2018年4月6日金曜日

人生を紐解く

ホロスコープ(占星術)と呼ばれる鑑定書の読み解きが面白くてたまらない。

生年月日と出生時間と出生場所の緯度経度から算出された、太陽・月をはじめとする天体たちが、自分が生まれた瞬間どの位置にあったか、ということから自分の性格や考え方、人間関係、価値観、才能や得意とすること、苦手なこと、人生の中で克服するテーマなど、本当に幅広く自分のことを客観的に教えてくれるツールになっている。

「占星術」と書くと「占う」という文字が入るけど、私は占いとは全く別物だと感じる。

占いは未来を予想したり予測するのに使われるとしたら、占星術もといホロスコープは1人1人の人となりを見える化するために使われるイメージだ。

だから2月に受けてきたホロスコープ鑑定の時にもらったWord20枚ほどの鑑定書の中身は、私そのものだった。

もちろん全部が全部合ってるということではないにしても、鑑定士さん私のこと知ってるんですか⁇と言わんばかりの、会ったことのない私をまるで知ってるかのごとく書かれていた。

私は自分のことが知れたらいいかな、というぐらいの気持ちで受けたから、受ける前も受けた直後もホロスコープの知識は皆無だった。

それで困らなかったし、深くそこまで専門知識を知りたいとは思わなかった。

それが突然、鑑定から2ヶ月近く経った時に、鑑定士さんが薦めていた方のブログをたまたま目にすることになった。

それまで私はホロスコープは自分をより良くもより深く知るためのツールだと思ってた。

今もそこは変わらない。

でも私がその方のブログを読んでて気付いたことは、ホロスコープは自分を知るだけじゃなくて「自分を生きる」時に最大限に活用できるヒントでもあることを知った。

そうしたら俄然ホロスコープの読み解きに興味が湧いて、ただいま購入した3冊の本と、図書館で借りてきた3冊、合計6冊の本を使い回して自分のホロスコープを読み解いてる。

