2019年5月19日日曜日
初めての1人前世療法
今日は過去最高のオカルト話。
私も半信半疑だけど、こんなの書き残さないと忘れるし、ある意味面白い体験ではあったから残そうと思って書く。
今日の今日こそ、頭のぶっ飛んだ人みたいな話だから、苦手な方はどうぞ引き返して下さい。
(前回の『オルゴナイト式天然石の治療』なんて、全然内容としてかわいいし、あれはリアルな体験談&私以外の人も見て触って確認できる話だから、信じる信じないは個人の自由でも、話すことに関しては抵抗がない。
今日これから書くことの方がうんと抵抗がある。)
私が数時間前に体験したのは、なんちゃって過去世へのトリップ。
かーなーりー、現状行き詰まり過ぎて、その行き詰まり解消のために、「1人でできる前世療法」なるものをやってみた。
そもそもの発端は、前世療法じゃない。
ホロスコープの調べ物をしている中で(何を検索していたのかもすっかり忘れた)、これまたたまたま行き当たったサイトで、非常に不思議な内容だった。
最初はホロスコープの専門知識をひたすら辿っていたのは覚えてる。
ところが途中から過去世の話がバンバン出てきて、そしてその書いている人というのが自分の過去世をいくつか見たことがあって、さらにはそういう体験を持っている人たちから色々話を聞いて、そうした内容とホロスコープを組み合わせて検証しているという、未だかつて見たことのない新ジャンルの人だった。
先に専門用語を織り交ぜると、過去世や輪廻転生のテーマにまつわる感受点として、「ドラゴンヘッド」と「ドラゴンテイル」と呼ばれるものがある。
通常、ヘッドが今世の課題で、テイルが過去世から持ち越して今世では手放すもの(もしくは有効活用するもの)として説明されている。
そのテーマから私も最初読み始めて(←調べた内容はそこじゃなかったけれど、面白いタイトルに惹かれて読んだに過ぎなかった)、読み進めるうちにその人が自分の過去世をいくつか見たことのある体験者だと知った。
で、その体験者である筆者いわく、ヘッドとテイルの解釈が本当は真逆だと、本人の体験談と共に書いていた。
ちなみに筆者の方は、ホロスコープは自分を知るためだけに使っていて商用には使っていない。
本当の研究者肌の人で、コアなファンはついても絶対に一般受けしないのはわかる。
本人もそれ狙いだから、そして変に夢を見ず超現実重視の人だから、より一層言葉にしても内容にしてもキッチリとしている。
占星術が経済や宗教と結びつくとどういうバイアスがかかるかまで書いていて、読んでいて痛快だった。
で、ドラゴンヘッドやテイルの解釈だけではなく他の解釈に関しても、私が最近「これまさに自分じゃん!」と思ったこととその根底になった私の仮説と見事に一致して、それでその人の記事をいくつもいくつも読んだら前世療法の内容に及んでいった。
ちなみに私の「これまさに自分」話はまた書き終えたらアップする予定だけど、私もたまたま行き着いた内容で、1年もホロスコープ調べをしながらこれまでほとんどかすりもしない情報だった。
かすりもしないということは、言い換えると、それを丁寧に解説してくれてる人が圧倒的に少なくて、だから行き着かないのも無理もなかった。
その圧倒的に少ない情報についてもその人は細かく触れていて、だからこそその人が本当に調べ上げたことがそれでわかった。
で、そんな方が簡易版の1人でできる前世療法のやり方をアップしてくれていて、私もやってみたい!と思った。
ちなみにその方は前世療法に関しても、過去世を見る必要のある人は見るだろうし、見る必要のない人は見ないだろうこと、見たからと言ってそれで今世の課題が一気に解決するとかではなくそこで得たことを今度はどう日々に活かすかが大事、そう謳っていたから、より一層信頼できる内容の人だった。
