初めてその建物の中に足を踏み入れた瞬間、「臭い!」と感じた。
このたった1枚の扉を開けると、突然空気にニオイが付いていた。
階段を上って面談の部屋に通されると、さらにニオイはきつくなった。
男くささのミックスバージョンにタバコのニオイがプラス、すごい空気感を放っていた。
「次の職場はここなんだ…( ̄ཀ ̄;;)、このニオイ慣れるんだろうか?」と頭の中では考え、口では「いつからでも大丈夫です(作り笑顔)」と言っていた。
入ったら入ったで、プラスのことを見つけるのが困難だった。
以下、()内は私側の評価。
・建物の中のニオイ…(ー)
→書いた通り、色んな男の人たちのニオイをミックスさせるとそうなる、というニオイ
(わりかしすぐに慣れた 笑)
・清潔度…(ー)
→掃除は週に1回。基本汚い。雑然としている。至る所に色んなものがある。
(元々きれい好きじゃないから、気にはならなかった)
・不思議度…(ここではマイナスの方がいいのに、これはプラス)
→季節外れのダウンがあったり、訳の分からないフィギュア?動物?の模型たちが廊下の一部に陳列されていたり、色々ツッコミどころ満載だった。
・仕事の内容…(ー)
→コピー機ひとつ、テプラひとつ使い方がわからず、何をするにしてもメモ必須だった。
→資料をコピーしまくってファイリングする際、当然資料の順番を揃える必要があったけれど、その時資料の題名を見ても何を言っているのかさっぱりわからず、冗談抜きで私はブツブツと小さな声で資料のタイトルを1枚1枚読み上げて揃えていた。
たまに、同じ資料名が3枚くらい続く時があったけれど、お願いだから⑴⑵とかいう風に番号振ってくれ!といつも思っていた。
→事務用品の名前すら知らない人が事務なんてするもんじゃない、と思うぐらいにとにかく要領も覚えも悪すぎて、何をするにも頭の中は常にとっ散らかっていた。
→質問さえも自分が何がわかっていないのかを上手く説明できず、私の教育係の人をしょっちゅう困らせていた。←それに毎回きちんと対応してくれて、この人すごい忍耐強い!と大真面目に思った。
→一日中喋らないというのがすごい苦痛だということに入ってから気付いた。
・挨拶…(ー)
→1日の始まりと終わりについて回る挨拶、たった一言「おはようございます」と「お先に失礼します。お疲れ様です」を言うのにどれだけ毎日気合いが必要なのかと思うぐらいに挨拶しにくい雰囲気だった。
・人間関係…(OK)
→人だけは可も不可もない感じで、私は基本的に誰とも個人的に話す必要もなければ、業務上も必要最小限の会話で済んだから、ある意味距離を置いて付き合えるのが良かった。
・周辺の環境…(ー)
→近くにスーパーとコンビニと農作物の直営販売所以外は何もなく、心躍るような楽しいものは帰り道にもなかった。
とまぁこんな風な職場に私は行っていた。
弁当作りが本当に嫌いで、過去の職場たちは弁当が適当だと何かを言われたりもしたけれど、そこはヨーグルトにグラノーラだろうが、カップラーメンだろうが、誰も何も言わないところがすごく良かった!
