大学時代の恩師、ジョンの話の続き。
前回の記事より、ジョンたるものがどんな人物なのかのエピソードを一部抜粋。
・ジョンのオフィスに飾ってあったオラウータンの親子の写真が、実はよく見たらオラウータンの母と子とジョン本人だと気付いて、私は吹き出しそうになるのを堪えるのに必死だったこと。
・教授本人の恋愛模様を聞きつつ、オラウータン親子と撮った写真をネタにしつつ、なんなら教授の彼女を紹介してもらうみたいな(そんな、良く言えばフランクな、そのまま言えば若干ふざけた感じの師と学生の関係…)。
・ジョンはなぜかいつも手が貧乏ゆすりのごとく震えていて、ヘビースモーカーな上、本当にこの人の体は大丈夫なんだろうか?っていうかぽっくりと亡くなってもおかしくないぐらいに不健康そうだった。
ジョンを知っている私の友達と、新しく彼女ができたということは当然性的な活動もあるわけで、本気で最中に心臓発作でも起こしかねないよね!などと、本気で失礼なことを言いまくり、2人で「なんかジョンが口説くとか想像できないね」とよく言っていた。(若さゆえの至らなさに今は穴があったら入りたい)
こうしたアホアホなことばかりを思い出して、肝心のジョンが私の人生に大きな影響を与えた人だということを、今回手紙をジョンに書くまで忘れていた(←ひどすぎる不義理な生徒)。
当時の話。
年は1997年8月か9月。
気付いたらもう21年も経っている!
アメリカの大学の特徴として2つ先に説明。
1つは、専攻をいつどのタイミングでも変えられること。
なんなら、細かな手続きの方法は知らないけれど、他校へ編入も普通にできる。
名前と顔だけ知っていた日本人の男の人で、私と同じ大学からなんと、かの有名なマサチューセッツ工科大学に編入した人もいたから、そういう意味でアメリカの教育は門戸が広く開いてると感じる。
(私の行っていた大学は、そういうレベルには全くない。ちなみに友達で「俺の行っていた高校は名前さえ書けば入れるとこだった」と豪語してた人もいたから、基本的に色んな学力の人がいたと思う。生徒数1万人もいればそうなる)
社会人になってから大学に行く人もたくさんいて、私が卒業した年に社会福祉の専攻で卒業する人の卒業生代表スピーチをしたのは40代のシングルマザーの人だった。
専攻で一番すごかった人は、アメリカ人の陽気な男の子で、もう残すところ1学期で卒業!それも教育学部で小学校での教育実習も終えて…というところまで来ていたのに、突然地質学に専攻を変えたから卒業が延びたよ、ハハハ!と笑い飛ばしていた人。
なんでも石に興味を持って、石をもっと勉強したいから!と言っていた。
本気のロック(=石)な生き方だと思った。
あと、ダブル専攻も選べたし、副専攻を持つこともOKだった。
私も多少は興味が湧いたけれど、そうなるととても4年で卒業できない上に半端ない勉強量になるとわかってあっさりとあきらめた。
もう1つの大きな特徴は、次の学期が始まる前に「アドバイザー」と呼ばれる自分を担当してくれる教授に会いに行って、来学期の学習計画やその先の学習の方針を相談したりすること。
これは必須らしく、私だけじゃなく他の生徒たちもみんなそうやっていた。
この2つの特徴なくしては、私はジョンには辿り着けず、もし日本の大学みたいに基本は専攻の変更不可とか、アドバイザー制度は日本はあるのか知らないけれども、少なくともアドバイザーは生徒本人は選べなくて学部の秘書の人が適当に割り当てるから、ジョン以外に当たる可能性も当然あった。
1つとしてそうした歯車がずれずに、本当にあったままのことが起きてくれたから、今の私がある。
それだけは間違いない。
私は最初「社会学」専攻として大学に入学の登録が為されていた。
その辺りは私が手続きしたわけじゃなかったから、大学から諸々の書類が来て初めて知った。
で、最初社会学のオフィスに行って、私のアドバイザーとなる教授の先生を紹介してもらった。
女の気さくな先生だったことは覚えている。
