丸っと1週間、普段の生活から離れて父・母が暮らす家に帰った。
名古屋に住んでから15回以上は帰った場所。
盆、正月、ゴールデンウィーク以外にも必要があって帰った時もあった。
1週間ほど滞在するとすごくよくわかる。
自分の中の細胞が丸ごと入れ替わる位の変化が起こる。
「娘」以外の役割は何も持たず、食べて寝て家事して喋って、その繰り返しが主だけど、
そして動くのも必要最低限だけど、それでも普段の生活では出てこない自分が出てくる。
淡々と日々を送り、お互いに家事を押し付け合ったり文句を言ったりしながらも、世の中であの
場所ほど自分が自分でいられる場所は他にない。
家族に自分の今を、もしくは過去をすべて包み隠さず話せるわけじゃない。
多分、わたしがわたしの秘密を持つように、家族それぞれだって秘密があると思う。
それでももうこれ以上ないと言わんばかりの素の自分が何もしなくても出てくる。
普段肩だけと言わず全身に力が入っている自分の姿が、すごくよくわかる。
いつもなら、その力の入っていることにすら気付けない自分がいる。
そのがちがちの力、余計な力が一瞬で抜ける。
それらが抜けた時、物事は実にシンプルになる。
それを今やりたいかやりたくないか。
ごちゃごちゃ面倒くさいことは考えず、体の欲求に合わせて、心の動きに合わせて自分を動かす。
世の中の出来事の煩雑さと言ったらない。
あの煩雑さの中で生きようとしたら、それは変な力もよそ行きの顔も便宜上必要だ。
それでも、それらの仮面を全部脱ぎ捨ててもいいと自然に思えて本当にそうできる場所、
気付いたら力が抜けている自分、そういう場所と自分が存在していることにどれだけ救われるか、
そんなことをゆったりとした頭と心で感じた。
生きていたら色んな自分がいる。
全身に思いっきり力の入っている自分も自分。
力が完全に抜けきっている自分も自分。
怒っている時も、涙流している時も、「それおかしい」と自分の思いを主張している自分も、反対に
自分の主張を呑み込んでいる時の自分も、全部自分。
色んな自分がいるけれど、なるべく自分の中にある自分と外に向かって表現する自分にずれが
ないといいなぁ。
ずれるから力が入るんだろうと思う。
ずれがなければシンプルにそのままの自分を出せばいいだけ。
そんなことを考えているうちに、帰りの高速バスの中ではいつの間にか眠っていた。
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