2019/07/14
いつかアップする予定の話。
私は2時間ほど前、あるブログにコメントを残した。
こんなこと、年間通しても3回するかしないか。
余程のことがなければ基本的にコメントを残すなんてしない。
今回何でコメントしたかと言うと、多分けっこうな人数の人が検索でたどり着いて見るだろうブログで、そこに誤情報じゃないけれど、発信者の人が提起している内容に対して、99.9%はなくても0.1%は起こりうる可能性を否定した内容で、その否定された部分の体験を持つ私はそれを書きたくてコメントした。
どのぐらいの確率でそのコメントが人の目に触れるかはわからないけれど、その0.1%の体験を持つ人がいつか見たら、混乱しなくていいように、ブロガーの人の意見を否定するみたいで嫌だったけれど、冗談抜きでその限りなくゼロに近い体験を持つ人が見たら、その大多数の常識的な内容に心が負けてしまう。
だから、そうじゃない体験もあるよ、ってそれを言いたくて書いた。
ずっと更新もされていないブログだからコメントなんて返ってこないと思ったら、まさか即返ってきてビックリしたけれど、それ以上に発信者のコメントを見てビックリした。
コメントには、私のは「違う」とあって、その定義の限りでは当てはまらないとあった。
書いといて良かった。
「自分の感覚で判断することが大切だと最近気付いた」と書いといた。
反論したいことは山ほどあったけれども、私はその人と論争したいのではなく、あくまでもいつかそれを見て私のように落ち込まなくていいことや否定しなくていいことに反応する人がいたら「例外もあるよ」と言いたいだけだから、それが見える形になっていたらそれで御の字だった。
自分がどんな情報を選ぶのか、今の時代、これからの時代、本当に個人のセンスによる。
ちょっと厄介だなと思うのが、頭がしっかりしている時の情報収集ならいいけれど、自分でも訳が分かってなくて、超混乱している時にする情報収集の時。
今回コメントしたのは、かつての私が毎日それも数ヶ月調べ倒した内容に関連することだった。
毎日暇さえあれば調べた。
仕事の昼休みに、朝早く起きればその時間に、家帰ってきてやること終わったその後に、とにかく超調べまくった。
それを毎日毎日することの数ヶ月。
頭のおかしい人みたいだけど、本当に気がおかしくなりそうなぐらい色々おかしかったし、オカルト系のものも摩訶不思議なこともバンバン人生に入ってくるから、調べずにはいられなかった。
だから、私みたいなプロセスを経る人たちの目に触れる可能性が非常に高い。
何せ通常の冷静な精神状態とは違うから、客観性は欠けやすい。
そんな時に「それはありえない」などと言われたら、それがありえた自分などどうしたものかと思ってしまう。
今の私は、もう色んな出来事を経て、いくら99.9%起こらないとされていても起こってしまったから、それが私にとっては全てだし、それをどう解釈するかは私の自由だとわかって、自分が一番心地良い解釈の仕方で解釈している。
っていうようなことも書いたけれど、全否定!
相手の人こそ大丈夫か?と思ったけれども(←失礼)、こうした時に私は自分が自分の体験にすごく救われていることに気付いた。
過去にも仕事なんかでも99.9%は起きないとされるエラーとか、イレギュラーすぎて起こることさえ予測不能なこととか、そういうことにたくさん当たっていた。
大さじ1程度の水で子どもの足の指が脱臼するなんて考えられないけれど、私は目の前でそうなった。
子ども同士でふざけて、1人がおもちゃのコップに水入れてもう1人にかけようとして、それが床にこぼれたところにかけられそうになった側がそれで滑ってひっくり返って脱臼。
はっΣ(꒪◊꒪; )))) ?
頭は一瞬でフリーズした。
救急外来に飛んでった。
例えば真昼間、人通りが多い道歩いていて、しつこく呼ばれるから「うるさーい!」と思って声の主の方を見たら、1人で行為に及んでいて、下半身裸体見るとか。←男の人
さっさと無視して行ったけれど、こういうことも普通に起こる。
仕事中誰も見たことのない機械エラーに当たるとか。
iPhoneは、Apple Storeの担当者も過去に一度も当たったことのないシステムエラーが起こるとか。
何の自慢にも何の糧にもならないようなことばかりだけど、とにかく100%なんてことはおおよそこの世にはないことだけはわかった。
そうした諸々を経ると、情報に関しても99.9%ないとされるようなことも起こることがある。
否定した人は、何でそこまで頑なに否定するのかはわからなかったけれど、私の体験の細かいところまで何も知らないのに「違う」と良くぞ言い切れたなと思った。
肯定すると何かそんなに不都合があるのか、自分の理論を証明できなくなるのか、すべてにおいて何かがズレていた。
ちなみに私が何に反応してたのかはわかる。
私は多分自分が違うと言われたり、自分の体験を否定されたりするのはまだどうでもいいというか流したと思う。
私の体験の先には他の人も含まれていて、その含まれている人に対しての侮辱的な言葉を発してたことがどうしても許せなかった。
そういう行動に出る人たちを差別用語的な言葉で呼んでいたことが気に食わなかった。
私はそうした自分の反応が好きだった。
自分のことじゃなくて、そこに関わる誰かに対しての失礼な言い方にきちんと反応する自分や、自分の中の正義感みたいなのは、「これは自分の人生の中に譲れない大切なものがある」ということだから、それはとても嬉しいことだった。
私のおめでたさも相変わらずだけど、こういうおめでたさは幸せでもあると思った。
意地悪いから言うけれど、もしその人が同じ体験をしたとしても、その人の中では「私の定義とは違うのでそれ違います」と言うと思う。
それってなんてちっぽけな世界で生き苦しいんだろうと思った。
私が何ヶ月もかけて調べても結局「これ!」というきちんとしたものは得られなくて、最後はそんなこと調べてもわからないからもういいやとなった。
でも代わりに、私は一通りすべて自分が全身全霊で体験したことはそうだったと認めるようになっていった。
どうやっても否定できないから、自分がそうだと思える部分から徐々に受け入れていくようになった。
そして今は、その全てがあっての今の自分だと思っているから、誰に否定されても私は自分だけはそうだったと言い切れる。
誰の同意も賛成もいらない。
書いててわかった。
やっぱり私の反応部分は、相手への侮辱的な言い方の方だった。
なんだか私とっても純粋( ̄∀ ̄)!
