年末から次の3連休まで2歳の姪っ子メイ(仮名)と過ごす関係上、書き物の時間を意図的に取っていない。
書くことはいつでもできると言ったら変だけど(←普段はそうではないし、書くために私は平気で「用事がある」と言って人との約束を延期したり断ったりする)、メイとの時間は今しかない。
いくらエンドレス同じ会話でぐったりしても(「メイちゃんを食べたいな〜」と声を変えてぬいぐるみに扮してメイを食べる真似をすることとか)、いくら「かぁぃだん」と連呼されて階段をただひたすらメイの速さに合わせて往復するでも、やっぱりそれは今しかないから今それをする。
書きたいことはとりあえず箇条書きで携帯メモに残した。
いつかのタイミングで書いたらいい。
でも今布団の中でぬくぬくしながら、やっぱり書きたいのは書きたくて、だから普段なら選ばないスマホでひたすら文章を打つ方法でこうして書いている。
書きたいことの1つ、この書くことをものすごく刺激してくれた最初の人とのことを今日は綴りたい。
田口ランディさんという女性の作家さんがいる。
たった一度だけお会いしたことがある。
ランディさんに会った日は今でも忘れられない。
細かな成り行きは忘れたけれど、私は20代の頃ランディさんのエッセイに初めて出逢った。
もう長いこと読んでないけれど、今読んでも多分好きだと思う。
独特の感性に独特の世界観は、私をものすごく魅了した。
ランディさんが見ている世界観は、冷たさも優しさも愛も憎しみも、人間が持っている全部が全部嘘偽りなくありのまま入っている。
エッセイの中に、オウム真理教の人たちが地下鉄サリン事件を起こした時(だったと思う)、連日報道陣が教団の建物の前に詰めかけていて、その様子を教団の建物側から見ている人たちからインタビューを取った人の話が出てきたように記憶しているけれど、私はその物の見方に度肝を抜かれた。
その文を読むまで、要は私に見えてた世界は報道陣が映す映像だけで、その映されてる側の人たちが見ている世界が存在するなんて、その時まで考えたこともなかった。
考えてみたら、両方の世界が同時に等しく存在しているのは当たり前でも、普段自分が見ている世界からしか世界を見ていないわけで、それ以外にも色んな視点や生き方があるなんてことは頭の中からすっぽりと抜け落ちてる。
すんごいマニアックな切り口だけれど、当時がむしゃらに突き進んで自ら気を病んでしまった私にとっては、その自分には見えてない視点たちにどれだけ助けられたかわからない。
最初で最後と信じたいけれど、私はその当時一度だけ精神科を人生で初めて受診した。
うつと診断され、それから干支が一周以上の年月が経過したけれど、私は薬も飲まず回復し、さらには自分の内面を見ていくスーパーツールじゃないけれど、そういう手法も習って実践して、今では相当メンタル強い部類の人で←他人からの評価、自分でも大丈夫と思ってる。
話がそれるけど、落ち込まなくなったり沈んだりしなくなったんじゃなくて、そういう自分とも付き合えるようになった、そういう自分もいて当たり前と思うようになった、それが回復できた最大の起点だったと思ってる。
とにかく、そのような時に出逢ったのがランディさんのエッセイだった。
それからしばらくして、私はランディさんが新潟に朗読会で来ることを知り、実際にその会に足を運んだ。
私はその時朗読された本を今でも持っているし何回かは読んだけれど、実はその物語は何回読んでもしっくり来ず当然理解もおぼつかない。
だけれど、あの日ランディさんが壇上から呼びかけた言葉だけはものすごく鮮明に覚えてる。
会の最後にランディさんはこんなようなことを言っていた。
「表現することは何も私だけが特別にすることじゃない。
今日ここに来ている誰にでもあるもので、次はあなたの番ですよ!」
そんな感じの呼びかけだった。
言葉にしてみると、その言葉のどこにそんな強さがあったのかと思うけれど、私はその言葉を聞いた時に、本当に今すぐにでもそこに立って何かを言いたい強烈な衝動に駆られたし、そして迷わず「書くことが私の場合の手段」だと確信した。
その日はランディさんの朗読会がメインではなく、色んな表現者の発表も見た。
だから表現の在り方は十人十色だったし、むしろ舞台的要素が濃くて「書くこと」をとっさに手段として挙げられるようなプログラムは1つもなかった。
なのに私は「書く」と思ったし、そして人前に立って話したいと言うよりも自分の気持ちを思ったことをそのまま表現したい、そんな気持ちを強く強く持った。
これを残したいと思ったことには理由があることが今書いていてわかった。
ここ1ヶ月ほど私は自分の書いたブログを読み返してる。
最初の意図は、全然私のことを知らない人が私のブログを読むとどんな風に見えるんだろう?…と思って、それで何を書いてきたかも忘れた今、何年も前のことを読み返したら、見知らぬ人になったつもりで読めるかなという、ちょっと変な理由で読み出した。
でも読んでるうちにそんなことはどうでもよくなって、その代わりに色んなことを思い出すようになった。
年明けからは、書いてることに限らず、時々ものすごく鮮明に過去のある場面が浮かび上がってくる。
それも何でそんなことを今思い出すんだろう?と疑問に思うことの方が多い。
だけれど、今はおそらくその思い出すことたちは何かしらのヒントを持って私の前にもう一度現れてるような気がしている。
ランディさんのエッセイは、多分今から15年ほど前に初めて読んで、そして生ランディさんに会ったのは12,3年前だと思う。
そんな前のことでもあの衝動は今でも忘れられないし、本当に何だかんだと書くことが絶えず日々の暮らしの中に入っている。
あの時に思ったことは、ある意味現実化している。
相変わらず秋から引き続き自分の人生の棚卸しをしているけれど、今ものすごく面白い法則みたいなのを発見している。
多分間違いないことの1つに、私の人生そのものはとにかく両極端を体験することが含まれている。
オール1の世界とオール5の世界とか、その国でトップ10%の超金持ちと反対の最下層10%の超貧乏とか、本当にそういう真逆の世界を色んな場面で見ることになっている。
そういうことと、書くこと表現することと、人生そのものと、それらがどんな風に1つの線になるのかはまだわからない。
だけど、確実にそれらが今後繋がっていくだろうことは確信している。
だから、今回みたいにランディさんのことを思い出したら、それが何かなんて今はわからなくていいから、とりあえず書き記して残しておこうと思った。
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