2019/09/22〜米の仕事ラスト数日
ヨシダさんは、最初から並々ならぬ存在感があって、一体何をしていた人なのか気になる風だった。
F-1のサーキット(当時は富士)で自動車の整備士をした後、農協の農機具担当課に入って、定年後ミャンマー・ベトナム・中国・スリランカでタイガーエビの養殖の機械?修理を請け負って海外赴任、今は農家をしながら季節雇用でリフトをものすごく上手に使いこなしている。
リフト運転・操作しながら、タバコ吸ったり、電話出たりしてる人を初めて見た。
そして来る農家来る農家、ほぼ全員と話をして、早く刈れだのもっと全力でやれだの、とにかくケツを叩きまくっている。
刈った米穀を見て、それで品種が違うことを一発で見破った。
品種ごとに伝票の色が違っていて、伝票が間違えている!とすぐに言った。(正しくは、「これ伝票がちげぇねか!」[ちげぇねか!=違うね])
これは後日ヨシダさん本人に聞いて、「長年の経験で見たらわかる」とのこと。
ちなみに素人には、刈られたモミを見たところで、みんな同じにしか見えない。
ヨシダさんに相当突っ込んで聞いたら、それは本当に長年やってたらわかるけれど、少し農業かじったばっかりじゃわからないことだと説明を受けた。
とにかく発言の1つ1つや行動のテキパキした感じと自由な感じが、タダ者じゃないことを彷彿させた。
ある時ヨシダさんが「組合を作った」みたいなことをぽろっともらしたことがあった。
普通にサラリと言ってその時は突っ込まなかったけれど、私は後々考えてその小さな話がものすごく気になった。
絶対に次に話す機会があれば聞こう!と思って、今日話す機会をゲットした時に聞いた。
ヨシダさんは、昭和64年に当時の市町村の町レベルで全農家を訪ねて、各地区ごとに組合を作ろうと掛け合って、それで最初はほぼ全員から総スカンを食うものの、それでも粘り強く交渉して、最終的に町内で32の自治区で農業組合を作った。
今でこそ、近隣の人たちと農業組合を作って、組合ごとに米を作るとか農作物を作るとかは当たり前でも、当時はそんな発想自体がまだ全国的にもほとんどなくて、本当の先駆け的な取り組みとしてヨシダさんは全農家を渡り歩いた人だった。
私が小学校4年生ぐらいの当時、同級生は3人きょうだいが当たり前で、ひとりっ子なんてのは140人ぐらいいた学年の中で1人ないし2人みたいな時代だった。
そして、農家たるもの、長男が引き継いで、もしくは女姉妹だけなら婿を取って家族で受け継いでいくのがまだまだ当たり前みたいな頃だった。
なんて頃にヨシダさんは、「今後後継者が確実にいなくなるから、そうすると農業が途絶えてしまうから、各地区ごとに組合を作ろう」と必死でみんなにアピールした。
逆風だらけで最初は本当に賛同が得られなかったようだけど、最終的にヨシダさんの活動は実を結んで、今現在に至る。
ヨシダさんはそれを農協職員のかたわらでしていた。
所内でも全く賛同が得られず、ほうぼうに喧嘩を売りまくりだったなんて言っていたけれど、今日(こんにち)ここまでその地区の農業が発展できたのは、ヨシダさんの30年以上も前の取り組みのおかげと言っても過言じゃない。
実際に受付をしてみて真っ先に感じたのは、就農者の方たちの高齢化だった。
私どころか50近い年齢の人でさえ若く見える現場だった。
ヨシダさんは、30年以上も前にこういう状況を予測していた。
このままいったら、間違いなく地域の農業は衰退する。
それを見越して、誰もまだそんなことを思っていなかった時に、ヨシダさんはただ1人声を上げてみんなに掛け合った。
多分今の私の年齢ぐらいの時に。
そのヨシダさんから、この仕事が終わったら次の派遣は決まってるのか?と聞かれた。
ヨシダさんには、私は婚歴のない子無しの独身であることは言った(聞かれた)。
だから、普通に考えて仕事を次何かしらするのが当たり前になる。
