2020年1月10日金曜日

睦び月の候の徒然〜寒の入りの頃〜





最近の徒然。

とにかく体調不良続行中で、酷い咳が出まくっている。

鼻詰まりになって耳が聞こえないみたいな、プールに入って耳の中に水が入るみたいな感覚が数日続いている。

でも鼻は詰まってなくて、ひたすら喉の炎症と咳なのに、そのような現象で、常に頭がボーッとしたみたいになっている。

そうでなくても普段からボーッとしてるのに、そこにさらに拍車がかったボーッみたいな(←えっ!?)。

鼻も詰まってないのに、耳にモヤがかかったみたいな感覚は、生まれて初めて。

だから喉なのに、なぜか大泣きした時の鼻がツーンとする感じももれなくセットである。

この感覚になる時いつも私は、「本当は泣きたいんだろうなぁ」と思う。

今は泣く理由もないから泣かないけれども、いつだったかあまりにも酷い鼻風邪を引いた時に、「これってどういう意味だろう?」と思って調べたら、「泣きたいのに泣けないから、その代わりに体が泣いた状態に近い状態を作る」とあって、妙に納得した。

それ以来、鼻風邪による鼻ツーンな時は、「泣きたいんだなぁ」と思って見ている。

でも今回は喉なのにその鼻ツーン的な、泣き腫らしました的な感覚で、「なになに?私泣きたいの!?」と変な自問自答をしている。

それに加えて、個人的には「今は本気でやめてください」と思うことの1つに、「ナポレオン体質的睡眠」がある。

何かと言うと、いつからか1日3時間くらいしか寝ていない。

こんなに体が弱っていても眠れない。

どの程度続くかは知らないけれども、もしかして今は自己刷新の時期なのかもしれない。

頭のおかしな発言だけど、「霊的成長」と呼ばれるものを体験する時に、私は基本ある種の不眠症みたいな症状を引き起こす。

今は日々英訳に明け暮れているから、霊的成長的な変革感や刷新感、又は違和感みたいなのは感覚として全くないけれども、出ている症状はこれだから、しかも体調不良のくせしてそれだから、なんか色々普通の単なる体調不良ではないんだろうなぁと思っている。

っていうか、そんな妙な感覚の中でよくぞ宇宙語にしか見えない日本語を英訳できるなぁと自画自賛v( ̄∀ ̄)v。

そうだ、どちらかと言えば「体内の毒素を抜きまくる!!!」が一番近いかも。

長年溜め込んできた自分の思考パターンやクヨクヨパターン、はたまた自己犠牲や自己否定、そういう癖みたいなのに気付いていくようなことが続いている。




で、ゴチャゴチャと体の不具合を書いたけれども、それとこの1年の私のテーマを書いてみようと思う。

そもそも、発熱で元日スタートという、そんな年初め生まれて初めてかもみたいなスタートだった今年。

それ見て「自分のこと労ろう」と思ったけれども、多分自分を労わることが何よりも1年間を通じて大きなテーマになっていく気がする。

ただでさえ書き溜めた諸々の下書きがあるからそこまで書くかどうか知らないけれども、正月から週に2本ないし3本ほどのペースで子どもの頃の自分の感覚を思い出す何かが起こっている。

それがきた時は、ひたすら自分の感覚にだけ目を向けて何をどんな風に感じているかを見るしか基本はしていない。

で、やっとやっとここに来て、ここに来てというのは40歳という人生の時計的にはお昼なのか午後の早い時間なのかに到着して、「自分が本当に感じていること」を見ようとしている。

例えば、仕事の話で言うと。

今週は年末仕事納めの日の終わりぐらいにきた英訳依頼からスタートしていて、それがまた「神ってる」としか言いようのないすごい日本語で、どうしたら「走る」という日本語が「測定する」という意味になるのか、大真面目に聞いてみたい、英語力以前の日本語力以前のもっと別の何かが必要みたいな英訳をしている。

1日半費やしてまずは英訳して、その後設計者に大量の質問をしてもう半日費やしてとりあえず完成させて、今は英語ができる技術者に秘密裏に見てもらっている。

ちなみに英語ができる技術者はスーパー良い人で、この方やそれをアレンジしてくれた女上司にはものすごく感謝している。

とかいう一方で、大元の設計男子に質問に行った時のこと。

きちんと対応してくれたし、私を何よりも優先して対応してくれたけれども、その人の席を離れる際、要は質問が終わってその場を離れる際、私は本気のありがとうも言ったし、また何かわからないところがあればよろしくお願いしますとも言って後にした。

