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左奥にいる小川ブラック
見にくいけれど、左奥の黒いのが
「小川ブラック」という名のめだか
お昼ぐらいだからゆっくり支度したらいいやと思って布団でゴロゴロしていた私は、ヨシダさんからの電話に普通に出た。
「今から出る」ではなく、「家出た」に始まり、今どの辺?と聞くと「イママチ」と返ってきた。
ひっくり返るかと思った。
イママチからうちだとどんなにかかっても25分。
早ければ20分もあれば着いてしまう。
待ち合わせ難しいなぁと思ったらヨシダさんから、「カミキタダニの方から行けばいいんだか?」と聞かれたから、「そうそう!カミキタダニの近くにきたらまた電話入れて!そうしたら私も家出て途中落ち合うようにするから!」と言って切った。
ヤバイ!と思って大慌てで支度して、電話こないからいつでも出れるように車に乗ろう!と思ったまさにその時電話が来た。
「ヨシダさん今どこ?」と聞いたら、「なんか知らねーけどやぁ、トンネルあってそこくぐって…あっ、Kの看板見えたな!」と返ってきた。
カミキタダニなどとうに過ぎて、なんならうちから徒歩5分の場所にいる。
「ヨシダさん、Kに行ってて!私も今から家出るから、多分3〜4分で着くから!」
そう言って、ホームセンターKに行った。
Kに着くと、ヨシダさんは園芸コーナーを見ていた。
駐車場から声を張り上げてヨシダさんを呼び、約1ヶ月ぶりにヨシダさんに会った。
どっちが車を出すか聞いたら「俺が運転する」とヨシダさんが言ってくれたから、乗り込んだ。
「いやぁ、まさか若(わけ)えの(わけえの=若い者)この車に乗せるなんて、人生何があるかわからねぇのー」
私は今日案内する予定のものを伝えた。
「まずはコケだかを見に道の駅行って、なんならその近くに言ってた日帰り温泉あるから場所教えて、その後ヨシダさんめだか飼ってる言ってたからめだかの店行って、あと酒飲んで油揚げ食べれる店紹介するから」
異論なしということでまずは道の駅に行った。
「ヨシダさん、コケは盆栽に使うの?」
「えっ!?盆栽?盆栽じゃねぇよ、食べるコケだよ、コケ!」
「えっ?コケって食べれるの?」
「今の時期食べれるねっかやー」
「そうなんだ!コケって食べれるんだね!
ところでコケってどうやって食べんの?」
「コケはコケだろう、何言ってるがだ!?味噌汁入れたり、炒めもんにしたり」
「何?あの緑のコケ食べるわけ?」
「緑!?」
「だって緑でしょ?」
ヨシダさんはその後、コケの種類の名前をいくつも言った。
コケってたくさん種類があるんだなぁと思っていたら、「マイタケ」だったと思うけれど、えっΣ(꒪◊꒪; )))) 、もしかして…と思って聞いた。
「もしかして、コケってさキノコのこと言ってんの?」
「おーそうだそうだ!キノコだ!キノコって言えば良かったんだな」
そこでようやく話が通じた。
ヨシダさんいわく、今の時期なら、野生のキノコが山間部の道の駅なら出ているとのことで、私の住む町の道の駅ならあるだろうと目星をつけて来たらしい。
私はそもそも道の駅なんかにほとんど行かないから、キノコがあるのかどうかは知らないと言った。
とりあえず見に行ってみると、野菜直売所の建物の中にはなくて、なら外の通路で売ってるかもということで見に行くと本当に売ってた!
キノコが売られてるのは初めて見た。
80近いおじいさんが売り子していて、ヨシダさんは具体的なキノコの名前を言ってそれはないのかを聞いた。
今年はまだ採りに行ってないからない、とおじいさんは返していた。
天然の舞茸をヨシダさんは買うと、すぐ近くの町の名産の某ファストフード的なものの屋台に目を向けた。
「ここで揚げたてが食べれるんだなぁ」
どうかヨシダさんが食べたいなどと言いませんように…と心から願った。
食べたいと言い出したら、別の店を案内するつもりでいた。
何が気まずいって、その屋台担当の男性は、2年前?3年前?に妹と私とでお見合い的な席で会った人だった。
男性の義理のお姉さんが妹の友達のお姉さんで、お姉さんから紹介を頼まれた妹の友達が妹と私とを紹介して、個人宅のホームパーティー的な場へと出向いて行った時に会った。
めちゃくちゃ良い人だったけれど、ちなみに条件だけ並べたら何一つ申し分ない、むしろ結婚相談所に登録したらスーパー優良会員、性格も温厚、外見もよろしい、本当に私なんかは自分からお願いしたって紹介してもらえないぐらいに素晴らしい人だった。
でもこういうのって本当に何かが違うとダメなのはわかる。
ご縁なくその場限りで終わって、そして忘れかけた時にこうして道の駅で見かけるという。
ヨシダさんは食にこだわりがないだけあって、目をやるだけやると、次行こう!となった。
次は別の小さな農村地区の直売所を案内した。
ヨシダさんの解説によって初めて知ったけれど、その直売所兼農村レストラン的なところは「6次産業」と呼ぶらしい。
地産地消で、地元で採れた食材での直売所兼食べさせる食い処みたいなのを兼任させてオープンさせる場合、国からその事業立ち上げに際して6割補助金が出るらしい。
そうすると、地域の農業法人的な団体同士できちんと回せるように協力体制ができるから、何かアピールするものがある地域ならそうやって農村・農業存続の道ができてくるらしい。
ヨシダさんもこの辺りでは初めて見たのかえらく感動していて、私にあれこれ近くの建物の説明までしてくれた。
俺ももう少し若かったらここに移住したかったとまで言い出すぐらいに、その地域を気に入ってた。
続いては、めだかの店を案内した。
ヨシダさんには言った。
「めだか」と書かれたのぼりが出ているけれど、実際は入ったことないから私は知らないこと。
そもそもめだか屋なんてのは、何なのか全く知識もないこと。
だからやってるやってないも知らないと前置きした上でめだかの店を案内した。
ちなみに場所も突如現れるから、行き過ぎた場合、多少道をバックすることがあることも伝えた。
たしかこの辺りなんだけど…と言いながら、突如のぼりが何本か立っているところが現れた。
ゆっくり近付くとそこで、なんと数台の車が止まっていた!
めだか屋に数台!