やり方を読みながら、少なくとも過去に退行していくやり方や催眠をかけるやり方は知っているのと、もちろん何度も過去にやって実践してるから感覚もわかるのと、細かな注意点も読んで理解できたから、大丈夫、できる!となった。
万が一憑依されたら…や、きちんと戻ってくるための方法も書いてくれてて、それはすべて準備もできれば自分でも確認する方法も書かれていたから、自分でやれるとわかって、それでようやく決行した。
今振り返って思ったけれど、過去世に飛ぶ際に通過するプロセスの特徴はさすがに読んでも未体験ゾーンでわからなかったけれど、それ以外の部分は私はすべて方法も理論も読んですぐにわかった。
そう、やっても大丈夫なぐらいに自分が知恵だの知識だのが付いたんだと気付いた。
もう1つ、今回そこまで徹底して1人前世療法をやりたかった理由がある。
私は5月5日からずっと喉の風邪のような症状が続いている。
これが不思議で、とにかく良くなってきたと思うとぶり返しみたくなって、そして今は第3ラウンドと言わんばかりに3回目の不調を追体験している。
3回目の不調がちょっとこれまでと違っていて、今回ガーゼにオルゴナイトを包んでそれを喉に当てたらひどくなった。
前回の記事で、地面に落としたペンジュラムに傷がついて、何をしても傷が消えなかったのに、一晩オルゴナイトの隣りに置いたら傷がものすごく薄くなった話をした。
それ見て、何で今までオルゴナイトをのどに当てなかったんだろう…と思って、それでオルゴナイトをのどに当て始めた。
そうしたらまた具合が悪化して、これはいよいよ普通ののど風邪ではなく、もう溜まりに溜まった潜在意識や魂レベルの意識からの不調なんじゃないかと思った。
明日5/19はさそり座の満月で浄化作用が強く働くのはわかっていたから、死と再生をかけての大浄化が今行われているんじゃないかと疑っている。
で、そうとなると、私が本当の本当に最後まで頑なに握りしめている価値観が何なんだ?という話で、それは私が動かない理由とも超リンクしているだろうし、その理由は頭で考えられるような理由ではないだろうことも感覚的に感じているから、そこでこのタイミングで出てきた「1人前世療法」の情報で、それで試してみての記録。
もしかして、1人前世療法した先には、私の欲しい答えやヒントがあるんじゃないかと思った。
だからやってみた。
そうだそうだ、今回私は1人前世療法を始める前に、1つだけ意図したことがあった。
始める前に「今の行き詰まっている現状に関してのヒントとなる過去世を見せてください」とお願いしてから始めた。
逆に言うと、私は本当に生きているうちに見たい過去世には触れたくなかった。
それはペンジュラムが登場する過去世だけど、それだけは絶対に正式に適切な方法で見たいから、お願いだからペンジュラムの過去世は避けて欲しいと思った。
だから、今の現状に対してヒントになりそうな過去世を私は見るものとしてオーダーした。
ちなみに、先に言うと、やってみた後「だからなに?」という感じだったのと、言うなればパズルのピースを何個かもらってきたみたいな感じで、私が(超)期待したほどの産物はなかった。←期待値でか目なのは相変わらず 笑。
ただ、不思議な体験には変わりないから、備忘録として残しておきたい。
そんなの日記帳に書けよ!って話だけど、私の癖で、ブログに書く方がこういう場合は誰かが読むと思うと丁寧に詳細に書こうとするからここの方がいい。
だから日記帳ではなくブログに残すことにした。
日記帳なら
・前世療法試した
・胎児の時
・魔女
・カード
とかそんなぐらいで終わるのが目に見えてる
( ̄∀ ̄;)。
そして、そんなのは後からもれなく忘れる、マッハのスピードで( ̄∀ ̄;)。
ブログなら文章にして書くから、だから今回はこうしてこの場を使っている。
【追記:実はこの後の文章を書いていく中で、今回の前世療法体験に超大事なヒントが含まれていたことに私は気付いていく。
