これまで一度も訪れたことのない場所を訪れた。
手続きのために向かって、帰りは思い出のある場所をひたすら歩き、当時仕事で使っていたバス
停からバスに乗った。
思い出のある場所の1つは大きな公園だった。
仕事の途中、ちょっとさぼって公園の中で休憩した。
平日の午前中に、中学生か高校生と思しき女の子がいて、どうしたんだろうと不思議に思っていた
あの場所だった。
今日は雨で、散歩のおばあさんと習い事に向かう小学生の小さな女の子2人とだけすれ違い、
あとは誰にも会わなかった。
ここかしこと木々が植えられていて、トトロのトンネルみたいだった。
当時の職場の近所で見慣れていたところは、ところどころ様変わりしていた。
中国人が経営していると思われる中華料理屋や大きな駐車場を備えたコンビニができていた。
中華料理屋が当時もあれば絶対に行ったのに、と残念に思いつつ、徐々に当時の職場に近付き
よく見慣れた建物が目に入った。
なんだか暗いなぁと思いながらも、まぁ元々暗い感じの建物ではあったから、そしてちょうど前の
歩道に植えられた樹木が邪魔していて見えないだけだと思っていた。
なんと前の職場は閉鎖していた。
会社自体はまだあるから会社は存続しているけれど、わたしの職場は閉鎖していた。
「テナント募集」の看板が窓に貼り付けられているのが目に入った。
まさかそんなことになってるとは思わず、直接3階建てのビルの中に入って行った。
下の駐輪場には当時の但し書きが残されたままになっていた。
2階に上がり、扉に貼ってあった事業所のシールはなくなっていた。
電気メーターも止まっていた。
そしてまたすぐに元の道を引き返した。
2階の踊り場で、ぽっかりと空いたスペースから雨空を眺めた。
いつかここでFと下弦の三日月を一緒に眺めて、それは時間にしたらほんの1~2分、ふたりで
感動した。
こんな風に夜に月を見ることもなければ、それがたまたま下を向いている三日月ですごくラッキー
と話していたFの姿は今でも目に焼き付いている。
最後の日、Iを外まで見送った。
外まで見送ってくれるなんて嬉しいと言いながら。
Yはいつも下に設置されていた自動販売機のジュースについて談義していた。
一時期撤去されて、その中のコーンスープが好きだったのに悔しいと真剣に訴えていた。
今日手続きした場所は、当時のお客さんが住んでいる町だった。
実際に歩いてみてとても遠いことがわかり、あんなに遠くからいつも通ってくれていたんだと
思ったら、ものすごく感動してしまった。
まだまだ思い出そうと思えばいくらでも思い出せる。
とにかくたくさんの思い出をたくさんの人たちと作った場所だった。
仕事の内容は全然好きではなかったけれど、そうした個人個人との関わりが大好きで、それだけ
を理由に続けられたと言っても過言ではなかった。
あの場所があったから出逢えた人たちで、作られた思い出だった。
今回4年ぶりの訪問で、この4年で色んなことが変わったんだと知った。
不思議と切なさはなくて、もう空虚となったそのテナントを見て、そこで一緒に思い出を作られた
その事実だけがなんだかものすごく特別に感じた。
当然そこに通ってきた人たちは今も9割がたはその地域に住んだままだろうと思う。
そこを見てどんな風に何かを思い出すんだろう。
時と共にどんどん色んなものを忘れるだろうし、もしかしたら一瞬たりとも思い出すこともないの
かもしれない。
別にそれでもいいなぁと思った。
多分もう自分の人生でそこには二度と訪れない。
ついでに行ける場所じゃないから。
二度と訪れることはなくても、わたしの思い出の中ではずっと永遠に残る場所、そして数々の
思い出たちも時々は人生の中で現れてくれるだろうもの。
そういうものっていいなぁと思う。
そういうものを持てたこともとても光栄だと感じてる。
当時はただただ辛かっただけの仕事が、今は素敵な思い出のワンシーンになっている。
2016年4月28日木曜日
行きつ戻りつそして今
「行きつ戻りつそして今」そんな言葉がふと出てきた。
何が行きつで何が戻りつなのかわからないけれど、今の自分の心情を表すとそんな感じ。
この3日程、日常なのに非日常のような時間を過ごした。
過ごしたと言うより、勝手にありえもしないことが山ほど起こってきてびっくりした。
例えばその一端を担った1冊の本がある。
図書館で借りた本で、さっき調べたらなんと名古屋市内で1冊しか在庫のない本だった。
なんとなく惹かれて借りてきて、そしてその本にあったある実験を行って。
実験は「まさか」を体験する実験だった。
有り得ないということが起きるかどうかを見る実験。