ビニールハウスとトタンの掘っ建て小屋の合いの子みたいな建物だった。
ヨシダさんに付いて中に入ると(正しくは中という名の屋外に壁や天井がついたもの)、たくさんの大きな水槽と小さな水槽とがあった。
「めだか」は本当で、めだかがいくつも売られていた。
中には、同世代と思しき夫婦と小学校4年生くらいの目がクリクリしたかわいい坊やとがいた。
あー、どうしたらこの構図の中に自分がいられないのか、毎度毎度悩ましい思考が働く(苦笑)。
それはさておき、初めてのめだか屋さんは見るものすべてが新鮮だった。
ヨシダさんが繁殖させるとか言っていたから、こんなみんな同じに見えるのにオスメスの判断はできるものなのかを聞いたら、「俺はできてるかな…とは思うけれど、基本オスメスの判別は相当難しい」と返ってきた。
ヨシダさんいわく、ヒレの形でオスメスがわかるらしい。
そんな話をしていた矢先、かわいい坊やが2匹選んで、店主の男性がオスメスの判別をお願いされてて始めた。
豆乳のパックぐらいの大きさの透明な水槽にめだかたちを入れ直して、そして自分の目の高さに持ってきて判断していた。
「これとこれは大丈夫」
「これはオスだけだから変えるね」
そんなことを何個か言って、最終的に買うものが決まったようだった。
後からヨシダさんが「ああやってきちんとオスメスを判断していたから、すごいなあの人」と言ってた。
めだかの話はこの後また続くからこの程度にして、次なるめだか屋に向かった。
ところが店じまいしたのか、なくなっていた。
今度はヨシダさんにビールが飲める特産品を扱う店を紹介した。
そこに行きたがるかと思えば、場所がわかったからいいと返ってきた。
じゃあ持ち帰り用におぼろ豆腐のすごいおいしい店があるから!と言って、俺は豆腐を食べないと言ったヨシダさんを次の店に連れ出した。
奥さんに食べさせてあげたらいい、本当においしいから!と言って連れ出し、あまり乗り気じゃないのかと思いきや、張り切って2つずつおぼろ豆腐や他の商品を手にしている。
おぼろ豆腐に関しては、大と小とサイズがあって、万が一奥さん1人で食べるなら小の方が量的にどう考えても良いと思うと先に言ったけれど、ヨシダさんは大を2つ手にした。
どこかに配るだろうことも伺えた。
気前が良いというか、何かをして人を喜ばせることが多分自然に好きなんだろうなぁと感じた。
ヨシダさんから昼めしをどこかで食べようと提案された。
食堂がパッと浮かんで、一応ヨシダさんに「食堂と思っているけれど、イタリアンもあるけれど、ヨシダさんイタリアンって気分じゃないでしょ?」と問いかけた。
案の定、「俺は、イタリアンって気分じゃねぇな」と来たから、一者択一、食堂に決定した。
食堂に着くと「俺、ここで飲んだことあるなぁ。この駐車場止めて、藤(の花)見て思い出した」と言った。
藤の時期ではないのに、藤の枯れ葉たちを見てそう言った。
さすが目のつけどころが違うなぁと思った。
食堂でしばらく色んな話をしたけれど、そこは長居しておしゃべりして良い場所とは違ったから、ヨシダさんに時間あるなら場所移ろう!と提案した。
ヨシダさんは「おー、そうか!じゃあそうしよう!」と言って、歩いてもいけるショッピングセンターに移った。
土曜の昼間とは思えない空いた小さなフードコートでお茶をした。
前置きが長くなったけれど、ここから先はヨシダさんの話で印象に残ったことをテーマ別に紹介。
*めだか
*中国
*飛行機間違えた
*元旦マラソンと花火大会
*施設慰問
*孫育て
*母子家庭作文
*誕生日知らない
*農協パソコン送信
*農家あっての農協
*カントリー稼働率と無事故
*カントリー除湿乾燥、最初の十年は寝ずの番
*誰も怒らない、変な顔をしていない
*農家に渡したい資料
話を忘れたり、これをすぐに公開せずに日を置いてうっかり違うことを記事に書いたりすると間違いなく記憶から消えるから、それで備忘録のために今箇条書きしたらこんなにもあるΣ(꒪◊꒪; )))) !
とりあえず順にしたためようかと…(汗)。
ちなみに時間にすると、5時間弱いて、昼ごはんからお茶のくだりは多分3時間半。
一生忘れられないくらいの話をたくさん聞かせてもらった。
*めだか
ヨシダさんは、単なる趣味でめだかを飼っているのかと思っていた。
500リットルの水槽たるもの、全くイメージが湧かなかったけれど、今日めだか屋でそこそこの大きさのものを指差して容量を聞いたら80ぐらいとのことで、だから私の中では畳1畳くらいの水槽を想像した。
それを6台持っていて、さらに話の流れで池も所有していることがわかった。
ヨシダ家どんだけの豪邸なのかと思うけれども、とにかく敷地が広いだろうことは予想がついた。
ヨシダさんが言うには、めだかというのは本当に高いものだと1匹300万とかもっとするものも普通にあるらしいΣ(꒪◊꒪; )))) !
めだか飼ったら一大産業だなぁと思った。
でもヨシダさんはめだかで商売を一切しないし、「趣味」だと当初からずっと言い切ってた。
今日のごはんの時に、ヨシダさんがめだかを飼う理由を教えてくれた。
ヨシダさんの子どもがまだ小学生だった頃。
私とそんなに変わらないはずだから今から30年くらい前の話だと思う。
子どもがめだかを飼いたいから買ってと言ってきたらしい。
ヨシダさんは「めだかぐれぇ(ぐらい)田んぼにいるろー?」と返したら、子どもは田んぼにいないと言う。
ヨシダさんはおかしいと思って田んぼに実際に見に行ったら、本当にめだかが1匹としていなかった。
ヨシダさんはそうは言わなかったけれども、それが環境汚染とも関係しているリアルな現実でもあったと思う。
そこでヨシダさんは、魚沼産コシヒカリで有名な八海山(お酒の名前だけではなく、本当に地域の名前)の近くまで行って、当時もおそらく絶滅危惧種に近かった「日本めだか」を獲りに行った。
ヨシダさんの住んでる町からは軽く80キロはあると思う。
そうやって最初は数匹のめだかからスタートして、その後も少しずつ増やして、今じゃあ何百匹どころか4桁の数はいるだろうと思われるめだかを飼っている。
そのめだかたちをヨシダさんは田んぼにもきちんと戻して、自然に派生するようにそうした取り組みもしている。
観賞用もあるし田んぼ用も繁殖用も色々あると言っていた。
まさかそんな気持ちから始めたものだとは、全く知らなかった。
ヨシダさんいわく、この辺りじゃ、(絶滅危惧種の)日本めだかはヨシダさんのところと海側にある某水族館ぐらいにしかいないんじゃないかと言っていた。
今の野生のめだかは、どうやら多くが外来種らしい。
そんなものを育てていることもすごいけれど、それを手にするために探しに行くのもすごいなぁと思った。
さらにそれだけにとどまらない。
ヨシダさんは自宅の池を今も子どもたちに開放している。
子どもが遊べるようにしている。
そのことでヨシダさんがものすごい今どきなエピソードを教えてくれた。
