2019年10月9日水曜日

きらきら星と魂〜2年後の振り返り

2019.10.7

2年後の振り返りとして書こうと思った。

しばらく書くか書かないか少し迷ったけれど、書こうと思わなくても書く内容は結構な勢いで満載で、そしてこれを書くたった今、1つの大事なことに気付いたから、余計と自信を持って書ける!となった。

第三者の魂や深層意識からのメッセージを受け取るようになってかれこれ1年半。

今日新たにわかったのは、私の場合、仮にたとえ相手から相談されても、今解決したり終わらせたりするタイミングじゃないと、何にもキャッチできない。

これまでキャッチしたことが本当に相手に伝えるべくことなのかどうかずっと自信がなかった。

とりあえず間違いがあってはいけないから、言う前にペンジュラムに伝えていいものかどうかを毎回必ず確認していた。

でも、今日キャッチできなかったことを振り返って、そもそも情報が来ない時というのは、まだ解決やヒントの時期じゃなくて他のプロセスを必要としているだろうことがわかった。

話を本題にする。

これから書くことは、私の頭の中だけの話だけど、私の中でこれだけ明確に書きたい内容を把握できているというのは、そうしたことを伝えてもいいタイミングだからだと思っている。

タイミングでなければ、私はまだ今頭の中にあるものを言葉にできなかった。

もう言葉にする準備が整った、私はそう思っている。

とりあえず、色んなことがこの数日で思い浮かんだから、順不同で思いつくままに書いていこうと思う。




2年前、1年前と振り返ると、本当に今不思議なところにいる。

2年前のある夕方に起こったことは今でもくっきりはっきりと覚えている。

2年前の私は、本当に絶望たっぷりと心と魂がグサリと傷を負った風になっていた。

失恋とは違う、とてつもなく大切なものを人生から失った私は、日々自分をどう扱っていいのかわからなくて、途方に暮れていた。

付き合ったわけでも好き合ってるわけでもない、私だけが一方的な気持ちを持っていたに過ぎなくても、すべてはこの世の終わり状態にいた。

たかが1人いなくなっただけで…、と周りの人たちは思うかもわからない。

その1人は、私がこの人生で出会った誰とも違っていた。

この世には大きく分けて2(ふた)タイプの人間がいると思う。

単純に生きていることを日々楽しめる人と単純に生きていることより人生終わることの方に注目してしまう人。

あくまで傾向の話で、かなり乱暴な分け方だと承知の上で書いたけれど、とにかくこの2タイプがある。

前者であることの方が望ましいし明るいけれど、残念ながら私は素の自分の状態だと後者に近い。

これを暗い話だとして非難する人たちにも過去に会ったことがあるけれど、私はどういうわけか後者の人たちに出会う確率がとてつもなく高い。

米の仕事に行った時もだし、他の場面でもそうだけど、老若男女問わず、むしろ年配の方や男性の方が多い気がするけれど、「こんなに長く生きながらえる予定じゃなかった」とか「いつでも人生最後の日になってもいい」とか言う人たちに私は何人会ったかわからない。

基本的に私もそちら寄りゆえに、そういう発言に心が開いているのか知らないけれど、何人かの人たちからポツリとそんな言葉をこぼされた。

ちなみにそういう時は私は自分のことは棚に上げて、「今すぐ死なれたら私が寂しくて困るから長生きしてください」と返すことが多い。

これは本音で言ってる。

話がまたそれたけれど、とにかく私も何が楽しくて生きるのかわかってないタイプだということを言いたかった。

1人(=独り)でも色んなことを楽しみまくることは超得意ではあるけれど、それとこれとは別の話。

そんな中、その人は何にもしていないのに、私に「生きてるだけで超しあわせ!」とか「生きてることが喜び!」とかいう、リアルなしあわせと喜びをもたらす人だった。

恋(片想い)のマジックかと当初は勘違いしていたけれど、それも違った。というのが後からわかった。

私は今でもその人と交わしたすべての瞬間瞬間を思い出せるし口頭で説明できるくらいに、それくらい小さなやりとりを10数回交わしただけだった。

そして、どこからどこまでも交わりも何もない相手だった。

多分最大で近付いたのは、ヘンテコせんべい質問した時と最後の挨拶ぐらいなもので、あとはどんなに近くになっても、コピー機を占領している私のすぐ横に不意打ちに来て自分がコピーした紙をその人が取りに来たのが数回、仕事のやりとりで伝言とか問いかけをしたのが数回、事務所の入口ドアを互いに同じタイミングで向こうと向こうで開けてかち合ってビックリしたのが1回。