私はその時に「私、スクールカウンセラーになることを将来的に考えてる」と言ったら、「あら、ここじゃないわね!それなら社会福祉か心理学かどちらかになるから、それぞれの学部に相談しに行ってから専攻を変えたらいいわよ!」と返ってきた。
アメリカのすごいところは、先生も専攻の変更に慣れているからサラリと勧めてくれるし、要は学生本人の人生だから本人の意思を何よりも尊重してくれる。
それで何か紹介状的なものをオフィスでもらって、それを持って社会福祉学部に先に行った。
心理学の方がよりカウンセリングな感じはしたけれども、なぜか社会福祉も候補に先生は挙げていた。
当時、全く事情がわかってなかった私は、社会福祉でも心理でも何がどう違うのかわからなくてどっちでも良く、それで単に社会学のある建物からだと社会福祉の建物の方が近いという理由だけで、福祉の方のオフィスに先に立ち寄ろうと決めた。
心理学の建物はさらにその倍以上の距離で遠かったから後回しにしたけれど、これが大正解だった。
ちなみに私は心理学のある建物には行かなかった、なぜなら行く必要がなくなったから。
福祉の入ってる建物は、幽霊が出るともっぱらの噂だった学校の中で最も古い時計台のある建物の次に古い建物で、床は歩くだけで常にミシミシと言った。
片や心理学の建物は、学内でたしか2番目に新しい建物だったと思う。
で、社会学部を出たその足でまっすぐ福祉の学部のオフィスに行った。
オフィスでは学部の秘書の人がいて、まずはその秘書に経緯を説明した。
福祉にするのか心理にするのかはまだ決めてなくてとりあえず相談したいと言うと、「あなた留学生だから、そうねー、ジョンに相談するといいわよ!ジョンは他にも色んな国の留学生たちを見ているから慣れてるし、色々相談にのってくれると思うわ!」と言われ、それでジョンを紹介してもらえた。
今の今まで気付かなかったけれど、その時ジョンはちょうどオフィスにいた。
いつもいるとは限らないのに、その時はいた。
秘書の人に連れられてだったと思うけれど、その古くてミシミシ言う建物の地下のさらに一番奥の、ハリーポッターとかのロケ地に使えそうな、お化けが出てきそうな昼間なのに暗い廊下を歩いて、そしてジョンのオフィスにたどり着いた。
広さとして四畳半ぐらいだと思う。
ジョンは白髪もたくさん混じったクルクル天パのちょっと頭頂部が禿げ上がった、でも気さくそうなおじいちゃんという感じだった。
背は180より少し低いぐらいの痩せから普通体型ぐらいの感じだった。
フェイスブックでも今はジョンと繋がっているけれども、当時は「おじいちゃん」などと思ったけれども20年経ったとは思えないぐらいに容姿が今も変わっていない。
当時のままで、むしろ結婚して伴侶を得たことで若返ったんじゃないかとさえ思っている。
それがジョンとの最初の出会いだった。
私はジョンに促されるまま、ジョンのすぐ近くにあった椅子に座って、早速話を始めた。
社会学のオフィスでも話したように、スクールカウンセラーになりたいと思っていること、そのために社会福祉か心理学のどちらかに専攻を変更するように言われたことを言った。
余談だけれど、アメリカは日本以上にすでにスクールカウンセリングの分野が発達していて、そのスクールカウンセリングを受け持つのは基本的に社会福祉になる。
もちろん、心理学専攻の人たちもそうした分野に携わると思うけれど、一般的には福祉の方が多い印象を持った。
もう1つ、スクールカウンセラーになりたいと当時言ったのは、口から出まかせではなく本気でそう考えていた。
それは当時の私にしたら、たかが4年ほどさかのぼると中学時代の壮絶ないじめの体験が根底にあって、その時の自分の体験からスクールカウンセラーに興味を持った。
今は大丈夫になったけれども、その後20代の終わりぐらいまでは夢の中で年に2回ほどフラッシュバックがあって、夢の中で私はいじめの時の体験を追体験してものすごくうなされた。