自分と同じ地区の子どもの親たちはヨシダさんのこともめだかのことも知っているから(地区で飲み会があるような場所)、それに対して何か言うことはないとのこと。
それが子ども同士が他の地区の子たちを誘ってやってきたある日のこと。
当然池の中に入るわけだから汚くなる。
泥というのは、しつこくて落ちにくい汚れになっていると思う。
その中の親の1人なのか何人なのかは知らないけれど、「洗濯が大変だ」ということをクレームで言ったらしい。
ヨシダさんは、それを実際に言われて「俺は何も言えんかった。俺がおかしいのかも知らんしな。世の中がおかしいのか俺がおかしいのか、わからん。だけど、それ言われて俺は何も言えんかったんや」とこぼした。
絶滅危惧種のめだかや他にも自然に触れる機会、生き物に触れる機会を、今じゃあ学校でも教えられないような体験をヨシダさんは普通に提供していて、それも完全無料開放で、子どもやめだかが危なくない範疇なら好き勝手させていると思う。
そんな機会って、いくら田舎でももう今の時代、天然記念物並みにないことなのに、それを洗濯が大変だとクレームを言う大人がいるというのが、私には呆れと少しばかりのショックと怒りと信じられない気持ちが沸き起こった。
ちなみにそんな親に限って、ものが本物とわかると、手のひらをコロっと返したように態度を変える。
ヨシダさんはこれからも開放し続ける気持ちでいるようだけれど、その良さがわからない、そしてそんな貴重な機会を大人の都合で踏みにじることの代償の大きさを思った。
*中国
これは何年か前にヨシダさんが中国のとある田園地帯に行政経由で仕事に入った時のこと。
日本米の米作の技術向上とそれに伴う収入向上が主たる依頼のようだった。
それで実際に現地に行くのだけど、そこで目の当たりにしたのは、雇われ農家の人たちの厳しい現実だった。
ヨシダさんは、農家の人たちの生活向上を謳った仕事の方針だったからこそ引き受けたにも関わらず、その地域では金持ちが土地を買ってでも自分たちでは農作をしない、雇われの農家たちは土地を買えるようなお金はないから雇われとなる、その雇われの人たちの年収は全く向上されず、技術伝承しても儲かるのは土地を持っている金持ち側で、実際の米作の担い手である農家には全くお金が落ちないシステムだった。
共産主義の弊害がもろに出ていたようだった。
雇われ農家の年収の2倍のお金が、ヨシダさんの1日の収入として支払われていた。
技術を伝えても、そこで労働力を提供する農家には一円も還元されない現実を前に、それではやっても意味がないとヨシダさんは判断した。
金を生んでもそれは本来行き渡るべき人たちの元へは流れない。
ヨシダさんは何ヶ月かいた後に、見切りを付けて帰った。
帰国後、この案件を引き受けた県にものすごい文句を言ったと言っていた。
聞いていた話とも違えば、さらには誰のためにもならない技術伝承で、あり方や現地の人への配慮のなさ、とにかくありのままをすべて報告に上げて、それで県と戦ったらしい。
その後どうなったのか聞き忘れたけれど(あまりにも話が満載すぎて、色々聞き忘れたことに今気付いた)、ヨシダさんは曲がったことや道理の通らないことをとことん嫌う。
そして、ヨシダさんのすごいところは、そうしたおかしなことに対して黙ったままにせず、必ず担当者、それもポストが上の責任者に必ず話を持って問題点や窮状を訴えることだった。
*飛行機間違えた
ヨシダさんは55歳で農協を早期退職して、1年遊んだ後、ツテでスリランカのエビ(ブラックタイガー)の養殖の設備を直しに出向いた。
聞いたら、バクテリア研究専門の大学の先生が持ってきた話で、ヨシダさんもバクテリアに詳しいらしく(めだかなのか田んぼなのか農協の仕事関連なのか、もはや何で詳しいのかは知らない)、それで声がかかったとのこと。
ヨシダさんと会話してわかってきたことだけど、ヨシダさんが自ら「知ってる」と言う時の知識は、はっきり言ってその分野の大学教授並みに知っていると思う。
バクテリアもエクステリアも何がどう違うのかわからないような私(カタカナ用語は超苦手)相手に、最低限の情報だけをサラリと言う。
無駄がない。
スリランカのエビの設備が終わった後、飛行機が間違えてタイ?だったかに降り立ったらしい。
一度降り立ち、そこで通訳をしてくれた人がたまたまエビの養殖の投資で被害を受けた人だったとのこと。
それでヨシダさんはそこでも設備直しをしてくるのだけど、それをするにあたり、大使館と日本の国管轄の事業所に出向いたらしいけれど、その時にエビの養殖設備が被害に遭ってるとか壊れたという報告を一切受けていないと言い切られた模様。
ヨシダさんはおかしいと思って、実際の話をしても、全く聞く耳を持たず、話のくだりは忘れたけれど、それとお金の横領がどこかで絡んでいたことが後から発覚したようだった。
ヨシダさんはとりあえず修繕だけして帰ってきたみたいな話だった。
何がすごいって、飛行機が間違えられたのもだけど、その先で出会った人がたまたままた同じような被害に遭われた方で、それでヨシダさんはそこでも自分のできることをして帰ってきている。
退職金は4ヶ国の養殖エビの設備修繕にまつわる費用に消えたみたいな言い方をしていて、本当に人のためにお金を使うことがより一層わかった。
突っ込んで聞いてはないけれど、家のお金には一切手を付けていないと言っていて、どうやら家は家で何かしら収入がきちんと入る手段を持っているようで、奥さん(専業主婦)がどう思っているのかは知らないけれど、そちらは奥さんだけが家計全体を見て好きに使える様子が伺えた。
*元旦マラソンと花火大会
ヨシダさんの住む町(市区町村レベル)には元旦マラソンと花火大会が何十回と続いていて、今現在も受け継がれた町の一大行事としてある。
元旦マラソンに至っては、除雪を行ってまでやるらしい。
ヨシダさんに出会うまでそんなこと思いも及んだことがなかったけれど、目の前のヨシダさんこそ、その元旦マラソンと花火大会の初代発起人で、ヨシダさん個人の想いから最終的に町の行政も巻き込んでの結実となって今日に至っているとのこと。
ヨシダさんいわく、最初は町の活性化やみんなで楽しめるものとしてそういう企画を出したけれど、当時の町役場、町長は大反対したらしい。
だから町は抜きで完全に協賛各社や個人と共同開催する気でいたらしいけれど、知り合いが教育委員会の教育長で、その話を聞いて自分は大賛成だから、大反対1本の町長を説き伏せると言って、その方が間に入って町長の了解も最終的に得て、町の行事として根付いたようだった。
ここまで書いてて思ったけれど、いちいちスケールも大きければ、やることなすことすごい事業で、言うなら「事業家」という感じがする。
その町の農家一軒一軒を全部訪ねて、地区ごとの農業組合を作ったのもヨシダさんで(昭和64年開始)、ちなみにヨシダさんはそのことで勤め先の農協からも異端児扱い、何度も触発して、3回は辞表出すほどの騒ぎに発展したようだった。