だから、1人前世療法の備忘録として書き始めたものが、最後は全く別の話に変わっている。】
3つの印象的な場面があった。
1つは今の体に自分の魂が入っていくシーン、1つは前世的なシーン、最後の1つは寝落ちしていたから実際のところ夢なのか前世療法の何かしらの名残りなのかはわからなかった。
最後は現代風な景色だったから違うかもしれない。
しかも、普段の寝ている時に見ている夢よりも色や形が超リアルで、はじめ自分の脳がでっち上げた物語なのかとも思ったけれど、それともちょっと違うようだった。
何せ断片的にしか見えず、意味も分からなくて、その割に鮮明に記憶に残るという不思議な感覚だから、忘れないうちに書いてしまおうと思う。
1つ目のシーンは、過去に退行して、幼児年齢まで行った後しばらく、「で、ここからどうなるわけ?」と思ってぼーっとしてたら、胎児みたいな体が出てきてそこに自分が入っていくシーンだった。
紛れもなく私はこの今の体を選んでいた。
おかしな言い方だけど、その体の中に自分を宿そうというはっきりとした意志があった。
気付いたら前世療法中の自分が泣いていてビックリした。
泣いてることさえ気付かなかったぐらいにそのシーンに私は集中していた。
何で泣いてるのかわからなかったけれど、静かに涙を流していた。
なんとなく感動してる風だった。
「自分が選んだ」というそのことに感動しているみたいだった。
泣いてることに気付いたことで少し意識の状態も変わったことに気付いた。
「これもっと見れるんじゃ?」と闘志を燃やして 笑、さらなるものを求め始めた。
説明に、今世の状態から過去世に飛ぶまで、暗いカーテンみたいなのや暗闇が続くというのがあった。
読んでる時は「なにそれ?」と思ったけれども、胎児のシーンが落ち着くとたしかに暗いところで「無」になった。
自分は確実にいるけれど、とにかく暗い。
どこにいるとかなんてわからなくて、言うなれば海底の深くて暗いところに行こうとしてるみたいな感覚だった。
境界線を持たない闇の中にポツンと自分がいて、実際体があるのかはわからなくて、でも意識体は確実にあった。
「これいつまで続くんだ?」と思ったり、「こんなんで過去世に本当に飛んでけるの?」と、いかにも俗世まみれな思考を働かせながらしばらくそのままでいた。
途中何がどうなったのかさっぱりわからなかったけれど、突然真っ暗だったところから徐々に明るい部分が目の前に広がり始めた。
弁当を入れる巾着袋があったとして、それを開ける時に真ん中から外側に向かって巾着の中が見えるみたいな、ああいうタイプの視覚の広がり方で。
そして真っ暗から明るくなるのは、洞窟にいて洞窟から外に繋がるスポットを見つけた時、いきなり周りが明るくなる、あの感じに似ていた。
そんな風にして、私は目の前の風景に目をこらした。
明らかに今いる自分の部屋ではないどこかだった。
何でそんなことがわかったのかはわからないけれど、女の人で体は今よりもかなり細くて、背の高さはあまり今と変わらない風だった。
線が細い感じで、30代から40代ぐらいの女の人なのはわかった。
小さなほとんど何もない部屋にいて、部屋も多分3畳とか4畳ぐらい、窓があるみたいで外の太陽や空の明るさが入って、薄暗い部屋も多少は明るくなっていた。
窓の近くに立って、左半身木漏れ日的な光を当てて、体に熱を感じた。
不思議だったけれど、私の今の体も左半身だけ熱を感じてる風で、何だこれ?と不思議な気持ちでいた。
私の意識は確実にその体の中に入っているけれど、その様子を客観視している今の自分とその誰かも知らない自分を比べてる時がかなりあった。
