深い潜在意識の方で別の何かを選択しているからであり、そこを癒すなりなんなりしないと望むような状態にはなかなかなれない。
何でこんな説明をしたのかと言えば、すーさんの手紙に戻る。
数ヶ月前、私はとある手紙を書いた。
書く予定のなかった手紙を突然書こうと思い立ち、それでどんどんと思い付くままに書いていった。
どんどん書きながら気付けば5枚目に差し掛かり、5枚目の時点で先がどんな風に展開するのか全く読めなかったのと、これが合計何枚になるのか皆目見当もつかなかった。
我に返るとさすがに不安になり、スマホで手紙について検索をかけた。
検索をかけて後悔した。
どのサイトも長すぎる手紙に対しては手厳しい言葉ばかりが並んでいた。
ましてや手紙の相手と親しくない場合は、さらに一層長い手紙は絶対にダメぐらいに書かれてあった。
私の中でもうすでに「手紙は書くし、手紙は相手に渡す」となぜか決めていて、だから今さら引き返すわけにもいかなかった。
そこで信頼できる誰かに聞く方がいいと瞬時に判断し、それでぱっと思い付いたのがすーさんだった。
すーさんに長い手紙を出したのは、すーさんが作ってくれた料理に対して私が酔っ払ってひどいことを言い、もちろんその場でもすぐに謝ったけれど、そしてすーさんは大丈夫だよとその時も言ってくれたけれど、やっぱりそれがどうしても引っ掛かってそれで謝罪とお礼を兼ねたものを書いたからだった。
そのやりとりがあったからこそ、すーさんに長い手紙はどうか、そしてすーさんに書いた時のように起承転結があるわけでもなく結局何が言いたいの?というような手紙でそれゆえに長いけど大丈夫かと聞いてみた。
すーさんが代表して取ってくれた飛行機の時間を聞いても平気で1週間は放置されたから、その時もすーさんの返事は1ミリたりとも期待していなかった。
差し迫った予定でさえ返事がないから、ましてや手紙の長さについての質問なんかもっともっと現実的に不要なもので、返ってきたら奇跡だなぁと思った。
そうしたらまさかのまさかで、1時間後に返事が来て、
≫そういう手紙をぶっしぃが短く書けるはずがないので、「長すぎるかな」と考えたところでそれ以外はないよ。長さは気にせず思うように書けば良いと思うよ。
と返ってきた。
さすがすーさん!と思い、すーさんに感謝しながら、また自分のペースで好き放題に手紙を書き続けた。
だけどどうしてあの時すーさんがパッと思い付いたんだろうとはずっと思っていた。
たしかにすーさんに手紙は出したことあるし、すーさんのことはとても信頼しているけれど、何ですーさん?と自分でもその理由がよくわかっていなかった。
だけど、今回いつぶりかはわからないけれど、すーさんからの手紙を読んでものすごく納得した。
すーさんはわざわざ分厚い手紙についてきちんと触れてくれていて、さらにはそれを私らしい手紙で嬉しいと言ってくれていた。
私も自分の文章がかなり長いのは知っている。
うまくまとめられないし、順番に話さないと相手には伝わらないような気がしていて、それで気付くと長くなる。
読み手によっては、だらだらと長い文章で読んでて疲れるとなってもおかしくない。
その時書いていた手紙は、さらに一層その可能性が高く、余計と心配になった。
心配したところで書き続けて渡そうとしていたわけだから、全くもって余計な心配なのはわかっていたけれど、それでも誰かに本当に大丈夫かを聞きたかった。
大丈夫と言って欲しかった。
すーさんがそんな風に手紙で言ってくれてたことは、頭の記憶からはすっぽりと抜け落ちていたけれど、潜在意識の深いところでの記憶にはしっかりと残っていたんだと思う。
だからすーさんに私は聞いたんだろうなぁと思った。
実際に封筒に入れた時、自分でも「分厚い。分厚すぎる」と思った。
何が入ったらそんな厚さになるんだろう?と疑問に思うほどの厚さだった。
その厚さといい内容といい怒りや不快感をもたらしませんように、と願った。
そして最悪嫌なら嫌で相手は捨てるだろう、と予想してそれでようやく自分の中でももうどうにでもなれ位な感じで手紙を渡した。
すーさんみたいに喜んでくれてたら嬉しいけれど、それとは真逆のような気がしてならなかった。
私は手紙のことは渡して以来触れていないし、相手も何も一言も言ってこなかった。
何も言ってこなかったけれど、代わりに渡さない方が良かったのかもしれないと思った瞬間はいくつかあった。
真相は今も知らない。
相手の人がものすごく勇気を出して実はこうだったんだよと教えてくれない限り、私は一生知ることもない。
1つだけ、私がその手紙を書く時にとても参考にしたヒントがあったから、それを紹介したい。
相手が自分には価値がないと思ったり落ち込んだりした時に、そういえば自分は過去にそういう手紙をもらった、自分を良いと思ってくれた人がいたとどこかで自分を肯定できる材料に少しでもなれるのなら…、そういうつもりで言葉を紡ぐとすればその言葉を紡ぐ行為にも勇気が生まれるだろう、そんな内容だった。
大層な言葉は紡げなかったけれど、少なくとも私は祈りをこめて書いた。
あれから数ヶ月経った今も、あの時の手紙が本当に良かったのかどうかというのはわからない。
私目線で言えば、もうあれがベストだったし、あれ以上もあれ以下もなかった。
私が言うベストは、「自分が後悔しない」という意味でベストだった。
あの手紙を通じて伝えたことは、自分の心の奥底から出てきたものばかりだった。
最後は必ず死ぬことになっている以上、そういうものを伝えずに人生を生きるのは多分私の人生の美学に反することだったんだと思う。
その手紙が不快感とかをもたらすものだったとしても、それは相手の受け取り方だから私にはどうすることもできない。
そうであっても、私は自分の行為は自分にとっては良かったと思っている。
そしてその手紙に陰ながら協力してくれたすーさんの存在や、過去にすーさんと交わした手紙、そういうもの全部が実は私の人生にとって大切なものだということにもたくさん気付かせてもらった。
それこそすーさんが伝えてくれたことは、そういう私を私らしいと言ってくれて、そしてそれでいいんだということを教えてくれた。
0 件のコメント:
コメントを投稿