だけど、この後に続く話もすべてそうだけど、自分が「これだ!」と思ったものはすべてやってきて、そしてヨシダさんは「不思議と俺の始めたことは何だかんだで形になって定着する」と言っていたけれど、そりゃそうだわ!と思う。
本質的に必要なニーズや時代の先読み的なことを常にしていたわけで、ヨシダさんは先行型ゆえに最初は周りからは猛反対や総スカンを喰らうけれど、最終的に形にするし、形になっていく。
ヨシダさんのアイデア力や発信力、実行力は群を抜いてすごいけれど、それらが本当にすごいのは、きちんと周りの人たちのしあわせや心とか生活を満たす何かを軸にして必ず組み立ててやっていること。
独りよがりな考え方じゃなくて、よく話を聞いたり観察したりしている。
もうひとつすごいのは、ヨシダさんは基本的に自分の名前を残さない。
どうしても出さなければいけない時は出すけれど、そうでない場合は出さない。
だからこうした偉業の諸々も本人が語ってくれたから知ったけれども、そうでなければ知らないし、ましてや表には一切名前を出さない、まさに足ながおじさん状態になっている。
ヨシダさんには名をとどろかせたいとか、自分の肩書をアピールしたいとかいう気持ちが一切ない。
でも、人のためとなれば、どんなことでもやる人だと感じる。
*施設慰問
これは私も施設で働いていたからよくわかる。
色んな団体や企業が福祉系の施設に何か提供しようと申し出てくれる。
現場としては、ありがたい団体もあれば、本気で相手方の人間性を問いたいというような団体まで様々だった。
ちなみに当時毎年失礼この上ない寄贈は、寺から来るお米だった。
檀家から新米を献上してもらうのだと思うけれど、新米の時期になるとお米を持って行きたいと連絡がくる。
ここまでならわかる。
だけど、それというのが、新米ではなく古米、そしておそらく状態から見て古米ではなく古々米。
調理師泣かせの、様々な工夫をこらしてもおいしくないお米。
おいしくないと言うより、何かの罰ゲームかと思うようなまずさで、私は自分が過去に食べた米の中でもトップ3に、もしかしたら堂々の1位に輝くまずさだったりする。
それが1回じゃない、2週間か3週間ほど、もしかしたら1ヶ月くらいだったかもしれない、それが続く。
1回あたり2升(=20合)以上炊いていた記憶があるけれど、それでもそんなに長く食べなければいけないほどの量の米で、人生の中で食べた米でも忘れられないまずさを誇っていた。
それで自分たちはおいしい新米を普通に食べてるのかと思ったら、それもお寺という一応説法など説くような立場のところから来ていたから、本気で何なのかと思っていた。
そんな話もヨシダさんとしたら、「それは絶対にいかんやつだなぁ」と言っていた。
ヨシダさんたちの慰問は本当に聞いてて凄かった。
まずは有志を募るけれど、融資は募らない。
お金をかけてやればいい、強いてはお金で全部が解決するなんて思っているのはダメで、「自分たちの今持っている持ち寄りのものでする」というスタンスでやっていた。
持っているものは、当然人に渡すものだから、野菜なり米なりは新鮮なものを提供していたとのこと。
餅つき大会的な慰問も長いことしていたらしいけれど、そういう施設で食べ物を提供するというのは保健衛生上のルールが厳しいのと多いのとで大変なんだけど、それも県とかに全部申請書類を提出して、そうまでしてやったとのことだった。
施設で朝ごはん作りの担当の時、まずは消毒と10個以上はあったと思われる冷蔵冷凍庫たちの温度確認からスタートだった。
これだけでゆうに5分はかかる作業で、毎回めんどくさいと思って私なんかはやっていた。
普段の調理でさえその面倒な作業満載なわけで、だからヨシダさんのその施設慰問などは、本当に難儀をしたことが伺える。
さらにすごいのは、最初の準備の段階でまずは映画上映会をして、その間準備を整えて、それが終わる頃に一緒に餅つきなり他の食べ物系の作業に入ったとのこと。
子どもたちが毎回本当に喜んでくれて、あれ見てるとやって良かったなぁといつも思ったと話していた。
私は何がすごいと思ったって、段取りややり方もだけど、ヨシダさんのその差別のない、そして純粋に人を人として大事にする姿勢の方だった。
ヨシダさんたちが慰問したのは、知的障害児・者の施設で、入所者はそこで寝泊まり含め生活している。
ヨシダさんが口にした施設名の1つは私が福祉の現場実習でお世話になった施設で内情を知っている。
そこは重度または最重度の知的障害の人たちが入所するところで、多くの人たちはIQは測定不可だったり、測定できても10〜20台とか普通だったように記憶している。
実年齢は何歳でも、知的年齢は1歳ないし2歳程度、高い人で3歳児ぐらい。
言葉が出ていても意味不明な言葉や同じ言葉の繰り返しとか、意思疎通も図れないわけではないものの素人には相当難しいコミュニケーションだと感じる。
色々独特だから、そして私なんかはそうした福祉の世界に入るまで障害への理解など皆無で、なんなら突然やってきていきなり訳の分からないことを言われたり触られたりして怖いとさえ思っていたタイプだから、そういう人たちに対して「本当にかわいいんだ」とか「いつも喜んでくれてる」とか、本気のコミュニケーションした人でなければ発想さえないような言葉をヨシダさんはポンポンと言った。
偏見の目がないどころか、1人1人を本当に大切にして顔をよく見ていることが話ぶりからよく伝わってきた。
*孫育て
ヨシダさんには今小学校2年生の男の子の孫がいる。
細かい事情は知らないけれど、ヨシダさんご夫婦の方が育てている。
一度職場に遊びに来たことがあるから、私も知っている。
その子だけは俺は生まれた時から育てていると言っていた。
800g台の早産で生まれてきたとのこと。
保育器に入れられてる頃から育てたと言っていた。
遊びに来た日、普通の小学生の男の子という感じだったから、それを聞いてものすごく驚いた。
肺?呼吸器?は定期検診を今も受けているらしいけれど、至って元気いっぱいの男の子に育っている。
ヨシダさんは自分の子どもたちのことはほとんど奥さんに任せっきりだったと思う。
そんなようなことも言っていた。
だけど、このお孫さんについては「この子だけは育てなきゃいけない」そう言っていた。
*母子家庭作文
ヨシダさんの子どもたちが小学生だった頃、そのうちの1人が作文に、うちは父ちゃんいるけれど母子家庭のようだと書いて、ヨシダさんは学校から呼び出しを食らったらしい。
当時というのは、朝は子どもたちが学校に出てから起きて、帰ってくるのは子どもたちが寝静まった真夜中だったそう。
子どもとごはん囲んだのなんか、年に3回程度だったと思うと言っていた。
その辺り超不器用な人なんだろうなぁと思った。
仕事中、私はヨシダさんにバインダーに付いている紐の結び方を褒められたことがある。
ちなみにその時の言葉は