しかも、それってすごく幸せな体験が得やすいということでもあると思う。
くだんの発信者は否定して終わりだけど(大真面目に、もしその体験が本人にもたらされてもその人はその頑なさで自分の体験を否定するのか聞いてみたい)、私は受け入れることとそれがあったことで幸せが人生に1つ多くもたらされたと思っている。
実際に1つ多くどころか、ものすごくたくさん幸せ部分が増えた。
そっちの方がお得な感じがする。
しかも、それを限定的な捉え方で否定するよりも、発想がおかしくても肯定する方が幸福感は圧倒的に増す。
最後は死ぬんだから、私はその調べまくることになった出来事全般に関して、今のような気持ちでいることの方が余生気持ちよく過ごせると知っている。
当時は色々絶望的すぎて、さらに訳が分からなくて大混乱の日々だったけれども、今はここまで落ち着いて否定されても強くある自分を見て驚く。
頑張ったなぁと思う。
何度も心折れまくりだったけれど、本当に頑張った。
コメントを最初見た時はすごい不快だったけれど、なんかこれ書いてたらすっかり元気になって、しかも自分でわかるほどの多福感到来みたいな 笑。
[後日談]
気になって、もう一度コメントを読んで、2つ3つ記事を読んでみた。
どうやら正しいことに重きを置かれてるようで、私へのコメントもその人にとっての正しくない又は誤りの部分はバッサリと刃を突かれていた。
それは私だけじゃなく他の人たちにも同様だった。
内容云々はとりあえず置いて、その人の在り方を見て、私はどうしたいのかがより一層ハッキリとした。
私にとって、100%の正しさは正直何でもいい。
私の例外が誤っていて、その人が書いている基準にハマらないからダメだと言うのでも問題ない。
なんだけど、私はその文章を見て不愉快さは生まれても癒しなど全く生まれなかった。
正しい間違いというものは、正しさを求める人にはそれで癒しの可能性があっても、私にはない。
そして他の人たちのコメントを見ても、やっぱり否定されてる人が圧倒的大多数で、それで本当に気持ちが救われたのかはかなり微妙だなぁと感じた。
私が数ヶ月に渡って情報集めに精を出していた頃というのは、到底受け入れられない現実を前にそれでも今日も明日も生きていかなきゃいけなくて、それを少しでも受け入れられるように、少しでも前を向けるように、そのために必死で自分が少しでも納得できるものを探した。
今は年単位で時間が過ぎて、色々癒されたり自分の中の納得度が増したり当時とは少しだけ状況が変わってきたから、情報をごくたまに見たりはするけれど、もうそんなには必要としなくなった。
だけど、最初の頃はやっぱりあまりにも訳の分からない状況過ぎて、私は何かにすがりたい気持ちがあった。
癒されたかったし、自分が納得できる何かを欲した。
自分自身でさえも「とってもおかしい」と自分のことも自分の置かれた状況もそう思っていた。
誰にも相談できなくて、一瞬だけ相談というか話を出したら、色々否定されて、当時冗談抜きでナポレオン並みに3時間睡眠が1〜2ヶ月続いたと思うけれど、それさえもおかしいぐらいなことを言われた。
(今なら話す相手を間違えたとわかるけれど、当時はそういう判断さえできなかった。)
それで余計と他人に打ち明けられないとなって、私はますますネットでの情報調べに精を出した。
そんな時にもし今日のような情報なら、打ちひしがれていただろうなぁと思う。
当時のこともそうだし、過去の色んな場面もそうだけど、正しいかどうかなんてのはどうでもいいことで、それよりも嘘でもいいから今を生きる力が欲しい。
それのためには癒しや安らぎなんてのがやっぱり私には大事で、必要だなぁと思う。
過去に色んな人たちの話を聞いた時もそうだった。
これは私の視点だけど、正しいかどうかの判断を人は求めていない。
むしろ正しさによって相手を傷付ける可能性だってある。
それよりも、何か心許なくぽかんと心に穴が開いてそれが生活そのものを脅かすぐらいの不安に悩まされている時、正しさよりももっと別の何かを人は大抵求める。
正しさでは人を救えない。
心のケアが必要そうな情報を出す時、私はそこを一番見ている自分に気付いた。
正しさを振りかざされて嫌な想いになったのも一度や二度じゃない。
それよりも心がどこまでも縮こまってどこにも相談できなくて、ネットの世界で何か似たような体験をした人たちが発信している言葉に当時の私は癒されていた。
