占いとは全く違うものだということが今回初めて受けてみてよくわかった。
星座占いは誰にでもなじみがあると思う。
でもホロスコープはそんなものではなく、自分の生まれた日と生まれた時間、生まれた場所の緯度経度を入れて、それで太陽と月をはじめ世の中で今認識されているすべての天体から割り出した星の配置を見て、その人自身の性格や今世の目的、人生の流れ、得意なこと不得意なこと、人間関係の特徴など、とにかく実に色々な側面から自分自身を客観的に教えてもらえる。
鑑定書の最初に「同じ星の配置は26,000年の時を経ないとできないと言われていて、唯一無二の人生の設計図(魂のシナリオ)」と説明があった。
実際の対面鑑定の時、鑑定書に書かれていたその部分について確認するとこうだった。
地球も月も他の天体もそれぞれ自転公転をしていて、そしてある場所のある日のある時間の天体の配置というのは、それと全く同じ配置にするにはおよそ26,000年かかると言われているとのこと。
それだけすごくピンポイントでレアなところにそれぞれの人たちが生まれ落ちていること。
だからたとえ同じ場所の同じ日に生まれたとしても、たった1分違うだけで全く違う人生のホロスコープになるとのこと(1分違うだけで違う天体図になるらしい)。
もちろん私は私、他の誰かは他の誰かのそれぞれのホロスコープがあるわけで、そんな26,000年の時を経ないと同じにならないような星の下にそれぞれ生まれた唯一無二の人たちが、今世何かの縁で知り合って仲良くなるというのは、もうとんでもない確率で起こっていることがわかる。
そんな前知識も何もなく、私は自分の興味関心だけで受けてきた。
色々とわけのわからないことが起こってきたこともあったし、そろそろ自分の人生を違う風な方向に舵を切りたいという気持ちも湧いてきたし、そもそもの自分自身をもっと客観的に深く知りたいという気持ちもあったし。
まぁそんなこんなのあれこれが重なって、それでようやく鑑定を受けたのが1週間前の2月4日だった。
とても丁寧にリボンがかけられていた鑑定書
自分に人生で初めて花を買った。
受けてみての感想はとにかく「驚いた」の一言に尽きる。
鑑定書を作成してくれた鑑定士の方は、当然当日まで私と会ったこともないわけで、私がどんな人物かというのは一切知らずにいる。
なのにどれだけその20枚という紙の中に、「私」という人物像が表れていたことか。
各天体に位置していた星座から読み取れるメッセージをそれぞれ付けてくれていたけれど、丸っと自分の大切にしている価値観だったり、何ならすでに過去にやってきたことだったり、もしくはこれからやっていきたいと思うことだったり。
ペンジュラムのことも途中で出てきて、それにもぶったまげた。
「植物や石などの持っている目に見えないエネルギー体とコミュニケーションをとることが得意です」なんてある。
認めたくはないけれどよく人に言われることまで書かれていた。
「少し天然ボケをするようなところもあるかもです。」
福祉に関わる仕事や、多くの子供を相手にするような仕事とか、本当に実際にやっていたことも普通に言葉として出てきた。
付き合う人や人生で会っていく人が、「風変わりの人や頭のいい人が多くなります」とあって、これは本当にその通りになっている。
自己表現が大きな鍵だったり、「インスピレーションと現実のすり合わせ」というのはまさに私が目指したいと思っているところだったりする。
マッサージや自分の手に興味が湧いてきたことも事前に質問で出したら、「マッサージ」がまさに2018年の星の流れの中に出てきていることが伝えられた。
なんなら胸の大きさ(体の特徴)についてまで言及されていて、そんなことまで生まれた日の天体図から導き出せるのかと思うととにかくビックリの一言に尽きた。
実際の鑑定ではさらに驚くようなことが目白押しだった。
たとえば私の場合、スピリチュアルなことやサイキックな知性といわれるものを持って生まれてきているとある(私にはそんなサイン読めないから、書かれたまま引用)。
それが本来の姿に対し、それとは違う人生を歩もうとすると、軌道修正が入るようになっているらしい。
そしてその軌道修正も、ちょっと外れているぐらいなら優しい軌道修正になるけれど、大きく外れていると軌道修正の方法も半端ない力で働くから、本人にとってもとてもしんどいものになりやすいとのこと。
その軌道修正は30歳を過ぎてから通常は出てきます、と説明された。
その時は淡々と聞いてメモを取ってきたに過ぎなかったけれど、今改めて読み返すとまさに自分の人生がそんな風に展開していたことを知る。
名古屋での生活を一言で表すなら「スピリチュアルな世界へようこそ」だった。
「ようこそ」と書いたけれど、実際の現実的な生活はことごとく大変な方、大変な方へ向かっていって、それでどうにもこうにもならなくなったタイミングで、救世主のような大人たちが人生に現れてきた。