近くにもならなければ、まともに話したこともない人だった。

席だって私の席から一番遠くて一番死角の位置でまともに相手の姿は見えなかった。

そんな風だったから、一度イケメンがイケメン行動を私に向けてしてくれたから、私は舞い上がってるのかと思っていた。

今となっては、そのイケメン行動はスーパー鈍すぎる私がきちんと相手の存在を認識できるようにもたらされた、わたし風に言えば「神々の審議会」が決めて引き起こしたものとしか思えない。

その人も別にイケメン行動狙いではなく、人として当たり前の親切よりもプラスアルファの親切をしてくれたに過ぎないと思う。

イケメン行動は実は超重要で、多分だけど、イケメン行動がなかったら私はその人の存在をきちんと認識できなかったと思っている。

なぜなら、その人というのは、私からして絶対に選ばない、目の保養とかはいいけれど、そうでなければ危険なニオイしかしなくて近寄りがたい男の人の典型的なタイプだったから。

しかも不慣れな仕事でアップアップしていた当時、周りを見渡す余裕なんか全くなくて、だからその人のことも初日のはじめまして挨拶以外は全く気にも留めてなくて、席も一番遠いし、仕事は絡まないし、よくよく事情を知ったら一番のトップだったわけで、近づく理由もなかった。

しかも勤務中一言も喋らない仕事そのもののスタイルにも慣れなくて(←そんな仕事初めて)それもしんどくて、何で私こんなところにいるんだろう?と毎日思いながら仕事に行ってた。

その人だけじゃなく、ほぼすべての人と物とが風景と化したところに私は日々行っていた。

だから、その人がイケメン行動してくれなければ、私は本当に何も気付かずに終わっていたと思う。

しかも、イケメン行動はイケメン行動でも、超特別な行動で一発ですごい印象を残すようなものでなければダメで、私の注意関心をマックス引き出すぐらいのパンチ力が必要だった。

だからこそ、神々の審議会レベルでありえない状況(私にとっては普段のぬけさく的な性格丸出しなところに、イレギュラーな作業が勃発)が生み出され、私は見事イケメンからイケメン行動をプレゼントしてもらって、最初はとっさのことすぎて呆然として、その後我に返って超ドギマギした。

その人からしたら、交通事故に遭うぐらいの事故に遭ったみたいなものだと思う。

どう考えても狙って起こせる行動じゃないし、私からすると必然で起きていたとしか思えなくても、相手からすれば偶然に偶然が重なっただけのこと、なんなら記憶の遙かかなた遠くへと行ってしまう一瞬のことでしかなかったと思う。

これは今の私が勝手に思っていることだけど、その人に出逢うことで私の何が変わったかと言えば、一番はオカルト体質の目覚めと強化だった。

こんな身も蓋もない話も嫌だけど、本当にそうなわけだから仕方ない。

これもブログに書いたのかこれから書こうと下書きにあるのかどちらか定かではないけれど、この夏からものすごい勢いでやりとりしている、占星術講座のクラスメイトでゲイのノムに言われたこと。

メールの日付は9月4日。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ぶっしーのそのお嫁さんだったり、魂からのメッセージを伝えるだったりという人生について、
いつだったかに思ったことがあって。

ぶっしーが、もし、もっと若い地点なり、近年でもいいんだけど、
誰かと結婚して家庭を築くって展開になっていたとしたら、
ぶっしー曰く”オカルト体質”、そうした能力に関して、
さらにさらに消極的になったのじゃないかなと思う。

それでも、来たものは必要な人に届けただろうけど、
来ないようにするではないけれど、そうしたある意味での「第三者」よりも、
目の前のパートナーや、それと向き合う自分自身へエネルギーを注ぎまくっただろうし、
さらに子どもなどを授かったら、そのエネルギーは、第三者へ向かう割合がそうとう低くなったんじゃないかなと想像。

なんかね、そんなぶっしーが想像されたときに、
「もったいない」というとちょっと違うんだけど、
パートナーや子どもにだけ使うような力ではない、というか、
「力」なんて、ことばを使わないのだとすると、
ぶっしーの、精神性というのだろうか、
それこそカードが伝えてくれたような、

揺るぎない強さのようなものや、
ひたすらとんでもない熱量でしつづけている内観とか、
それを言葉に、文章に変換しつづけたい性質、
その言語変換欲求により育まれ、研ぎ澄まされた、微細なものを識別でき言語化できる能力。

そういった、ぶっしーが培ってきた、培いつづけているものは、
いわゆる”身内”に使うためだけに、培われているとは思えない。考え難い。

ぶっしーの”オカルト”は特殊部分としても(個性というか)、
それは、ノート何十冊に及ぶ、日々の記録、日々の自分の記録みたいな年月がなければ、
その特殊部分は意味がないというか、発揮されることはなかったんじゃないかな、とか思ったりしてね。