次に見えたのが私はその小さな部屋の小さなテーブルみたいな台の前に座っていて(座っているのは椅子みたいだった)、目の前にはトランプみたいなカードを横一列に並べていたのと、その周りにあるホコリを小さな筆みたいなもので祓(はら)っているのか、ホコリ占いでもしているのか、何かしら祓っていて、「何してるんだこれ?」と思いながらしばらくその様子を自分で見ていた。
冒頭のカードを横に並べた写真は、そのシーンの様子を再現したもの。
デザインは無地みたいだったし、もっと薄暗い感じのところではあったけれど、雰囲気はかなり似ている。
1人女性が私の目の前にいた瞬間があったけれど、それが誰かは顔を見てもわからなかった。
その姿を見ていたほとんどの時間、カードと小さなほうきとそれらを載せる台と窓しか見えなかったけれど、とにかくここではないどこかにいた。
さらに私は感覚的に「魔女みたいな全身を覆うような服を着ていて、顔と手以外は肌が出ていない」ということに気付いた。
もっとリアルに感じたくて、近くに用意していた羽毛布団を引っ張ってきて、顔と手以外を布団で覆った。
より一層雰囲気が出て、そして私はいつのまにか寝落ちしていた。
次のシーンは、多分今現在の日本のどこかの自然豊かな町だった。
なぜか私は自分の好きな料理ブロガーの人の家にいた。
ちなみに家はリビングとキッチン以外写真で見たことがない。
なぜか私は娘家族のベッドルームに案内された。(娘家族は実際に同居はしていない。)
大きなベットが隙間なく3つぐらい並べられていて、真っ白なシーツたちに刺繍が施されたもので全て統一されていた。
部屋の窓のすぐ外は小高い丘になっていて、そこに野生の鹿が私の方を見てじっとしていた。
その風景に癒されながら、次の瞬間は地域の祭みたいなシーンと場所になっていた。
水神様を祀(まつ)るみこしみたいなのを男の人たちが担いで町を行脚していた。
水害が起きないようにの願いを込めての儀式のようだった。
そこで私は目が覚めた。
前世的な魔女風の自分から今現在の日本のどこかの町に移り変わるそのタイミングは、寝てしまってわからなかった。
[振り返り後記]
魔女っぽい姿は、最初この1ヶ月2ヶ月で聞いた友達2人の話を自分の中ででっち上げてるのかと思った。
全然接点のない2人の人が、それぞれ魔女だった頃の自分の過去世の話を私にしてくれた。
孤独なところはそっくりで、だから2人の話の合いの子みたいなことを私の頭がでっち上げてるのかと疑った。
だけど、私がその時したのは「自分がどこにいるのか」の確認だった。
すごい変な言い方だけど、魔女みたいな女の人の中に自分の感覚や意識はあって、小さな筆でささっと何かを祓(はら)うのか、ホコリ占いでもしているのかのその筆の動きが私の手の感覚だった。
温かさや光を感じてるのも私だった。
五感の受信者が丸ごと自分そのもので、その自分が魔女みたいな人の全身と一体化していた。
だから、これ私なんだとわかった。
とてもおかしな言い方だけど、そのシーンと次の日本のシーンに出てくる私は、明らかに今布団の上で横たわって1人前世療法している私とは別人格で、体の感覚は完全に布団の上の私にはなくて、見ている方の人物たちの中に感覚があった。
冒頭の写真は、そこで見てきた風景を忘れないために(一晩寝て起きても意外にもしっかりと覚えてる!)、再現したものたち。
筆みたいなのは実物と少し違っていて、木の棒なのはそうだけど、太さは上から下まで均一だったのと、あと普通に普段使いしているのか使いこなれた感があって、写真みたいに新しくなかった。
[『エコショップ節水村』の楽天サイトより、スクリーショットを撮らせてもらった。]
最初、「魔女 小さいほうき」で検索した。
使っている時に、手の動きは本当に普段使いしているのは感覚でわかったけれど、「これ何してんの?」と思った。
掃除というよりも、何か違うことをしている風なのは感じていた。
でも今現在の生活様式とはずいぶん違っていて、その行為が何なのかわからなかった。
