「メガネ女子」という言葉を数日前初めて聞いた。
うっかり「私もメガネ女子」などと口走らなくて良かった、と後からネットで「メガネ女子」なるものを検索した時に思った。
世の流行にうといから、世間一般で言われる「メガネ女子」が一体どういうタイプの女の人を指すのかはわからないけれど、少なくともネットで出てきた「メガネ女子」たちは皆揃って美人だった。
「メガネ女子かぁ…」などと思いながら、ふわっとメガネの思い出が2つ浮かび上がってきた。
まさか「メガネ女子」が人生のヒントをくれるとは思わずに出てきた思い出たちだった。
今でこそ私はメガネを日常的にかけて、人に会ったりする時や飲み会や結婚式なんかの席に出席する時だけコンタクトをするようになっているけれど、元々は反対で普段コンタクトをしていてオフや必要な時にだけメガネをかけていた。
その「メガネ」がこんな会話を毎週生み出していた。
「ぶっちゃん、今日夜勤でしょ?メガネかけてるもんね~!」
家庭の事情(虐待とか)で家では暮らせらない子どもたちが生活する施設で働いていた頃のこと。
夜勤は15時から翌日のお昼の12時までの勤務だった。
途中仮眠程度に寝るのは3時間あればいい方だった。
当然そんな長い時間コンタクトを着用するには目がしょぼしょぼするし、朝の戦場と化したような時間にコンタクトを着ける余裕があるならその分ごはん作りか他の諸々の支度をする時間の方が必要だったから、夜勤の時は毎回メガネだった。
だから子どもたちの中で「私がメガネをかけている=私の夜勤の日」という図式が出来上がっていた。
いつだったか何人かの子どもたちに言われたことがあったけれど、子どもたちにとってその日誰が夜勤に入るのかというのはものすごい一大事で、学校から帰ってくるとまずは大人たちの勤務が出ているホワイトボードを見るとのこと。
だから子どもたちと「ぶっちゃん、今日メガネかけてる!夜勤だね」なんていう会話は、こうして文字にすると大したことない会話でしかないけれど、それは「今日は一緒だね」というようなニュアンスも含まれていたと思う。
5年半働いたその場所で単純に計算すれば270回前後の夜勤をしたと思うけれど、その会話は最初の頃から最後辞める時までずっとずっと続いた。
それも1人2人じゃない、何人もの子どもとその会話を交わした。
そんなことを「メガネ女子」の言葉を皮切りに思い出していたら、自分がどうしてその道に進もうかと思ったのかを、久しぶりに鮮明に思い出した。
大学4年になった年、福祉の現場実習に8ヶ月450時間費やすことが卒業単位の一部だった。
私の大学は、自分自ら実習先を探し出すことになっていた。
頭ではわかっていたけれど、私は得意の先延ばしをして、そして本当にもう決めないと卒業が間に合わないという頃、ようやく重たい腰を上げて探し始めたのだった。
当初私はスクールカウンセリングを実習先として希望していた。
そこで受け入れ実績のある数校に連絡を入れたけれど、どこもすでに実習生を受け入れていてこれから先数ヶ月は空きがないと断られた。
担当教授のところに行って相談しに行ったら「選択肢は2つ、このどちらかで探すように」と言われた。
1つは、分野を変更して障害なりホームレスなり高齢者なり別の施設や組織に行く。
もう1つは、あくまで「児童福祉」にこだわるのであれば虐待された子どもを保護しているグループホームへ連絡するように言われた。
私の中で「子ども」と関わること以外に選択肢はなかった。
虐待は全く興味関心もなければ、専門知識も全く持ち合わせていなかった。
だけど、子どもと関わるのであればもうそこしかないと言われ、それで渋々グループホームへ連絡したのだった。
見学・面接・人物調査と経て、ようやく受け入れが決まり実習が始まった。
私が子どもにこだわったのは、別に子どもが好きだからという理由じゃない。
自分が子どもの頃、色んなことを吐き出す場所がなくて、それで今度大人になった自分はそういう場を作りたいと思った。