いや、言いたいのはそうじゃなかった。オカルト的部分を抜きにしても、
コツコツ、執念レベルで自分と向き合いまくる、言葉にしまくる、
自分の違和感をつきとめる、
そうしたところは、誰にでもやろうと思えばできる部分ではあって(誰でもできないんだけど)、
そこは、そういう意味では”特殊能力”ではないとも言えるけど、
でも、そこも、やっぱり、ぶっしーの超特殊能力、超特殊性質とぼくは思えていて。

そんな、超特殊な性質を備えた人が(自分でそうしよう、ってしているわけではないでしょう。設定だものね)
ただ、旦那や子どものために、それを使うってのは、割に合わないというか、変。って感じる。

だけど、ぶっしーはそれを社会的なため(キャリアや仕事)に続けてきたわけではなく、
あくまでも、自分を知りたい、楽になりたいという動機だったり、
動機さえ不明な衝動めいたものだったりしたと思うのね。
それゆえ、その、ぼくからしたら特殊な性質も、本人は特殊ともそう思わないのだろうし、
ゆえに、そのことへそれほど価値を見出していないのかもしれないと思う。

だからして、ぶっしーは、その特殊なものを捨てられるというか、活用しようとも思わない、みたいな感じがして、
そんな人だからこそ、パートナーと平凡平穏な生活は、「no!」となってきたんじゃないかな。

だって、そんな生活を手に入れたら、ぶっしーのその能力、性質を使おうとしないから。

でも、逆にいうと、
ぶっしーが、それを使おうというか、使うってことじゃないのかもだけど、
蓋をしないというか、あ、オープンにしていくことで(自分の中で)、
あ、拒まないというかね、
そういう自分の部分にネガティブなレッテルを貼らないというか(運命的に強いられた、みたいな)、

とにかく、受け入れていったら、
その性質、能力をもつ自分を生きるって覚悟をしたら、
べつに、旦那さんがいたり子どもがいたりする現実だって、OKってなるんじゃないかな、と思った。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


私はこのノムが伝えてくれたメッセージを何度も何度も読んだ。

今もまた読んだ。

幽体離脱したり金縛りによく遭ったり、どこか遠くの宇宙からメッセージをキャッチして喋っちゃうノムのような人からもお墨付きの私のこのオカルト体質は、その人なくしては絶対に開花しなかった。

その何もしない人で個人的関わりのない人によって私のオカルト体質が引き出されたとは、本当に頭の狂った話なのはわかる。

だけど、冗談抜きで、その人に出逢わなければ、私のオカルト体質は絶対に開かなかった。

どう開花したのかそのプロセスを説明したらとんでもなく長い論文みたいな文章になるからここでは割愛するけれど、とにかくその人と出逢うことは絶対的に必要だった。

もちろんいた当時はそんなこと1つとしてわからなかった。

色んなことが動いたのは、その人がいなくなってからだった。

2年前の絶望感のみみたいな時間の中で、私は「ブログを書く」ことを思い付いた。

それも自分で考えて思い付いたと言うよりも、「ブログ」と一言だけ言葉が外側からやってきたみたいな風だった。

「ブログを書いてみてはどうだろう?」なんて自分の内側で計画したのではなく、突如「ブログ」と言葉が自分の外側からやってきた。

当時は「はあー!?!?!?」と思った。

時々キチガイじみた発想が頭をよぎるけれど、それはその中でもキングオブ気狂いだった。

でも、ひたすら絶望、朝起きて絶望、日中絶望、夜眠る時も絶望、ひたすら悲しい。

日々時間が過ぎてもずっと立ち止まったようになっていた私は、ブログを書き始めた。

届くなんて思えない、だけどもうそれしか手段がない私には、最後背中を押されるようにしてブログを再開した。

ブログを書こうと決めつつあった日の夕方の風景は、今でもはっきりくっきりと覚えている。

まだまだ気持ちは書くつもりなんてなかった。

ところがものの数分もしない中で、その人にまつわるものたちを立て続けに3つも見て、それで「『書け!』ということだろう」と思った。

これはつい最近気付いたこと(多分今年の年度が始まって以降)。

私の財布の中には昭和55年の五円玉に毛糸を通したペンジュラムもどきが入っている。

これは人にペンジュラムを紹介する時にたびたび出して使っている。

たまたま昭和55年だった。

その2年前のその日、3つのサインの前に555のナンバープレートの車とすれ違った。

十分暗かった時間なのに、なぜかその555のナンバープレートだけはすれ違った時によく見えた。

それを見て「555」を「GO!GO!GO!」、すなわちブログも「GO!GO!GO!」で「書け!」ということかとその時は解釈した。

でも今年に入って、その人の生まれた年が昭和55年だとはっきりと知った。(その人と仲良くしている人から教えてもらった。)