普段は、夢の中で動いている自分とそれを見ている自分の2人がいるけれど、いじめられる夢の時は違った。
夢の中で動いている自分しかいないから、本当にまるで当時の中に自分がいて、だから目覚めても自分がどこにいるのか一瞬わからない感じになった。
当時の強烈な体験のおかげで、私は学校の中のカウンセリングというものにすごく興味を持った。
そんなことまではジョンには当時話さなかったけれど、とにかくスクールカウンセラーを目指したいことは言った。
ジョンは私の話を聞くと、こう言った。
「カウンセリングの理論を学びたいなら心理学、実践を学びたいなら社会福祉」
私はジョンのこのたった一言で社会福祉専攻を決めた。
今考えても、ものすごく的確なアドバイスだったと思う。
これは後に判明したことだけれど、今日本国内某所で臨床心理士として学校や子どもの施設なんかでカウンセリングをしている友達がいて、その子がいつかのどこかのタイミングで教えてくれたこと。
その友達は、2年?3年?の時に他校から編入してきて、そして彼女もまたジョンのオフィスを紹介されて一度は尋ねたらしい。
私の1つ上で、私と同じ年かもしくは翌年にジョンを訪ねている。
どういう風に相談したかはわからないけれど、ジョンは彼女には心理学を勧めたらしい。
福祉に関しては全然引き止める感じもなかった、と言っていた。
それで彼女は心理学専攻になり、卒業後しばらくしてから日本で大学院に行ってそれで臨床心理士の資格を取って今に至る。
このジョンの「カウンセリングの理論を学びたいなら心理学、実践を学びたいなら社会福祉」という言葉は、本当に大当たりでそして私は自分の能力的にも実践型のタイプだった。
福祉専攻と言えども、福祉のみの勉強をするわけではなく色んな分野の勉強をする。
各学部にはその学部の勉強に準じた必須科目がある。
福祉の場合、心理学・生物・経済・政治・社会学・栄養学あたりが今思い出せるだけでも必須だった。
要は、福祉が、人の心理や人体の仕組み、社会の中のお金、政治、社会の仕組み(法律)なんかと密接に関わっていて理解する必要があったから、それはわかる。
ちなみにこの必須科目たちは、どれもこれもものすごく悪戦苦闘した(汗)。
その中で心理学も取るわけだけれど、心理学が理系の勉強になるとはそのクラスを取るまでは知らなかった。
内容はより理論的、システマチックで、物理と化学の違いがわからないなどとほざく人には全く理解の及ばない内容だった。
もし心理学に進んだら、ちょっと卒業も怪しかったと思う。
だから、ジョンが私にあの時、理論か実践かとはっきりと言ってくれたのは、今となればものすごくありがたいことだった。
しかも、前回書いた
・聴く力
・相手と自分の間にきちんと線引きをして、相手の感情に巻き込まれない力
・感情を切り離して残虐な内容を淡々と読む力
この3つの能力は、心理に進んだら絶対に手には入らなかった。
普段ジョンに会いに行くことはそんなにないけれど、冒頭で説明した来学期の学習計画を立てる時には毎回ジョンを訪ねた。
ジョンは本当に的確で、私はジョンなしでは自分の単位の取り方もしっちゃかめっちゃかになって実際よりももっと大変になっていたと思う。
おおよその大学がそういう番号の割り振りをしていると思うけれども、基本的に各教科には3桁の教科番号みたいなのが充てられている。
100番台…1年生向け
200番台…2年生向け
300番台…3年生向け
400番台…4年生向け
それとは別に、特定の教科を取るのに、その前に〇〇は必修となっていれば、その必修科目を終わらせないと次に進めないようになっている。
(その辺りは日本も同じだと思う)
ちなみにそうなるのは、大体3年・4年の科目になる。
そうやって考えると、100番台の科目は基本的にはその前に必修科目もなければ誰でも取れるようにはなっている。
だけど、ジョンは安易に100番台だから先に取ろう!とは言わず、逆に私の英語力を見て私が取る科目の選択肢を示してくれた。