私は「他にしていることがある」と最初言った。
何してるんだ?という話になった。
なんとなくヨシダさんには言えるし、わかってもらえなくても否定はされないだろうと思った。
私はこんな風に説明した。
「私のは、山で人が行方不明になったら探して欲しいとか、人の人生の分岐点のような時にその人に必要なメッセージをキャッチして伝えるとか、そういう変わった仕事で、やりたいからやるとか、好きだからやるとかいうのではなくて、そういうのが来てしまう」
ヨシダさんは
「おー、そうか。それはそういうもんだろ」
とだけ言った。
あまりにあっさりしているし、何にもしのごのと言わないのがヨシダさん風と言えばそれまでだけど、私は「えっ?これでいいの?」と反対に驚いてビクビクしてしまった。
しばらくしてから、ヨシダさんに聞いた。
ヨシダさんはあの私の話を聞いても何とも思わなかったのかを。
「それはそういうもんだろ、そういうことだってあんだろ」と笑いながらヨシダさんは言った。
私は、これまで色んな人たちにカミングアウトしてきたからこそ、ヨシダさんの返しが普通ではないことがわかった。
ヨシダさんは、私の言っている「やりたいからやるのでも好きだからやるのでもなく、来てしまうもの」という言葉の意味を本当にきちんと理解した人だった。
ちなみにヨシダさんは、やくざから農機の全国的有名な某メーカーの会社の社長から、色んなジャンルの大学教授の人たちまで、とにかく交友関係が幅広い。
どうしたら片田舎に住む定年後のおじさんが海外にいきなり職違いのものに頼まれて行くのか、皆目見当もつかなかったから聞いた。
最初は「ツテで」と一言で終わらせようとして、私は得意のツッコミで「ヤクザ経由?」と聞いたら、「ちげぇよ。知り合いから来た」と返ってきた。
さらに超つっこんで聞いたら、こういうことだった。
ミャンマーみたいな名前の全国でも有名な農機具の会社の社長が新潟のとある営業所勤務だった時代に仲良くなって(当時は社長ではない)、その人繋がりで東京に遊びに行くと、その面々とやらが様々な大学の教授たちとのこと。
その繋がりで、海外の仕事を頼まれたようだった。
だから、終身雇用制度が当たり前だった当時、ヨシダさんは異色すぎる経歴と人脈の持ち主だった。
でも話してたらわかる。
片田舎のおじさんと言うよりも、本気で何かを全力で成し遂げた男の人だということ。
私は言った。
この手の話は怪しいし、私も私で言う言わないは相当人を選ぶこと、言う時も言っても大丈夫そうだと感じなければ言わないことを言った。
例えば今一緒にいる年配の女性たちには間違っても言わない、言ったところで誤解やらを生んで終わるからと説明した。
ヨシダさんは「そうだな…」と失笑みたいな感じで笑いながら答えた。
さらに付け加えた。
ヨシダさんが大丈夫と思えたのは、そもそもの生き方や考え方もだし、例えば組合を作るのに全農家を回って全員からノーを食らうぐらいの体験、100人いたら90人からのノーではなく場合によっては100人全員からノーを突きつけられるぐらいの体験をしただろうから言えたと言った。
その体験がある人なら、私みたいなわけのわからないものを持っている人のこともわかるんじゃないかと思った、それも言った。
ヨシダさんは「そうだな、百人百色だかんな」とこれもうっすらと笑いながら言った。
2019/10/15
昼12時きっかりぐらいに、見知らぬ携帯の電話番号から電話が来た。
そんなこと滅多にない。
しかも、今気付いたけれど、普段ならその時間はお昼ごはんの用意してるから携帯は近くにない。
今日は若干の体調不良で昼ごはんパスだったから、それでちょうど携帯を手に持って何かしていた。
だからすぐに出ることができた。
電話に出ると、向こうもすぐには声がしなかった。
ちょっと間があってから声が聞こえた。
「ヨシダです」
あの米の仕事のヨシダさんだった。