実験って言っても特に何をするわけでもなく、日常を送る。
そうしたら、本当に色んなことが、そう決して日常で起こらないことがいくつもやってきた。
あまりにも非日常のことがいくつも重なって、頭の理解なんか追いつくはずもなく、どうしてこんな
ことが起こり得たのだろう?なんて考えても仕方のないことをぼんやり思う。
本には臨時収入や思いもがけないヒントがきたり・・・と紹介されていた。
それが本当にやってくるなんて、誰が予測できただろう。
しかも臨時収入は、実はずっと家の中に何年も前からあったお金だった。
そして臨時収入というかその現金を手にするのに、それを引火させた人物が2人いる。
1人は10年来の友人のような関係の人で、その人からSNSにメッセージが来た。
1年に1~2回ふらりと連絡をくれる人で、そこはまぁ最初の入り口にしか過ぎなかった。
そのメッセージをネットで確認するにあたり、わたしはある衝撃の事実(2人目)を知る。
あまりにも衝撃がでかすぎて、それでわたしは急遽本格的な断捨離をしたくなり、それで断捨離を
始めたら、なんと意外な場所から現金が出てきた。
そう、だからそのお金は数年前からそこにずっとあったのに、わたしは一度でも気付くことがなく、
ずっとずっとその場所でただ息をひそめていた。
そして最初の本の話に戻ると、すごくいい内容の本でその人ブログやってないんだろうか?と思い
それもチェックした。
その方のブログがいいのはもちろんだったけれど、そこに過去に読んだことのある本の作者との
対談会のような案内があった。
会自体は終わっていたけれど、そのもう1人の方の情報が気になり、それを開いた。
なんと昨日名古屋にその人は来ていて、講演会をするという情報をキャッチした。
情報は先にキャッチしていたけれど、いかんせん先立つものがない。
本当に行けるなら思いがけない方法でお金がくるだろうと(どうせこないだろうと)たかをくくって
いたら、まさかの断捨離の行く末の臨時収入。
めでたく行ってくることができたのが昨日の夜。
さらにその前にも、近所の大学で公開講座があり、なんと無料で一般市民も参加できるタイプの
ものでそこにも足を運んだ。
そこでも思いがけないたくさんのヒントと、そして何よりもわたしがこれまで名古屋市内で見た一番
景色の良い場所に遭遇した。
これまで大学は外からしか建物を見たことがなく、一度も中に足を踏み入れたことがなかった。
だから全くの初めての場所に行くことになったのだけれど、もう半端じゃないきれいな景色で、
そんな素敵な土地が名古屋にあったとは、しかも普段よく通る場所がそんなにもきれいな景色に
なるとは、想定外の出来事だった。
とりあえず、何だかよくわからないけれど、何だかよくわからないことがたくさん起こっている。
そのありえないことが起こる実験を始めた24時間後ぐらいに、72歳とおっしゃった婦人に会った。
向こうから話しかけてくれ1時間弱、互いにベンチに座りながら話をしていた。
その方の飼い犬の名前は、わたしの友達の飼い犬と同じ名前だった。
さらには、なんとその息子さんが数年間勤めたという会社がわたしが派遣で行ったことのある会社
だった。
不思議なこともあるもんだなぁとその時は思って終わった。
そう、断捨離の時も不思議なことがあった。
結局は捨てるのをやめたのだけれど、今回これだけは捨てようと思った1冊の絵本があった。
そこについているわたしのストーリーを断ち切りたくて捨てようと思った。
そうしたら、他のものも見ていたらなつかしくなり、1冊の雑誌を手にした。
3~4年前の今頃、とある雑誌に文章を投稿したことがあった。
それがまさか採用されて実際に掲載されたのがその1冊の雑誌の正体だったのだけれど。
今回も久しぶりに自分の文章を読んだ。
もう何回も読んだし、その時のことはよく覚えているから、その辺りはこれまで通りだった。
これまで通りではなかったのは、自分の文章が載っているページの上の部分だった。
なんとそこに、よく雑誌なんかにある「おすすめの本」コーナーみたいなのがあって、そこに例の
捨てようと思った絵本が紹介されていた。
今まで一度も気付かなかったと思う、そのコーナーの存在に。
だけど今回はそこに初めて目が行き、まさか自分がこれから捨てようとした絵本がそこに載って
いるなんて、想像すらできなかった。
それ見たらあまりの偶然に腰を抜かし、とりあえず捨てることはやめた。
だってこんなにたくさん世の中には本が溢れているのに、何がどうしたら自分が捨てようと思った
本とそのたまたま自分の文章が掲載された雑誌の中で第三者が推薦している本が一致して
