心を落ち着けて書きたいと思う。
さっき、1つの文章を完成させた。
ものすごくうまく書けた。
うまくというのは、文章がするすると自分の指を通して勝手に出てくる感じだった。
しかも初めての表現方法だった。
その文章は、いつもなら会話を必ずどこかに入れる。
会話があるということは、当然文章の中では自分以外の第三者が存在する。
その第三者の存在を書きながら、自分の心が震えた瞬間を記す。
そういうスタイルの文章。
今回初めてそうではない文章を書いた。
文章の中には自分しか出てこない。
会話はない。
だけど自分しかいないのに人も存在しているとわかる、自分でこれまで書いた文章では異質の
タイプのものだった。
初めて書いたタイプであるものの、何の違和感もない。
どうしたかと思う位にすらすらと書けた。
あとはアップするだけで良かった。
アップしようと思った少し前から、パソコンの調子がいつもと違うことに気付いた。
実は今日このブログでは、別の記事をアップしようと思っていた。
そのために過去記事をさかのぼろうとしたら、ブログが表示されなかった。
何度やっても出てこない。
これまでの経験で、まずいとわかった。
ネットが接続されているのに、何を検索してもクルクルと検索マークが回るだけ。
表示が一切変わらない。
本当にまずいとわかって、とりあえずアップ予定だった文章を保存することにした。
もう一度立ち上げ直したらいいと判断したから。
そうしたら、パソコンが完全にフリーズした。
WORDは開かない、そのうちキーを触ってもマウスを触っても、何も動かなくなった。
保存すらできず、さらには記事を書いたページを開くこともできなくなった。
いちかばちかで、強制終了して、もう一度パソコンを立ち上げることにした。
強制終了した時は、インターネット上のものであれば「ページの復元」が可能だから。
それに賭けることにした。
というか、もう完全に動かなくなったパソコンの前ではそれ以外に選択肢がなかった。
立ち上げ直し、ページの復元までは予定通りだった。
ページの復元で、さっき書き上げた文章がそっくりそのまま出てきた時は感動した。
ところが、そのページは一瞬で消えた。
そして画面には、真っ白い記事を書く前の状態のページだけが残された。
履歴検索しても、どういうわけかその時のものだけ出てこない。
そして色々とフリーズした時も、数分間の空白が履歴には残っている。
そう、「残っていません」という履歴が示されていた。
わたしはその一度は書いて消えてしまった文章をなんとか取り戻したくて、自分の記憶を頼りに
先ほどWORDに打ち込んでみた。
ある程度は書けた。
でも細かいニュアンスは、指から勝手に出ていたような感覚だけあって、思い出せなかった。
言葉は断片的にしか出てこない。
同じものを再現することはほぼ無理とわかり、あきらめて今これを書いている。
今書いていてわかった。
あの時、春分の日にちなんだ磁場みたいなのが働いたと思う。
ちなみにパソコンの調子がおかしくなったのは13:30より少し前から13:40過ぎ位の10分程の
時間。
時間にしたら短い。
昨日の夜だったかに、その時間が天体的に何かが一番強く作用する時間みたいなことが書いて
ある記事を読んだ。
まさにどんぴしゃの時間にわたしは書き物を完成させてアップを試みたら、それが永遠に失われる
結果となった。
本当に悲しかった。
だけど、それが作用する位にその完成させた文章の完成度も高かった。
自分の中では、かなり好きな文章だった。
そして今、自分の中に残ったもの。
やっぱり今日書いた文章は、どこかでもう一度それに近いものを完成させたいと思っている。
その時は気持ちを改めて、再度挑みたい。
それはそうと、あのかなり好きな完成品の文章は二度と戻ってはこないけれど、それを書いた
のは他の誰でもない自分自身だから、あとはまた自分を信じて紡ぐしかない。
それを書けたということは、また言葉の使い方は変わっても、二度三度書くことはできる。
「失われても尚残るもの」、これが春分の日がもたらしたわたしへのメッセージなのかもしれない。
去年の春分の日の前後、わたしは大きく体調を崩していた。
「浄化」と言えば聞こえがいいものの、本当にもう何年も突発的なことで医者にかかっていなかった
わたしが医者にかからなければ完治が見込めない位に日に日に状態は悪化した。
通院して事無きを得たけれど、春分の日というのはそんなにも目に見えないけれど何かとてつも
ない威力に満ちているのかと心底驚いた。
今年は体にこなかったから安心していた。
そうしたらパソコンに思いっきりパンチが飛んできた。
しかもどんぴしゃのタイミングで。
今年のパンチの方が辛い。
久しぶりに心を揺さぶられた。
ただ、後ろをいくら振り返ってももう戻れない、取り戻せないとわかったら、仕方ない。
あきらめることももちろん必要。
だけどそんな手痛いことはただ痛みだけを伝えるもののはずがない。
その痛みの先にもっと大切なことが含まれている。
失ったものはもう失ったものでしかない、それでも残るものもある。
外からは見えないし、わたしも自分で持っていながらも見えない。
それでもたしかにある。
書いているうちに心が落ち着いてきた。
何とかならなくても、何とかする自分がいる。
まさにこのブログのテーマにぴったりな「生きる」に沿った体験だった。
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