というより、ほぼほぼジョンに何を次取るのか、決めてもらっていた(爆)。
1年目は「数学とか芸術科目を先に取ろう!福祉だけは進めないとダメだから、1年の後期で取ろう!」という具合にジョンから提案された。
学部の必須科目とは別に、学校が定める卒業のための必須科目もあって、その学校が定める科目で私の英語力でもいけるものを優先的にジョンは組み立ててくれた。
だから4年生の時に、「これは最後の年にしよう!」と言われ続けた人文学を4年の前期後期で続けて取っている。
成績証明書を今見てきたけれども、一体何を勉強したのか記憶にないけれど、やたらと難しかったことは覚えている。
生物や国際政治なんかも3年生で取ったけれど、本当にジョンの言う通りで超絶難しかった。
どちらも100番台の教科で、本来なら1年生から取れるものではあったけれど、英語力だけではなく基本的な一般教養が著しく欠けている私には、基礎がない分難しすぎた。
特に国際政治は、10数回読んでも全く意味がわからなくて、英語力でのカバーは無理だった。
例えば「湾岸戦争」なら湾岸戦争の背景を知らないと読めなくて、当時は今ほどネットも発展してなくて基本日本語サイトは文字化けして見れなかったから、全く歯の立たない英語でひたすら読み解く他なかった。
だから3年4年の時の卒業のための一般教養の科目は、本当に難を極めた((((;゚Д゚)))))))。
他にも、経済で「需要と供給」グラフなんてのは中学・高校と数えて大学では通算3回目の学びのはずなのに、さっぱり要領を得なかった(よく卒業できましたね、のレベル)。
あのよくわからないグラフの説明を定期テストで英語でしなきゃいけず悶えてたことも覚えている←書いたは書いた。
生物に関しては、テスト中持ち込みOKにしてもらった辞書に直接日本語で用語の説明を1つ書いた(←違反行為)。
そんなことしたのは、その時1回だけ。(←何のフォローにもなっていない( ̄◇ ̄;|||)
そうまでしたくせして、ギリギリ単位が取れるD判定だったんだから(日本の5段階評価でいうところの2。1なら落第)、やった意味があったのかどうかもわからない。
そうした私の英語力も見込んでジョンは指導してくれたからすごくありがたかった。
そんなこんなを経て、最後4年目にもう一度転機が訪れる。
日本に帰ってきてから私は社会福祉系の通信の大学に編入したけれど(なぜなら日本では資格なしだから)、日本とアメリカでは色々違っていてビックリしたことがある。
基本的に、日本の福祉の勉強はアメリカの福祉の勉強を参考にして作られているとは思ったけれども、私は大学で取った単位のほとんどを日本の大学では認めてもらえなかった。
アメリカで取ったものをまた日本でも履修するということになった時に、日本だと英語のそれに当たる言葉がないから、そのまま英語の発音をカタカナにしただけの単語なんていうのが山ほどあった。
しかも説明がすっごい下手くそで、これ日本語で読む方が難しいなといつも思った。
で、それよりもさらに大きな差だったのは、福祉の現場実習だった。
現場実習は2つ、12日間を2回、仮に1日あたり8時間としても192時間。
(調べたら180時間以上ならOKらしい)
これが日本のケース。
アメリカにいた時は、8ヶ月間(人によっては4ヶ月間)で450時間以上の現場実習が必須だった。
3年生の時に1年間だけ元いた学校に籍を置いたまま、提携している国内の他の大学に行くという国内交換留学的なプログラムに応募して行った時があって、その時の大学とは同じ福祉でも少しずつ対応は違っていた。
その大学の現場実習は、基本的に生徒本人ではなく実習担当の教授たちがどこの現場で実習するかを決めていた。
大体希望通りにならないと周りのクラスメートたちは言っていた。
私は4年次にまた元いた学校に戻って、それで後期の方で現場実習を始めたけれども、その実習先は生徒自らが事業所とかに連絡をして見つけてこないといけなかった。