いて、さらには自分の文章とその本の紹介とが同じページにある。
もうどんな確率ですか?という話で、捨てるに捨てられなくなった(笑)。
ちなみに絵本は9~10年前に購入したもの。
という、過去も未来もはちゃめちゃなことが山ほど起こって(ここには書いてないこともまだある)、
とにかく行きつ戻りつの今になっている。
これまた余談だけど、今日とある契約に関する連絡をある会社にした。
これももう何回も契約しているから、いつもと同じ流れで契約をするのだろうと思っていた。
ところがいつまで経っても契約書がこないからどうなってるのかと思い、ようやく連絡した。
なんと、契約の方法が今回から変更になることが判明した。
これも全くの想定外のことで、もしこれを早くに知っていたとするならまた違った選択を自分はした
のかもしれないと思った。
とにかく、これまで「○○だろう」と思っていたことが次から次へとひっくり返され、もう何が当たり前
で何がそうではないのかの線引きが薄れてきている。
ありえないことだらけなわけだから、どう解釈していいのか自分でも戸惑っている。
さてこの後もいくつか、普段には有り得ないことがいくつか予定されている。
何が出てくるのかはわからない。
だけど確実に水面下で何かが進行しているような感じがある。
何が進行しているのか、当の本人のわたしでさえわからない。
何が行きつで何が戻りつなのかわからないけれど、今の自分の心情を表すとそんな感じ。
この3日程、日常なのに非日常のような時間を過ごした。
過ごしたと言うより、勝手にありえもしないことが山ほど起こってきてびっくりした。
例えばその一端を担った1冊の本がある。
図書館で借りた本で、さっき調べたらなんと名古屋市内で1冊しか在庫のない本だった。
なんとなく惹かれて借りてきて、そしてその本にあったある実験を行って。
実験は「まさか」を体験する実験だった。
有り得ないということが起きるかどうかを見る実験。
実験って言っても特に何をするわけでもなく、日常を送る。
そうしたら、本当に色んなことが、そう決して日常で起こらないことがいくつもやってきた。
あまりにも非日常のことがいくつも重なって、頭の理解なんか追いつくはずもなく、どうしてこんな
ことが起こり得たのだろう?なんて考えても仕方のないことをぼんやり思う。
本には臨時収入や思いもがけないヒントがきたり・・・と紹介されていた。
それが本当にやってくるなんて、誰が予測できただろう。
しかも臨時収入は、実はずっと家の中に何年も前からあったお金だった。
そして臨時収入というかその現金を手にするのに、それを引火させた人物が2人いる。
1人は10年来の友人のような関係の人で、その人からSNSにメッセージが来た。
1年に1~2回ふらりと連絡をくれる人で、そこはまぁ最初の入り口にしか過ぎなかった。
そのメッセージをネットで確認するにあたり、わたしはある衝撃の事実(2人目)を知る。
あまりにも衝撃がでかすぎて、それでわたしは急遽本格的な断捨離をしたくなり、それで断捨離を
始めたら、なんと意外な場所から現金が出てきた。
そう、だからそのお金は数年前からそこにずっとあったのに、わたしは一度でも気付くことがなく、
ずっとずっとその場所でただ息をひそめていた。
そして最初の本の話に戻ると、すごくいい内容の本でその人ブログやってないんだろうか?と思い
それもチェックした。
その方のブログがいいのはもちろんだったけれど、そこに過去に読んだことのある本の作者との
対談会のような案内があった。
会自体は終わっていたけれど、そのもう1人の方の情報が気になり、それを開いた。
なんと昨日名古屋にその人は来ていて、講演会をするという情報をキャッチした。
情報は先にキャッチしていたけれど、いかんせん先立つものがない。
本当に行けるなら思いがけない方法でお金がくるだろうと(どうせこないだろうと)たかをくくって
いたら、まさかの断捨離の行く末の臨時収入。
めでたく行ってくることができたのが昨日の夜。
さらにその前にも、近所の大学で公開講座があり、なんと無料で一般市民も参加できるタイプの
ものでそこにも足を運んだ。
そこでも思いがけないたくさんのヒントと、そして何よりもわたしがこれまで名古屋市内で見た一番
景色の良い場所に遭遇した。
これまで大学は外からしか建物を見たことがなく、一度も中に足を踏み入れたことがなかった。
だから全くの初めての場所に行くことになったのだけれど、もう半端じゃないきれいな景色で、
そんな素敵な土地が名古屋にあったとは、しかも普段よく通る場所がそんなにもきれいな景色に