ということ以外は、とにかくマイナスが多くて、心がパァーッと輝くようなものは何にもなかった。
とりあえず、3ヶ月後の九州での結婚式を控えての旅行資金作りと、自分の人生をどうするかの決断を先延ばしにするための期間と、その両方の条件を上手い具合にクリアしてくれてるというだけで、そして一応年度いっぱいの契約と聞いて、それで行きますと返事した仕事だった。
「仕事」と超割り切っていたし、そこに求めるものは何もなかったし、仕事も時間内だけきっちりとやれば終わらなくても定時で上がれて、責任も取るようなそういう重たさも一切無くて、だから私の中では単に食べるための仕事、次に人生で動き出す前のとりあえずの仕事という風でしかなかった。
それがある日を境に突然ガラッと変わった。
上に書いたことは何も変わらなかった。
ニオイも雑多な景色も挨拶しにくいのも慣れない事務の仕事も、全ては同じだった。
だけど、たった1人の人が差し出してくれた小さなやさしさは、一瞬で私が住んでいる世界の色を変えた。
目に映るすべてのものが「奇跡」だった。
見慣れた風景になりつつあった職場さえも、色彩が全く違っていた。
世界の色が鮮やかになった。
これは冗談抜きでそうで、目に映る景色の色が輝いたり色が濃くなったりした。
生きていることに猛烈に感謝した。
朝が無事に来ること、その朝を自分も元気に迎えられること、自分の体を職場に移動させて会いたい人に会えること、会いたい人も元気にそこにいてくれること、その1つ1つが奇跡だと思った。
私側は何の意図もしていないどころか、むしろその仕事に決めた時は「とりあえず」感が半端なかったにも関わらず、突然やさしさがそっと渡された。
相手の意図はそうではなくても、私にとってはやさしさや心配りとして映った。
イケメンに興味のかけらもない私は、その人にも興味を持たず、というかあまりにも不慣れな仕事でそれどころではなかったから、その人は景色と化していた。
さらにイケメンに興味がないだけじゃなく、仕事上全く絡みのない人だったから、余計と私の意識の上ではどういう感情も湧いていなかった。
それが、その人が私にしてくれた小さな気遣いのおかげで、突然その人が私の世界にきちんと存在感を持って現れた。
相変わらず不慣れな事務仕事は不慣れなままだったけれども、仕事そっちのけでその人を目で追った。
1分でも1秒でも惜しくて、そして同じ空間の中にいられることがとにかく嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
それは全く予想もしていなかった出来事だった。
乗り越えたりとか耐えたりとかそういうことが人生全体において多めではあったけれども、その中でも30代は闇の中の闇、闇の黄金期と言わんばかりの時間だった。
強制的に人生の再出発を図らないといけなくなった30歳から、私の人生のベースは闇だった。
もちろん楽しいこともあったし、笑ったこともあったけれど、基本のベースは闇だった。
闇のところに時折光がパッと一瞬だけ灯る…、そんな風だった。
一度人生どん底と言わんばかりのところまで落ちた私は、それ以来本当に生きることそのものがしんどくなった。
生きていて何が面白いのかわからず、朝が来ることが憂うつで、夜も夜で「また明日が来ちゃうのか…」とうなだれる、そんな風だった。
大げさに言っているのではなく、本当の本当にそうだった。
時間をうんとかけて、ようやく嫌でも生きていかなきゃいけないから、自分の人生を立て直そうと奮闘した。
その甲斐あってある程度の気持ちの回復は生まれたけれども、でも決して生きていることがしあわせだとか、生きている毎日が楽しいなんていう気持ちにはならなかった。
そして、人を好きになるとか、誰かを大切に想うとか、そういうことこそ本気であきらめた。
そうなるまでに色んな経緯も理由もあったけれど、とにかく触りたくない事柄ばかりで、私はいつしか誰もいなくても普通に生きていけると悟って、このまま年を取るとかいうのもなんだか寂しいとは思わなくもなかったけれども、もう傷を癒すのに何年も何年もかかるぐらいなら何もなくてもいい、誰にも出逢わなくていい、本気でそう思ってた。
というような時間を30歳からカウントすると8年近く過ごしたある日、そうした私の負の遺産的なものをぶち壊して新しい風を吹き込んでくれた人物が人生に登場してくれた。
しかもそれが仕事中に起こった。
人生80年とした時に、約4200万分の時間が与えられる。
その4200万分の中の時間にするとたった1分が、その人が私に向けて差し出してくれた時間だった。
その1分で私の人生は激変した。
変化の細かいところはたくさんあったけれど、一番大きかったのは、さっき言った闇がそれまでの人生のベースだとするなら、その人が私の人生に登場してくれたことで光がベースになった。