ちなみに、今回は発信者側が詐欺被害から守るための意図を持っての情報ということもあったけれども(心理系のものは、詐欺ときちんとしたものと本気でよく見極めないと危ないものが実に多い)、そちら寄りで例外は1つも認めないというのが私にはどうやっても理解できなかった。
そうしたブログで1000を超えるいいねが付くというのは、それだけ影響力が大きいということ。
私もアホみたく情報を収集しまくったから発信できないわけでもないけれど、その件に関してだけは今もこれからも発信する気は毛頭ないし、それこそ情報が一人歩きして誰かの選択や生き様を狂わすような危険を感じるから、いくら発信は自由と言えどもそれに対してこのブログみたいに自由気ままに綴れる内容じゃないから絶対に書かない。
それで詐欺まがいなことをしている人たちがいるのも本当だし、詐欺が起こるほどニーズがあるのも知っている。
だけど、それは本当に責任持って発信しないといけないぐらいのもので、私はそれは自分はできないしやりたくない。
だから、本当ならそんな風にコメントだけを残すのが良いやり方とは思ってはいない。
だけど、確実にその極端な情報のせいで傷付かなくていい人がいるのも本当で、多分発信者はそこがあんまりわかっていないんだろうなぁと感じた。
言うなれば、机上の理論で現場の状況というか実際の人を見たことがほとんどないのかな…と思った。
ヤバイ、どんどん毒舌論になっている( ̄∀ ̄;)。
でも、これあなた目の前の人がその告白したら、同じようにそんだけ配慮のない言葉を言いますか?と聞きたい。
そして、相手の背景はどうやったってわからないから、そこはわからない以上配慮が要ると私はいつも感じる。
ジャンルを問わずに言うと、心が関係する情報は、現場100の私からすると「例外だらけ」だと思っている。
定説や一般論がいくらあっても、一個人が口開いたら、想像もしていなかった話がどんどん語られる。
そして、ある意味絶対の正解がない世界だから、何かを言い切ることは相当怖い。
私が基本的に言い切れるのは、実体験を伴って理解できたものだけ。
それ以外はあくまでも想定内でしかない。
そして実体験のあるものでも、私は言葉を相当選ぶ。
まず主語を「私」にすること。
そうすることで、個人の体験談的なクッションが出来上がる。
実は裏側に専門的な手法がくっついているものもあるけれど、そういう時も「私の話」になるようにしている。
2019/10/10
いつでもアップできるのに、アップしなかった記事。
今ごろになってアップ。
書いた中身は今でも覚えているし、その時に感じたことは今も同じことを感じている。
上に書いたことは、今も価値観は変わらない。
超どうでもいいことだけど、このコメントについての後日談。
発信者の人というのは、その人からして「正しくない」ことを書いてくるコメントには毎回確実に噛み付いていることがわかった。
その人から見て正しくなくても、私のようにそれを体験してしまった人などどう解釈すれと言うのだろう…と思った。
私はその人の説に反論したのではなく、あくまでも1%の例外を体験したことをコメントしたに過ぎなかった。
それを否定するなんて、その人も相当どうかしている。
単純に炎上させるのが好きで批判好きな人のところに私もコメントしてしまったのだな、と知った。
私がコメントしたたった1つの理由は、その人ではなく、その内容について本当に血眼で情報を欲してる人たちに自分の情報を書いて知らせるためだった。
私も血眼で探したから、その何でもいいからすがりたい気持ちはわかる。
それは2年前の私になるけれど、当時の私は発信される情報だけじゃなく、そこに付くコメントにまで目を通すぐらいに情報を欲してた。
たまに新たな情報の引き出しをコメント欄に書く人たちというのがいて、それに救われたりもしていた私は、とにかく自分の気持ちを少しでも落ち着かせてくれる情報探しに必死だった。
そんなことを数ヶ月毎日毎日やった。
今はもうやらなくて大丈夫になった。
ここに書いたように、私は少なくとも自分が体験したことはそれが真実だし、その真実こそを他の全員に否定されても、自分だけはこの世で絶対的に自分の味方でいたい、そう思うようになったから。
2年ほどかけて、否定されようが自分が体験したことが自分にとっての真実だから、それでいいんだと思えるような強さも身につけた。
その強さのおかげで、私はもう情報を必要としなくなった。
どっちみち、1回きりの人生、何が正しくて間違っているなんてのは、本人にしかわからないーー今の私はそう思っている。
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