なんだけど、設計男子はお願いしますも、あの神ってる日本語についての「わかりにくかったですね、ごめんなさい」的な言葉も、その超わからない日本語を英訳したことに対してのお礼も、何一つ言わなかった。

私はありがとうと言われたいとか、感謝されたいとか思ってるのとは違う。

お金をもらって仕事してるから、当たり前のことをやってるに過ぎないのかもしれない。

なんだけど、何か一言もないその状況に驚いて、何だそれは!?と思った。

で、その状況を例にして、さっきの【「自分が本当に感じていること」を見ようとしている】の意味に照らし合わせて言うと。

とりあえず仕事だし、その仕事が今できるのはこの世で私しかいないから、仕事を投げ出すとかしないし、任された仕事はきちんとやりたいと思っている。

それは社会人的良識を持った私の側の考え。

でもそうした社会的良識とか仕事上の責任感とか大人な常識人とかいうようなことを全て脇に置いて、単なる1人の自分、1人の人間としてこの出来事を見たのなら…。

単純に「協力なんかしてやらない!」ってなる。

ものすごく面白くないし、私をなんだと思っているの?あなたは自分を何様だと思っているの?と思うし、ねぇこれってさ誰かきちんと専門で英語ができる人がいないと完成しない仕事だよね?自分がそこできないから頼むんだよね?だったらせめて一言何か言おうか?と思う。

男むさい職場だし、「ありがとう」なんて言わないザ・男の縦社会バリバリな、体育会系的な、そういうところにいる相手の環境も想像して理解できそうなこともあるけれども、だからと言って何も言わなくてもいいのはやっぱり違うと思う。

そして、そのやりとりを通じて、「私これに対して多少怒っているし、戸惑っている。何も言われなくて悲しいのと、そんなんでやりたくない気持ちもうっすらとある…」とかいう部分がチラホラ見えてきた。

そう、私がこの1年の自分のテーマだと思ったのは、まさにその小さくしか聞こえてこない自分の本音の部分をいかに掬(すく)い上げて救い上げるかだと思っている。

「本当は自分が感じることに正解も不正解も、善し悪しもない」ってことの意味が、最近ようやくわかるようになってきた。

例えばわかりやすいのが「怒り」。

怒りは超大事な感情の1つに挙げられる。

なぜなら、生存本能に直結するものだし、自分の命が危険に晒(さら)されているのに、怒りはダメだから押し殺しますみたいなことしたら、絶対に何かがおかしくなる。

喜怒哀楽と言うくらい、怒りそのものは4大感情に数え上げられるわけだから、本来は喜びや楽しみと同じくらい重要なもののはず。

ところが大人になる過程や大人になって社会という中に身を置く中で、例えばわかりやすいのが「人前で怒るのは良くない」とか、「怒りをあらわにするなんて感情のコントロールができてない証拠」とか、そんなの誰がいつどこで決めたの?と思うようなことが超当たり前に社会の中で、それは家庭という社会の一番小さな集団の単位でもバリバリ発揮されていて、そんなこんなしているうちに「怒りは悪いもの」になぜか格付けされてしまう。

感情の勉強や心理でもスピリチュアルでもガンガンと自分の気持ちを見ることをやりまくって、「怒り」の大切さを知った。

基本的に自分のために本気で怒れるのは自分しかいない。

時々ものすごくラッキーなことに他者が自分のために何かに対して一緒に怒ってくれたり、なんなら私以上に怒ってくれたりすることもあるけれども、あれはいわばオマケのようなもので、本来は自分しか自分のために全力で怒ってくれる要員というのはいない。

だから、怒ること、自分の中から怒りをきちんと引き出してあげるのが大事なんだけど、もう長いこと「他人の前では極力ニコニコ、怒りを他者に向けるなんてのはいけません」というのを頑なに信じてやってきたものだから、そんなにすぐのすぐには自分の癖は抜けない。

その癖になっていて、自分の気持ちが無視されていたり蔑ろ(ないがしろ)にされていたりする部分を本気で見ていこうと思っている。

他人に配慮することや社会の価値観を守ることも大切だけれど、それとは別に自分の気持ちをまずは素直に聞いてあげることの方が今の私には大事なんだと思っている。




少し話が飛ぶけれども。

最初に書いたナポレオン体質的睡眠の話。

スピリチュアルトーク大好きな人から指摘されたことがかつてあった。

その人いわく、霊的に覚醒する時というのは体力をものすごく使うから、異常に眠くなるもの、だからぶっしーのその睡眠時間少ないことはその条件からすると当てはまらないから違うんじゃないかな…、というようなことをやんわりと言われた。