頭の中お花畑な発想すぎるけれど、たまたまなのか必然だったのか、そんなこともあった。

それらがある種の呼び水みたいなものだったと思う。

繋がるとは思わず、でも何でもいいからやらなければ私は私を保てなかった。

ほぼヤケクソで書き始めたブログ。

それがまさか2年後の今にまで繋がるだなんて、当時の私はもちろん知らない。




ふと気になって、私が初めてお世話になったホロスコープ鑑定士さんのホームページを昨日かおととい見てきた。

今から約2年前にその鑑定士さんの存在を知って、その2ヶ月後には鑑定を受けて、そして今の私の過度なホロスコープ熱に繋がっている。

開いて驚いた。

個人鑑定休止中になっていた。

しかも無期限休止中のようだった。

それ見てすぐに悟った。

2年前のあの時でなければ、その鑑定士さんには出会えなかったこと。

そして、その鑑定士さんに出会わなければ、その人のことは私の中で半永久的に迷宮入りしただろうこと。

2018年の2月のあたまに、私は人生で初めてのホロスコープ鑑定を受けてきた。

ホロスコープもものすごく感動したけれど、それとは別に鑑定士さんから教えられたことに私は本気の本気の本気で救われた。

鑑定を受けたのはその人が異動でいなくなって4ヶ月経った頃。

ちなみにその4ヶ月の間もその人の名前や直筆のサインとか、とにかく色んな場面でその人にまつわる何かを日々見ていた。

明らかにおかしかったけれど、私はもうどうにもならないその人と自分とのことで、自分の脳内記憶がそうしたものをたくさん引き寄せて見ているんだろう…みたいに思うこともたくさんあった。

初めてのホロスコープ鑑定では、聞きたいことがあれば事前に質問をすることができた。

私は特に期待することもなく、その人が何なのかと問う質問も送った。

相手の生年月日なんか知らなかったから、私は出会った年月日だけを書いて、それでもしわかるなら教えて欲しいというような感じで質問を送った。

どうにもなっていない自分を見て、それは星たちからは何も読み解けないと言われて終わるだろうと思っていた。

だから鑑定士さんから想像もしていなかった言葉を聞いて、私は心底驚いた。

鑑定士さんの話を簡単にまとめるとこうだった。

私がペンジュラムを誰にも習わずに使えるのは過去世でも使っていたからだということ、その時の私はみなしごみたいな感じで血の繋がらないおじいちゃんおばあちゃんから面倒を見てもらっていたこと、そのおじいちゃんがペンジュラムを使う人で私は私で見よう見まねで覚えてペンジュラムを自分の体の一部のようにして大事にしていたこと、その時の人生の中でイケメン上司も私のすぐ近くにいたこと、そして私は10歳くらいまでしか生きられない人生だったことを教えられた。

そして、鑑定士さんがそんな情報をどこから持ってきているのか不思議でならなかった私は、どうキャッチしているのかを聞いた。

鑑定士さんは二十歳になるまでは色んなことがわかってしまう霊媒体質だった。

大人になったら無くなると信じていると、本当に無くなって、今では必要に応じてビジョンが視えたり情報がもたらされるとのこと。

だから見ようと思って視えるものではないらしい。

「そういう情報は、基本的にそこに関わる人たちの魂からもたらされますが、今回の場合は史子さんではなく相手方から来ている情報のような気がします」

そう教えられて、そしてその日家に帰ってからペンジュラムを使って色々探った結果、どうやらイケメン上司はその家の内孫で、私はそこの家に日中だけなのかそれとも毎日なのか世話になっていた子どものようだった。

