今年の初夏から夏にかけてだったと思う。
2人の同級生がそれぞれ亡くなったと聞いた。
1人は深夜の交通事故で。
もう1人は、仕事に来ない本人と連絡つかず、職場の人が見に行ったら突然死していたとのこと。
お盆に高校の友達に会った時、その話になったら、1人の子が、亡くなった子の両親から同じ市内の子に1人連絡がいって、その同じ市内の子経由で高校の同級生のグループLINEにそのことが回ってきたと言っていた。
その子は小中高と同級生でクラスや部活も一緒だったからよく知っている。
その子との回想シーンは後から書くとして、その2人が亡くなったと聞いた時にとっさに思ったことをまずは書く。
40歳で亡くなった2人の訃報は驚きと共に、「私は生き長らえてるんだな…」と思った。
1人なんかは、育ち盛りの子どもが2人だか3人いて(という風の便り)、突然の事故は残された家族も本人もやりきれなかっただろうと思う。
もう1人の子に最後会ったのは多分10年くらい前だと思う。
意を決して、たった一度だけ同窓会に行った。
その時に会ったのが最後だった。
離婚したり病気したりと色々あったみたいではあったけれど、最後も本人も死ぬなんて思っていなかったと思う。
どちらにしても、まだまだこれからという人たちが亡くなって、自分の生き方に迷いまくりな自分が残って、何とも言えない気持ちになった。
誰もがいつかは死ぬにしても、40歳で亡くなるのは早い。
そして、同い年の同級生が亡くなると、より一層感じてしまう。
そこで今世は終わりの人と、私のようにまだ続く人と。
続くということは、何かあるから続くんだと思う。
こんな時にホロスコープの話を持ち出すなんて不謹慎や非常識かもしれないけれど、なんとなく思ってしまうからあえて書こうと思うけれども。
来年2020年は20年に一度、そして何百年に一度というスパンでしか起こらない星の配置がある。
もちろんそれは天体側の影響だから、この地上に生きている人みんなに等しくそのエネルギーは注がれる。
そしてその中でもとりわけ、その特定の配置と個人の生まれた時の天体の配置に重なりがある人は、さらに強い影響を受けるとされている。
私ももれなくそうで、それが自分にとってどういう影響となるかは予測できないけれど、少なくとも生きてく中でやらなければいけないことに対して強く影響が出るだろうことは配置からわかっていて、それをやるとなると少なくとも来年までは生きるんだろうなぁなんて思ってしまう。
もっと言うと、オカルト的なことがさらに強化されると読み解けるようなもので、今から戦々恐々としている。
死ぬ時期は今じゃないんだろうなぁ…となんとなく漠然と思う。
早すぎた同級生2人の死は、その人たちがすべてやり終えて死んだとは全く思っていない。
代わりに、2人は亡くなって今も普通に生きてる私は、生きてるからこそやらなきゃいけないことがあるんだろう…、そんなことを思った。
2人目の突然死となった子を私はカヨちゃんと呼んでた。
カヨちゃんは4年生から同じ器楽部だったけれど、同じクラスじゃなかったし、当時のカヨちゃんは超おてんば娘でチャキチャキなタイプだったから、私はいつも気後れして近づけなかった。
5年生の時、初めて同じクラスになって、それで打ち解けて話ができる仲になった。
ある日の放課後の教室でのワンシーンが忘れられない。
カヨちゃんは3歳の時に上半身大やけどを負って、年がら年中長袖を着ていて、体操着なんかも特注でみんなと同じ半袖のデザインの長袖バージョンを着ていた。
私の他にもう1人か2人いた。
カヨちゃんは明るく「見せてあげる」と言って、服の袖をめくった。
やけどの跡がしっかりと残っている皮膚を惜しげもなく見せてくれた。
可哀想と思わなかったわけじゃなかった。
でもそれ以上に、そんなことに屈しないカヨちゃんの強さや明るさの方を感じた。
そのカヨちゃんといると、なんだか自分までもが明るくなれる気がした。
他にも思い出したエピソードが2つある。
ある時、男女別の性教育が行われた時のこと。
今は知らないけれど、小学校の当時は男女別々だった。
関係ないけれど、高校の保健体育は私たちの年から男女一緒に授業を受けるスタイルになったから、性教育的な内容も男女一緒に受けた。
忘れもしない、教科書を指名されて読んだ時。
私はたまたま性描写というかモロにやってます的な行為の最前線のところを当てられて、それだけでも倒れそうだったのに、さらに漢字を読み間違えて訂正もされて(ちなみに男性側の状態)、本当に死ぬほど恥ずかしかった。
