2017年11月26日日曜日

氏名に繋がる本との出会い

11月23日(祝・木)

朝から夜遅くまで友達とおしゃべりした後、まっすぐ家に帰ればいいものの、なんとなく「ツタヤに寄ろう」というのがあった。

21時を回ろうとしていて、翌日は普通に仕事。

友達の家から少しすると、2~3km置きにツタヤが3軒ある。

その中の一番友達の家から近いツタヤが、その「なんとなく」のツタヤの気分だった。

そこのツタヤは滅多に行かないから店内の並びもよく知らないし、そして雰囲気も品揃えも好きじゃない。

だから友達の家からいくら近くてもそのツタヤという選択は普段なら絶対にない。

だけどその時だけは、なんとなくの気分でそのツタヤにふらりと寄った。

 

夜も遅いからもうささっと見て終わる予定だった。

たしかにささっという感じで、私は2か所だけ巡った。

1か所目は、トイレを出てすぐのところに占い棚があって、面白いものないかなとちょっと目をやったに過ぎなかった。

もう1か所は通常の書籍のコーナーのところにさっと行っただけだった。

そこで私は度肝を抜かれた。

似たようなタイトルの本が2冊並んでいた。

近くに寄って手に取ると、まさにその本だということを確信した。

私の中では、人生で一番びっくりした本との出会いだった。

 

時計の針を過去に戻す。

この間、自分の「史子」という名前に関して、自分が普段やっていることがそっくりそのまま体現されている、という事実に初めて気付いた。

名前を体現しているのか名前が体現しているのかはおいといて、とにかく字のごとくのような日々をずっと積み重ねていることに気付いた。

そこで私は自分の名前について、もっと知りたくなった。

名付け親や両親が込めた想いとかじゃなくて、文字そのものにどんな意味合いがあるのかやそれが人生にどう意味や影響を与えているのかを知りたくなった。

そこでまた得意のネット検索をして、その検索をしている時に日本語の音について色々教えてくれているサイトに行き着いた。

内容が高度すぎてほとんどわからなかったものの、それを端的にまとめたものに私はえらく興味を引かれた。

真夜中に目が覚めてしまったある夜に、それで自分の名前を当てはめて自分なりに解釈しようと試みたぐらいに、熱心にその情報を読み込んだ。

ちなみにその情報は初めて目にするもので、過去に一度たりとも知ったことのない概念だった。

しかもその時までただの一度も聞いたことのないひらがなの解釈方法で、今思ってもどうしてそのサイトに行き着けたのか不思議でたまらない。 

その文字についての専門書2冊を私はそのふらりと入った夜のツタヤで見つけたその偶然たるや半端ない。

これまで本の存在を先に知っていてその本を書店で見かけることはいくらでもあった。

でも反対に、ネットで調べ物をしていてその時たまたま行き着いた超マニアックな知識を先に得て、そしてその知識について書かれた本に書店で出会うということはこれまで一度もなかった。


そしてその時まで、私は本が出ていることさえ知らずにいた。

というより、本を買ってまで読みたいというものではなかったから、だけどもう少し時間のある時にゆっくりと検索して知識を補って、そして最初の自分の目的である自分の名前を知る手がかりが欲しかっただけだった。

そんなこんなの経過をたどっていた矢先に、その超マニアックな本が田舎のツタヤにドンと登場したのだから、腰を抜かすほどの驚きようだった。

その偶然にうれしくなって買いたいなとは思ったけれど、「気の迷いかもしれないし、いかんせん1冊1600円+税(←私の中で本1冊が1500円を超えると「高額」に該当。だから相当必要に迫られない限り買わない)。今、夜遅くて、頭もしっかり回ってるわけではないから、今日はやめておこう」と思い、とりあえず店をあとにした。

 

11月24日(金)