これも言葉にすると白々しいけれど、それを教えてもらった時、私の中では雷に打たれたみたいな衝撃で脳天突き抜けるかと思ったぐらい色んなことを瞬時に感じた。

その人というのは、本当に私からして異常な感覚をもたらす人だった。

最初私も恋愛の類いと思ったりもしたけれど、そんな感じとはまた全く違っていて、とにかく感じたこともない感覚がどんどん出てきてビックリした。

後にも先にもその人以外に同じような感覚を覚えたことがないから、今も言葉での説明は難しい。

そんな風な感覚を、初めてそれが「過去世のどこかでも一緒に生きた人と再会した時の感覚」だと知って、これ以上なく私は納得できた。

何不自由ない日本という国で生きていて、ましてや超がつくような健康体の人が「命がけ」な気持ちで何かに取り組むなんて基本的にない。

なんだけど、その人がいた日々は私は毎日命がけな感じだったし、最後は迷惑行為にしかならなかった手紙を書いた時なんて、本当にこの世の終わりだと思って書いていた。

戦時中でもあるまい、なんだこれ?と思っていた。

だからその特異体質の鑑定士さんからその人のことを告げられて、私はどれだけ救われたかわからない。

その鑑定士さんが今は個人鑑定休止中になっている。

事情はわからないけれど、元々の体質と今や来年の星回りを思えば、その方も何かしら大きな変化の時期を迎えているんじゃないかと勝手に思っている。

それはわからないにしても、あの時でなければ出会えなかった。

そしてあの時でなければ、その人と私とが何なのか、教えてもらうことはできなかった。




2019.10.8

2年前の私は毎日毎日飽きもせずに泣いていた。

涙はいくらでも生産されて、枯れることはないようだった。

どこか冷めて見ている自分もいて、何でこんなに泣いてるんだ!?と思っていた。

私の中には喪失感が常にあって、その人がいない世界を現実をこの先生きていくことにひたすら絶望していた。

本当に私のことが嫌そうだったから、私は彼女になりたいとかごはんに行きたいとか、そういう個人的な願望は何も叶わなくてもいいから、本気でその人がいる世界に私をいさせてください、と思った。

気が狂いそうだった当時から、少しずつ少しずつオカルト的なものが入り込んできていた。



色んなことがあって1年前の今頃。

今度は、今しか書けないと思って、当時を振り返って色々書きまくった。

そこに書いたことも覚えている。

来年(=2019年)はもう書けなくなるだろう…と思って、私は必死で書いた。

書きながら少しだけ期待していた。

来年は今よりも気持ちが冷めていますように…と。

誰かに新しく出会っていなくてもいいから、せめてその人のことを忘れている時間が出てきていますように…、と色々ツッコミどころ満載な願い事をしていた。

そうやって迎えた今年。

……。

…………。

………………。

(  ̄Д ̄;)~~~~。

パートナー的な意味で新しく誰にも出会わなかったのは、まぁある意味想定内。

おかしなことを言うと、私が今年初めて新しく出会った人は、死者の霊魂という、多分自分の人生でも最初で最後かと思われる( ̄∀ ̄;)。

それももはや仕方ない。

もうそういう人生なんだと最近じゃ受け入れつつある。

そのことよりも、アテが外れたというか、そうでないといいなぁ…というのが、その人を忘れる度合いについて。

なんだろう……、この変化のない感じ。

微細な変化はあった。

でもそれは方向性の話であって、量の話じゃない。

忘れるとかいう選択肢はどこにあるんだろう?