だからとてもよく覚えている。
でも小学校の時はそうじゃなくて、男女別の場所でそれぞれ行われた。
その後の話をよく覚えている。
その中で生理の話が出てきた。
5年生だから、始まっている子は始まっているし、でもそうでない子も多かった。
その時間の時に、保健の先生だったと思うけれど、生理は大事なもので恥ずかしいことでも汚いことでもないみたいな話があった。
そのくらいの時というのは、年齢的に早く来た子はコソコソしながら恥ずかしい思いをしている風だった。
私なんかは二次性徴全般が遅かったから、当時なんてまだぽっかーん状態だった。
そんな時にカヨちゃんがその後に私のところに来て、私に生理が来たかどうかを確認した後、「私はもうなったけど、大丈夫だからね!」とわざわざ教えてくれた。
そう、リアル生理のことを私にきちんと教えてくれた人生最初の人は、カヨちゃんだった。
もう1つ思い出したのは、2人でピアノの連弾をよくしていたこと。
カヨちゃんも私も別々の教室でピアノを習っていた。
ある時から、音楽室にあるエレクトーンを使って、2人で「今月のうた」なる全校で歌う歌の伴奏を片手ずつ分担して一緒に遊びながら弾いた。
前奏部分ばかりが何度も頭の中で繰り返されているけれど、カヨちゃんと何十回と飽きずに息を合わせて弾いたのは、「手のひらを太陽に」だった。
今動画を探して、同じ伴奏のものをYouTubeで見つけた。
♪ぼくらはみんな生きている〜♪のあの歌。
2人で交代したり速く弾いたり、とにかくゲラゲラ笑って弾きまくっていた。
お互いのピアノの発表会にも足を運んだ。
お互いを茶化しながらも、そうやってカヨちゃんとは、私の中の数少ないしあわせな子ども時代の記憶を共に持った。
中高はそれぞれ付き合う人たちも違うから、絡むことが少なくなった。
顔を合わせればあいさつしたり小さな会話はしたと思うけれど、エレクトーンを一緒に弾いていた頃のようなことはなくなった。
最後にカヨちゃんに会ったのは同窓会の時で、私はその時にカヨちゃんを見て心底驚いた。
見てすぐに何かあったことはわかった。
脳梗塞系の病気をしたか、もしくは精神的に参ったんだろうなぁという感じだった。
私が知っている明るくてチャキチャキなカヨちゃんはいなくなっていた。
代わりに、どこか気が抜けたみたいな、話すだけでも精一杯みたいなカヨちゃんの変わり果てた姿に、少なからず私はショックを受けた。
本当に「おてんば娘」というような面影は跡形もなかった。
のちにカヨちゃんはうちの母親の勤めている会社にも一時的に勤めて、どうやら何か病気をしたようだと知った。
それが最後に見たカヨちゃんの生きた姿だった。
そしてこの夏、お盆前だった気がする。
カヨちゃんが亡くなったと聞いた。
書きながら2つのことを思った。
自分の子ども時代の中でキラキラ輝いていたような明るい思い出もきちんとあったこと。
カヨちゃんから贈られてきた思い出のように感じた。
そんなこと、今書くまで忘れていた。
(ちなみに高校の保健体育の授業のことも忘れてた…)
もう1つ。
これは何の巡り合わせなんだろう…と思った。
私が天体の配置だの来年は大きく影響を受けるだのと書いていたまさにその時、ミッチーからノムがカフェの中で個人セッションをしている写真が送られてきた。
(ノム=占星術講座のクラスメイト、ミッチー=ノムのゲイの恋人)
今日はノムが人にお願いされて、占星術の要素も使った個人セッションをしに行っていて、その様子をミッチーが写真に撮ってわざわざ送ってくれた。
そもそもミッチーがそんな風に写真を送ってくれたことにも驚いたけれど、あまりのタイミングぴったりな感じにも心底驚いた。
このまま引きこもったのならどうなるんだろう…?とか考えてたところに届いた写真だった。
生きることや自分の人生の計画にきちんと目を向けるように言われてるみたいな風にも受け取れた。
それは裏を返せば、逃げてる自分でもあって、まだそこにはきちんとした答えを出せないままでいる。
最近じゃ、その答えを出せない自分にとことん付き合うしかないかと思ったりもしている。
だから何だ?という話だけど、そんなこんなのこともありつつのこの文章だった。
同級生2人の死に手を合わせながら、それがあったからこそ逃げている今の自分にほんの少しまた向き合ってみようと思っている。
手のひらを太陽に【伴奏】ーYouTube
(↑リンク飛びます)
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