「上の方で結ぶんだなぁ」
だった。
私は何か間違えたのかと思って「上過ぎってこと?」とヨシダさんに聞いた。
そうしたらヨシダさんが「上手に結ぶなぁと言ったんだ」と返してきたから、ヨシダさんに「それは褒め方を間違えてる!素直にストレートに『上手』だと言えばいい」と、偉そうにアドバイスした(笑)。←笑いながら言った。
いつかも、私が着ていたTシャツのデザインについて何か言ってきたことがあって、ヨシダさんには「ヨシダさん、そういう時は一言『かわいい』って言っておけばいいんだわ!そして、奥さんに普段そんなこと言わんでしょ?私で練習して、死ぬまでに一度は奥さんに『かわいい』と言ったらいい!」と半分冗談で言った。
そうしたらヨシダさん本気でむせ返って、ゴホゴホしながら「俺の辞書に『かわいい』なんて言葉なんざねぇー!」と言ったら、近くにいたヨシダさんを慕ってる男の人から大笑いされてた。
ちなみにヨシダさんの家の考え方というのは、今も斬新で、とても田舎の農村地帯ではありえないような考え方を代々しているお宅だった。
ヨシダさんの家では、跡取り息子が嫁をもらったら、若い者に家督を譲ることと年寄りは一切口出しをしないことという決まりになっていた。
嫁と息子は家系を引き継いでくれる人なわけで、そこをお願いしている以上は若い者のすることには口を一切出さないというルールらしかった。
ヨシダさんは典型的な男は外で稼いで家族を養い、女は家で家を守って子どもを育てるという考え方の人で、だから奥さんに不自由させるようなことは絶対にしてなかっただろうし、奥さんのすることに口出しも一切しなかったんじゃないかな…と思った。
「嫁」という字は「女に家だろ、女にしか家は付かないんだ!女が家を守るんだ!」と言っていた。
それは責任転嫁とかではなく、本当に女の人に家を任せられること、家を任せられるから自分が外でしっかり稼いで来れることを言っていたんじゃないかなと感じた。
実際に、子どもにうちは父ちゃんはいても母子家庭のようだと書かれた時、ヨシダさんが何してたかって、今後後継者がいなくなって農業が衰退すると先読みしたヨシダさんは、それを何とか食い止めるために各地区ごとの農業法人を立ち上げることを提唱して、そのために農家を一軒一軒仕事が終わってから訪ね歩いていた頃だったと思われる。
*誕生日知らない
何でそんな話になったのか忘れたけれど、なんとヨシダさん、奥さんの誕生日はおろか年も知らないと言う。
結婚して42年になるのに、どういうこと!?と私はあまりにも驚いて、本気で突っ込んでしまった。
ケーキとか食べないわけ?と聞くと、時々ケーキを食べているけれど、それが何のケーキなのかわからん!と言っていた。
ちなみに溺愛中の孫の誕生日も子どもたちの誕生日も知らない人だった。
奥さんは自分より5個か6個年下だと言っていた。
本当に自分の配偶者の年や誕生日を知らない人に初めて会った。
今日帰ったら聞いたらいいわ!と薦めた。
ヨシダさんも「帰ったら聞いてみるわ」と言っていた。
これは何となくヨシダさんと会話して思うことだけど、ヨシダさんは何か言われることがそんなに嫌いじゃないはず。
普段なら私もその手のことはしない。
だけどヨシダさんには思ったことを思ったまま言う。
どうしてかと言うと、この後仕事の話も出てくるけれど、とにかくヨシダさんのすることは凄くて、周りは口出しなんかとてもじゃないけれどできない。
ヨシダさんに何か物申すなど、ちなみに米の仕事のトップの人ですらヒーヒー変な汗かきながら言っていた場面を私は見た(笑)。
だけど、ヨシダさんは仕事や自分が真剣にやっていることはさておき、それ以外は非常にフラットな人だと感じる。
でも表立つものが目立ちすぎて、誰も口出しできないのも本当。
だから、私は女で年も離れていて冗談のように何か言える立場を有効利用して言いたい放題言う。
*農協パソコン送信
これはヨシダさんが管理職だった頃の話。
ヨシダさんは今もガラケーを愛用しているくらい、パソコン系の機械に疎い。
いくら疎くても、農協のような大きな法人ともなれば、管理職どころか全員にパソコンを与えられるだろうと思う。
ヨシダさんの席にも飾りとなってるパソコンがあったそう。
パソコンの作業は一切できないけれど、社内メールだけは開いて見ていたとのこと。
その時は、幹部だけに宛てられた次の人事異動の内示が送られてきた。
ヨシダさんは見るだけ見て、それを閉じるつもりが、なんと誤って送信ボタンを押してしまって、全員にその内示の速報が知れ渡ってしまったのだそう。
その後実際にどうなったかも聞いた。
ヨシダさんの誤送信により次の人事異動を知った人たちから、続々と退職願が提出されたとのこと。
希望してないどころか全然畑違いみたいな部署異動で、多くの人たちは本気で辞めることを考えた。
その数があまりにも尋常じゃなくて、最終的にその異動は全て見送りになって、退職願を出した人たちもそのまま残れることになった。
ちなみにその誤送信がヨシダさんによるものとバレた時、ヨシダさんはしゃあしゃあと「俺の机の上にそんなの置くのが悪いんだ」と本当に言って開き直り、最後はヨシダさんの希望通り、パソコンごと撤去されたようだった。
ヨシダさんはその人事異動についてもこんな風に話していた。
「普通、人事異動っていうのは、適性見て、適性のある仕事に配属するのが本当の形なんだ。
3年、4年したからそろそろ異動だなんていうのは、とんでもなくバカらしい。そして、それを内情を何も知らない人事の事務方がすることでもなければ、現場を知らない社長がするのもおかしい。
やるんだったら、きちんと1人1人から話を聞いて、その上で人事担当が動かすか、さもなければ各部署の上のもん(者)がきちんと1人1人の聞き取りをして他の上のもんと集まってどうするか話すのが人事ってものの筋だろう。
みんな人事の意味を履き違えてる」
ヨシダさんの考え方は本当にその通りで、実際にヨシダさんはそのこともさらに上の役職者たちに申したらしい、どストレートに。
俺はそういうのまどろっこしく言えねぇんだ、そのまま何でもストレートに言ってしまうんだ、まぁある種の変わりもんだな(笑)、と何度か自分のことを言っていた。
ヨシダさんと話していると、ヨシダさんが変わり者と言うよりも、世の中の構図の方がよほどいびつで不自然な気がした。
*農家あっての農協
これはヨシダさんの早期退職とも関わっているらしい。
ヨシダさんは元より、
「農家あっての農協、農協あっての農家じゃねぇんだ」
とずっと信念として持ち、そしてそれを実際に口にも出して言っていた人だった。
今もその想いは変わらない。
ヨシダさんは今の農協のあり方はおかしいと言った。
農家があって初めて成り立つ団体なんだ、それが今じゃ農協があってその下に農家がいるみたいになっている。