好きだからということはなくて、家と学校しか基本的に選択肢のないような子どもの頃に、絶対的に安全な場・自分の気持ちや思いを言える場、そういうものが自分が欲しかったから、だから私は子どもにこだわった。
という感じで始まった実習ではあったけれど、当初からそんなのどこ吹く風状態だった。
子どもたちはむしろ私の神経を思いっきり逆撫でしてくれ、8ヶ月中3分の2以上の時間は実習も嫌だったし、子どもと関わるのも心底嫌だったし、1日も早くさっさと終わらせてしまいたかった。
最後の1~2ヶ月位だったと思う。心境に変化が生まれた。
私の実習先で生活していた子どもたちは、虐待やそれに付随して受けたダメージの度合いからして、最重度の次に重たい重度に近い子どもたちだった。
障害ということではなく、心の傷・ダメージがとてつもなくでかかった。
ぱっと見は普通の子どもたちと何ら変わらないけれど、口を開けば罵詈雑言当たり前、大人をおちょくり、試し行動と呼ばれる行動を本人の気が済むまでやり続けてくる。
試し行動は、相手が信用できるかどうかを見るための子どもなりのテストみたいなものだと私は教わった。
だから最初の数ヶ月はひどい惨状だった。
そしてそこを超えたぐらいから少しずつ子どもたちがなつき始めた。
それでようやく子どもたちが可愛いと思えるようになったし、そして子どもたちと関係を1から作る楽しさ・面白さみたいなものもわかるようになってきた。
色んなことがあったけれど、2つとても印象に残っていることがある。
1つは英語での本の読み聞かせ。
ブレークは11歳の男の子だった。
高機能自閉症という分類になると思うけれど、ぱっと見は普通の男の子。
だけど自閉症特有のこだわりの強さで人間関係のトラブルは日常茶飯事だったし、そしてブレークのルールと世間のルールは互いに平行線状態で、ブレークが納得できないことはどこまでも納得できないままだった。
そんなブレークは頭脳がずば抜けていて、特に言葉の読解力は半端ない力を持っていた。
当時小学校5年生にして、大学生が読むレベルの文章をすらすらと読み、理解できる力を持っていた。
そんなブレークとは、最初の数ヶ月ずっとずっと仲たがいをしていた。
大人げない私は、自分より10こも下のブレークと本気で言い争いをしていた。
私も頑固で、絶対におかしいと思うことはどこまでも譲らなかった。
そんなブレークもやっぱり小さな男の子で、夜寝る時は必ず誰かしら大人から本を読んでもらっていた。
最後の1ヶ月ほどだろうか。
ブレークはその本読みの係に私を指名するようになった。
私は正直すごく嫌だった。
係に指名されるのは名誉なことだったけれど、とにかく私の下手くそな英語の発音を披露してまでする本読みというのが本当に嫌だった。
最初の日だったような気がする。
私はブレークに正直に伝えた。
「本読みの係に指名してくれるのはうれしいんだけど、私よりもっと上手に読める人たちが他にいるから、その人たちに読んでもらう方が聞きやすいだろうと思う。他の人と代わろうか?ブレークも私の英語の本読みが上手じゃないのは知ってるでしょ?」
そうしたらブレークは答えた。
「フミコ、あのね、フミコの英語が上手かどうかなんて重要じゃないんだよ。ぼくはフミコに読んで欲しいんだよ!」
ブレークの言葉を聞いて私ははっとさせられた。
別に上手か下手かなんてどちらでもいい。
それよりもブレークにとっては私との時間が大切だった。
2人で過ごす時間を大切にしようと思ってくれていた。
私はブレークにごめんねとありがとうを言って、そのまま本読みを始めた。
よくつっかえるし、何なら読み方がわからないとブレークに教えてもらうし、とても寝る前の入眠効果なんか全く期待できないどころかますます頭が冴えそうな本読みだったけれど、それでもブレークはその時間にとても満足してくれていた。
