友達が行きたいと言っていた道の駅に途中寄って、大根を買った。
次の日、大根を干すために透明のビニール袋に入っている大根約10本を取り出し、数日前の新聞を広げた。
大根たちは2人の生産者の名前がシールに貼られていた。
そのうちの1人が「○○花子」さんだった。
新聞を適当なところで2つに分けて、大きく広げた。
手前側から大根を置こうと思って、新聞に目を落とした。
下の広告欄にはその新聞社と何かの協定を結んでいるお店や企業が一覧になっていた。
何てことない、ぱっと目に飛び込んできた真ん中の文字を見てびっくりした。
「○○屋」
手前の新聞がいっぱいになって、もう半分の奥の新聞の方に残りの大根を置こうと自分の体ごと動いた。
私はスポーツ欄のところで丁度2つに新聞を分けていた。
もちろんそんなのたまたまだ。
なんとなく半分と思って分けたら、そこがスポーツ欄だっただけ。
スポーツ欄にはいくつか見出しがあるけれど、その中で出てきた大きな見出し。
「司令塔 ○○」
私はひっくり返りそうになった。
○○花子(花子は仮名)
○○屋
司令塔 ○○
○○には全て同じ名前が入る。
漢字も同じ。
たまたまにしては出来過ぎでしょ?と思うぐらいの重なり具合だった。
久しぶりのサインのお出ましだった。
もう1つ付け足すと。
その前日の山里深い場所からの帰り道。
途中途中に集落があって、集落へ入る道ごとにその集落名なのか町名なのかが表示された大きな青い看板が出ていた。
私が運転していたからそんなのいちいち見ていなかったけれど、一度だけぱっと目に入った看板が「○○」だった。
それは日が暮れてしまう少し前の、まだギリギリ肉眼で看板の文字が読めるぐらいの空の暗さ具合だった。
こんなのをいちいちキャッチしてそこに意味を与えているのは私だけかもしれない。
でもどう考えてもおかしな確率で起こっているサインの連続に、いくら自分が「気のせい」と思っても気のせいとして片付けるにはかなり無理がある。
2回ほど、私はそんなにも同じ名前ばかりを目にするのはおかしいと思い、それこそ適当に手に取った新聞のすみからすみまでその名前を探すということをした。
うぶごえやおくやみの欄まで見た。
2回とも、探し出したらその名前なんか全くどこにもなかった。
だから、そういうおかしいけれどおかしいぐらいに同じ文字列が一瞬にして並ぶなんていうのは、はっきり言って天文学的数字の確率でしか起こらない。
○○に入る名前と同じ名前の人は、もう同じ空間にはいなくなった。
人間の心理とか思考回路って変だなと思う。
同じ空間にいても全く何も響いてこない人がいる。
下手したらそこにいたことさえ気付かず、私はふと自分が周りを見渡してそういう人たちがいつの間にかそこにいた、なんていうことも日常的にざらにある。
仕事中はそれが特に顕著で、反対にいなくなっても気付かず、他の人たちに「××さん知らない?」と聞かれて初めて私もその人がいないことに気付くなんていうことも多々ある。
そういうタイプの人たちがいるかたわら、同じ空間にいなくてもなぜかずっと心に残る人もいる。
同じ空間にいなくなれば、私の怪しげな記憶力からするりと抜けて消えていくんじゃないかと思ったりもした。
時間が経てば経つほどそうなるのが普通だと思う。
だけど○○という人物は違った。
異常なほど存在感に幅をきかせている。
こちらがお願いしなくてもすごい存在感で脳内に迫ってくる。
そしてそういうよくわからないサインが時々やってくる。
おととい、ばばちゃん(母方の祖母)の命日だった。
ばばちゃんが亡くなってなんと今年で10年になる。
さすがにばばちゃんを毎日思い出すことはないけれど、この10年の中でばばちゃんを思い出した回数は、今日常的に顔を合わせる仕事の人たちより圧倒的に多い。
10年経ったという感覚もない。
気付いたら10年も経っていて今びっくりしている。
ばばちゃんにこそ本当にもう会えないけれど、それでもばばちゃんはずっと私の中にいるし、それは私がばばちゃんの年になったぐらいでも変わらないように思う。
○○さんとばばちゃんは全く違う人間だけれど、似ているところは目の前にいなくても私の中にいる人たちということじゃないかと思う。
○○さんの場所を特別に用意したわけじゃないけれど気付いたらいた。
ようやくそういう状態にも慣れてきたし、今は無理に追い出したり存在をかき消すんじゃなくて、そのままをありのままとして受け止めている(つもり)。
~relative story~
予感
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