生きていることそのものが喜びだなんて、それも毎日毎日がその喜びで満たされるなんて、奇跡なんていう言葉だけでは到底言い表せるものではなかった。
自分が生きていることも、相手が生きていることも、同じ時代に居合わせることも、同じ職場で働くことも、すべてが奇跡だった。
そして完全に心を閉ざした私の心を開いてくれたのは、その人だった。
その人の存在そのものがとても尊かった。
私は30代で何百という回数の心理セラピー的なものを自分でやってみた。
プロにお願いする時もあったけれども、そうではない何百という回数は自分で基本的にやった。
もちろん自分に向き合った分の変化は生まれる。
状態もやればやった分良くなる。
だけど、その人が私の人生に現れてくれたことで、その何百とやった心のセラピーでは絶対に引き起こすことのできなかった変化を体験できた。
しかも、冒頭で説明したように、環境は決してプラスではないどころかマイナス要素が満載だった。
ドミニカ共和国にいた頃、「人生の楽園」と呼ぶに相応しいすごくきれいな海に何回か行った。
そこから一番近い町はスペイン語で「天国」という名前で、本当に天国と喩えることが出来そうなぐらいにきれいな海だった。
海外旅行によく行ってる友達が、人生で見た海の中で一番きれいと称してた。
もちろんそこに行った私は感動した。
それもものすごく感動した。
でも、その人との出逢いはそういうものではなかった。
景色も環境も相変わらずで、なんなら何の変哲もない、もちろん特別さもない、そんな場所で、私の目に映る世界の色が変わった。
日常が単なる日常から、特別な瞬間瞬間の重なりへと変わった。
そして、人を大切に想う気持ちも、生きる喜びも、私は手にした。
それらは本物の奇跡だった。
それは世の中にあるすべてのお金を積んだとしても手に入らない。
絶対にお金では買えないし、欲しいと願ったらもらえるものでもない。
普段の行いが良ければ与えられるものでもないし、計画して出逢えるのでもない。
そういう人に出逢いたいと願うと叶えられるものでもない。
とにかく、ありとあらゆることが重なってくれないと、そういう人に出逢うことももちろん起こらないし、出逢っていても気付かなければそのままなことも多いのかもしれない。
結果はその人の異動に伴いあっという間に最後のサヨナラの時はやってきてしまったけれども、そしてごはんに誘っても断られ、個人的な手紙をその人に押し付けたら尚のこと避けられ、結果だけ見るととんでもなく悲しいことになっているけれども、それでも私は別の大切なものを手に入れた。
人生にはどんなことも起こりうる可能性を常に秘めているということ、人生には希望や喜びがあるということ、たとえ上手く物事が運ばなくてもそれでも尚喜びを感じられる器量が自分にもあるということ、そして人生は奇跡の連続だということ。
そうしたことたちを学んだ。
小説家の吉本ばななさんがエッセイの中で過去の恋愛について語っていたところがあった。
ばななさんが昔とても好きになった男の子に対して、もう一生会うことはないと思うけれどもありがとうと言いたいと書いていた。
自分の心の中の一番きれいなところを全部集めて、そうしたところの上にあった想いのようだった。
そしてその人に出逢えて好きになったことで、世界の美しさを知り、そしてその美しさを知る心があるから今日までずっとずっと小説を書き続けることが出来たとあった。
「彼を思いながら見た全ての景色が私の小説の土台になっています。私が小説家になれたのは彼のおかげです。」
(『人生の旅をゆく 3』より引用)
その部分を読んだ時に、私はハッとした。
今年は年明け早々、死者の魂とやりとりする、なんていう超絶怪しい体験からスタートしている。
もちろんそんなことは計画したわけじゃないし、そんなことをするなんて思い付きもしない。
本当にぶっ飛んだ世界で周りから見て私はおかしいんだろうなぁとかなり思っている(苦笑)。
否定のしようがないから、そう思われても仕方ないし、別にそれでいいかとさえ思っている。
でも、よくよく考えて、どうして私がそこにきちんと向き合えるのか、その理由を考えてみた。
自分でももっと疑ってもいいのに、私は疑わずに普通に淡々と対応している。
そういうこともあってもおかしくないよね?ぐらいに思っている。
そして、何よりもそちら側から来ているものが、悲しみや寂しさとは別にやさしさをきちんと持っている。
温かいものがあるし、そこには色んな愛を感じる。
この信頼感って何から来ているかと言えば、その人が私の人生に現れてからのことに深く関係していると気付いた。
ここでは細かくは書かないけれども、その人が私の人生に現れてから、数々の奇跡を目の当たりにした。
目に映る景色の色が濃く鮮やかにくっきりとなったとか。
