2019年5月1日水曜日

徳を積む人



去年の5月〜11月に占星術講座に通っていた時、毎回不思議なものたちに遭遇していた。

東京には毎回夜行バスで行っていた。

夜中の0時半ぐらいに家を出て、ほとんど車の通りがない道を通って、途中からは大きな国道に変わって、そこからは夜移動する人たちと時々肩を並べて車を運転していた。


5月…野うさぎ
6月…特定のブランドのリュックサック
7月…スーパームーンのような赤くて大きな月
8月…トンネル工事
9月…満月
10月…サギ


と来て、11月は何を見るのかな…と思った。

5月〜10月までの間に見たものをまとめると、
[有益な情報を集めて、それをお気に入りのリュックに詰め込んで、その中でも特定のものにスポットを当てて、それをさらにより良くして1つの完成形を遂げる。
完成したものを今度は外に向かって発信していく。]
と私は読んだ。

毎回不思議なもので、普段も通る道だし、夜中に通ったことも数えきれないぐらいにあるけれど、その時にしかそれぞれ遭遇したことのないものばかりだった。

野うさぎとサギなんて、本当にその時一度きりしか見たことがない。

サギに至っては、田んぼじゃなくて道路に立っていた(´⊙ω⊙`)!

しかもそのサギは、毛の生え変わりの時期だったのか、おしりのところがモフモフしていた。

日中の明るい時間さえ見たことない種類のサギだった。

月は満月とか赤い月とか狙って見れるものじゃない。

トンネル工事は、その前後の日でも夜や昼間に通ったけれど、どういうわけかその時だけだった。

毎年やるならわりかし長期でするのに1日だけなのが珍しいなぁと思ったのは覚えている。

リュックだって、世の中には五万とデザインはあるのに、どうしてその特定のリュックを目の前でバスに乗り込もうとしていた男の子が担いでいたのかはわからない。

偶然と呼べばそれまでだけど、偶然にしては6回連続で起こって毎回驚いた。



11月の最後の講座の時。

家を出て3分もしない頃だったと思う。

まだ初雪は降ってないにしても十分寒い季節だった。

晴れか曇りでも、初冬向けのコートを着なければ確実に寒かったのは間違いない。

1人の男性が大きなビニール袋と50センチぐらいはありそうなバーベキューとかで食材を裏返すためのトングみたいなもののゴミ拾い用バージョンの道具を持って、ゴミ拾いをしていた。

暗くてよくは見えなかったけれど、多分年齢は30代かなぁと、現役バリバリ世代の男性だと思う。

何でゴミ拾いをしていたのかはわからない。

でも、深夜の寝静まった頃、誰も見ていない時間に道路のゴミを拾うというのは、「暇だからやろう!」と思ってやるようなことじゃないと思う。

そこは橋の上で、乗用車が5〜6台信号待ちで並んだら、橋の始まりと終わりまで車でいっぱいになるぐらい短い橋で、自分の家の前でもない。

町内と町内の境い目でもあるから、自分の住んでる町の管轄というのでもない気がする。

誰がどう見ても、完全なるボランティアとか慈善活動だった。

黙々と作業をしていて、私はその姿を見て心が打たれた。

何がすごいって、その人がゴミ拾いをしようがしまいが見た目にはそんなにわからないだろうし、ましてや夜中だから誰も見ていない。

それをやってお金になるわけでは絶対にないし、市から表彰されるようなこともない。

はっきり言って、何一つ第三者から評価されることはない。

だけど、その人はそんなことお構いなしに普通に淡々とゴミ拾いをしている。

本物のボランティアだなと思った。

パフォーマンスでは絶対にできない。

誰も見てないところで何かや誰かのためになることを静かに執り行うその様は、ものすごい私には響いた。



「徳を積む人」



その言葉だけがすっと出てきた。

そして、私も思った。

自分ももっともっとペンジュラムを使えるようになりたいと。

山で行方不明になった人を探して欲しいと頼まれて、1回目のペンジュラムでの捜索は失敗した。

もう一度ご家族に頼んで、今度は現地でペンジュラムを使って場所を特定することをさせてもらった。

その直後に、ゴミ拾いの人を見た。

本当に自分の力を使えるように、そのための見えない部分での積み重ねを大事にしたい、その男性を見てそう思った。

ペンジュラムを持って1年半、初めてそんなことを思った。



『奇跡の果実』をその2ヶ月後から書くようになった。

書いている間、何度も「徳を積む人」としてゴミ拾いをしていた方の姿が思い起こされた。

『奇跡の果実』には色んな人たちが登場していたけれど、どの人にもその「徳を積む人」の姿勢と通じるものがあった。

それぞれの人たちが見えない部分で何かを積み重ねている。

それはお金とか肩書きとかのためではなく、純粋に何かを積み重ねている。

私は何をこれから先積み重ねていくのかな…と逡巡した。

11月の時は、瞬時に「ペンジュラムを使う力を伸ばしたい」と思ったけれど、あれから約5ヶ月が経過して、今はまた少し違う風に感じている。

ペンジュラムもだけど、ホロスコープも、自分に備わっている資質も、カードの読み解きも全部見えない部分での積み重ねを自らやりたいと思った。



今出てきたことをそのまま書こうと思う。

ゴミ拾いの人はもしかして、究極「自分のため」にゴミ拾いをしてるのかもしれない。

それをすることで、その人の心の中の何かが満たされるんだと思う。

何が満たされるかはわからないけれど、喉が渇いたら水を飲んだり、気持ちをリフレッシュしたくて散歩に出たり、そういう何かしらを満たしたくて動くのと一緒だと思う。

「見えない部分の積み重ねをやりたい」と思うことは、私にとってすごい特別な感情が沸き起こる。

外の評価が欲しくて、稼げるようになりたくて、何か自分のものにできる技術を付けたくて…、という動機よりも、純粋にただペンジュラムを使う自分の技量を伸ばしたい、ホロスコープを深めてもっと自分を知りたい、カード1枚から導き出せる世界をもっと見たい、自分の資質がどんな風に他の人たちと物語を作れるか見てみたい、そういう動機なのがすごい嬉しい。

