「心のクリーニング」
ふと出てきた言葉だった。
実際にその言葉を最初に使ったのは2012年。
あの時はとにかく漠然と「心の中をきれいにデトックスすることが大切」だと感じた。
心の中にいっぱい不安や怒り、恐怖、罪悪感、無価値観とか、そうしたものを抱えていると、そこに膨大なエネルギーが盗られてしまうから、それでまずはそういう感情をうまく吐き出すことが大事だと思った。
理論や理屈はきちんとはわかっていなかったけれど、自分の体験を通じてそう思った。
不安とかプレッシャーを感じると、思うような成果を出せない。
反対にそれらから解放されていると、なんだか知らないけれど、何もしていなくても上手くいく。
だから心のクリーニングは必要だと感じていた。
あれから約6年。
何でそれが大事なのか、はっきりとわかった。
多分その頃から取っているメルマガがある。
コーチングと心理と見えない世界と占星術的な未来予測とを兼ね合わせたプログラムをおそらく組んでいる方で、言葉や内容が好きでそのままズルズルと今も購読したままになっている。
その方のサービスは受けたことないけれど、本は2冊過去に買った(すでに手放した)。
メルマガやブログでプログラムの案内や感想をたくさん見ていたから、なんとなく何を意図してプログラムを組んでいるのかはわかる。
で、今の今、メルマガを久し振りに読んで、世紀の大発見!と言わんばかりのことに気付いた。
メルマガを継続しといて良かった!とつくづく思った。
気付いたのは、自分がいかに心のクリーニングをやりまくってそして今があるのかということ。
その方のメルマガの内容は一貫しているし、数年前も今も基本的に言葉は変わらない。
変わらないにも関わらず、私はその方のブログは心に響く時と読めない時との差がものすごく激しいものだった。
その方はわりかし目標設定も数回に1回はメルマガ内で誘導する。
私はこれが本当に苦手で、例えば「今年自分が目指したい方向は何ですか?」みたいなのに始まり、それに対してのもっと具体的な質問がいくつか続いて、もう私はそういう時は読まずにすごい速さでスクロールして読み飛ばす。
元々目標設定が苦手なのもあるけれど、それにしてもどうしてそんなにも苦手なのか、その理由がわからなかった。
だけど、その明確な理由が今回はっきりとわかった。
これは私の持論で、全員に当てはまるかは知らない。
だけど、私がなぜこれまで苦手意識が強く出て読めず、今回はほぼ同じ質問なのに読めてさらにそこから何か答えを頭の中で逡巡できたのか、その差がはっきりとわかった。
冒頭に書いた、心のクリーニングの成果だった。
ひたすら自分の中のモヤモヤを書いて吐き出したり、心理ワークで何かを自分に施したり、そういうことをずっとずっと長いこと繰り返していた。
別に目標設定ができる体質を目指したのではなく、心に溜まりまくっている色んなネガティブなものたちを自分の外に出すことに専念した。
もしくは、弱りきっている自分や心底嫌だと思っている自分に無理矢理でも寄り添うようにしてみた。
自分に寄り添いたくない理由は色々あったけれども、やってもやらなくても変わらないのであれば、これまでやってこなかった方法を取り入れてやってみよう、そのぐらいの感覚で無理矢理やっていた。
で、その成果が今ここ最近でようやく感じられるようになった。
目標設定系の質問が苦手だった理由は、多分だけど、その言葉を見た時に自分の中で受け入れられていない自分や過去の嫌な思い出が山ほど瞬時に浮かび上がっていたからだと思う。
質問と痛みがセットになっていれば、当然防衛反応が働いてそこを避けようとする。
だから、たとえ質の良い質問であったとしても、そもそも私自身に受け入れる余裕がなければ受け取りきれない。
家に喩えるとわかりやすい。
自分が家だとして、最初は最新の純真無垢な細胞と心で世の中に誕生する。
家も最初は、基本的に真新しい素材できちんと造られる。
ところが時間の経過と共にあちこちガタがくる。
いわゆる経年劣化が訪れる。
心もそうで、経年劣化的に心に傷みが重なってくる。
そんなところに今度は傷みや損傷が激しいから建て直すとなった時に、家であれば一度壊して、地をならして、そしてまた新しい土台を作って建て直す。
まさか古い家を残したまま、新しい支柱を追加で入れても、余計とグラグラしたり、家の耐久性がさらに危ういものになる。
心もそうで、古いものをいっぱい溜め込んだまま、新しい視点や発想は入れたくても入る余地がない。