その人がいるだけで、単調な毎日が奇跡の毎日に姿を変えるとか。
その人の命があるだけで、私は泣いてしまうほどに心の深いところが震えてしまうとか。
もう二度とお目にかかることも体験することもないと頑なに信じていた、人を想う気持ちを私はもう一度持つことができたとか。
そしてそんなすごい人に人生で出逢わせてもらえるとか。
私の人生を根底から変えるぐらいの人に出逢えた後だったからこそ、そしてその人が私の目の前からいなくなった後もたくさんの不思議なことを経験したからこそ、今回みたいに死者の魂とやりとりすることもあっても不思議じゃない、そう思えた。
私は考えてみた。
もしその人に出逢わない人生を今生きていたとするなら、私はたとえその死者の魂とやりとりする流れになったとしても、今ほどに自分の人生を信頼できるようにその魂とやりとりすることを信頼できなかったかもしれない。
その人と出逢うシーンとか、その人とやりとりする場面とか、とにかく色んなものたちを山ほど積み重ねて今がある。
その人と関係している部分を私が信じられるようになったからこそ、今回の死者の方とのやりとりがスムーズに行った、そんな気がする。
だから、『奇跡の果実』と題した死者の方とのやりとりは、実は私のスピリチュアル的な知識や理解があって成り立っているというよりも、その人との間にあったことたちを私が信じられたからこそ成り立っていると感じている。
だから、奇跡の果実のベースは、スピリチュアルな知識や理解じゃない。
ベースは、その人との出逢いに起因している。
その人との出逢いによって私は「奇跡」を体験して「奇跡」を山ほど目の前で見てきたから、だから私は奇跡が起きることを本気で腹の底から信じている。
【追記】
生きている毎日が奇跡、と書いたことと相反するみたいだけど、そこは一旦脇に置いて、今度は「奇跡の中の奇跡」という視点からの話。
色んなことたちが重なること、そして重なることで新しいストーリーが生まれることを奇跡とここでは呼ぶ。
『奇跡の果実』シリーズをあといくつか書く予定でいるけれど、死者の方の魂とやりとりする場面をはじめ、それにまつわる色んなことたちは、奇跡の中でも特大奇跡だと思う。
ありえないことがいくつも重なってのやりとりの開始と、やりとり開始後もあまりにもありえないことが続きまくっている。
その細かな積み重ねはおいおい書くにしても、そのありえないことの積み重ねの部分が、そのイケメンの人に出逢えた時のことにそっくりだったりする。
もちろん、細かな差はたくさんある。
片方は生きている人、もう片方は死んでいる人とか、片方は私側の気持ちが自動的にオンになる人、もう片方は向こうの主導によって気持ちというか行動がオンになる人とか。
ただそうした細部の話ではなく、全体的な流れがとても似通っている。
どちらも突然私の人生に現れた。
現れる前にお知らせがあった。
「現れる前」というのは、私がその人たちの存在に出逢う、知り合う前にという意味。
イケメンの方は、私はその人と出逢う前にその人と出逢う場所(=当時からしたら未来の職場)に迷い込んだり、その人が生活している圏内にやたらと私も用事ができて何度か近くを行き来するとか。
死者の方の場合は、私のiPhoneの画面が割れるというお知らせがあった。
私の人生に登場してくれたことで、人生において本当に大切なものが何かを2人はそれぞれ教えてくれた。
そしてそうしたことのために他にも色んなことたちが寸分の狂いもなく起こっていたし、今も現在進行形で何かしらは水面下で調整されていると思う。
種類は違うけれども、どちらも愛ややさしさに満ちている。
どちらも私は失敗したり上手くいかなかったりしたけれども、それでも私にはとても大切なもので他には代えられない。
唯一無二のもので、一生のうち、生きているうちに出逢えて本当に良かった、そう心から思えることだった、2人とも。
そして、奇跡があること、奇跡というのは起こるということをどちらも教えてくれてる。
私が色々ダメでも失敗してもそんなの関係なしに奇跡は起こる。
今回の死者の魂とやりとりすることは、振り返ってみると全てギリギリの線で、まるで綱渡りのような感じで物事は動いていた。
何か1つでも欠けてしまったのなら、私が見たストーリーは成り立たない。
そういうものだった。
本当なら、私の中で疑いが生まれても、それもすごくたくさん生まれても、何も不思議じゃない。
だけど、私は何の疑いも持たずにそこと対峙できた。
どこまでも純粋にそのことに向き合えた。
それは、そのイケメンの人に出逢えた全てのプロセスを私が体験したから。
イケメンのその人とのやりとりは、今回以上に綱渡り的な感じだった。
色々有り得ないことばかりが重なって、その1つ、本当に小さなこと1つ欠けてはいけないものを、1つ残らずきれいに私の元に集めることができた。