ちなみに私の2つ上の福祉専攻の日本人の友達は、日本に帰って実習をしたし、さらにその上にもう1人ちょっとだけ知り合いになった人がいたけれど、その方はジョンの勧めでどこかアジアの国の福祉施設で実習を積んだ。
ちなみにジョンは私にもその場所を勧めてきた。
私は聞くからに興味がなく断り、とりあえず現地での実習先を探した。
と言うとちょっとだけ語弊があって、普通は数ヶ月前から実習先を探さないといけないのに、私はここでも先延ばしをして超ギリギリになってから探し始めた。
多分開始1ヶ月前とかだと思う。(←スタートが遅すぎる)
普通は1ヶ月前はもう実習先は決まっていて、あとは決まった日に始めるだけとなっている。
アメリカ人でも苦労しているのに、私は何を考えているのか(というか「面倒くさい」の一言で何も考えていなかった)とにかくギリギリまで何もしなかった。
いよいよ学校にも何かを提出するような時期になって、ようやくよいこらしょと腰を上げた。
学校からは事前に事業所一覧みたいなパンフレットをもらっていて、それを見て自分が興味あるところに直接電話して聞けばいいようになっていた。
その中で私が興味を持ったのは2ヶ所しかなく、スクールカウンセラーの現場実習は市内に2校しか受け入れがなかった。
2ヶ所に電話したものの、すでに実習生を取っていて来学期は新たには受け入れられないという回答をもらった。
一応もう一度隅から隅までパンフレットを見たけれども、他に行きたいところがなく、いきなり行き詰まった。
っていうかようやく事の重大さに気付いて、慌ててジョンのオフィスに行った。
ジョンに事の顛末を伝えて、そして家庭の経済状況で卒業を延ばす選択肢などないから何が何でも来学期(1月)に始めて夏までには全て終わらせないといけないんだけど!、と自分の先延ばしも反省せずに泣きついた。
ジョンは言った。
「フミコ、選択肢は2つ。
1つは、分野を変えて、介護でも障害でも女性支援でもホームレスでも何でもいいから、とにかく他の分野で探すこと。
もう1つは、どうしても児童福祉にこだわるなら、虐待された子どもを預かるグループホームがあるからそこにコンタクトすること」
はっきり言ってどっちも嫌だった。
だけど、背に腹は代えられず、とりあえずその虐待とやらのグループホームに連絡してみる!ということになって、そのグループホームに連絡を入れた。
私の中で児童虐待なんてのには全く興味もなく、それこそジョンのクラスで社会福祉概要の時にちょっと聞いただけで、「虐待ってそもそも何?」ぐらいの、本当に何も知らずにいた。
自分でも理由はよくわからないけれども、「子ども」に焦点を当てたかった。
大人の世界のことはよくわからないというのもあったし、なんとなく「子ども」だった。
子どもが好きではないし、女子や女性がみんな声の色を変えて小さな子を見ると「可愛い♡」とかいうあの感覚も私にはなかった。
スクールカウンセラーの道は今のところ断たれても、とりあえず子どもと関わるところは外したくなかった。
というそれだけの理由で、私はそのジョンが示したグループホームに連絡を入れた。
バスでしか行けない上に、一見普通の民家で、ここはどこ?ここで本当に合ってる?という感じの一軒家に着いた。
日中だから子どもたちはみんな学校に行っていて、ホーム長のクリス(←たしかクリスだったはず)だけがいたと思う。
クリスとの面談は滞りなくいったけれども、それとは別に数枚に渡る人物調書なるものがあって、それにその場で記入しないといけなかった。
家族構成に始まり、家庭内での各種虐待の体験の有無、親の性格、ドラッグやアルコール依存症の身内の有無、両親の離婚やDV、精神疾患の有無とか、とにかくすごい質問のオンパレードで度肝を抜かれた。
どれも当てはまるものがなく、私は逆に不安になった。
最後まで一通り終わった後、ホーム長に聞いた。
「私はこれのどれにも当てはまらないんですが、もしかして経験値がないから実習不採用ですか?」
ホーム長は言った。
「いやいやいや、なくて大正解なんだよ!