そしてそれ以降私もごちゃごちゃ言わず、まっすぐブレークの部屋に行って本読みをした。
こだわりの強いブレークだったけれど、よくよく思い出すと私の英語の発音については珍しく何一つ言ってこなかった。
間違えていても、普段なら小姑のように指摘するブレークが、その本読みの時間だけは本当にその時間を愛してると言わんばかりに静かだったし穏やかだった。
言葉を超えたコミュニケーションをブレークは私に教えてくれた。
そして人間同士の関わり合いの時に、言葉の上手下手はあまり関係ないということも教えてもらった。
それよりも言葉にはできない部分、目には見えない部分での繋がりの方が実はうんと大切だということも知った。
そうやって、人間関係を1から子どもたちと作る面白さをそこでは教えてもらった。
そして日々変化する関係に私はものすごく魅せられていた。
もう1つ印象に残っていること。
それは言葉の壁だった。
アメリカ生活4年目、英語はかなり達者になっていた。
授業も普通に英語で受けているし、色んな人たちと会話を交わすし、論文もたくさん書いたおかげで語彙もどんどん増えた。
日本帰国後すぐに受けたTOEICで925点を取り、それが相当なレベルであるというのは後から知った。
だけどそこまでの英語力があっても、やっぱり言葉の壁には勝てないということがわかった。
言葉の問題が顕著になる場面は2つあった。
1つは、子どもたちが自分の胸の内を明かす時、それは過去の超トラウマ級の話をする時も度々あったけれど、そういう時に私は100%理解できないのがものすごくもどかしかった。
すごく大切な部分のところが理解できなくて、それこそ私がこのブログに書いている言葉を丸っと理解するぐらいの語彙力がないとどうしても最後のところで寄り添いきれない感じが残った。
さすがに英語でここまでの差異を感じ取るだけの読解力や共感力はない。
その言葉を聞いても、それがどの程度重たいものなのか又は軽いものなのか、相手の表情や声質なんかで読み取れても、言葉として理解できる部分には限界があった。
もう1つは、言語は文化から生まれるとはよく言ったもので、文化に根付いた言葉を知らないことで日常的に困ることが多々あった。
例えば「だるまさんがころんだ」的な遊びが英語でもあるけれど、そういう誰もが知ってる遊びなんかを毎度毎度見聞きしないといけないのが若干私にはストレスだった。
これが日本語ならそこがクリアになって楽なのになぁといつも思っていた。
言葉の壁を感じたおかげで、私は卒業したら日本で子どもと関わる仕事をするってスパッと決められた。
大学4年間向こうにいると、卒業後1年間は特殊なビザの申請が可能で、そのビザを使って働くことができる。
周りの日本人の友達でもそれを使ってる子たちは何人かいたし、私も申請を考えなかったわけじゃない。
だけど私はアメリカに残るんじゃなくて日本に帰ることを決めた。
ブレークとしたようなやり取りを日本でしたいと思った。
せめて言葉の壁を感じないところで、もっと目の前の子どもに全力で向き合えるような状態で子どもと関わりたいと思った。
それが冒頭の「ぶっちゃん、今日夜勤でしょ?メガネかけてるもんね~!」の場面に後々繋がっていった。
ネットで見た美人なメガネ女子からは程遠い私の夜勤メガネではあったけれど、今となってはもうあの時にしか存在しなかったとても貴重なメガネトークだった。
もう生涯を通じて、私がメガネをかけているとそれだけで喜んでくれる子どもたちがいるなんていう体験、二度としないと思う。
「メガネ女子」なる言葉は決してそんな意味で聞いたわけじゃなかったけれど、私がその言葉を聞いて真っ先に思い出したのは、そんな子どもたちとの会話だった。
そしてその会話は私の心の中を一気に満たしてくれる、幸福活性剤的な存在に今はなっている。
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