農協たるものが何なのかわからずに入ってくる若い者が多いし、それならそうと余計な教育なんかいいから農協の成り立ちや歴史、目的、会員(農家)の仕事、そういうのをしっかり教えたらいいのにそうしない、そして農協側が偉そうになっている、丸っきり今は反対なんだよ。
ヨシダさんはその辺りのことも最後辞める時のトップに掛け合ったけれど、全くわかってもらえず平行線で、それもあって辞めたのもあったようだった。
実際に私が行っていた時も、農協の支店の内勤の方たちが順番に手伝いで来ていて、何人かの人たちと話したことがあった。
若い世代になればなるほど、本当に割り当て当番で来ているだけで、実際は何をしているのかよく流れもわからなければ、手伝いに当たらなければこうした施設の存在も知らなかったと話していた。
ヨシダさんの凄いところは、賛同者のいるいないではなく、いなくても、そんなことを自分1人でもこれが大事だと思うことを信じ続けること、その価値観を本当に大事にすることだった。
さぞかし敵も多かったと思うけれど、私は話を聞いてて一つも違和感を覚えなかった。
むしろ、そういう話を姿を見せてもらえたことは、本当にものすごく貴重な機会だった。
*カントリー稼働率と無事故
私が米の仕事に行っていた施設の名称は「カントリーエレベーター」というものだった。
穀物の貯蔵や乾燥などをする大型の機械を搭載した大型の建物。
「カントリーエレベーター」と検索すると、Wikipediaはじめ農林水産省や他にも色んなサイトで紹介されている。
私はこの度初めてカントリーエレベーターなるものを知ったから、稼働率だの全体の効率だのはど素人ゆえよくはわからなかったけれど、とにかく本当に無駄のない超テキパキとした職場なのはよくわかった。
本当に全てがスムーズで、それぞれの人たちがさっとそしてキッチリと自分の持ち場をやっていて、それは見ていても圧巻だった。
ヨシダさんには、私は本当にあの職場に行けて良かったと感想を言ったら、「俺もあそこはすごい勉強になると思うよ」と言った。
実は私が言っていたところは、全国でも方々から見学者が来るぐらいの有名なカントリーエレベーターで、稼働率は120%超え、多分日本一の稼働率だろうと言っていた。
たしかに、稲刈りの受付が始まる前、まだ機械が本格稼働してない頃、何人かのスーツ着た人たちが見学に来ていた。
そういえば!と思い出してヨシダさんに言った。
私が受付した農家さんじゃなかったけれど、誰か別の人が受付した農家さんで、ここはものすごく速くていい、もう1つのところはものすごい遅くて行くと半日かかると言っていたことをヨシダさんに喋ってみた。
「そりゃそうだろう。うちは何てたって速い。本当に速い。そしてここに来ている連中は、みんなどうやって動いたら一番効率良く動けるかを知っているから、みんなそれをしている」
他だと半日かかるところ、私が行っていたところは、混んでないなら5分もあれば受付からコンテナの上げ下ろしは終わるし、激混みで大行列の日でも、多分最長で並んだ人も到着してから1時間半〜2時間で終わる。
農家さんたちは刈った米穀をコンテナに入れて持ってきて、それを下ろしてもらうと、また空のコンテナを持ち帰る。
受付は1分もあれば終わるし、その間に中身の入ったコンテナを1人のフォークリフトが下ろして、別のリフトの人が新しい空のコンテナを今度は軽トラの荷台に置く、それらは全部で2〜4分もあれば終わっていた。
(以後、フォークリフト=「リフト」と略す)
その合間合間にリフトのおじさんたち(ヨシダさんたち)と農家の人たちとが喋っても、次、また次とものすごい速さで終わった。
リフトも7台〜8台稼働していて、それぞれのリフトの人は昼休憩で人手が足りない時間以外は決まりきった部分だけを担当するようになっていた。
ちなみにヨシダさんは、農家の人が持ってくる米穀入りのコンテナを軽トラの荷台から下ろしてそのまま次の工程場所へ運ぶことをひたすらしていた。
それで常に受付のところにいたから、それで仲良く話をする機会に恵まれた。
(暇になってきても農家の人たちが来る限り待機してないといけなかったから、その待機時間にみんなで喋りながら待っていた。)
いくら広い敷地と言えども、本当に混んでくると隙間もないぐらいに軽トラ、2トントラック、14トントラック、リフトと何十台という車輌で本当にものすごい混雑して、どこで事故が起こってもおかしくないような状況になる。
上の人も「焦って急いでしんでいっけん(=しなくていいから)、とにかく無事故で!」と毎日口を酸っぱくして言っていた。
それで実際に無事故で無事に終わったわけだけど、ヨシダさんいわく、「事故が無い方が珍しい」と言っていた。
毎年どこかのカントリーでコンテナの上げ下ろしの時にリフトの先が軽トラにぶつかるとか、車輌同士の接触事故とか、何かしらあるらしい。
それがずっと無事故で来ているのは、少なくともヨシダさんが関わるようになったこの10年ほどはずっと無事故だなって言ってた。
それは他に類を見ないらしく、本当にきちんとしていると言っていた。
さらには、全体の流れに関しても、来ている人たちはみんな兼業農家だったりするから、どう動くと一番速くできて、当然速ければ農家の人たちのことも待たせずに済むわけで、その分農家の人たちも刈った稲をより多くより速く持ってこれる。
近場の農家の人だと15分おきぐらいに来ていたから、1時間で単純計算すれば4回、1日だと30回以上来るみたいなことも普通に可能だった。
そうなってくると、半日かかるカントリーだと、1日せいぜい2回しか運んで来れないわけで、そこでも大差が生まれる。
ヨシダさんは「自分で言うのもおかしいけど、あそこに来ていた奴らは本当によく一連の流れを熟知してるもんばっかりで、だからあそこまでスムーズだったんだ!今度代替わりした時は、わからんな、どうなんのかは」と言っていた。
私ぐらいの世代の人たちはもう完全に兼業の人たちばかりで、土日とか、稲刈りの繁忙期だけちょっと来るぐらいだった。
色んな事情があるのだろうけれど、ちなみにヨシダさんいわく今はこの辺りは農業1本では食べていけないと言っていたから、本当に農家の人たちが生き残っていく、事業を継続していくなんてのは、今後ますます難しいんだろうなぁと感じた。
余談だけど、ヨシダさんはこれから2〜3年の間で農業に関する法律が大幅に変わるだろうと言っていた。
詳しくは知らないけれど、今は農地法?農業の法律で、大資本の企業が土地なのか経営なのかを買収して農業をするのができないらしい。
だけどもう個人や地区の農業組合だけで存続するのも相当厳しいところまで来ているようで、今後は法律が変わって資本の大きい企業が参入できるようなやり方に変わっていくだろうと言っていた。
但し、それは参入すればいいということではなく、自然の流れのあるものだから、それをきちんとわきまえて踏まえてやらないと本末転倒になっておかしなことになると危惧していた。