今日から枝豆部門の仕事が始まったようで、それで私からのお菓子とメッセージを手にしたとのこと。
東京に行った翌日、何も知らずに仕事に行ったら、その日が男性陣の最後の日だと伝えられた。
まともな挨拶もできないまま、ヨシダさんとはそれっきりになってしまった。
東京で人数分のお菓子(おみやげ)を買ってあって、私はその日仕事を終えてから大急ぎでそのおみやげを渡す予定の人全員に小さなメッセージを書いた。
ヨシダさんだけは他の人たちとは違った。
きちんとお礼を言いたかった。
ヨシダさんとの会話の中で、私は何度ヨシダさんから心を救ってもらったかわからない。
それをきちんと伝えたかった。
そして、できるならもう一度ヨシダさんには会いたかった。
だから私はヨシダさんのメッセージの中に、自分の電話番号とメールアドレスを書いた。
私の家の近くに来ることがあったら電話くださいと書いた。
俺はメールなんぞしねぇ!とか言いそうだけど、一応書いとくね!と言って、メールアドレスも書いた。
翌日お菓子とメッセージのセットを職場に持ち込んで、手渡しできる人の分は手渡しして、会えない人の分は責任者に預けて、その人たちが次に枝豆の仕事で出てくる時に渡して欲しいとお願いしてきた。
それが今日ヨシダさんたちに無事渡ったようで、そのお礼の電話をヨシダさんはかけてくれた。
「お菓子ありがとう」とヨシダさんは3回か4回くらい言ってくれた。
ヨシダさんにはいくらでも好き放題に言葉を言えるから、「ラブレターも付いてたでしょ!」と言った。
ヨシダさんは相変わらずむせながら、電話の向こうで笑ってた。
「仕事始まったんか?」と聞かれて「まだ何もしてない」と答えると「そうかぁ」で終わって、すぐ次の言葉に移った。
「仕事どうした?」系の質問は山ほど浴びているけれど、ヨシダさんのそれはちっとも嫌じゃなくて、普通に「元気してたか?」並みに聞いてきて、何もしてないと言っても「そうかぁ」で気にかけてるのと、それはそれで有りだなみたいな感じと、とにかく否定せずに言葉を返してくれる。
冗談抜きでヨシダさんは、私の家から徒歩圏内の店に飲みにきたことが何回かあった人だから、本当に飲む機会があれば連絡くれたら飛んでいくよー!と言った。
(ヨシダさんの住んでるところは、市町村単位の隣りの隣りの町)
笑いながら、またな!と本当に菓子ありがとうと最後もありがとうとはっきりと言って電話を締めていた。
相変わらず男気のある人だなぁと感じた。
2019/10/18
昨日ヨシダさんから電話きて、明日デートすることになった。
デートは嘘で、コケ(苔)を探しているとかで、私の住む町の道の駅に行こうとしていて、私がその案内役をすることになった。
ヨシダさんは今日行こうとしていたけれど、明日なら私いるから案内できるよと言ったら、日にちを変えて一緒にコケ探しをすることになった。
地域の名産も食べれる店あるから、そこも連れてくよ!と伝えた。
他にもメダカを飼ってるとかで、メダカのお店にも連れて行こうと思っている。
私はもちろん入ったことないけれど、のぼりが出ていたから、場所だけでも教えようかと。
イマイチ大きさがわからないけれど、ヨシダさんのここ最近の趣味はメダカで、数匹飼い始めたところから、今は500リットルの水槽6個分を所有するほどのメダカを飼っているらしい。
メダカというのは1匹10数万円で売れたりもするらしく、私が売ったらどうかと返したら、「俺は売ろうとは考えねぇわ」と言った。
そういうつもりで飼ってるのとは違うらしく、多分だけど命に値段をつける趣味のない人なんだと思う。
趣味じゃないと言うよりもできない感じがする。
若い頃からとにかく色々やっていて、お茶も三味線も師範級ぐらいまでやったみたいだし、日本舞踊もやったと言っていた。
仕事もだし趣味もだし遊びもだけど、本当にあれこれやりたいことは全部やる主義の人だから、「俺の人生に悔いなし」と言い切っていた。