もしそれらのどれかでも当てはまる場合は、逆にたとえ実習生でもこちらでは受け入れられない。
なぜなら、ここでの子どもたちとの関わりにおいて、本人のトラウマが浮上してPTSD(心的外傷後ストレス障害)やその他の精神病関係を引き起こしてしまう可能性があるから、そういう経験値のある人は必ず断っているんだよ。
フミコは何の問題もないから採用だよ!」
ちなみに、児童虐待とかも全然知識がなければあまりにも何も知らなさすぎると言ったら、それの方がいい、知識はやっていく中で徐々に学んだらいいわけで、それよりも心身健やかにこの実習に臨んでもらうことが何よりも大事だから、と言われた。
私はこの時の対応によって、本物の「プロ意識」たるものを教えてもらった。
日本とは全く違う。
日本では個人のプライバシー配慮が先行して、でもそれは同時に本当の意味での現場における大切な配慮が足りなくて、こういうことを実施している福祉関連の事業所は皆無だと思う。
でも本当はすごく大事なことで、それは本人にとっても利用者の人たちにとっても、双方の利益のために実施するべきことだと私は個人的に思う。
心身共々その分野において傷がないことは、本当に大切なポイントだとその後の実践の場でもそう思う場面がたくさんあった。
もう1つ言うと、この8ヶ月の実習のために自分自身に保険をかけることも義務付けられていた。
(ちなみに、バレないだろうとタカをくくって途中まで払わずにいたら、学校から大目玉喰らって、即刻加入しないと実習を強制終了されると手紙と対面と両方で通告され、実習担当教授からもこっぴどく叱られた。もちろんすぐに払った、1〜3万円相当。いきなりお金がいると言ったから親からも当然怒られた 汗)
この保険は、訴訟に対しての保険で、万が一実習中に自分の過失、又は自分は良かれと思って対応したことでもクライアントや事業所から訴えられた場合、それを補填するための保険だった。
今は知らないけれど、私が福祉の仕事をしていた20代の頃は、そんな保険、日本で聞いたことがなかった。
多分、今もないと思う。
そんな風にして、私のドタバタな現場実習はようやく実習受入先を見つけて始まった。
今にして思うのは、当時は何も考えず、すでに早くも流されるままに、まぁ正しくは当時から先延ばしの癖がひどくそれでそんな流れに行き着いたわけだけど、この時の選択はその後今に至るまで本当に大切な人生の分岐点になった。
これはまた別の記事で書こうと思うけれども、私が当時現場実習として行ったそのグループホームでのことが、その後日本での就職にも繋がった
この体験が採用に有利に働いたということではなく、進路を決められなかった当時の私が、その半年後ぐらいから「児童養護施設」に狙いを定めてアメリカから日本の施設を探し出して就職活動を始める大きなきっかけとなった。
別記事で書きたいけれど、私は実際に行き始めてからその実習先の選択肢をものすごく後悔して、最初の半年(=実習期間の4分の3)は大失敗したと思っていた。
実習に行くのが本当に嫌で、子どもの嫌なところを山ほど見て、世の中の「子どもって可愛い♡」なんていう人たちは何か私にはない母性愛でも持っているんだと毎回のように思った。
そこがスタートだったにも関わらず、私はその後そうした施設での就職を希望するに至った。
気持ちが丸っと変わったのは、そこで出逢った子どもたちのおかげだった。
そしてもっとさかのぼれば、当時私が泣きついてジョンのところを訪ねたことに端を発する。
あの時、ジョンがはっきりと「他の分野の福祉で実習先を探すか、児童福祉にどうでもこだわるならこのグループホーム」と言ってくれたからだった。
さらにこれもまた面白い話で、私は3年生の時の実習に向けての実践コースの時に違う大学に行ったせいで、元の大学のところでの福祉専攻の人たちを誰も知らずにいた。
