私はどうしてあの時そんな風に突然思ったのか、その理由も根拠も何も説明できない。
だけど、あの時たしかにそう思った自分の気持ちだけはよく覚えている。
私は何度も通ったある町の近くを運転していた。
昼下がりで、暑くもなく寒くもない季節、春か秋だったと思う。
本当に突然、
「50歳になる頃、私はこの人の隣りにはいないし、この人は私の隣りにいないだろう」とふと思った。
決してその時すぐに別れようとかそういう風に考えていたわけじゃない。
むしろそんなこと1ミリも考えていなかった頃だったと思う。
そう自分で勝手に思ったくせに、それが悲しくて私は1人でぼろぼろと泣いた。
それからどれだけ経ったことだろう。
少なくとも1年以上、下手したら3年経過したかもしれない。
あの時の予感は予感じゃなく、現実になった。
そして今振り返ってみても、やっぱりあの予感は絶対的な答えを私に伝えていた、心の奥底の声だったんじゃないかと思う。
~ワインレッドの車~
田園風景を毎日のように滑走した。
夏の太陽に穂はまっすぐ上を向いて青々としていた。
浅いプールが合言葉で、その季節にぴったりのBGMだった。
当時の私は「一緒に生きていく」とか「一緒に年を重ねていく」というのが唯一無二の願いだった。
願いが叶わないと知りそしてそれを受け入れるまで私はいくつの夏を越えたか知らない。
2017年今年の夏。
初めて真夏のひまわりをとても静かな気持ちで眺めることができた。
ちょうど立ち寄った池袋駅の目の前で凛として咲いていたひまわりを、わざわざ近くにまで寄って写真撮影までしてきた。
その撮影会は、私の中での「終わりは次の始まり」というものを告げるようなタイミングだった。
~ピンクの車~
夕空を眺めることが日課のようになっていた夏だった。
夕焼けを見るためだけに、仕事終わりにあちこちの夕空スポットを探し回った。
車を運転しながら突然思った。
「その人が年を取っていく、その変化を隣りでずっと見ていたい」
年を取れば当然色んなものは衰えていくし、容姿について言えば見苦しさやみにくさも増す。
‘aging’というだけあって、年を取ることは日々進行形で誰にも止められない。
年を重ねれば重ねるほど生き様が表情や顔に出るし、それでも美しい人カッコイイ人はそのままかもっと良くなることも知っている。
だけどそんなきれいな部分じゃなくて、本当にしわが増えたとか白髪が目立ってきたとか、そういうものも全部ひっくるめての変化をただただ隣りで見ていたい、そんな気持ちを人生で初めて持った。
一緒に生きていたいとかいう気持ちとはまたひと味もふた味も違っていた。
それは自分が年齢を重ねたからそう思うのか、その人だからそう思うのか区別がつかなかった。
だけど、どちらにしてもそう思っている自分がいるというのは本当だった。
最初で最後の手紙であれば、それをもっとまっすぐに伝えても良かったのかもしれない。
十分に変すぎた手紙を前に、私はかなり言葉を選んだと思う。
私が知りたいものが、好きな食べ物や嫌いな食べ物、日常なにげなくやってしまう癖、こだわりやヘンテコな習慣、外向けの顔と身内に見せる顔、素になった時のしゃべり方とか、とにかくその人を形作っているすべてのもの、そういうことを知りたかった。
「価値観」というカッコイイ言葉の裏側には、そういうものが含まれていた。
だけど、そうとは言えない自分がいた。
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