だから私は「えっ?ホコリ占い?」なんて意味不明なことを思ったけれど、それは検索をあとからかけて知ったこと。
小さなほうきというのは、場の浄化に使うものだったらしい。
言われてみて、あぁそれが近いかもと思った。
確実に掃除とは違っていたから、でもその割に普通にやっていて、何の意味があってやってるのかがやたらと気になった。
その時は頭の理解が付いていかなかったけれど、後から調べた時に妙にしっくりくる解釈(=小さなほうきでする「場の浄化」)を得て、その理解に少し驚いた。
「何でしっくりくるの?」って。
これは想像としか言いようがないけれど、そこで見たものこそ自分だという何よりもの証拠なのかもしれない。
だって何してるのかもわかってないのに、感覚はしっかりあって、さらには「場の浄化」と聞いてしっくりくるなんて、それはもう自分だからとしか結論の出しようがない。
ちなみに「魔女」とか言っているけれど、それも正直わからない。
でも、私はその自分のことをどういうわけか「魔女だ…」と思った。
根拠なんてなくて、魔女かそれに近しい社会的立場として生きていたと感じた。
ヒントはわからなかったし、この体験そのものが何なのか掴みどころがあるようでなかったけれど、1つだけ今と同じだと思った。
魔女っぽい姿の自分も、孤独だったこと。
何となく追いやられたというより、自らその生活を選んだ風にも思えなくなかった。
もしかしたらもっと深くその自分と一体化したら、他の人たちも登場したのかもしれない。
でも、いるのは自分1人で、小さな空間の中でポツンとしていた。
その私は寂しくなかったけれども、その1人ぽつねんとしている姿とここ最近の自分の気持ちとが重なり合うところがあった。
そのシーンに辿り着いて真っ先に思ったことも筆とか魔女みたいとかではなく、「誰も周りにいない」だった。
たまたま自分1人でいたよりも、普段から基本のベースは1人でごくたまに人が来るみたいなイメージだった。
私は時々、どうにもならないぐらいに自分が孤独だと感じる時間がある。
世の中の誰とも繋がっていないような、どこまで行っても自分しかいないみたいな気持ちになる。
これだけベラベラと書いているけれど、私は自分の気持ちを素直に言うこともとても少ないし、自分の気持ちになると何重ものオブラートに包んでもはや何が原型かわからなくなるぐらいに表現を避ける。
自分が孤独なんだと堂々と誰かに言えるほど強さがない。
平気なフリが身に付いて、言葉をいつも濁すか話を変えたりする。
そしてさらに苦手なのが、表面だけ誰かがいる状態。
心は全く繋がってないのに、形だけ繋がっているみたいなのは、ない方がマシだぐらいに思っている。
自分でも面倒くさい人だと思う。
「寂しいから会いに来て!」とか「寂しいから今から行っていい?」なんて可愛く言える人たち、年齢性別問わず、本気ですごいと思う。
そう言えるのが羨ましいとさえ感じる。
よく考えたらただの一度も人前で寂しいなんて言ったことがない気がする。
小さな子どもたちと「さみしいね」って言い合った記憶はあるけれど、大人とは多分ない。
自分の性格もだし、人間関係を築くのにたくさん難しい場面を経験してきたから、誰かと本気で繋がれるなんて私からすると奇跡だと思う。
難しいこともわかっていて、だからこそ孤独なのはどこか当たり前と割り切る自分もいるのに、時々本当に止まらない孤独感に襲われる。
のどの風邪で不調に不調を重ねまくったここ2週間ほどは、何度も孤独を深めていった。
本当に今この瞬間、誰とも繋がっていないという感覚が、風邪で感覚が朦朧としているところに、さらに強く出てメンタル的にもかなり参った。
そして、もし私がこのままなら、私はもう生涯誰とも繋がらず孤独のままなのかという思考もムクムクと出てきて、それもまた絶望感をたっぷり感じていた。
生きることそのものに対する絶望みたいなものだった。