何かを完全に間違えてるとしか思えない。




今現在の私の気持ち。

おおよそ100%に近い数値で、本当にその人と私とは過去世のどこかでお互い近くにいて一緒に生きた人だろうと思う。

この2年の間にあった凄まじい出来事たちがそれを物語っている。

こんなのはこの世で私しかわからなくても、私にはわかってしまう。

私がことごとくオカルト体質全開の何かを体験する時、それ関連の出来事が人生にもたらされる時、百発百中その人の存在を示すサインが同時に送り込まれてくる。

名前の時もあれば、何かその人にまつわるものの時もある。

気のせいでもなければ、現実にそうだから、それはもうそういうものなんだろうと思っている。

でも、ぶっちゃけ私はオカルト体質も今みたいに別々に生きることも、全く望んじゃいない。

ノムが言うように、この特殊な体質は使わなくていいということにはならないと思う。

それに関しては今少しずつ受け止め出して、なんとか折り合いがつくようにはしている。

これから先も付き合い続けるこの体質は、他者のために有効利用することが求められていることも頭ではわかる。

それは今後乞うご期待ではないけれど、やらざるを得ないだろうこともいつもどこか頭の片隅にある。

そうではなく、この違う道の上を行くことに関して。

道が違うのは仕方ない。

でも道が違うのであれば、ついでに忘れ去る力も一緒に授けてもらわないと…。

道だけは違っていて、ガッツリと覚えていて、なんならそこにさらにオカルト体験時は毎回もれなくその人を指し示すサインもやってくる…、何じゃそりゃ!?と思う。

一緒に生きるわけでもないなら、連絡の1つも取れない。

これだけこのブログで自由にぼやいているけれど、現実は1ミリも何も変わらない。

その人と交わらない人生なら、その人を忘れる機能がいる。

いつまでもどうでも良くならないその人の存在は、いつになったらどうでもいい人に変わってくれるんだろう…。




2019.10.9

丸2年経過して、小さな心境の変化が生まれた。

生まれたというより、色々認めざるを得なくてそのように気持ちが変わってきたという方が正しい。

その人から見た私は、もはや何なのかさっぱりわからない。

私のブログは読みたくてもまたは読めても私と連絡は取りたくない、もしくは取るのにものすごく抵抗が生まれるという、なんかよくわからない立ち位置にいる。

真実は知らない。

真実はさておいても、私はここにきてその人と交われない人生を本当に受け入れることを始めた。

その人はおそらく本当に魂的な縁の強い人なんだと思う。

でもだからと言って、今生も互いに近くにいて一緒に生きるみたくなるかと言えばそんなことはなく、それはそれ、これはこれって感じなんだと思ってる。




ペンジュラムにそれとなく何回か(最近はごくたまに、以前はしょっちゅう聞いてた)、その人がある特定の種類のソウルメイトなのかどうかを聞いてる。

何をどう聞いても、ペンジュラムはYESとしか言わない。

私の妄想が反映されてYESかもしれないと思って、友達のペンジュラムに聞いてもらったこともある。

余計なものが入り込まないように、質問は伏せて聞いても、それでもやっぱりYESが出る。

聞いて私も何がしたいのかわからないけれど、なぜなら聞いたところでその人に会えるわけでもなければ連絡が来るわけでもない。

だけど聞かずにはいられなかった。

そして聞いて、どうにもならないことを骨身に染み渡るまで知って終わりということを繰り返していた。

だけど、2年経ってみて、その人からノーリスポンス、何の接触もないことを嫌でも目の当たりにして、何かが大きく違うんだろうと思った。

おかしな話ではあるけれど、この2年間の間になんとその人と全く面識のない5人もの人たちから私はその人に関しての何かしら情報というか関係というか、とにかくその人関連のことを聞くこととなった。

ちなみにここに出てきた鑑定士さん以外は、私の方から質問はしていない。

その人について何か情報ください、とかお願いしてもないのに、5人の人たちは何かしらマニアックな情報を私に突然伝えてきた。

さらにその中の2人は、私は私の口からは一切一言もその人に触れたことがない。

話にさえ出したことない人なのに、何をどうしたらそんな風にその人のことを第三者から告げられるのか、こんなのスーパーオカルトすぎて私にだって意味不明なものでしかない。

こういうのが魂的な縁なんだろうと思う。

だって、伝えてきた人たちからして会ったこともない人のことを私に突然伝えてくるなんて、本当におかしすぎる。

伝えたところでその人たちには何の得もない。

なのに何かしらキャッチしたものを伝えてくるわけだから、これは魂領域のことなんだと私は理解するようにしている。

生きたオカルトのような様相にはなっているけれど、肝心要のその人と私との間は小さな風ひとつ吹かない。

ひたすら沈黙、言葉を変えれば無視なわけで、何らかの形でその人とやりとりできるようになると考える方が無理だと認識するようになった。



人の心理を知るのに婚活ブログは私の中で超大ヒットで、最近もハマっていくつかのブログを読んでいるけれど、それを読んで1つ客観的に理解したことがある。

結婚相談所における男性に限定して言うと、その人はスーパーハイスペックで、婚活界で都心のタワマンぐらいの、ピラミッドでいう頂点のトップ数%しかいないとされるような男性にその人はまさに入っている。

その人が婚活するかどうかはさておいても、仮に婚活するなら申込殺到して、本人はよりどりみどりじゃないけれど選べる。

そういう立場にある人なわけで、そんな人相手に私は何を近づこうとしてたんだろう…、と自分のこの突っ走りすぎた行動をものすごく冷めた目で見る瞬間がある。

わかってはいたことだけれど、改めて本当に無謀な接近を試みていたんだなぁと思った。

その人は私じゃなくていい。

この言い方だと、私も選択肢の中にいるみたいだけど、その中にはどう頑張っても入れないことは知ってる。

話が少し変わるけれど、私は当時ものすごい勢いで男性心理について色んな記事を読み漁った。

そしてまた最近も、婚活してる男性たちの心理の記述を読んでいる。(女性の心理も読んでる。)

どうでもいい話だけど、中には普通にモテて普通に何人かと付き合ったり告白されたりする人でも婚活をしていることに驚いた。

たまたまその手の男性たちのブログに行き着いたのは、超絶ラッキーだった。

読めば読むほど撃沈するしかなかった。

男性心理とそれに伴う行動についての説明なんか、ビンコすぎて泣きたくなった。

ガチの魂的な最強の縁のソウルメイトに今世でも出会うけれど全くしあわせ感なし・むしろ嫌がられてるとしか思えない接触のみだけなら、魂的な縁なんていいから普通にしあわせに一緒にいられる、お互い好き合う関係の方が何千倍何万倍といい。

ハイスペックなイケメンとオシャレなところでデートするよりも、スーパーの半額セールの惣菜でも買ってくだらないことでぎゃあぎゃあ盛り上がれる方が私はいい。

ガストのポテトつまんで「今日のはおいしいね〜」などと言ってる方がいい(ガストのポテトを何回も食べて知ったのは、その日によって微妙に揚げ加減やイモの種類?産地?が違う!)。