テンションだだ下がりな天気だった。

「暴風雨+みぞれ+あられ+雷」という冬型低気圧の4拍子揃った夕方を迎えた。

金曜日仕事終わりで、気持ちだけは大きく解放されていた。

やっぱり前の日の夜のあの本が気になって、買うことを前提にもう一度ツタヤに行くことにした。

今度は友達の家とは逆方向から向かうから、例の店をA店とすると、C店→B店→A店の順にツタヤがある。

私はふとB店やC店で置いているのかどうかを知りたくなった。

天気が最高に悪い中、私は車を走らせた。

まずは一番のお気に入りのC店。

なんと2冊のうち1冊だけ置いていた。

しかも表紙が見えるように飾られている棚のところにあった。

こんなマニアックな本、背表紙じゃなくて表紙を全面に出して売り出すんだということに驚いた。

ただ、私が欲しいのはそちらではなく最初に刊行された方のもう1冊の基礎編的な方だった。

車に戻り、次はB店を目指した。

B店はどちらも置いていなかった。

それだけわかると、次は車で5分程のA店を目指した。

その時私は大きな国道の高架下にいた。

私も国道に出るつもりでその高架下の道を走っていた。

相変わらず風に吹かれながら雨が車のフロントガラスを叩いていたけれど、高架の上を見ると「月!?」と思しきものがあった。

雷も時々鳴っているし光っている。

最初は街灯かなとも思った。

高架上の国道に出た。

本当に三日月が出ていた。

人生で一度も見たことがない「三日月+雨+雷」なんていう組み合わせが目の前で繰り広げられていた。

それで私はその本を買うことになることを9割確信した。

「こんなおかしな組み合わせのありえない天気=この本を買うという目的がなければ決して通ることもない道で見れなかった光景=私に必要な本」だということを教えてくれている、そう私は解釈した。

再度国道を降りてツタヤA店を目指そうと右折した後だった。

そこでも度肝を抜かれた。

私の前を走っていた車は、ある人が乗っている車と同じ車種で同じ色だった。

車に全く詳しくないからその車がどの程度販売されているのか知らないけれど、私はその人の車と知るまでそんな車が世の中にあることさえ知らなかった車種だった。

実際にその車とすれ違うことなんかほとんどない。

だから、そんなおかしな天気にプラスしてその車がすぐ目の前に登場したことで、私の中でその本を買うことが100%確定した未来に変わった。

 


予定通り本を買った。

そして本を買って外に出たら三日月はおぼろ月みたいに霞みだし、そしてその数分後にはきれいさっぱり月は姿を消した。

残るは暴風雨+雷だけだった。

本を買うその前後10数分だけ出ていた月、それこそまぼろしみたいな月だった。

 

その夜から少しずつ本を読み始めた。

店頭ではぱらっとめくっただけ、ネットで見た音の一覧表みたいなのを少し丁寧に見ただけにすぎず、実際はどんな内容か知らずに買ってきた。

そこでも私はぶったまげた。

本の目次を見た時に、ふと気になる小見出しがあった。

それはひらがなをあれこれ並べた歌についての話だった。

もしかして、その歌は自分の携帯の音声記録で撮ったものと同じじゃないかと思った。

さかのぼること2016年の4月。

岐阜県と愛知県の県境に近い一宮市というところで、当時とてもお世話になっている女性に誘われて、私はある心理学系の勉強会に行った。

その時に参加されていた1人の人が歌手で、彼女が紹介していたひらがな遊びのような歌が1つあった。

その後どうなったのかなんて知らないけれど、NHK教育の『みんなのうた』で歌う歌わないを決めている渦中の歌だということだけは覚えている。

彼女がホワイトボードに歌詞のひらがなを書き出し、全く意味不明のひらがなの語順の歌を彼女に合わせてその場でみんなで歌った。

人を元気にする歌だから、ということで私はその時にほとんど使ったことのないiPhoneの音声記録機能を何とか使ってその場で撮ってきた。

まさかと思って私は夜な夜なその音声を再生した。

本にあった歌詞とどんぴしゃではまった。

 

