頭の中でこの1ヶ月の色々な出来事が走馬灯のように駆け巡る。
今途中まで書き上げた記事が1つある。
死者の方の魂とやりとりした時とそれにまつわるストーリーを書いたもの。
当初それを要約できるところは要約して、大切な部分は念入りに書いて、そうやって1つの記事にまとめる予定でいた。
だけど、あまりにもたくさんのストーリーがあり過ぎて、それを1つにまとめて話すことも難しければ、どこかを欠けさせる決断をすることも難しかった。
1つ1つは何ら脈絡のない話、どこにも繋がりがないような話に見えるけれども、それらを1本の糸で繋げると、突然そこには全く別のストーリーが浮かび上がる。
どこが欠けてもいけない内容で、それをどう1つにまとめるかをしばらくは頭の中で練っていた。
でも、私は今日の午後、それを方向転換することに決めた。
1つにまとめずに、シリーズのようにして、それぞれの話を独立させようと。
そして、最後に今書き途中になっているものを総仕上げとして書いて終わりにしようと思った。
インフルエンザも治り東京に戻る妹を駅まで送りに行った。
その帰りに、専門書の品揃えが豊富な大型書店に立ち寄った。
死者の方の魂とやりとりした時(実際には、私は通訳なんてできないし霊感もないから、ヒーラーで霊視ができるOさんを通じてのやりとり)、いくつか見えない世界の人たちの階級のような話が出た。
ご先祖様も守護霊もその他の霊もその差など何一つわからない私には、その階級的な内実をOさんの発する言葉から想像するのはあまりにも難しすぎた。
そこで私はOさんに、そうしたことを体系的に説明してくれてる本とかがあれば教えて欲しいと聞いて、それで教えてもらった本を探しに出かけた。
そうしたものに興味があるというのではなく、私向けにもらった言葉がどういうところから来たものなのか、それがOさんの丁寧な説明だけではあまりに私がわからなさすぎて要領を得ず、それを調べたくて本を聞いた。
そのための本探しだったけれども、この辺りで1番の品揃えの店にも置いておらず、私は代わりに近くにあったオラクルカードの見本を手に取りそれを見た。
いつもなら引いたりパッと解説書を開いたりしてそこからメッセージをもらうけれども、今回は趣向を変えた。
気になった絵がどれなのかを見た。
その絵の解説を解説書で読むやり方に変えた。
ある1枚のカードを手にした。
普通に引いてもそのカードが出ることになっていたカードで、そして同時に私が一番惹かれた絵柄でもあった。
解説書を読むと、細部にこだわることの大切さが説かれていた。
そこに大切なヒントやメッセージがあるから、とにかく細部に目を向けること、今は人生の中でもそういう時期だということが書かれていた。
それを見て心が決まった。
まとめるのではなく、反対に細部をしっかり見ようと。
そしてその細部を言葉にしようと。
この1ヶ月にあった出来事すべては、全体を見るよりも、1つ1つの細部に目を向けてそこから全体のメッセージを導き出す方が確実なこと、それが感覚的にわかった。
事実、その解説を読んだ後から、どんどん具体的なストーリーが思い浮かんで、そのストーリーそれぞれから大切なメッセージが聞こえてくるようだった。
どんどん出てくる様を見て、それらを1つにまとめ上げることが無理だと知った。
まとめるのではなく、今回は細部1つ1つに息を吹きかけて息吹を芽生えさせる、それが正しいあり方のような気がした。
一応言うと、年明けからアップした分についても、すべてその様相になっている。
死者の魂との会話の一部が含まれているものもあれば、それに繋がる話もある。
例えば前回アップした去年9月の機種変完了の話についても、この話に通じている。
(『機種変完了〜2018年9月より』)
通じているも何も、あれがはじまりの合図だったと言っても過言ではない。
そんな風になっている。
この記事をアップする直前に小説家の吉本ばななさんのエッセイを読み始めた。
その一部を引用して紹介したい。
「私は小説を書く。登場人物たちは私の頭の中だけにいる。一行ずつ、こつこつと。削ったり足したり。小説が完成すればその人たちは実在の人物みたいに読者に会いに行く。いつのまにか友だちとして読者の人生に寄り添う。たった一行の積み重ねがそんな現実になる。
手元にあるたった一枚の書類から、一本の電話から、一つの食材から。こつこつと積み重ねることで、いつのまにか大きな何かが生まれている。はじめは小さく頼りなく、こんなこと始めなければよかった、めども立たないし、誰にも気づいてもらえない……そう思うだろう。