おでんの時期になったらおでんを、肉まんの時期になったらコンビニの肉まんを、寒いね〜おいしいね〜と言いながらハフハフ食べれる方が絶対的にしあわせだと思う。

この間、ノムとミッチー(ノムのゲイの恋人)の2人展に行った時のこと。

2人展のカフェでミッチーと向かい合わせで座った時に、ミッチーが面白い仕草をした。

聞いたらそれは、ミッチーは何かの計算をする時、指でテーブルに数字を書いてそれで計算する癖があるとのこと。

その仕草が本当に私の中では超ツボで、見ていてホッとするみたいなかわいさみたいなのがあって、それを見つける度に私がガン見してミッチーは居心地悪そうにしていたけれど(苦笑)、そういうものを見ることが私は好きなんだと改めて思った。

世に溢れているソウルメイト説は甘美な感じを匂わせているけれど、ガチのソウルメイト系のものはこの世の修行としか思えない苦行ばかりで、ひたすら無視されるとか、あからさまに嫌がられるとか、心が折れるようなことばかりだった。

全然甘くない。

だけど、ここぞとばかりに、自分の魂的な目的の時は、その人の存在は心の支えのようなものになったりする。

今後も霊性開花的な新しい技を身につけたり難しい案件に当たったりする時は、おそらくその人の何かにまつわるサインも一緒に来ると思っている。

おかしな話だけど、それがある時は絶対に大丈夫だとわかる。

そういうお役目の人なんだと割り切るしかない。

魂のレベルみたいなものも霊視で見れるヒーラーさんいわく、その人というのは霊性がものすごく高いとのことだった。

それは私みたいにオカルト体質である必要もなければ、スピリチュアルなものに興味を持ってる必要もないとのこと。

スピ的な体質や興味関心の度合いは関係なくて、霊性の高い人は高いらしい。

私のような足元おぼつかないみたいな、なのに来るもの来るものヘビーな人には、霊性の高い人のサインみたいなのが必要なのかもしれない( ̄∀ ̄;)。

その人自身は私に何かしてる気は一切なくても、その人の魂的な部分が見えないところで大活躍してくれてるのかもしれない。

魂的なものは本気で容赦ないのがわかるから(正統なものほど、人間の煩悩的な欲からは一線を画してる感じがする)、だからその人と私が現実的には何にもならないのもわからなくもないし、特に私みたいにただただ一緒にいたいみたいな人からして、そちらが満たされると確実に自分に備わっているものを使うことなんかさっさと放棄するわけで、そういう人にはそうならないような伏線が張られてるとしか思えない( ̄∀ ̄;)。

とても悔しいけれど、あきらめる。

そんな境地になれると楽になれるのかもしれない。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「嘆くことの中には、諦め切れない思いや止むに止まれぬ祈りのようなものが含まれていると思う。
嘆くとは、ある種の愛なのかもしれない。」