覚醒だの霊的進化だのそんなのはどうでもいいけれども、ただ1つだけはっきりとわかるのは、そうした睡眠時間が1ヶ月以上に渡って1日3時間程度になる時は、私の場合、確実に人生の転換期だったり何か大きな変化を迎えている真っ只中だったりする。

定説から外れようが超例外だろうが関係ない。

私の場合はそうだとしか言いようがない。

もちろん反対に異常に眠くて眠くてたまらない時もある。

体というのは本当に緻密にできていて、私の場合は睡眠がてきめんにその時その時の状況を反映するから、眠れないのも眠り過ぎるのもどちらも多く体験する。

少し前の秋ぐらいだったか忘れたけれども、日長1日家にいるのに、やたらと眠くて、朝起きては寝て、昼も寝て、そして夜もまたグッスリと眠ってみたいな、1日の大半を寝て過ごすみたいな頃もあった。

毎日感心するぐらいに眠っていて、あれもまたあれで何か意味があったと思う。

ホロスコープの情報はかなりたくさん入れたこの2年くらいだけど、反対にスピリチュアル的な世にダダ漏れみたいな情報からは相当遠ざかったと思う。

スピリチュアル、いわゆる精神世界と呼ばれるところの書籍がこの数年で爆発的に増えたけれども、反対にまがいものや商用目的、儲け目的な情報も氾濫しまくっている。

本からは相当離れて、スピ系ブログからも離れて、代わりに「自分はどう感じるか」だけを頼りに見ている。

なぜなら、それが一番自分にとっての正解に近いから。

社会や他人が定めた価値観に乗っても、どうにも身動きが取れなくなる。

だけど、代わりに自分が良いと思ったもの、嫌だと感じたもの、そうした色んな感覚を知っていくのはものすごく面白いし、それは自分にしかわからない。

例えば、さっきの何も言わない設計男子に「なんなんだ!」と私は思ったけれども、相手はそれを何とも思っていないのはわかる。

だからその「なんなんだ!」は私の感覚で私の価値観だとわかる。

その自分の感覚をひたすら拾い上げること。

自分にしかわからない価値観を自分が自分のために大事にすること。

それが何よりも自分のためになるし、自分の感覚を大切に扱うことができる。

社会不適合者になろう!ではなく、とにかく自分の気持ちや感覚に自分を素直に開いていく。

そうする中で社会と不一致な自分も当然出てくると思う。

その時に私は、不一致であっても自分を選べる自分であり続けたい。




とか良い感じで締めようかと思ったけれども…。

嗚呼…、となったことがある。

今年はまたもや私にとっての「カルマの膿出し」超強調イヤーで、年間通じて本当に激しい配置下に自分がいる。

2年前よりもさらに一層濃ゆいカルマの膿出しになるのかな…なんて、天体の数字的位置からは思うけれども、もう出てくるものは仕方ないから、代わりにそれに呑み込まれないように自分をとにかく労りまくろう!と思う。

そろそろ3時。

今日は21時前から布団に入って寝ていて、零時前に目が覚めてこれを書き始めて(時々ネットサーフィンしながら)、そしてこれからまた6時くらいまで3時間ほど眠る予定。

今度から21〜24時、3時〜6時の3時間を2回ずつ睡眠に使って、間の0時〜3時をこうした自由時間に使ってもいいかも。

それなら6時間は眠れるし、さすがに英訳オンパレードな今、真面目に眠れる時に寝ておきたい。




冒頭の写真は、1/9仕事終わって駐車場に向かおうと外に出たら、同じ会社の男子だと思うけれども、空に向かって携帯向けて写真を撮っていて、何を撮ったのか気になって見たら月が出ていて、私も真似て撮ってきた。

月を撮っていたと知って、その男の人超素敵♡と思った(笑)。

しかもたまたま人通りのないところで私が出てきたから相手はバツが悪そうにしていたけれども、その姿も素敵だった(笑)。

実際に彼が立ち去った後見てみると、晴れた日が暮れる前の空には大きな月が出ていて、明後日土曜日がどうやら満月の模様。

しかも月蝕らしい。

その前の月だからなのか、やたらとキレイなお月様だった。

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