なるとは、想定外の出来事だった。
とりあえず、何だかよくわからないけれど、何だかよくわからないことがたくさん起こっている。
そのありえないことが起こる実験を始めた24時間後ぐらいに、72歳とおっしゃった婦人に会った。
向こうから話しかけてくれ1時間弱、互いにベンチに座りながら話をしていた。
その方の飼い犬の名前は、わたしの友達の飼い犬と同じ名前だった。
さらには、なんとその息子さんが数年間勤めたという会社がわたしが派遣で行ったことのある会社
だった。
不思議なこともあるもんだなぁとその時は思って終わった。
そう、断捨離の時も不思議なことがあった。
結局は捨てるのをやめたのだけれど、今回これだけは捨てようと思った1冊の絵本があった。
そこについているわたしのストーリーを断ち切りたくて捨てようと思った。
そうしたら、他のものも見ていたらなつかしくなり、1冊の雑誌を手にした。
3~4年前の今頃、とある雑誌に文章を投稿したことがあった。
それがまさか採用されて実際に掲載されたのがその1冊の雑誌の正体だったのだけれど。
今回も久しぶりに自分の文章を読んだ。
もう何回も読んだし、その時のことはよく覚えているから、その辺りはこれまで通りだった。
これまで通りではなかったのは、自分の文章が載っているページの上の部分だった。
なんとそこに、よく雑誌なんかにある「おすすめの本」コーナーみたいなのがあって、そこに例の
捨てようと思った絵本が紹介されていた。
今まで一度も気付かなかったと思う、そのコーナーの存在に。
だけど今回はそこに初めて目が行き、まさか自分がこれから捨てようとした絵本がそこに載って
いるなんて、想像すらできなかった。
それ見たらあまりの偶然に腰を抜かし、とりあえず捨てることはやめた。
だってこんなにたくさん世の中には本が溢れているのに、何がどうしたら自分が捨てようと思った
本とそのたまたま自分の文章が掲載された雑誌の中で第三者が推薦している本が一致して
いて、さらには自分の文章とその本の紹介とが同じページにある。
もうどんな確率ですか?という話で、捨てるに捨てられなくなった(笑)。
ちなみに絵本は9~10年前に購入したもの。
という、過去も未来もはちゃめちゃなことが山ほど起こって(ここには書いてないこともまだある)、
とにかく行きつ戻りつの今になっている。
これまた余談だけど、今日とある契約に関する連絡をある会社にした。
これももう何回も契約しているから、いつもと同じ流れで契約をするのだろうと思っていた。
ところがいつまで経っても契約書がこないからどうなってるのかと思い、ようやく連絡した。
なんと、契約の方法が今回から変更になることが判明した。
これも全くの想定外のことで、もしこれを早くに知っていたとするならまた違った選択を自分はした
のかもしれないと思った。
とにかく、これまで「○○だろう」と思っていたことが次から次へとひっくり返され、もう何が当たり前
で何がそうではないのかの線引きが薄れてきている。
ありえないことだらけなわけだから、どう解釈していいのか自分でも戸惑っている。
さてこの後もいくつか、普段には有り得ないことがいくつか予定されている。
何が出てくるのかはわからない。
だけど確実に水面下で何かが進行しているような感じがある。
何が進行しているのか、当の本人のわたしでさえわからない。
2016年4月25日月曜日
心地良い音色
夜中布団の中で小説を読んでいたら、外から聞こえる音が一段と大きくなった。
いつから聞こえていたのかはわからなかったけれど、よく耳を澄ますとカエルの鳴き声に似ている。
包囲5キロは完全なるコンクリートで構成されている街に住んでいたら、カエルとは無縁だ。
もちろん田んぼも畑もない。
あったとしても、とっても人工的な家庭菜園がある位だ。
そもそも庭の面積が狭すぎて、畑などやれる程の土地持ちの人は近所にいない。
だからその何だかよく知らない音がカエルの鳴き声に、しかもおたまじゃくしがカエルになった位の
一番うるさくなるカエルの大合唱のような音に聞こえるのがたまらなく不思議で仕方なかった。
近所は住宅が密集していて、夜中はほとんど音がしない。
たまに酔っ払ったグループの人が通りかかると、会話が聞きとれそうな位に静まり返っている。
そのカエルの鳴き声のような音がどこから来ていて、そしてどうしてそんな風に音がわたしの頭の
中では書き換えられているのかわからなかったけれど、聞いていて安心する音だった。
新潟の実家のすぐ隣りには田んぼがある。