それだけじゃなかった。

ここ3~4年、年間5冊本を買うか買わないかの生活に切り替わった私は、本当に滅多なことで本を買わなくなった。

100~200冊程の本を2~3年かけて断捨離した時に、もう本は立ち読みか図書館で借りて読もうと決めた。

繰り返し読む本は本当に片手で数えるぐらいしかないのだから、買ってまた手放す、という行為が面倒になった。

だから余程必要に迫られない限り買わなくなった。

今回も、おそらく2017年になって4冊目の本だと思う。

滅多に買わないがゆえ、手元にきた本がいつ発売されたものか1つ前に買った本から見るようになった。

今のタイミングで出会うべくして出会った本かどうかを知りたかったから。

第1刷が2015年の9月だった。

そして今手元にある本は第6刷で2017年の6月だった。

驚いた。

初刷は私が人生で一番大きな契約を交わした直後だった。

まさにそこから人生の流れがさらに妙な方向に大きく動き出した時期だった。

そして手元の第6刷の日というのは、今年最大の出来事が起こった翌日だった。

買う直前に目の前を走っていた車とも繋がった。
その今年最大の出来事に登場してくる人物の車だった。

本の中で最初に著者がこの本を書くに至った経緯を少し説明していたけれど、その中でその方が2015年の秋に完成するようにしか書けなかったことが書かれていた。

著者のタイミング然り、私のタイミング然り、この今のタイミングで出会ったことに私にはとても大きな意味があったと感じている。

ちなみに現時点で50ページほど読み進めてはっきりとわかったことの1つは、もし店頭で見ただけだったら絶対に買わなかったこと。

本当にマニアックな内容で、もし店頭で仮に手にしたとしても絶対に「意味不明」と思ってすぐに棚に戻しただろうことは想像できる。

もっと言えば、タイトルに1ミリも惹かれる言葉がないし、その概念の名称自体今回初めて知るぐらいの馴染みのなさだから、まず手にすら取らない。

今回は、ひょんなことからネットでたまたまその情報に行き着いて、それでその本を見たからすぐに「あの内容だ!」ということがわかった。

そしてまだ調べ途中の自分の名前のことがあったから、だから貪欲にその情報を読み解こうとする自分がいた。

自分の名前が何なのか疑問に抱いた今のタイミングだからこそ、この本を手に取ったということがよくわかった。

 

11月25日(土)

今目の前にその本がある。

私が見つけてからまだ48時間経っておらず、買ってから24時間経っていないというのが不思議な感じだ。

もっともっと時間が経過したかのような感覚がある。

そもそものサイトにネットで行き着いたのは1週間前。

しかも私はその情報を探したんじゃなくて、適当に検索ワードを入れて検索かけて、それで出てきた無数のサイトの中にそのサイトが出てきたという具合だった。

本当に内容が難しいから、私は私にもまだ理解できそうな簡易版の情報しか見なかった。

何という言葉で検索したかも忘れたし、少なくとも検索ワードからは導き出せない用語だった。

さらに、無数にヒットしたサイトでその超マニアックな情報を伝えているサイトは、その1つしかなかった。

聞いたこともないから、とりあえず興味本位で開いただけに過ぎなかった。

そんな感じの小さな偶然がいくつも重なって行き着いた情報だった。

だからまさかそれについて書かれている本と出会うなんて思ってもいなかった。

しかも、2冊とも新刊本じゃない。

1冊目は2015年9月、2冊目は2017年3月に初刷になっている。

なのにどうしてそんな本が田舎のツタヤに2冊も並んで売られていたのか、不思議で仕方なかった。

しかもそんな本、あの限られた書籍コーナーに置くためによくぞ注文をかけようと注文担当者も思ったなぁとびっくりする。

もっと一般受けする本が他にもあるのに、いやむしろもっと他の本の方が絶対的な読者がいるだろうに、何で?と思う。

注文者の意図なんて知らないけれど、とにかく無事に私のところにやってきたのはまちがいない。

とにかく今は自分の元に集まってきた情報たちを1つ1つ紐解いていくこと、そこに集中していこうと思っている。


11月26日(日)追記

この偶然具合をさらに検証ではないけれど、ついでに行く用事があったから、市内のもう1店舗別のツタヤD店へ行ってみた。

D店にもなかった。

2冊のうち1冊は在庫ありと検索機にはあったけれど、私は見つけられなかった。

あの友達の家からの帰り道の「なんとなくツタヤA店…」の気分、本が私に「ここにいるよ」とでも言ってきたのかと思うほどのすごい偶然だった。

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