私は農業のことも政治のこともわからないけれど、普段の色んな法案可決を見て、少なくともヨシダさんが喋ってくれたような「本物」の物事の進め方とは程遠いんだろうなぁと感じる。
ヨシダさんたちが作り上げたものというのは、あくまでも農家の人含め現場の関わる人たちがいかに一番良い形で動けるか、農作物を守れるか、そうした中でどうすると効率が上がるのか、そういうことを本当にきちんと考えて試行錯誤もしながらの今なんだと感じた。
逆だなぁと思った。
私が行っていた塾の仕事でも派遣で数字が関わる仕事でも、まずは目標があって(上の者たちが勝手に設定)、その目標に沿った効率化が図られる、そしてその効率化に合わせて人間が働く、トップダウンの方式で、当然現場はてんてこまいだった。
現場が動く中でどうしたら一番良いかなのではなく、上が決めた利益を出す為にどうしたらそれが達成できるのか、人間を馬鹿にしていると私は常々感じていた。
だから、ヨシダさんが大きい資本が入ることで心配しているのは、おそらくそういうことなんだと思う。
だけど、農業こそ本気の自然とマンパワーで支えられてる分野だから、トップダウンでは絶対にやっていけなくなる時期が来てしまうと思う。
ヨシダさんが、農家あっての農協だろうと声高らかに訴えていたその気持ちがわかるような気がした。
*カントリー除湿乾燥、最初の十年は寝ずの番
ヨシダさんに、どうして他のカントリーは遅くて、うちらの所は速かったのか、何が違ってそうなっているのかを聞いた。
「うちは火を使ってない」
はじめ何を言っているのかさっぱりわからなくて、それはどういう意味なのかを聞いた。
他のカントリーというのは、火力で米穀を乾かす。
あの巨大施設の中では米の乾燥も工程の中に含まれている。
ところがその火力乾燥だとものすごい時間がかかるらしい。
農家の人が半日待ちだというのも仕方なくて、どうやったって速くはやれないとのこと。
私が行っていたところは、建設の段階で除湿乾燥を取り入れることにした。
あまりにも情報が多すぎて突っ込んで聞いてくるのを忘れたけれど、それを言ってオーダーしたの、多分ヨシダさんだと思う。
なぜなら、機械の方の設計・建設は農協ではなく農機具の有名メーカーで、そこに対して「除湿乾燥」のやり方を導入した機械なら確実に時間短縮できると訴えたのはヨシダさんで、最初は「無理だ」と言われたらしいけれど、そこをゴリ押ししてできるからそうしてくれ!と訴え続け、それで開発者たちがうんうん頭を悩ませてそれでついに完成したのが今のカントリーだった。
今は知らないけれど、建設当時、全国初ぐらいの試みで、それで本当に時間短縮含め一気に能率がアップした。
それで噂を聞きつけた色んな団体が全国方々から駆けつけて、こぞって見学にくるようになったと言っていた。
この辺りでも除湿乾燥はそこだけらしい。
他はみんな火力乾燥で、半日待ちが当たり前だから稼働率も上がらないし、他だと数をさばけないから、他所(よそ)から14トントラックとかで多数の中身が入っているコンテナが運ばれてくるのはそれだった。
他所でできない分を代わりに機械にかけて回していた。
だから稼働率120%なんていう訳の分からない凄い数字だったんだなぁと納得した。
そんな特殊な機械ゆえ、最初は使いこなせず、ヨシダさんは最初の10年は寝ずの番でカントリーに張り付いて機械操作を担当したようだった。
今でこそ他の人たちも動かせるようになったけれど、当初は何もかも初めてで、ヨシダさん以外は使いこなせずずっと機械に張り付いていたと言っていた。
たしかに、室内の制御盤というのか、機械のスイッチの部分は、映画に出てくるような宇宙船の機械室みたいな感じで、無数のボタンと電光板とがあって、あのスイッチ1つで何かが変わるのかと思うと不思議な感じがした。
当時は農業の職員もしていたわけだから、二足のわらじじゃないけれど、カントリーの機械の部分を連日連夜ずっと見て管理していたんだろうなぁということが話からわかった。
*誰も怒らない、変な顔をしていない
このテーマに行く前に、ヨシダさんのおさらいをしたい。
ヨシダさんは25〜30年ほど農協職員をした。
主に担当は農機具部門。
その傍らで、昭和64年から、だから今から30年以上前に、まだまだ世の中は第二次ベビーブームの名残で3人兄弟当たり前みたいな頃、このまま行くと後継者がいなくなると言って、当時の市区町村レベルの中で全部の地区ごとに農業組合を作ろうと全部の農家を一軒一軒渡り歩いて、それで全部で32の組合を地区ごとに作るのに貢献した人。
最初は大反対を全員から受け、農協からも逆風吹きまくりみたくなり、完全に異端児、四面楚歌状態からこの取り組みを1から始めた人。
他にも農業関係や町のことであれこれするけれども、とにかく地区の農業組合の設立をする為に農家を一軒一軒渡り歩いただけあって、ヨシダさんが知らない農家はいないし、農家の方もヨシダさんを知らない人はいない。
農家の人たちが刈った米穀をコンテナに入れて、私が行っていた所にみんな持ってきていたわけだけど、来る人来る人にヨシダさんは必ず声をかけていた。
稲の具合がどうだとか、どこまで刈り終わったかとか、今日はどの田んぼしてるとか、とにかく色んなことを聞きまくっていた。
早く刈れだの、何で遅いだの、ズケズケと言っている場面もたくさんあったけれど、誰も嫌そうにはしていなかった。
今にして思えば、農家の人たちからしたら、ヨシダさんは農家の救世主みたいな人だったんだろうなぁと思う。
ヨシダさんが30年以上も前に組合を作ろうと訴えなければ、農業が主な町の収入みたいな町で農家は生き残れなかったと思う。
誰もその当時後継者がいなくなるなんて、どこ吹く風状態だったと思うけれども、ヨシダさんの訴えは現実のものとなって、今でもその町の農業がここまで発展しているのは、地区ごとの農業組合があるからだった。
もし組合がなくて、個人だけで農業継続しようとしてたなら、今その町の農業も農業人口も壊滅状態だったと思う。
ヨシダさんを改めて見て、ヨシダさんというのは感情に任せて何か言うことは基本なくて、筋の通ったことだけを言う。
それも相手の過失云々を責めたりせず、あくまでもその人ではなく何かやり方が違えばそこだけをこうしろああしろと言うだけにとどめている。
怒り方というか伝え方というかが本当に上手いなぁと思うし、ヨシダさんの言うことというのはその何かに対してより良くなるための指南であって、そうでなければ基本余計なことは一切言わない。
その線引きがきっちりしているのと、そして本気の有言実行の人だから、周りも何も言えないんだと思う。
ヨシダさんが「不思議と、俺が何か言っても誰も怒らねえし変な顔をしてねえな」と言っていた。
それは私も見ていてそう思った。
そしてヨシダさんもヨシダさんで来る農家の人たちの顔をよく見ていた。
性分と言えばそれまでだけど、黙って淡々とコンテナを運ぶんじゃなくて、声をかけることを自然といつもしていた。