『生きていくうえで、
かけがえのないこと』
吉村萬壱

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


2年前の私は嘆きに嘆いた。

嘆く、悲嘆する、絶望する、寂しい……
この辺りの感情がずっとずっとグルグルしていた。

今朝、久しぶりの秋晴れの朝を迎え窓を開けると、リコーダーで奏でられた「きらきら星」が聞こえた。

2回聞こえた。

リコーダーのテストでもあるんだろうか…。



2年前の夏、私の日常の中にその人はいた。

「世界と馴染んでいる時」ーー上の吉村さんの本の中にあったフレーズ。

当時の私は、頭と心と体がすべてバラバラの状態だった。

頭では常に「これは何かの気のせいか勘違い」だとずっと自分に向かって言い続けた。

心は常にしあわせと喜びを堪能しまくっていた。

体は常にドキドキしていた。

頭は頭、心は心、体は体、とすべてのパーツがバラバラになっていた。

世界と馴染まない自分の体だったり心だったり頭だったりした。

全身がバラバラに解体されたみたいに、それぞれが別の動きをしていたもんだから、世界とは不調和気味というか、全く馴染んでいなかった。

世界とは馴染まなかった代わりに、その人が人生に現れたら世界の色彩が変わった。

同じ空に同じ夏の暑さ、事務所は決してキレイとは言い難かったし、仕事は興味のカケラもなかった。

あんなに喋らないことが苦痛だったのに、途中からは喋らなくていい環境に心から感謝した。

静かにしてていい分、私は自由にその人のことを考えたりこっそり観察することに時間とエネルギーを使えた。

その人と同じ空間にいるだけで、同じ時代に生きているだけで、私は本気でしあわせだった。

今朝リコーダーのきらきら星を耳にした時、すぐに「ドドソソララソ♪」と音をドレミで聞き取った。

間違えると間違えた音も「ドドソソレレ…」とすぐにわかるようになっていた。

それは私が体感を伴って覚えたもので、絶対音感もだし、メロディーを聞いたら「これ、きらきら星だ!」とすぐにわかる。

体で覚えたものは体がきちんと覚えているし忘れない。

それはたとえ何十年と時間が経過しても、体はきちんと覚えている。

なんだかあっという間に2年が経って、今も変わらないのはその体で感じ取った部分。

普段自分の体なんて意識しないけれど、その人に感じていたものは体がしっかりと覚えている。

ドキドキだけじゃなくて、本当に意味不明な高揚感とか幸福感とかは、身体中で覚えている。

色彩が鮮やかになったのも、その人がいた何の変哲もないところで見てとれたから、その感覚も自分の中にある。

その人は一度のイケメン行動以外は、特別に私に何かしてくれたわけじゃない。

むしろ何も特別なことはなかった。

なんだけど、私の目で見る世界の色彩の色を変えて、私に生きてる奇跡を日々教えてくれて、私に生きる喜びとしあわせを伝授してくれた。

その人がしたのは、私の生きている世界に存在してくれたことだった。

それ以上でもそれ以下でもない。

究極何をしたわけでもないのに、そういうすごいことをたくさん起こしてくれた。

私はこれこそが魂マジックだと思う。

体で記憶したものは、2年経っても薄れることはなかった。

その人によってもたらされた感覚は、私の体に多分元からあった回路を開いた。

開いた部分は他の人たちのために使われる部分に今はなりつつある。

私の欲しい結果とはおおよそ違いすぎるけれど、色々お役立ちなのはわかる。

その人がしてくれたのは、私の魂の設定を解除することだったんだと思う。




もっと他にも書きたいことがあったけれど、いまいち思い出せない。

とりあえず、さーっとここまで流し読みして、1つ思い出した決意があった。

その人は魂的な強烈な縁に相応しく、おいそれとすぐに忘れられるような相手じゃない。

その人自身の意識はさておいても、オカルト体験の時はもれなくその人を彷彿させるサインが来るのも今後も継続されると思う。

そうした状況やその人の存在そのものに対して、私はこれからの残りの長い人生でゆっくり付き合っていったらいいんだと思えた。

会えないから忘れられるものでもないと知った。

もしかしたら知らぬうちに結婚してたり彼女ができてたりするかもしれない。

それは知らぬが仏で、知りたくもないから知らないままでいい。

(ちなみに結婚はされてない模様。その人と趣味つながりの人から聞いた。)

なんだけど、とにかく魂が一度「この人だ!」と認識する人に出逢うと、その人というのは自分の中から消えなくなる。

24時間365日体制でずっといる。

消そうという努力は不毛すぎるからやらない。

自然に忘れられたり、はたまた私が誰かをめちゃくちゃ好きになって結婚でもして今とは違う状況になれば良いんだろうけれど、どちらも望みが薄い。

もうそれならそうと、そういう自分や私の中に存在し続けるその人と上手く付き合ったらいいんだと思った。

これから長い時間をかけて、付き合い方を上手くしたらいい。

絶対音感みたいに細胞に記憶されたものは、忘れること自体、方向性として間違えている気がする。

そんなのは忘れる方がもっと無駄にエネルギーが要るから、そういうのは目指さない。

そうじゃなくて、自分が一番抵抗なく向き合えるスタイルを探す方が、心は健やかでいられる。

本音を言えば連絡が欲しい。

ブログだけが読まれるというのは、何とも言い難い気持ちになる。

でもそれがその人が取りたい立ち位置であるなら、そんなの変えられない。

こういう余計なことを言って、ますます私=距離を取りたい人になっても困る。

そもそもが、私自体がその人にとってなんなんだ?というのもわからないし、付き合いたいとか一緒にいたいとかいう対象じゃないんだろうとそれはずっとずっと思っている。

そんな風に思われているのなら、今頃連絡の1つあったっていい。

ないのにはない理由がある、そう思っている。

私が望むような関係にならないのであれば、私は私でその人のこと全般に対する付き合い方をもう少し自分のために何とかしたい。

2年経った今、そんな風に思うようになった。

過大な期待はしても虚しいだけだから、せめてせめて自分のために、自分が受け入れやすい感覚なり立ち位置なりをこの先見つけていけたらいいなぁと思う。

このブログは好きに書くけれど、それ以外の場面でその人に迷惑や負担をかけるわけじゃないから、もう私は私で自分が少しでも生きやすいあり方を模索したらいい。

2年かかったけれど、ここまでの気持ちになれたのは大きい。

その人には今でも感謝しているし、出逢えて良かったと思っている。

亀のような歩みのオカルト体質との付き合い方も、その人なくしては今の状態にまではなれなかった。

本当に変な繋がり方とは思うけれども、魂的なものだから仕方ない。(←これに疑問を抱くと、生きづらさが10割増になるから、こういうことはこういうものだと理解する方がいいことに気付き始めた。)

私にとっても強烈だったけれど、その人にとっても強烈だったんじゃないかと勝手に予想している。

いつも以上に変なこと書いてる…(汗)。

とにかく、ここから先は、この色んなことたちと今よりも上手く楽に付き合える方法を私は探したいと思っている。

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