それらをまずはきれいにしないことには、どんなに良い刺激が外から来ていても、家の中にはもうそれを入れるスペースがない。
私はまさにそこの部分をひたすらやっていたことに気付いた。
完全にきれいとは言えなくても、以前よりはかなりマシな状態になっている。
だから、目標設定系の質問も読めるし、なんならそこから色々考えることも自然にできていて驚いた。
ずっとずっとできないどころか避けていたから、驚いた。
ちなみにこれは一朝一夕にはできない。
本当に目に見えないぐらいに小さな小さな日々の積み重ねが大事になってくる。
1分でいい。
1日24時間あるうちの1分でいい、自分を労わるための時間を作る。
今日も1日頑張ったなぁと自分に対して労うでもいい。
今日あんなことがあってムカついた!と怒るのでもいい。
とにかく何かしら自分の中にある気持ちを1分間大切にする。
そういう積み重ねが確実に自分を良くしていく。
そうすることの繰り返しが心のクリーニングに繋がり、心の中に長いことあったわだかまりや自分を否定する気持ちが和らいでいく。
そこが和らぐと、見えるものが違ってくる。
精神世界の本とかでよくそう言われるけれど、そんなの本当に!?と私は疑いまくっていたけれども、本当にその意味が今は体感としてわかる。
状況はすぐのすぐには変わらない。
けれども、同じ状況下にあっても自分の心持ちが全く違う。
例えば、私が自分の体質的なものを本当に嫌だと感じ、できればやりたくないことはやりたくないし関わらなくて済むのなら関わりたくない、そう思っていた。
でも今は違って来ていて、それを使う必要がある時は使おう、そういう気持ちに変わった。
しかも私はその間、自分の持っている体質的なもので失敗もしている。
失敗というか成果を出すことができなかった。
今までの私ならとっくに辞めてる。
元々やりたくなかったわけで、なんでしなきゃいけないの?と思っていたから。
でも、自分の中の色んな気持ちを見て、他にも周りの人たちからもあれこれ助けられ、そして今は向き合うことに決めた。
だからなのか、目標設定系の質問も読めるようになった。
で、ここで気付いたのは、私に限らず他の人たちも多分似たり寄ったりの理由でそうした質問を苦手としていると思う。
なぜなら質問の前に強烈な傷みや恐怖がやってくるから。
私は本当に淡々と小さな小さなステップしか積めなかったけれども、代わりに小さなステップならどこまでも細分化する才に恵まれているし、実体験を通じた色んな知恵を兼ね備えている。
そして、私が何よりも信じているのは、どの人にも絶対にその人にしかない魅力や才能、生きる道があるということ。
絶対にあると言い切れる。
色々叩かれること覚悟で言うと、犯罪を犯す人も障害を持っている人も普通の枠にはまっているように見える人も、みんなそれぞれ持っている。
犯罪を犯す人は、自分のエネルギーを使う方向性を間違えているのであって、イコール才能も魅力もないではない。
私は数十人の最重度と重度の知的障害者の人たちと知り合う機会があったけれど、1人1人独自の魅力や才能に溢れていた。
それ以外の人たちを「普通の人」とした時、才能や魅力が出てくる出てこないは、待っていればいつか勝手に発芽するというよりも、本人からの働きかけや気付きがあってそれで出てくるように思う。
(あとは、魂的な人生の計画にもよる)
そうした時に大切なのは、私はやっぱりまずは心のクリーニングだと思っている。
そこさえある程度できてくると、ようやくスタート地点に立てるというか、もう少し違った視点で自分の人生を見れる。
目標設定とかよりもまず大切なのは、心の状態を整えること。
中がとっ散らかっていたら、まずは心のクリーニング。
心のクリーニングの第一歩は、自分のために使う時間を1日1分持つことからで十分。
確実にやれることをやる。
目標はいいから、まずは自分に寄り添ってみる。
そこだー!と気付いた今日。
(1月7日の朝早くに書いたもの)
補足(心のぼやき):「障害」という言葉で人を区別する時にすごく気を使う。私には差別的な意図はなくても、受け取り手によってそこは違う可能性がある。
当たり前だけど、私のポイントはそこにはなくて、要はその人の背景や背負っているものが何であっても、各自に魅力も才能もあると言いたいだけ。
ということが伝わるといいなぁと、思う。
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