ちなみに集めたのは私じゃない。
天の采配というものが本当にあるとするなら、そうしたものがものすごく働いていた、としか言いようがない感じだった。
有り得ないことが有り得て、そして私の人生に奇跡を起こした。
楽しさのかけらも見出せないような、むしろマイナス面オンパレードみたいな環境下で、私は「生きているってすごい」「お互いに生きていて会いたい人に会えるってすごい」と感じ、さらには日々生きる喜びに溢れ、目の前の世界の色彩が変わった。
自分にも「愛」なるものを感じる器があることにものすごく感動を覚えた。
しかも結果が全く望んだものではなかったからこそ、余計とその凄さがわかった。
結果はどうであれ、私の中に残ったものたちの色は変わらなかった。
その人と一緒の時間が欲しかったし、なんなら今でも欲しいと思っているし、なんでこうした純粋な願いが叶わないのか私は全く納得できずにいるけれども、それでもその時のことは一生忘れないだろうし、そして今後も生きていく中で大切な何かを私に伝えてくれると思う。
たった1人の人が人生に現れてくれたことで、私は自分の中の傷が一気に癒えて、あんなにも生きることに対し後ろ向きだった自分が貪欲に生きたいと思うようになって、そしてその人が私にもたらした色んなものたちを胸に抱きながら命を明日に繋いでいくその凄さを思い知った。
そうした体験があったから、私は今年の年明けに起こった色んなこと、カオス過ぎる上に超オカルトで、常識や世の常の視点からは到底考えられないようなことばかりだったわけだけど、それでも私はそこに普通に向き合えた。
しかも、なぜか死者からもその人のことに関して話を振られるという、ますます訳の分からないことまであったわけだけど(←よく考えたら本気でおかしい)、それでもそのことに向き合えたのはその人との出逢いがあったから、その人の存在があったからだった。
心理やスピリチュアル系の勉強を重ねたところで、私なんかはひねくれ者だから、半信半疑みたいな感じでしか内容が頭に入ってこない。
でもあのたった1つの出逢いが、「奇跡」の存在に気付かせてくれたし、奇跡が起こること、どんなに有り得ないと普段信じられているものでも有り得ることを教えてくれた。
もしその人と普通に話せる仲で、そんな風に言ったのなら、「俺は何もしていない」とさらりと返されそうだけど、だからこそ凄いんだと感じる。
相手は別に私に奇跡をもたらそうとか、私に良くしてあげようなんていうのは一切意図していなかったと思う。
ただただその人はその人の人生を生きて日々私の前に存在してくれてた、それだけだった。
それだけのことが、要は何もしてないところで、なんなら私は避けられたりもしてたわけでむしろマイナスのこともあったけれども、それでもその人がそこにいてくれるだけで私はたくさんの奇跡を見せてもらえた。
これが究極に凄いことはわかる。
ただただ存在そのものでここまでのことが起こって私の人生を根底から変えるわけだから、本当に凄すぎる。
私はその人と出逢えたおかげで、「奇跡」が起こることを本当に心の底から信じられるようになった。
だから、今回死者の魂からコンタクトがあったことも、かなりぶっ飛んではいるけれどもそういうことがあってもおかしくないと思っている。
そして起きたことそのまんまを受け止めている。
奇跡の果実のベースは、そのイケメンなくしては成り立たない。
その人とのすべてのことを体験できたから(たとえそれが世間では私の一方的な片思い認定をされようが)、私は今回のことにも対峙できるだけの力が自分の中に育ったと思っている。
それは、その人が私の人生に現れてくれたことで、私は奇跡が起こることを信じられるようになったし、そうしたことが起こるということにも自分の心を開けるようになった。
だから、『奇跡の果実』と私が呼ぶ死者の魂とのやりとりは、実はベースは1年半近く前に作られていた。
当時はもちろんそんなことは知らずにいたわけだけど、本当にベースとなるものは別の人の存在によってもたらされていた。
吉本ばななさんじゃないけれど、その人に「ありがとう」と言いたい。
その人がいてくれたおかげで、私の人生に現れてくれたおかげで、今があるよって。
もちろん今回も色んな人たちが関わってくれてる。
その1人1人にも本当に感謝している。
でもその中でもとりわけその人は、私の心のベースを作ってくれた人だから本気で感謝している。
ちなみに我欲全開で願い事を口にすると、その人に直接ありがとうと言える機会をプレゼントされたい。
今のことに今後も必要があれば全力で取り組むから、そのことに対して私の願い事も叶えてくれませんかね?などと相変わらずよこしまなことを考えている(苦笑)。
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