ちょっとマニアックな話になるけれど、一般的に知られてる「星座」は「太陽星座」と呼ばれるもの。

そして反対に「月星座」と呼ばれるものがあって、そちらは自分の無意識だとか潜在的な性格を表す。

興味のある方は、ネットで「月星座」と検索したら何かしらのサイトがヒットしてご自身の月星座が無料で調べられます。

それはそうと、私は自分の月星座(獅子座)というのがもうずっと長いことしっくりとこない。

多分1年ぐらい前に月星座の存在は知ったけれど、とにかくそれ以降何を読んでもピンとこなくて、「これ私の裏の顔⁇全然その気配すらないんだけど」と思ってる。

ホロスコープ鑑定を受けてもしっくりこず、色々本やネットで月星座獅子座の特徴を読んでもしっくりこず。

それがずっと引っかかってた。

ホロスコープ鑑定書全体を見て「これ自分だ!」とまで思うのに、月星座だけに特化するとそう思えなくなる。

そこがずっと気になっていたから、色んな本を斜め読みしながら調べ続けた。

そしたら、やっとやっと意味がわかってきた。

細かな説明は省くけど、私は自分の月星座に対してタブー意識や苦手意識が同時にあるということがわかった(←鑑定書の図を見てやっと気付いた)。

そしてそこが自分の0〜7歳の頃の出来事とリンクしてること、その後も色んな形で引き続いていたことがわかった。

そうした諸々のことが影響し合って、私という1人の人間が成り立っている。

買った本の中に、獅子座に対してのアドバイスが載っていた。

今読むと何でそう思えたのか不思議でならないけれど、私はそこを読んでてパッと言葉が出てきた。

「心の傷を癒すエキスパート」

ふわっと自分の中から突然降って湧いた言葉だった。

本にも鑑定書にも書かれていない。

だけどその言葉には、私が長いこと求めていて、長いこと知りたくて、長いこと姿かたちはないけれどずっと自分の中にあり続けてきたもの、そんな感じだった。

それが自分がやりたいことで自分ができることでもある、とにかく「わかった」という感覚だった。

そしてその言葉が出てきた時、これまでの色んな体験たちがすべて意味があって起こっていたことにも気付いて、私は運転しながらボロボロと涙が出てきた。

私は自分の人生に起こった色んなことを見て、「どうしてこんなことが自分の身に起こるんだろう?」と思ったことがかなりたくさんある。

大人になってからのものより、子どもの頃の方が心の傷として残るには強烈さが上回っている。

そして子どもの頃のものは、いくつかセラピーで緩和したものの、どうしても自分の中で腑に落ちなかったのが「どうして起きたんだろう」ということだった。

起きたことは仕方ない。

相手も子どもだったり、未熟なものを抱えた大人だったりして、仕方ないと思う。

何かの誰かのせいにするつもりはないけれど、でも「どうしてそのことが私に起きたのか?」という答えはずっとやってこなかった。

そのことに意味があるなら私は意味を知りたかった。

意味を求めても仕方ないと言われても、私はなぜ自分が犠牲者的な立場を経験することになったのかその意味を知りたかった。

自分が納得できる答えなら何でも良かった。

そして昨日運転中に出てきた「心の傷を癒すエキスパート」、それでものすごく納得した。

自分自身が色んな種類の心の傷を体験して、そしてそれを1つ1つ丹念に癒していく、そのプロセスのためには絶対的に必要な体験だった。

傷を癒す時、まずは「傷がある状態」が必要になる。

癒す対象がなければ、癒す行為さえ発生しないから。

そして私は自分自身が専門的な手法を用いてその癒しのプロセスを経験することで、「癒せる」という可能性を知った。

そしてそれは何も私に限ったことじゃなくて、誰でも使えるし誰でも自分自身にしてあげられる。

その一連のプロセスと自分の人生の課題とそしてこれからやりたいと薄ぼんやり浮かんでいたこと、それらが初めて合体した。

色んな手法や知識を習得してもずっとわからなかったのは、私はその学んだことをどうしたいんだろう…?ということだった。

使えるのもわかったし、自分のやりたいことともリンクしてるのはわかってた。

だけど何のためにするのかがずっとわからなかった。

「自分を楽にするため」というのはわかってても、どこか決定力に欠けていた。

中心の軸がグラグラしてるというか。

でも昨日「心の傷を癒す」を軸にすると、その先は自分本来の力が増すことになる。

傷の部分に意識的でも無意識的でもこだわっていたところが抜け落ちて、代わりにその部分に費やしてた力を別のところに使える。

自分の状態を整える、そこにたどり着く。

そのこととは別に自分が20年近くに渡って体験してきたことの一貫性もわかった。

私はいつどこで何をしていても、とにかく色んな人たちの心の奥でずっと蓋をしていた話を聞くことになっている。

私は誘導もしないし、自ら質問もしない。

ある時突然何の前触れもなく相手は堰を切ったように話してくる。

そしてその話はけっこうヘビーなのが多い。

性的虐待とか、一生付き合わないといけない精神疾患とか、暴力を振るった加害者側の心情とか、家庭内不和や夫婦崩壊とか、まぁとにかく多岐に渡る。

何なら私は派遣でテレフォンオペレーターの仕事をしてた時も、電話の先の会ったことないお客さんの身の上話まで聞いてた(←それで会社の教育係からお叱りを受けた 苦笑)。

お見合い的な席でさえ、私は相手の心の傷の話を聞いたりしてた。

ちなみに心が重くならないの?とよく聞かれるけれど、私の体と心はその辺りよく出来ていて、上手いこと適当に聞き流してその直後に普通にご飯食べたり本読んだり寝たりできる。

そんな風にして考えるとまた1つ自分の内側で思っていたことに近付く。

そして自分のこれまでの支離滅裂な体験たちが、きちんと私に何かを気付かせるために起こっていたこともわかる。

よくこういう心理とかスピ系の本なんかで「犠牲者になってるのはあなた自身が選んだことです。その思考を手放しましょう」なんて書かれていることがある。

私はこの考え方は、どこか暴力的だなと感じて好きじゃない。

大人になってからならまだしも、色んな分別がつかない子どもの頃の体験というのは、そんな簡単に片付けられるものじゃない。

自分が好き好んで選んだ犠牲者ではない。

何だか訳も分からないのに、その立場に自分がなってた、という方が状況としては近い。

私は自分が犠牲者とは思わなくても、もし経験せずに済んでいたのであれば経験したくなかった。

その思いはある。

だから犠牲者になってるのは自分の選択の結果だ、なんて言われても納得できないどころか怒りさえ湧く。

大人になってからのものはまだその言葉の意味がわかる。

だけど、例えば幼少の頃の体験したくなかった痛ましい出来事たちは、自分自ら被害者に立候補したんじゃない。

で、それらの言葉を見ても癒しにならないどころか怒りさえも湧いてた私自身は、「何かが違う」ということだけはわかってた。

「犠牲者になってるのはあなた自身が選んだことです。その思考を手放しましょう」

こう言われても癒しが起きないのはわかった。

だけど、今の私は言える。

自分がたくさんの体験を重ねたから言える。

『心に受けた傷の出来事は変えられない。もう起こったことは変えられない。
だけど、その時の傷を自分の手で癒すことができる』って。

そう、可能性を示すことも、そしてそこから実際に癒しを生むこともできる。

ちなみに癒し手は私じゃない。

私はやり方は伝えられても、癒しを起こすのは本人自身。

でもそれが一番大事だと思ってる。

自分以外の人に癒されても、また違う傷が出てきたらまた誰かを頼らなきゃいけない。

でも自分で癒すことができたらそれは自分の自信にもなるし、そして他の傷も自分で癒せるようになってくる。

私が目指したいのはいつもそこで、そしてそれを自分の中で体系化するのに全ては必要な体験だった、と昨日の運転中に気付いた。

混沌とした人生の出来事たちが繋がった。

これからそれを具現化するのにはまだまだすることは山とあるけれど、少なくとも軸が定まった。

ホロスコープは魂の鑑定書だと思う。

ホロスコープは私という人を色んな角度から見せてもらえる。

もちろんそれだけではまだまだ自分を理解するには難しい。

そこはあくまでも入り口に過ぎないと私は思ってる。

だけど、そこから疑問に思ったことを自己流でどんどん調べていくうちに、大切なヒントに行き当たる。

それは他の人が見ても何ともないことでも、私には喉から手が出るほどに知りたいことだったりする。

そして点と点だった情報や自分の体験が突然一本の線で結ばれる。

そうすると、色んなこと全てに意味があったことも、それを体験する意味も、自ずと見えてくる。

まさに人生の紐解きのようなことを今している。

私は今「生きたい」と思ってる。

不安も心配も焦りもたくさんある。

自己否定のクセも相変わらずある。

周りからの理解が得られないことももちろん多い。

それでも今の自分で生きていたいと思う。

せっかくここまで山を登れたから、もう今さら下山はあり得ない。

もう死にたいとは思わない。

上手くいかないことがあっても、それだから死にたいにはならない。

ちなみに自分のことをこんなにも知りたいと思うのは、自分を知る方が楽に生きれるとわかったから!

自分を活かすぞ‼︎みたいな暑苦しい体育会系な理由じゃなく、私の中では単に自分が楽になりたいから。

それに尽きる。

そういうことを教えてくれたのがホロスコープで、そして自分のこれまでの体験だった。

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