ようやく卒業間近になって、2〜3人知り合いができた程度だった。
そのうちの1人の女の子が教えてくれた。
私が実際に実習に行ったグループホームというのは、1つ大きな母体があって、その傘下でいくつかのグループホームを運営していた。
ジョンは名指しで私が実際に行ったグループホームを紹介したけれども、他にもいくつかグループホームをその団体は持っていた。
話しかけてきてくれた女の子は、その中の別のグループホームに行っていた。
何せ興味もなかった私は全く何も調べることもしなかったけれど、彼女いわく彼女の実習先と私の実習先は全くタイプが違うと言っていた。
私の実習先は、基本的に長期入所型のグループホームだった。
しかも、アメリカの虐待された子どもなんかを受け入れるグループホーム(アメリカは大人数収容の施設はほとんどなくて、基本少人数制のグループホームが主流)は、年齢・性別・子どもの特性に合わせてきちんと細分化されていた。
で、私の行っていたところは、7〜14歳の男児専用で定員4人、そして精神的に色々抱えている場合が多くて、その分類で州内にたった1つしかない最重度の精神疾患系を持つ子ども対象のグループホームの次に重度とされる子どもたちを受け入れるところだった。
生きるか死ぬかどころではない、本当に強烈なバックグラウンドを持っている子たちだった。
そんなところだったから、最初から最後まで基本同じ子たちを見たし、途中で組織の再編成とかがあって数人プラスして見た子もいたけれど、基本はあまり人の入れ替わりはなかった。
一方の彼女の実習先は、通報・相談が入って一時的に子どもを預かる専用のグループホームで、常に子どもたちは入れ替わっていて、長期的な展望とかプログラムは一切立てられなくて、そういう意味で悪戦苦闘していると言っていた。
しかも、実習に行く度にいる子どもたちの顔ぶれが変わっているから、特定の子と関係を深めるとかもなく、それも面白みに欠けると言っていた。
そうそう、実習の決まったカリキュラムの1つの課題として、自分でプログラムを立案して実施、そして評価することが義務付けられていた。
だから子どもたちと日本食クッキングをしたんだった。
思い出してきた。
刃物を使ったりするからまずは危険な道具を正しく扱うとか、私の話を聞くとか、その活動の中でまた子どもたちの何か別の側面を引き出すとか、そんなこんなの書面上は素晴らしい企画を立てて、それで実際に数回それを行った。
だから、子どもたちと長期的なやりとりができるという意味でも羨ましいと言われたんだった。
で、これこそが私の運命を大きく変える分岐点で、もし私があの時彼女が行った方のグループホームを紹介されてたとするなら、私はおそらく児童福祉には携わらなかったと思う。
どうしてジョンがそのグループホームを名指ししたのかは知らない。
けれど、ジョンはそこを単独で名指ししていたから、私は母体であるメインオフィスには一度も行くこともなく、なんならどこにあるかも知らず、最初から最後までその小さなグループホームにいた(グループホームの引越しがあって、場所だけは移動した)。
そんなことも思い出した。
ここから先は長くなるからここでは細かく書かないけれども、ジョンのアドバイスなくしては私は今自分がペンジュラムを使うとかホロスコープを学ぶとかスピリチュアルな世界観を知るとかも一切なかった、と断言できる。
この体験がスピリチュアルな世界に繋がるのは、はたから見たら「何それ?」という感じだとは思うけれども、私には絶対的に必要な体験だった。
そして、もう福祉の現場には戻らないだろうことやこれからはスピリチュアルな部分がもっと仕事の性格として入ってくるのは、なんとなく想像できる。
そこに至るまで色んな積み重ねが必要で、その根源はジョンとの出会いでジョンからの適切なアドバイスがあったからだった。