長いこと、私は他者とか社会から見られる自分の評価が抜けなかった。

今だって抜けたとは言い切れないけれど、そうではない純粋に「〇〇したい」と知らぬ間に思って、そしてその通りに動いている時の自分を見つけると感動すら覚える。



合計で7回東京に通ったのに、ゴミ拾いをしていた人にはその1回しか遭遇しなかった。

しかも絶妙なタイミングでの「徳を積む人」との出合いだった。

[有益な情報を集めて、それをお気に入りのリュックに詰め込んで、その中でも特定のものにスポットを当てて、それをさらにより良くして1つの完成形を遂げる。
完成したものを今度は外に向かって発信していく。]

このメッセージに対して、コツコツと積み重ねることが大事だよと言われてるみたいだった。




【令和元年】ーー令和元年5月1日

上の文章は4月22日に書いた。

もう少し書き足そうかそのままアップしようか迷ったまま下書き保存していた。

私的にとても好きな内容だから、令和第1号のブログにすることにした。

元号が変わるのはあと良いところ生きているうちに1回。

そんな貴重な瞬間に人生で立ち会える時を意識して、それ相応の文章をアップしたいとは3日くらい前から思っていた。

なんだか嬉しい。

内容は去年の11月のことだけど、当時の風景は今もはっきりと覚えているし、自分もその姿に憧れた気持ちももちろんしっかりと覚えている。
(わざわざ口に出すあたりが、すでに「徳を積む」ことからかけ離れてる感じもものすごくするけれど( ̄∀ ̄;))



新しい元号「令和」ーれいわー。

個人的に音もとても好きだし、字も好き。

元号発表後、ある中学の授業の様子がテレビに映し出されていた。

新元号について、それぞれの思いを発表して共有し合うみたいな授業だった。

反抗期真っ只中の子どもたちからは大変不評な元号だった( ̄∇ ̄)!

令和の「令」が「命令」に見えて嫌だという意見が多くて、まぁたしかにわからなくもないなぁとは思った。

だけど、今その時の流れを思い出して漢字辞典で調べると、「令」は「命令」という意味を指すには変わりないけれども、「命令」という文字を見て感じることがあった。

漢字辞典も国語辞典も、命令自体は世間一般で認識されている言葉の意味の通りではあるけれど、文字を見ていると「命の令」と書く。

命に対して令される。

「命令」って、分解して見ると、何で命なのかなと思う。

他の漢字でも良さそうなのに、なぜか【命】という漢字があてがわれる。

今度は命を調べた。


【命…生物が生きている限り持続している肉体や精神の統一的・根源的な働きの単一総称。
一瞬一瞬生きることの繰返しとしてとらえられる緊張の持続であり、客観的には有限であるものが、主体的には無限の連続として受け取られる所に、その特徴がある。】
[新明解国語辞典より引用]


命の説明の奥深さにうっとりしながら、「令和」にはもっと別の意味があるのかもしれないなぁと思った。

命に対しての令だとするなら、それは権力者が下の者に向かって命令すると言うよりも、1人1人の命に対してそれぞれの命を全うしなさいと言われてる、そんな風に感じる。

誰かに言われてるというよりも、この世に生を受けた者が生まれた時に約束してくることみたいな感じ。

そして、それぞれの命の和の集合体がこれからの「令和」という時代を作る、そんなイメージ。




私が漢字から感じた「令和」と今回アップする『徳を積む人』の話がリンクする。

命の約束は、もちろん大きな意味での生きる意味に繋がるとは思うけれども、生きることそのものは、ある日のゴミ拾い1つだったり、こうして文章を書くことだったり、ごはんを食べたり、人と話したり…、そういうことの集大成が生きることで命だと感じる。

令和という字には、個人としての命の在り方も同時に表している感じがする。

自分自身との調和も含まれての「令和」。

私の中の「調和」は、何もすべてが綺麗に整っていることだけではなくて、非常に受け入れ難い自分とも一致することも含んでいる。

例えば、イライラしている自分とか、思い通りにならなくて焦ったり落ちたりしている自分とか、そういう自分を排するんじゃなくて、その自分も普通にいての自分だとすること。

調和は新明解国語辞典によると
【互いの性質が、衝突しないで、新しい美しさ(よさ)を見せること】
とある。

自分自身の中で衝突しないでいられる、もしくは衝突してもそこから新しい良さが生まれる、そういうのに憧れて仕方ない。

今日は新元号の元旦みたいな日だからインパクトがあるけれど、これから令和が定着して何の新鮮味もなくなった時にも、この「徳を積む人」の時に感じたことは覚えていたいなと思う。

そして、命の約束とか、自分自身との調和とか、そういう感覚をどこか頭の片隅に置いておけるといいなぁなんて思っている。


[写真]
令和初日の朝。
今日はその後空模様が大きく変わって、雨が降った。
朝日が昇る様子を拝めて、なんだか得した気分だったv( ̄∀ ̄)v

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