中途半端に誰かと繋がるぐらいなら1人の方が本気でマシで、だけど1人は1人で底なし沼みたいな孤独との戦いで、どうやっても心は安らがなかった。
実はこの文章、さっきから途中途中書いたり、ホロスコープの調べ物したりして書いている。
順番も書いた通りではなくて、途中まで書いても他に思いつくことが出てくると、最下部に書き足してまた元に戻るということを何回も繰り返している。
魔女的なシーンよりも、その後の孤独との戦いを先に書いたし、そして第3のシーン、日本の町の部分はまだ書いていない。
順番はちゃめちゃだけど、書き物+調べ物で「これだ!」というのが出てきたからそれらを今から書く。
魔女的なシーン、後から湧いた孤独、さらに自分のドラゴンヘッドとテイルのテーマ、それらが全部繋がって、自分が本当に求めているものが出てきた。
今日の昼間書いていた『おじさん会議』(仮題)の記事の中身ともかぶっている。←未完で、アップするのは後日。
以下、『おじさん会議』より一部抜粋。
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おじさんたち五人衆を見て、「心をさらけ出せる場所」というのがキーワードとして出てきた。
職場内でなくても、家でも友達でもはたまた趣味の場でもなんなら自然と戯れるでも、自分が自分のままでいられて、心をそのままさらけ出せることがあることは、私の場合、人生で一番重要だと言ってもいいかもしれない。
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世に出回っているドラゴンヘッドとドラゴンテイルの説明としては、テイルのテーマは何度も過去世でやって身に付いているから、今世ではそこは削ぎ落として、反対にヘッドを今生の魂の課題として掲げて取り組んでいくとなっている。
私の場合で言えば、人と大切な知恵を共有することはさんざん過去世でしてきたから、今世では自分のオカルト能力に磨きをかける、と読む。
でも、いまいちしっくりこなかった、ずっとずっと。
なぜなら、オカルト能力は、多分ここから先は興味を持っていくらでも磨けるから。
1人で前世療法の簡易版しちゃうぐらいの人だから、オカルト系はいくらでも1人で勝手に私は極めると思う。
金にならなくてもやるぐらいだから、勝手に関心持ってやると思う、これからも。
でも、人と大切なものを共有すること、もっと言うと自分が人と共に在るのは、私にとって何よりも切望してると共に何よりも怖くてたまらないものだとわかる。
私は1人が好きなんじゃない。
私が1人を選ぶのは、誰かと深く繋がった後にその人を失うことが何よりも怖いから、そしてそれを体験するぐらいなら最初から1人でいる方が安全だと本気で信じ込んでしまっているから。
だけど、本当は人ときちんと繋がりたい。
見せかけの繋がりではなくて、本当にきちんと繋がっていたい。
だから、私も逆なんだ。
ヘッドのオカルト能力は、過去世で多分何回も繰り返している。
自分でわかる。
私にとって、1人前世療法とかこの体験談を書くとか、そういうことはハードルが高くない。
だけど、人と繋がっていくこと、それも自分が全身全霊で繋がっていくこと、それの方がもう測定不能なぐらいに怖い。
だから、私のホロスコープはまさにそのことがよく表れている。
オカルト系の資質も人生のテーマにあるけれど、私の場合、オカルト資質ははっきり言って手段でしかない。
私のホロスコープに刻まれた本当の人生の目的は、人と繋がっていくこと。
それも心から繋がっていくこと。
だから私にとって苦手なテーマが山ほど入っている。
しかも苦手となるような体験も山ほどすると読み解ける星の配置もある(あるどころか、人生80年とするなら、そういう人生が前半展開した)。
紐がどんどんほどけていく。