よくよく考えたら、まるで導かれるようにジョンに出会っていた。
大学時代の先生で唯一今も繋がっているのは、ジョンしかいない。
というか、まるで私がきちんと気付くように、律儀にジョンは毎年クリスマスカードを送ってくれていた。
ジョンに言われたことはきちんと覚えていたし、その後実際に起こるようにして色んな経験を得たわけだけど、自分の中ではそれぞれがバラバラのピースで全く繋がっていなかった。
なぜなら、福祉は超現実的な世界で、一方のスピリチュアルは目に見えない世界だから。
接点があるようでない、ずっとそう思っていた。
実は逆で、私がスピリチュアルな世界を色々経験するためには、現実世界に則した実践がどうしても必要だった。
先に書いた3つの力
・聴く力
・相手と自分の間にきちんと線引きをして、相手の感情に巻き込まれない力
・感情を切り離して残虐な内容を淡々と読む力
これらは、完全に福祉の世界で養われた。
そして、超現実的な対人の対応をひたすら求められる世界に10年強いたおかげで、私の場合はそこが強化された。
さらには、その後今度は派遣でももっとガチな超現実的な世界でのお客様対応を求められた。
これら全部の体験が今に繋がっている。
資格なんかでは絶対にカバーできない、ひたすら経験を積むことでしか得られないものを私はずっとやっていたんだなと思う。
(資格があれば尚のこといいけれど|( ̄3 ̄)|)
その大切な分岐点のカギはジョンが持っていた。
いじめの体験は本気で笑えないレベルだったけれども、今ぐらいに人に恵まれていたとするなら、私は入らない世界だった。
そうだったら何してたかは知らないけれども、たとえ同じ大学を選んでも違う勉強をしたり、その後も全く違う仕事をしたと思う。
結婚もしてたかもしれない( ̄∀ ̄)。
今頃子育てに追われてたかもしれない( ̄∀ ̄)。
とにかく、まるで全てが用意されてたかのように物事は起こった。
ようやくこの年になって、ジョンと出会って21年、やっとやっと1つ1つのことが繋がり始めた。
だからか…とようやく合点がいった。
ジョンに手紙を書いていた時、「ジョンのおかげで…」と書いたあたりで、私は突然胸に色んなものが迫って涙が出た。
自分に感動するではないけれども、色んな想いが一瞬すごく強く出てきた。
オラウータンと化したジョンとか、奥さんと夜の方は大丈夫だろうかと友達と笑って影で噂されてたジョンではなく(←とっても失礼)、ジョンが私の人生に現れたのは私の今に繋いでもらうためだったんだと初めてわかった。
ジョンの存在の大きさを今ようやく理解した。
不義理な生徒はやめて、来年はせめて早めとクリスマスカードを送ろう(…!?)。
せっかく書いたから、もう1つ番外編?として、グループホームでの現場実習の体験とその後の社会人デビューとなった就職活動の話がどう繋がっていくのかも書こうと思う。
最後に今さらだけど、ジョンは本当に穏やかで優しくて、いつでもニコニコしていて、偉ぶってるところはないし、話は冷静に聞いて的確なアドバイスをしてくれるし、私みたいに色々やらかしまくりな生徒の面倒も嫌な顔1つせず見てくれた。
何せ辞書の持ち込みの許可を得るために色んな教授を毎学期訪ねたし、質問があれば都度都度教授に質問するために個人オフィスに行くこともあった。
基本的に良い先生が多かったけれども、とりわけジョンはその中でもスーパー気さくな人柄の持ち主だった。
だから、私は本当に人に恵まれていた。
ジョンと大学時代の大きな人生の分岐点で出会えたことももちろん、ジョンという1人の人間に出会えたことは本当の本当に幸運なことだった。
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