そしてその大人たちの人柄もスピリチュアルな知恵も本当に本当に素晴らしくて、私はその人たちから教えてもらわなければ今もそういうものを毛嫌いしていたと思う。
今でこそそういうものに抵抗なく触れられるようになったけれど、31歳ぐらいまでは私はそういうもの全般をとても危ないものだと思っていたし避けていた。
福祉の仕事の兼ね合いプラス元々心理に興味があったこともあって、20代の頃よく心理系の本を立ち読みしていた。
大きな書店に行くと、心理の棚のすぐ隣りが「精神世界」と銘打たれた棚で、ちょっとだけ目をやるとUFOだの宇宙のエネルギーだの○○の叡智だのと、もう見るからに怪しげで、あそこは絶対に危ないから近寄らないにしようとずっとずっと思っていた。
今みたいに癒しだのヒーリングだのと巷に溢れるような頃ではまだなかったから、あそこは頭の狂った人たちが読み漁る書物のコーナーと思っていた。
当然その時の自分なんかが、未来の自分は石(ペンジュラム)と対話しているなんて想像さえしていなかった。
鑑定書にはサイキックな能力について至るところで書かれていたし、そして私の場合の能力は、どちらかと言えば、現実世界に則したものを目指していたり、または自分が実践してそれを世に公表するみたいな感じで書かれていた。
その中の1つに「日常的な出来事の中にあふれた霊的な暗示を読み取る能力」というのが出てくる。
まさにそういうものを読み取る力が最近出てきたし、それを人に伝えることを実際に始めたのも本当だった。
自分を生きるのにものすごく抵抗があることもホロスコープ上には出ているらしく、それとは反対に自分の価値観で生きることが自分の人生のテーマの1つで、他人の価値観はどうでもいいと思えるようになるとすごくいい方にいくということも説明された。
まさにそういう感じで今変わりつつある。
ペンジュラムのこともそうだし、色んなものからサインを読み取ってそこから必要なメッセージをキャッチして伝えることもそうだけど、私はそういうことをとても隠したいというところが強かった。
私はごくごく一般的な家庭に生まれていて、さらには一般的な生き方とでも言えばいいんだろうか、大学まで行ってその時々で縁あった仕事に就いて…というごくごく普通な感じの生き方をしていた。
色々普通ではないことも実際はたくさんあったけれど、私はそれらを実に普通に「まぁそういうこともあるか」と片付けていつも終わっていた。
それが30歳を過ぎた頃からそういう風には人生が流れなくなって、それこそ私が言う「不可抗力的な力」というようなものが働いているとしか思えないような出来事もどんどん出てきて、なんだこれ!?という風になって早8年。
そういう中でスピリチュアルな世界の知恵を色んな形で得ることになって、それで実際に自分の中でも色々しっくりときたり自分が楽になれることもたくさん出てきた。
でもやっぱりそういうものは世間ではあまり理解されないものという固定観念みたいなのが強くて、それを公表しようなんて全く考えていなかった。
別に黙っていれば普通に生活もできるし、黙っている方が都合がいいことも実際に多いから、それで良かった。
だけど、2017年の12月に命の授業的なイベントに出て、そこで私ははっきりと自覚することになった。
自分の本音で生きていきたいって。
こそこそ隠れるようにして、言葉にも最善の注意を払って今後も生きていくというのがとても窮屈に感じるようになった。
そのイベントのとても良かったところは、そこで話した4人のスピーカーの女性たちも多分今の私と同じような状況を経て、今いるそのままを発信するに至っているところがとても良かった。
それぞれの方は全く別々の職業に就いていられるけれど、職業はある意味何でも良くて、どういう在り方や生き方をするのかが大事だということを体を持って示してくれていた。
自分の思っていることと口から出ている言葉にギャップがないから、言葉もとてもストレートに伝わってきた。
それにものすごく憧れた。
そして私は少しずつだけど、そういう自分を出す練習を始めた。
実際に本当に知らない人に出したのはまだ1人だけど、やってみてわかったこと。
それは新潟に戻ってから知り合った人だったけれど、私がどういうことを話しても私が私でいる限り相手はそういう私を受け入れてくれるということだった。
それには驚いた。
その日のこともその日にそのまんま文章を書いていつアップしてもいいように残しているけれど、世間一般で言う「死」についても取り扱っている。
30分くらいの短い時間でその友達は2つの動物の死体を見た。
決して気持ちの良い話じゃない。
だけど私にはその死の意味が別の意味を持って今やってきていることがわかったから、それをそのまま彼女に伝えた。
死=不吉ではなく、彼女が今回見たのは死=これまで続いてきたもの(負のもの)の終わりのサイン、そして新しい流れがこれから出てくることとして私はその時のことを伝えた。