私は自分ができることをいまいち好きになれていなかった。
それはできることに関して好き嫌いではなかった。
むしろ、自分でも気に入ってるぐらい。
自分でも人に寄り添う力とか、本気ですごいと思うことがある。
人のために使うのも嫌じゃない。
むしろその相手に私を選んでくれてありがとうとさえ思う時もある。
だけど、私は好きになれない。
やっとその差がわかった。
私の寄り添う力、それ目当てにこられるのが嫌なこと。
他の資質もだけど、英語力とか人の潜在意識をキャッチしてそこからヒントをもらうこととか、そうしたものが嫌なんじゃない。
それで来られた時に私は思ってしまう。
「それを持ってない私なら、あなた私のところに来ますか?」って。
私じゃないところに相手のニーズや欲しいものがあると、私は途端に自分の持っているものが嫌になる。
はっきり言って、それ私じゃなくていいよね?って。
相手が欲しいのは私や私との関係じゃない、というのは、私の勘違いや思い違いの可能性も否定しないけれど、それが起こる時なんか肌レベルで感じてしまう。
自分自身が求められていないこと。
相手が欲しいのは私の能力とか私を通じて出てくる答えやヒントだということ。
これは知的レベルが人並みになってから、だから大学あたりからずっと続いているテーマで、私は色んなシーン色んな人に対して数え切れないぐらいに怒りが毎回沸いてた。
その沸き方も尋常じゃなくて、多分怒りポイントとしては1位2位ぐらいに激しく出てしまうものだった。
自分が利用されてると感じるのは、多くの人にとっても面白い体験ではないと思う。
だけど私のその怒りの沸き方は、面白くないなんていうレベルではなくて、それで相手との関係を全部断ちたくなるぐらいのレベルで出てくる。
許せない、となるのもそういう時が多い。
でもようやくわかった。
私にとって、人ときちんと繋がること、損得勘定抜きで本当に純粋に繋がることは、とても大切なことで人生で得たいと強く望んで止まないことだから、だからそれが踏みにじられるようなことが起こる時、ものすごい勢いで怒りが爆発する。
全部繋がってきた。
人と心から繋がるというのは、一朝一夕にできることじゃない。
人に対しての不信感や警戒心も私は強い方だし、さらには自分をさらけ出す勇気もなければその自分を出して大丈夫?みたいな怖れもものすごく強くある。
でもそんな自分だとわかっていても、私は本当に誰かと繋がりたい願望がとても強い。
魔女のシーンが最初意味がわからなかったのと、それがヒントだなんて全く思えなかったけれど、時間の経過とその前後にきた情報とを合わせて、初めて本当に純粋なる自分の想いに気付けた。
人と繋がる…と思う時に、もしくはその反対に繋がってると思っていたのにそれが自分の望んだものとは違う風だと知る時、私の恐怖感は半端なく強い。
怒りがとめどなく出る場合も多々ある。
それはずっと子どもの頃から今に至るまでの体験でそうなってると思っていたけれども、多分転生する中でも繰り返し身に付いた恐怖感も相当強いんだと思う。
魔女的な私は今よりもさらに人から離れた生活を普通に送っている風だったけれど、それはここに書いた色んなこととリンクしていると感じる。
話はさらに飛ぶけれど、この2週間ほどの体調不良の中、そして破壊と再生をテーマにしたさそり座満月というもののエネルギー、そこから出てくるのは【本気の望み】なんだと今やっと気付く段階にきた。
具合が悪すぎて寝ていても身体が辛かった時、私が唯一強く強く感じていたのは孤独だった。
誰かに自分を気にかけて欲しいけれどその誰かがいないという理由での孤独じゃなくて、もっと根源的な孤独だった。
苦しいでも辛いでもしんどいでもいいのに、私が感じ続けたのは孤独だった。
で、今だからわかる。
その先にあるものは「人と心から繋がりたい」という強い望みが私の中にあること。