さっきみたいに人によっては日に30回とか来るわけで、そうでなくても1日コースの人たちは10数回は来るわけで、そんな時も毎度毎度声をかけてた。
変な顔をしないのは、それだけ普段の小さなやりとりをヨシダさんが自ら率先してやって大事にしているからだと思う。
*農家に渡したい資料
「いやぁ、俺の人生話いっぺえ(いっぱい)してしまったなぁ。こんな風になるなんて思ってもねかったなぁ」
ヨシダさんはそんな風に何回か言った。
本当に面白い話が満載だった。
ヨシダさんまだまだいけるから、もう少し何かしないの?と聞いた。
私が聞いたからなのか、そうではなく話の最後の方でヨシダさんの口から出てきたかは忘れたけれど、ヨシダさんはポツリと言った。
「あとやりてぇことは、9割は完成しているものを農家に伝えることだな」
話はこうだった。
ヨシダさんが中国に行った時なのか、他の国に行った時なのか、とにかくそこにいて一緒にやった人と見つけたある法則的なものがあるらしい。
それは農作物が本当に良く育つもので、米でも野菜でも何でもいけると言っていた。
その相方がもし活用していたとするなら、それは今茨城県で運用されてるかもしれないけれど、そうでなければそれはヨシダさんたちの中にとどまったままらしい。
ヨシダさんは、例の人事異動の内示を間違えて送信ボタンを押してみんなに出回らせてしまって以降、パソコンは触ってない。
それで嫌になって全然触ってないらしい。
で、その究極の方法とやらを紙にまとめて農家の人たちに配りたいのだそう。
話の感じからすると、それは未来永劫、長く受け継がれるような良質のそして本質的なものなんだろうと感じた。
あのヨシダさんが「ものすごく良い」と言う時のものは、普通じゃなく、本気の良いだし、それは誰でも活用できる素晴らしい可能性に満ちたものだと思う。
ヨシダさんは、現場ももちろん知っているけれど、その他にもバクテリアの研究だの農機具だのめだかだの何だのとやたらと目利き腕利きが半端ない。
農機具会社の社長と親交が長く続いたのも、男同士農機具のマニアックな話をしてたのではないかなと思う。(男同士のマニアックな機械だの車だのバイクだの特定の分野の何かの話は、私なんかは寝落ちしそうなくらいに子守唄にしか聞こえないけれど、マニアたちは目をキラキラさせて喋ってるのはこれまでもたくさん見てきたから、なんとなく想像がつく。)
ヨシダさんがまとめようとしている手法は、ヨシダさんのこれまでやってきたことの集大成で、そしてそれを地域の農家の人たちに還元したいことは話を聞いててよくわかった。
そのための資料を作りたいけれど、自分はパソコン触らないからそのままになってると言っていた。
私はヨシダさんに言った。
「ヨシダさんさ、それ良かったら私するよ、資料さえもらってきちんと説明してくれれば、私がそれパソコンで打ってまとめて、形になるようにするよ」
テーブルの上にあったメニューを手に取って、私は読み上げた。
「ラーメン650円、とんこつラーメン700円、フランクフルト250円…、要は内容を(メニューをテーブルの上に戻して)こんな風に見えるように、見てわかるようにするんでしょ?中身はヨシダさん持ってるわけだから、あとは形にするだけなんだよね?」
「そうだ!やってくれるか?」
「やるよ、ヨシダさんが本気でやりたいなら私がその部分はやるよ」
家に資料があるから、もう一度見て整理するとヨシダさんは言った。
農業のことはさっぱりだし、話を聞いたところで私にはちんぷんかんぷんなのは確定だけど、言葉をタイピングして紙に起こせと言われたらそれはできる。
あの時、「やらなきゃいけないこと」のように感じた。
なぜならヨシダさんの持ってるもので今ヨシダさんの頭の中なり家にある資料なりにあるものは、ヨシダさんのところでストップしてはいけないものなんだと思う。
しかもヨシダさんが絶賛するぐらいのものだから、超良いものなのはわかる。
しかも、ヨシダさんが見据えているのは、農業の発展と農家の人たちの技術向上で、己の利益など何にも考えていない。
70歳のヨシダさんには、これからもしかしたらもう30年ぐらい生きるかもわからないけれど、少なくとも死に近づいているのもわかっている。
元気に動けてそのものを次世代に繋げられるのも今はできても、この先は不透明であることもわかって、だからこのことを「やり残したことでやりたいこと」と言ったんだと思う。
そういうのが瞬時に話の節々から伝わってきたから、だからヨシダさんに私がするよと申し出た。
ヨシダさんのことだから、これを気安く人に頼めないのはなんとなく想像がつく。
私であれば、農業ど素人のおかげで、わからないことは何でも「これどういう意味なの?」と聞ける。
ヨシダさんも、その方が噛み砕いて説明してくれるだろうし、私なら言いやすいだろうこともなんとなく想像がつく。
だから最後別れた時も、「ヨシダさん、あの資料の話、本当に必要だったらまた連絡してね!」と言った。
ヨシダさんの乗り気具合はわからないけれど、少なくとも家に帰った後、資料は出してきて見たような気がする。
私もこんな風に自ら手伝いを申し出るなんて、しかも資料作りなんて普段なら面倒だから絶対にやるとは言わないけれど、今回ばかりは黙っていたらいいものではない気がした。
ヨシダさんの話から学んだことはたくさんあるけれど、その中でも何を軸にするのかということを本当によく聞かせてもらえた。
ヨシダさんは己の利益ではなく、周りの人たちや自然に対して一番良いものをもたらそう、循環してみんなが良くなるものを追求しようという気持ちだけで基本動いている。
口では良いことを言っておきながら中身は全然違ってたり、実は周りを動かして自分だけが良い思いをするような仕組みとか、そういうものも私は山ほど見てきた。
中には素晴らしいものを提供している人や組織もあったけれど、そういうのは本当に少ない。
そんな中、ヨシダさんのそれはもうこれまでとは桁違いなのと、本気で本人が「後悔は何一つない」と言い切れるほどのことをやり続けているから、だから伝わってくる。
本当にすごい人に引き合わせてもらえたなぁと感じている。
私の人生の混沌ぶりや迷走っぷりはひどいものだけど、ヨシダさんの話を聞いていたら、何が大事なのか、その根幹部分を指し示してもらえたように感じている。
ヨシダさんが何十年も前からやっていたことは、今の私が聞いても古くさくないどころか、本質をついたものだから逆にはっとさせられて、そして胸の深いところに残る。
まだまだ私は色々迷ったり決められたりしないことだらけだけど、何を軸にしたらいいのかはヨシダさんが教えてくれた。
上手く言葉にはできないけれど、ここに書いたことの中に大事なことがたくさん詰まっている。
ヨシダさんのことで何か進展があればまたブログに書きたいなぁと思う。
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