私の発想が世間一般からずれていることは重々承知している。
でもどんなことにも必ず悪いことではなく良い面も含まれている。
それが自分の体験を通してもたくさん知ることになったし、それこそ名古屋にいた時にそういうサインの読み解き方を教えてくれる人たちが周りにいた。
そして私もそれに救われたし、それを知ったことで人生の質が大きく向上した。
もうそういうものを隠さないで出す、相手がそれをどう思うかは私の知った範疇ではないと割り切れるようになった。
ホロスコープ鑑定の話に戻そう。
鑑定中、鑑定士のミエコさんは何一つ私にアドバイスとか助言はしなかった。
ただただ淡々とミエコさんが読み解いたホロスコープをわかりやすく解説し、そして私の質問が出てくるとそれに答えてくれるというスタンスだった。
そこはちょっと拍子抜けしたけれど(私は勝手にヒントやアドバイスがもらえると思っていた)、それがまさにミエコさんが目指しているものだということを知った。
ホロスコープには本当に自分のことが描かれている。
それは「魂のシナリオ」という名前の通りだと思う。
だけどシナリオはあくまでシナリオで、その生まれ持ったものに対してそれをどう活用するか・何を選択するかは個人個人の意志に任されている。
例えば「子供と関わる仕事」は保育園でも学校でもはたまた町内会の子供会の役員でもそれは何でも良いと思う。
私はたまたま児童養護施設と学習塾とドミニカでは読み書きの教室が舞台となったけれど、そんな細かいところまでは魂のシナリオは言及していない。
そして面白いなと思ったのは、決して私はそんなことを1つも知らずにこれまでの過去のことを選択してきたけれど、結局魂のシナリオに描かれているようなものを人生のあちらこちらで自然と取り入れていたことだった。
ペンジュラムについても、私は自分がそういうものと意思疎通ができると知って手にしたんじゃなく、なんだかたまらずに惹かれてそれである日ペンジュラムが売られてるのをアジア雑貨屋で見かけて手にしたに過ぎなかった。
そしてそれがあまりにも面白い情報をたくさん伝えてくるものだから、それが面白くて私はどんどんはまっていっただけだった。
別にサイキックになろうとか、そういう能力を引き出そうなんていうのは1ミリも思っていなかった。
だからこそ逆に良かったのかもしれないと思う。
鑑定が終わってミエコさんはすぐにメールをくれた。
その返事も含めてたくさんのお礼を伝えたくて私もミエコさんにメールした。
そうしたらまた再度ミエコさんは返信をくれた。
そこにはこんな風に書かれていた。
「ホロスコープ鑑定をメニューに掲げながら言うのもなんですが、本当に最後に決めるのは、誰のものでもないその人生を生きているご本人だと思っていて、人生の主導権は星ではなく、あくまでご本人だと思っています。
たいてい、鑑定を依頼される方は、以前の私もそうですが、不安や、自信のなさ、自己評価の低さなどがあったりしますが、それを占い師や鑑定士が悩みだけにスポットライトをあてて答えても、その人の大切な自己信頼を引き出すことができないのではないかな、と思ってます。
私のホロスコープ鑑定は一発占星術と決めてて(笑)ホロスコープの情報を全部出し切り、その方が悩みの解消いぜんに自分を好きになったり、自信が持てたり、自己信頼を持てるには…を特に考えています。
きっと鑑定を受けたあとも悩みなどはでてくると思うのですが、その時に『自分で決める』ことができるように…と思って鑑定しています。」
私が「魂のシナリオはシナリオで、その上でどうするかは自分の自由意志で決めていける・決めていくことが大切だと気付かされた」というようなことを書いたら、
「これは『自分を生きる』と決めている人、『自分の人生を受け入れる』ことができてる人じゃないと、私がいくら口頭で言っても気付けないと思うんですよね。」
と言ってくれたことが本当にうれしかった。
ホロスコープ鑑定の前と後とで変わったことの1つは、自分自身への信頼度と自分を出すことへの不安が減ったことだと思う。
自分ではわけがわからずに選んだこともそれはみんな自分の魂のシナリオに書かれていたことと一致していた、というのはこれからも自分を信頼して進んでいったら大丈夫というものだった。
そして自分を出してもそれが自分そのものなら、もう隠さなくても大丈夫な気がした。
ミエコさんは最後にこんな風にメールを締めくくっていた。
「私も、また史子さんとは何かのタイミングでお会いする感じがします。
そのときまでの、お互いの成長が楽しみですね!」
色々ミエコさんに私のことを説明してもらって、私そのものの成長を信じてくれている、ミエコさんの最後の文面は私へのエールみたいだった。
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