迎春2020〜令和2年
お飾りは通り過ぎたホテルの前のもの
この1年、そしてここから先の長い人生の中で自分の軸にしたいものの記録。
「100年先の時代にも引き継がれるもの」
何年か前に名古屋の美術館で見たゴッホ展で一番印象に残ったのは、ゴッホの絵よりもゴッホのことをまとめたDVDのワンシーンだった。
ゴッホは「100年後の人たちが見た時に、絵の中の人がそこにいるような肖像画を描きたい」と、それを念頭において絵を描いていたとのこと。
今も使い続けている木のテーブルは、一枚板でオーダーメイドで作ってもらったものだった。
2010年に一人暮らしを始める時、テーブルだけはこだわった。
自分と共に年月を重ねるもの、そのテーブルの上で思い出を紡いでいきたい、それができる一生モノのテーブルを探した。
そしてオーダーメイドも予算内でいけると知って、唯一無二のもの、世界に1つしかないテーブルが欲しいと思った。
冬が始まる前から手伝い始めたヨシダさんの農業の手法の資料作り。
そこには、人間と自然が地球に在り続ける限り、絶対的に必要とされる自然の循環にまつわる知恵が記されている。
100年ではなく、何百年とこれから先も引き継がれるであろうことが描かれている。
東日本大震災の被災地を何年もずっと訪問している友達がいる。
友達が着眼して絶対の必要性を訴えているものは、これから先、災害対策で間違いなく絶対に取り入れられるものだとわかる。
まだまだその考えが全く受け入れられない異質なものだけれど、それは災害大国日本で、そして少子化が進む日本で、避けては通れない対策で、そして友達が目をつけたところは1人の命だけじゃなくて地域全体を救う事業に間違いなく発展していく。
友達は近い将来、その分野のパイオニアになるかと思う。
12月から行き始めた英訳の仕事。
来月からは本格的に、私が訳す文章が何十年先、100年先の時代にも引き継がれるものの1つや2つには少なくともなるだろうと思われる。
*
2019年最後の週に友人ノムと交わした会話の1つに、「手紙」があった。
英訳の仕事の教育係の人が月末で辞める関係で、私はお礼の手紙を書いた。
その話から私がこれまで仕事で関わってきた何百人という人たちの中の最低でも100人以上、もしかすると200人300人くらいになるかもだけど、それだけの人数の人たちに向けてお礼の手紙を自分が辞める時か相手が辞める時のタイミングで書いて渡している話をした。
そうした時の手紙は統一したテーマがあって、基本的にお礼とは別に相手の強みを言葉にして伝えている。
辞める時だから、そこから何かを得ようとか印象を良くしようとかいうタイプの魂胆は一切ない。
もうそれっきり会っていない人たちの方が圧倒的に多い。
なんだけど、なんとなくそうしたいからそうしている、ということをノムに会話の中で言った。
そうしたらノムはそれに感銘を受けて、早速ノムはそれを自分も実行に移した。
ちょうど12月で終わる個展の店のオーナーさんに、お礼の手紙と共にそのお店の強みを書いて渡したと教えてくれた。
1年前も同じ店で個展を開催していて、その時もお礼状は書いたけれども、お店の強みとかは書かなかったとのこと。
今回は、そのお店がどんな風に素敵でどんな風にそれが強みになっていて、その素敵なところや強みに触れたノムが何を感じたのかを綴ったとノムは言った。
ぶっしーの話があったからこそだとノムは言ってくれた。
これはとっても嬉しい話だった。
手紙の話を何でしたのかは今となっては全く覚えていないけれども、ノムがその話を聞いて良いと思ったことを取り入れてくれたことはめちゃくちゃ嬉しいことだった。
ノムに取り入れて欲しいとかこんな方法が良いと提案したいとかでは一切なく、本当に会話の一部だった。
そもそもそんな話を私は人にしたこと自体初めてだったけれども、その話がそんな風に誰かに届いてその誰かも同じことをするという流れにとっても感動した。
ノムの話を聞いて、それがいいなと思った。
誰かに何かを教えるのではなく、ただただ私が私の何かを言う中に相手の人がヒントを見つけてくれるってなんて素敵だろうと思った。
*
ずっと受け継がれていくもの、それも儲けとか肩書とかを狙ってするものではなく、本当に本質的にこれ絶対に大事!と感じるものを残していく、そのことをこの2ヶ月くらいで一気に見た私は、そうしたことに心から惹かれた。
今の世の中の流れは、変な順番で成り立っている。