でもやがてそれは自分だけがこの世に生み出した壮大な景色になる。これまでこの世になかったものが、自分のこの小さな手によって初めて創られる。
人生に実る果実、それを幸福と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。」
『人生の旅をゆく』(吉本ばなな)
私がこれからシリーズとして書いていくものは、小説ではなく自分自身の体験を書いていく。
だから自らが生み出したストーリーとは違っていて、気付いたらそういう展開になっていたもの。
だけど、その小さなストーリーが誰かの元に会いに行ってくれたら、誰かの元を訪ねてくれたら、それはめちゃくちゃ嬉しいなぁと思った。
本当にこのブログはもはや私の独り言を書くための場所になって、読者の方たちなど丸っと無視して書いている。
時々友達に読んでるよなどと言われると、実はすごく恥ずかしかったりする。
そしてこのブログは公にしていないから、存在すらほとんど知られていない。
ごく一部の人には過去に言ったけれども、もうこの1年半近くは話の中の誰か本人を起用する時以外は誰にも言っていない。
だからそもそも読者なんていないに等しく、このブログにどういうわけか行き着いた人、しかも自力で行き着けた人なんていうのは、それだけで奇跡の果実を手に入れたも同然だと思う。
さっきからこのシリーズの共通したタイトルを探している。
『奇跡の果実』なんていいかもしれない…、グフフ(๑˃̵ᴗ˂̵)などと思っている。
話を戻して、これから書く話たちがどこかの誰かに会いに行ってくれる話。
そういう意図で書くのとは違っても、本当に誰かの元に会いに行ってくれたらとても嬉しい。
誰にも気付いてもらえない、これが何になる?、なんていうことは日常茶飯事によく思う。
このブログこそ究極の無駄で、現実的な何か、例えばお金とか仕事とかそうしたわかりやすいものは何も生み出さない。
本当に私が自己満足で書いていて、さらに書いている時に自分の心がとても満たされるから書く、という生産性だの効率だのが叫ばれる昨今の流れから大きく外れたところで編み出されている。
そうした立ち位置のものであるにも関わらず、それが誰かの元に会いに行ってくれるなんて、本気の奇跡だと思う。
そして、これから書くシリーズ(『奇跡の果実』になると思う)は、私が体験した壮大なストーリーになっている。
これまで世の中に存在さえしていなかったことたちが私の人生に流れ込んできた。
流れ込むよりも雪崩れ込むの方がより感覚としては近い。
本当にすごい強烈な激しさを伴って、私の人生に入り込んできた。
言うなら、なだれのようなイメージ。
だから私が作ったストーリーと言うにはかなり語弊があって、色々予定もしていなかったことが起こりまくったけれども、それでもその景色全体を見ることができるのは私しかいない。
今回だけは、そのなだれのようなストーリーを他の人たちとシェアしたいと思った。
とにかくやさしい。
この世ってやさしくできているんだと私は初めて知った。
あまりにも苦行みたいなことばかりで、人生嫌になった回数は数知れず。
だけど、どんな時も何かに護られて生きているんだと今回ほど実感できたことはない。
別に病気をしたのでもないし、九死に一生を得たのとも違う。
死者の魂とやりとりするなんていう若干特別な出来事があった以外には、私の生活は普段と何ら変わらない。
相変わらず日々のルーティンをこなし、この先どうなるんだろうという先々の不安が時折顔を出し、こうしてブログを書いている。
本当に特別な部分はない。
だけど、私は護られていることを、それは今回の場合、私だけじゃなく色んな関係者それぞれも護られているという部分を目の当たりにしたからこそ、これをシェアしたいと思った。
奇跡の果実シリーズがどういう展開を見せるかはわからない。
当たり前だけど、書きながら私の日常も同時進行する。
その日常に新たなスパイスが加わればそれも書くことになると思う。
どうなるのか今はわからないけれど、その細部に目を向けた今回のストーリーが何か大きなものを私に向けてもたらしてくれることは間違いない。
そして、その細部のストーリーの小さなことたちが1つでも誰かの元へ会いに行ってくれたのなら、本当の本当に嬉しい。
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