カッコつけたとかじゃなくて、本当にそう思っているのが伝わってきた。
遊びに関して言えば、「ヨシダさん、若い頃(女遊びの方)遊んでたでしょ?」と言ったら、「遊んでねえって言ったら嘘になるな」と笑って言ってた。
ヨシダさんとのやりとりはたくさんあるけれど、最初にした個人的なやりとりはよく覚えている。
私の名札を見て「それ何て読むんだ?」と聞かれた。
「ぶしまたです。カッコイイ名前でしょ?」
ヨシダさんはふと笑って「変わった名字だな」と言った。
少し話は違うけれど、私は生まれてこの方、自分の名字をカッコイイなんて思ったこともなければ、今でこそ「ぶっしー」という老若男女問わず愛称で呼ばれるからいいけれど、子どもの頃というのはこの名字が原因であまたのいじめと嫌な思いをした。
4年生の時、アメリカではブッシュ大統領が大統領になった。
子どもからして、大統領も天皇も一般市民もみんな同じみたいな頃に「ブッシュ大統領」などとからかわれて、私はものすごく嫌だった。
5年生の時、6年生の仲良くしていた女の子たちから「武士のおこり」という言葉を言われて毎回笑われていた。
歴史の中で「武士のおこり」というのが出てきて、私は毎回怒っていて、そのおこりと怒りを掛け合わされてさらに笑われて、本当に嫌だった。
中学の頃、心理的ないじめと仲間外れととにかく酷い状態に日々あって、男子たちからバイキン扱いされて私の近くを通るだけでやいのやいの本当にあることないこと言われ続けていた。
私の机に誤って触れただけで、その手を他の男子に「バイキンタッチ!」などとやられていたような時の話。
「ぶしまた」は「ぶすまた」と呼ばれた。
ただでさえ容姿コンプレックスが半端なかったのに、私はブスの称号を与えられ、本当に嫌だった。
これは本当のことだけど、うちは三姉妹の中で私1人だけ違う顔をしていて、妹たちは子どもの頃〜思春期にかけて「可愛い」と言われ続けていた。
今でも2人は小綺麗にしているけれど、年齢相応だから、今は普通の30代女性って感じ。
それはそうと、そのことも相当子どもの頃は、なんなら高校に上がってからも言い続けるタチの悪い同級生もいたぐらいにして、ブス、ブス、ブスと呼ばれた。
妹たちに聞いたことないからわからないけれど、「ぶすまた」と呼ばれたのは姉妹の中でも私1人だけだと思う。
だから長いこと、「武士俣」姓に関しては良い思い出などなく、大人になってから老若男女問わず「ぶっしー」とか「ぶしちゃん」とか「ブーちゃん(←これは愛称だと空気でわかる、音はさておいても)」とか、本当に可愛がって呼んでもらっていて、ようやく嫌ではなくなったぐらい。
だから私は自ら「カッコイイ名前でしょ?」なんて言ったのは、ヨシダさんが人生で初めてだった。
そう思って言ったのと違って、ヨシダさんなら私が嫌じゃない、なんなら何が返ってきても気持ち良い返しをくれると感覚でわかっていて言ったに過ぎない。
変わってる名前だと返した言葉も全然嫌な感じはなく、むしろきちんと聞いて覚えようとしてくれてるとわかって嬉しかった。
私のことを呼ぶこともなかったけれど、一度だけ仕事中に「ぶーちゃん」と呼びかけられたことがあった。
自分はリフトから降りられないから、代わりにお気に入りのぶどうジュースを自販機で買ってくれと頼まれた。
大したことないやりとりではあったけれど、何せ忌まわしい過去のいじめの痛みと名前とが心の奥深いところでリンクしてたりもするわけで、そうやって本人が呼びやすい私の呼び方で呼んで、私を選んで小さなやりとりをしてくれることは思っていた以上に嬉しいことだった。
とりあえずヨシダさんに会う前にアップしたいから、途中だけどこのままアップ。
(今電話きた!もう家出たと!)
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