正しくは、成り立っている真似をしているだけで、何かおかしいことをまるでそれが正しいかのように見立てて、その秩序のない中でそれが普通と言わんばかりに存在している。
そういえば、年末に面白いことを知ることになった。
年末に国会議員の人が収賄容疑か詐欺罪かで逮捕された。
カジノの誘致とかと関わってるとかなんとかのやつ。
私はそのことに全く興味もなく、ニュースで見ても気にも留めず流し見していた。
私がその件に関して興味を持ったことは、もっと別のことだった。
その逮捕された国会議員とつるんでいた一般人との関係を暴露された記事をたまたま見た。
記事のタイトルからはそんな内容だとは想像もつかずに読んでみたらそれだった。
その記事の中に、ある団体の名前が出てきた。
国会議員の逮捕と何らかの形で関与していた団体とのことだった。
それ見て本気で驚いた。
その団体について、私はある人から投資話を持ちかけられていてどうしようという相談を2年ぐらい前にされた。
そういうことに詳しい人を知っているから聞くね、と約束したものの、約束の前にその相談されたまさにその時その場で私はペンジュラムに聞いた。
ペンジュラムは有無も言わず、ものすごい勢いでスーパーNOを出してきた。
私は名前しか聞かされてなくて、名前聞いたところで知らないものは知らないから、ふと思い立ってペンジュラムに聞いてみただけだった。
相手は私のペンジュラムに若干半信半疑でいたけれども、私はペンジュラムの異常なほどの強さでスーパーNOを出す様子を普通ではないから気をつけてと伝えた。
その後詳しい人からも怪しい感じがするから気をつけてと言われて、相談者は投資をせずに今に至っている。
そう、あの時早々とどういうわけかペンジュラムは異常を尋常ではない形で察知していて、それがまさかまさかの犯罪絡みの内容だったとは、何年か置いた今頃になって知った。
大晦日の日にインテリ男子とやりとりした際、こんなことを言われてすごく嬉しかった。
「なんだかんだ武士俣さんのやってることは、百年前からやってるテクノロジーに左右されない営みなのかもしれないですね
ある意味デジタル社会の対極にあるアナログ、
それもアナログの最先端みたいな
印象」
『アナログの最先端』という言葉に超ウットリした(笑)。
でもそういうことなのかもしれない。
ペンジュラムの精度は私本人とは全く関係ないところで整えられているように思うけれども、とにかくアナログの最先端と言わんばかりに何年か前に犯罪の臭いを嗅ぎつけて、それで実際にそうだと判明したわけだから、本当に凄い。
私は何も目指してはいないけれども、どういうわけか色んな話を色んな人たちから聞く。
私は世の中の情報にはものすごく疎いし、デジタル全般は壊滅的な苦手度を誇っている。
だけど、話を聞く中で「これ何か変だ」というのはわかる。
反対にすごい突飛なことでも「これはこの後も絶対に残るだろう」ということもなんとなくわかる。
これまではそのセンサーが何基準なのかさっぱりわからなかったけれども、最近少しずつわかるようになってきた。
・純正のお役立ち度
・何十年、百年、何百年と継承される度
・最初の想いの純粋度
この辺りがセンサーの基準になっていると思う。
上の基準の純度が高ければ高いほど、物事はスムーズに運ぶし、聞いてても流れが良い。
反対にそこに訝(いぶか)しいものが混ざっていればいるほど、こちらにはその違和感が伝わってくる。
お役立ち度は、儲けや肩書は一切関与しない視点で測定されるから、一歩間違えると「それやって何になるの?」とかいうことを平気で口にする世の中の人たちがいる。
儲けや肩書は生まなくても、もっと色んな人たちの命や生活そのものを良いものにする要素がはっきりと含まれている。
先々に引き継がれることは、話を聞いてピンとくる。
なぜなら、人間や社会、自然にとって良いものだとわかるから。
いっときのブームや流行ではなく、それが今年でも10年後100年後でも絶対に大切にされるとわかる。
そして最後の「最初の想い」の部分は、いくらその後に似た活動をする人が現れても敵わないと思う。
最初の想いは、本人が1喋れば100のことが伝わる。
しかも、本気の人たちはカンペなしでベラベラと喋る。
あったことや思っていることを、まるで今この瞬間に目の前で見ながら話しているかのように、悠然とそして詳細に話をしている。
ちなみに、純度が高くても、何十年何百年というコースのものは、今日言って明日完成とはならない。