そしてそれが叶わない状態、すなわち孤独を本当に嫌になるぐらいに感じ続けていた。
そういうものが1つの線の上にすべて並んだ。
不器用な自分はまた不器用らしく色々もがきそうだけど、人と繋がることを私があきらめない限り、生きているうちに誰かしらとは繋がれる気がする。
パートナーシップが一般的だけど、私は別にそれが全部とは思っていなくて、それは相手と私とがどういう関係性でもいい。
最後のシーンもそうなると繋がってくる。
何で寝室に案内されてるんだろう?と思った。
そして超リアルな鹿。
ちなみに鹿は、夢に出てきた場合、吉兆や開運を示すらしいのと、鹿そのものは幸福や平和の象徴、神の使いを表してるらしい。
奈良の鹿たちを思うと、「神の使い」というのもわからなくもない。(その割にあそこにいる鹿たちは超野性味溢れてどう猛だけど…)
娘夫婦の寝室に案内されて私の頭の中は別の想像も働いたけれど( ̄∀ ̄;)、よくよく考えて何で寝室だったのかがわかる。
その寝室は、シーツとか超きれいに整えられていたけれど、そこがホテルじゃなくて家の中の寝る場所だというのはわかった。
1日の終わりに自分の身体を休める場所で、そして寝る時こそ寝間着以外は何も身につけていない素の自分になる。
なんなら、夫婦の営みがあれば真っ裸になるわけで、本当に身体1つだけを持って誰かと繋がることになる。
要はそれぐらい、まっさらな自分で誰かと繋がることをそこでは象徴していたんじゃないかと思う。
そしてリアルな鹿の登場で、それが可能だよとも伝えられてる風に感じた。
その後にみこしのシーンも来るけれど、魔女のシーンや胎児のシーンと違ったのは、人がたくさんいることだった。
しかも、みこしはそこにいる人たちみんなが同じ方向に向かって動いている。
動作の話じゃなくて、心を1つにしているという意味での同じ方向。
それが私の求めている答えの象徴でもあったんだと今気付いた。
孤独に向き合うのはしんどい作業だし、向き合いたくなくても自然にムクムクと沸いてしまうことも時々ある。
何かしている方が気が紛れる場合も多いし孤独を感じなくて済む。
でも、私は今回体調不良によって、そして1人前世療法を試したことで、より一層孤独感を深めたけれど、今はそこに向き合って良かったと感じている。
孤独も人と繋がる怖さも、究極のところ、誰かと本当に繋がったらなくなるわけではないと思う。
和らいだり軽減はしても、なくなりはしない…、そんな風に思っている。
だけど、孤独は色んなことに気付かせてくれるものだし、必要があって存在している。
さらにそこを丁寧に見てあげると、今回みたいに自分の本当の望みが見えたりする。
孤独であり続けるよりも、本当の望みを自分の目で心でしっかりと受け止めていく方が怖いこともあるんだと知った。
今でも1人の方が究極楽なんじゃない?と思う。
それでも今世この身体を持ってこの時代に生まれたのは、人と心から繋がる体験をしたくて来たような感じがする。
孤独感について書いたあたりは、書きながらボロボロ泣けた。
色々思い出して泣いたのではなくて、何か深いところで感じるものがあったから泣いた風だった。
孤独を知る・体感することの最大のメリットは、それがあるからこそ自分と繋がる誰かを本当に大切にできる心を育めることだと思う。
孤独は、誰かがいてくれることは当たり前じゃないことを教えてくれる。
そういう人と出逢えることが奇跡だというのも、孤独を感じるとより一層感じられる。
相手を大事にするように自分も大事にすることも絶対に必要だということも教えてくれる。
まとまりのない文章になったけれど、これが私の1人前世療法の簡易版の体験談。
やってみて面白かったから、また改めてトライしたいと思っている。
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