家を出た時、雨は本降り、なんなら数日続いた30数度の猛暑日が嘘のように寒い。
よりによって今どうして…?
という中での半年ぶりの東京行き。
1年前は、行く途中で野うさぎを初めて見て、それからもおしり部分がモフモフしたサギみたいな鳥とか、真夜中にゴミ拾いする人とか、とにかく普段見ることのないものを毎回見ていた。
5月から11月まで全7回、一度も裏切ることなく、メッセージ性の高いものを見ていた。
今回は何があるかな…と思って楽しみにしていたら何もなく、着いたらざあざあ降りの雨だけだった。
車を出る前に自分のブログを見た。
それを見て、何とも言えない気持ちが胸に込み上げてきた。
息が止まって、代わりに涙が出た。
今回道中で何も見なかった理由が、そこにある気がした。
それにだけ集中できるように。
2年前の仕事の時みたいだった。
当時の私は、1日ほとんど喋らないという仕事に初めて就いた。
これまで常に人相手の仕事ばかりで、喋らないなんてことはほとんどなかった。
短期のバイトとかは別にしても、ある程度長期でするものは、どんなに喋らなくても勤務時間の半分以上は喋るようになっていた。
だから朝から晩までほとんど喋らないというその仕事に最初とても戸惑った。
平気で10社以上不採用を食らう人が、その時はものすごい速さで決まった。
私の中で仕事に適性も職務歴もないのにその速さで決まるというのは、異例で異常なことだった。
直前まで、私という人間のあらゆる専門性を発揮する仕事を任されていて、そちらを強制的に終了させられても行った仕事で、「何のために行くんだろう?」とは思っていた。
いざ行くと、そこにいる理由は仕事内容ではないことがわかった。
ましてや「喋らない」という、私からすると特殊な環境に身を置く…。
最初の1ヶ月ぐらいはその環境にも慣れないし、何で私はここにいるんだろう?と来る日も来る日も疑問に思っていた。
ある時から、その理由がはっきりとわかった。
全ての情報を遮断してでも絶対に気付いてもらわなければいけない、そういうものがあった。
喋る=対人系の仕事は、全神経を目の前の人や自分たちを取り巻く状況を察知・感知するのに使われる。
そうなると、自分の心の中をありありと見つめてる場合じゃない。
自分の心の機微や心が向かうところを見るためには、とにかく自分の置かれている状況を静寂な空間にする必要があった。
それがわかってから、どうして1日中ほとんど喋らないのかを知った。
その当時のことが頭の中に浮かんで、どうして今回何も道中で見なかったのかを理解した。
サギを見た時も野うさぎを見た時も、私はバス停に着いて落ち着くと、速攻で調べ物を始めた。
サギならサギ、野うさぎなら野うさぎの特徴を調べて、そこに込められたメッセージを探るのに意欲を燃やした。
今回は何も現れなかったのではなく、心を静めることが最優先だったんだと知った。
現れないことが正解で、小さな画面の中に広がる真実をまっすぐに見ること、それを見つめることが何よりも大事なことだった。
言葉を失いそうになりながら、目の前に映るものを見た。
私が見たものは、私にしか解読できない暗号みたいなものだった。
流れた時間の長さを思った時、私同様、その人もその人でどうしていいのかわからないものをずっと抱えていたんじゃないかと思った。
私が過去に紡いだ言葉のグループにどんな意味があるのかは私しか知らない。
だけど、私はそのいくつかのまとまりの言葉たちを、ある1つの方向にだけ向けて書いた。
言葉は幾つ書いても足りないぐらいに、いくらでも出てきた。
そのまとまりは、本当の当事者でなかったら気付けない。
他の誰かが見ても、そこに繋がりがあるなんてわからない。
書き物と防寒具と背中に何の共通点があるかなんて、本人以外知りようがない。
その共通点に気付いている、しかも昨日今日のことじゃない。
長い時間が流れた。
長い時間が経過しても、今も尚そこにアクセスして目に入れる、そこから何かを感じ取る…、その姿が想像できた時、私だけじゃないことを知った。
どうしていいかわからない、消えない、言葉にできない、そういうものは私だけじゃなかった。
実際のところは知らない。
だけど、そうしてしまう、何かしらの動機や心の動きがなければ、確実にそんなことしない。
苦しかったりやり場のない気持ちを持っているのは、私1人じゃない、そう思った。
何をどう言葉にしていいのかわからないけれど、とにかく悶々としているだろう姿が見えるようだった。
私よりももっともっと不器用なのかもしれない。
たくさんの言葉だけが伝える手段じゃない。
時には沈黙が百もの情報を伝えてくる。
それは言葉を発する時よりも、もっと強い何かを伝えてくる場合もある。
言葉がないから想像力は必要だけれど、ないことになんかできないぐらいに「ある」。
東京の朝は雨空でどんよりしている。
毎回雨率の高さにはげんなりするけれど、この空の状態だって空のある1つの表情で当たり前のようにある。
私はひたすら晴れ空ばかりを求めているけれど、曇りの日も雨の日も等しく存在している。
真夜中に車の中で見たブログ画面にも、同じことが言えるのかもしれない。
晴れ空とは言えないものでも、ないわけじゃない。
むしろこのはっきりしない空模様同様、これ以上ない今の様子を表してる気がした。
その奥にあるものが何かなんてわからなくても、「ある」「気にかけてる」ことはわかる。
そこには芯がある。
ブレないもの、ずっと続いているもの、そういうものが見え隠れしている。
1人の人の中に通っている芯には、不器用という服を着ながらも、その奥には絶対に揺らぐことのない強さ、変わらない世界が存在している風に見える。
それがどれだけの支えになってくれているのか、その人は知っているんだろうか…といつも思う。
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