時間も実現したり継承されたりするまで莫大にかかる場合もあるから、そこは気長に目の前の一作業をやってコツコツ貯めていくしかない。
そうなんだけど、そういう芯の通ったものなら必要なものはきちんと集まるの法則になっている。
気が遠くなりそうなほど必要なものは数多とあっても、1つまた1つと必要なものたちは必要な人たちに届くようになっている。
そして、そういう人たちはその手間暇を惜しまない。
ものすごく面倒で煩雑でも、それら抜きに物事は進められないから、そうしたものを1つ1つ形にするために労力と時間をしっかりと正しく使っている。
*
こんなことを書いていたら、「正解!」と言わんばかりにヨシダさんから元日早々電話が来た。
ヨシダさんは新年の挨拶を口にした後、去年はものすごく楽しかった、本当に楽しかったと言った。
私と飲む時間が楽しいというのもあるかもしれないけれども、本当に楽しいのはヨシダさんが残りの人生で取り組むテーマが始動したことだと私は思っている。
ヨシダさんのプロジェクトは、これからもう一度日の目を浴びることになると思う。
そして死ぬその時まで全力で取り組むものになるかと思う。
ヨシダさんの資料作りは少し面白い展開を見せている。
1つには、全く関係のない私の友人のノムとミッチー(=ノムの恋人)から知恵をもらえたこと。
資料の印刷に関して、あれこれ色んな印刷をしている2人、特にミッチーから具体的にどういう手段や方法が良いかを教えてもらって、その教えてもらったことをノムが今度はものすごく丁寧にサイト付きで説明を私に送ってくれた。
ノムからはそれ以外にヨシダさんの宣伝方法を独自に伝えてもらっていて、必要ならいつでもノムの先にいる関係者に繋げるよと言ってもらっている。
もう1つは、今の英訳の仕事が関係している。
英訳の仕事は英訳もするけれども、それ以外にWordやPowerPointを使って公式文書の清書をする。
清書業務は私の苦手なパソコン操作満載で毎度発狂しそうになっているけれども、そのおかげで私はヒントを得て、すでに作ったヨシダさんの資料の見た目に美しくない、よろしくないところをきれいに見やすく整えられるようになる予定(←正月終わったら取り組む予定)。
複雑な操作もかなりできるようになりつつあって、まさか新しい仕事がこんな風にヨシダさんの資料に役立てられるとは思わなかった。
正直どうにもできなくて、パソコン得意なシステムとか組める友達に連絡して何とかしようかと思っていた。
それをまさかの場所から方法を取得できることとなって、自分の中では給料もらいながら無料のパソコンスクールに通っているようなものだと思っている。
私の知識や技術なんかはたかが知れてるから、そうやって思いもよらぬ形で解決方法がもたらされるところも、エネルギーの通りの良さや速さを立証している。
*
こうして私は、自分がどういうものに惹かれるのか、知りつつある。
すっごくたくさんの回り道と悩み時間と立ち止まり時間とを通過して、本当に自分がいつか動けるようになるのか不安でたまらなかった。
自信(自分を信じる気持ち)はいつも低空飛行で、あるのかないのかもわからなかったし、どこに向かうでもない自分のことが恐怖でしかない時期も幾つもあった。
今はそういう特殊なことに関わらせてもらえることが嬉しかったり、興味あるなぁとなっている。
またいつ変わるかもわからない。
だけど、自分の中にあるセンサーを信用して、それをするしないを決めていってももう大丈夫なところまで来れたのかもしれない。
自分のことは怪しいけれども、自分以外のことなら基本的に私情がほとんど挟まれないから冷静に見据えることができる。
そして、自分の中で「これは本物だ」とわかるものは、百発百中と言わんばかりに当たる。
100年先の未来に引き継ぐもの。
多分私はそういうものに恋をするように惚れ込んでいくと思う。
今の中で一番長い付き合いなのは自分の木のテーブルで、それは飽きたことがただの一度もない。
自分と巡り合うものが長く続かなくてもいい。
一度でも自分が本気で惚れ込んだものなら、その惚れ込んだものに出会えた奇跡を私は自分の中で大切にしていける。
今年から始まる時間の中で1つでも多くの縁あるものと出会っていけたらいいなぁと思う。
そして欲を言えば、その先に自分が本当に生涯を通じて取り組みたいものと引き合って、それを少しずつ形にできたらいい。
0 件のコメント:
コメントを投稿