だからカエルの鳴き声は、毎年時期が来れば嫌でも耳にする。
そのよく見知った音をただただ聞くだけで、気持ちがおだやかにそして何とも言えない安心感の
ようなものを感じて感動した。
ただ小説があまりに面白すぎてベランダに出て音を確認するほどの余裕はなかった。
キリのいいところで確認しようと思いそのまま読書を続けていたら、「さぁちょっと出てみようか」と
思った時には丁度その音が消えてしまった。
そしてその後には一切そのカエルの鳴き声らしい音は、外から聞こえなくなった。
何だったのだろう?と思う。
今朝は今朝でまた面白い音を耳がキャッチした。
今近所では3つの大きな工事が同時進行している。
1つは水道管の入れ替えのための道路工事。
これが音としては一番家から近いもの。
2つ目は、距離で言えばコンビニ1軒分位先のところのアパートの外壁補修工事。
多分だけど、そのアパートの外壁補修工事は予定になかったものだと思う。
数日前、暗くなってからそのアパートの脇を通ったら何人もの作業員が応急処置的な機材を持ち
込んで、とりあえず最低限の安全を確保するためにライトアップさせて作業していた。
昼前までは普通だったのに。
そんなこんなでその夜以降、毎日外壁工事が行われている。
3つ目は、50m程先にある某会社の本社建替工事。
「本社社屋」と看板にあったけれど、多分東海地区ではそこそこ大きい会社だと思われる中、
名古屋の繁華街やオフィス街からは離れたこの地にそんな本社を建設するのが不思議。
その3つが稼働しているから、とにかく方々から色んな音が耳に届く。
今朝の音は、何か重機を使っている音には間違いなかった。
だけどその重機が醸し出す音というのが、夏祭りなんかで演奏される日本古来のたて笛の音色に
そっくりで、そしてたまたまなんだろうけれど旋律までも生み出し、聞いていて心地良かった。
当たり前だけど、工事であっても祭りではないわけで、だけど音だけを切り取ったら完全に祭りの
笛の音色で、そのあべこべな感じも寝ぼけた頭には面白おかしく映っていた。
しゃきっと目覚めると、もうそのたて笛のような音色はなくなっていて、多分使用する重機が
変わったのだろう、単なるうるさい工事の音だけが残った。
いつから聞こえていたのかはわからなかったけれど、よく耳を澄ますとカエルの鳴き声に似ている。
包囲5キロは完全なるコンクリートで構成されている街に住んでいたら、カエルとは無縁だ。
もちろん田んぼも畑もない。
あったとしても、とっても人工的な家庭菜園がある位だ。
そもそも庭の面積が狭すぎて、畑などやれる程の土地持ちの人は近所にいない。
だからその何だかよく知らない音がカエルの鳴き声に、しかもおたまじゃくしがカエルになった位の
一番うるさくなるカエルの大合唱のような音に聞こえるのがたまらなく不思議で仕方なかった。
近所は住宅が密集していて、夜中はほとんど音がしない。
たまに酔っ払ったグループの人が通りかかると、会話が聞きとれそうな位に静まり返っている。
そのカエルの鳴き声のような音がどこから来ていて、そしてどうしてそんな風に音がわたしの頭の
中では書き換えられているのかわからなかったけれど、聞いていて安心する音だった。
新潟の実家のすぐ隣りには田んぼがある。
だからカエルの鳴き声は、毎年時期が来れば嫌でも耳にする。
そのよく見知った音をただただ聞くだけで、気持ちがおだやかにそして何とも言えない安心感の
ようなものを感じて感動した。
ただ小説があまりに面白すぎてベランダに出て音を確認するほどの余裕はなかった。
キリのいいところで確認しようと思いそのまま読書を続けていたら、「さぁちょっと出てみようか」と
思った時には丁度その音が消えてしまった。
そしてその後には一切そのカエルの鳴き声らしい音は、外から聞こえなくなった。
何だったのだろう?と思う。
今朝は今朝でまた面白い音を耳がキャッチした。
今近所では3つの大きな工事が同時進行している。
1つは水道管の入れ替えのための道路工事。
これが音としては一番家から近いもの。
2つ目は、距離で言えばコンビニ1軒分位先のところのアパートの外壁補修工事。
多分だけど、そのアパートの外壁補修工事は予定になかったものだと思う。
数日前、暗くなってからそのアパートの脇を通ったら何人もの作業員が応急処置的な機材を持ち
込んで、とりあえず最低限の安全を確保するためにライトアップさせて作業していた。
昼前までは普通だったのに。
そんなこんなでその夜以降、毎日外壁工事が行われている。
3つ目は、50m程先にある某会社の本社建替工事。
「本社社屋」と看板にあったけれど、多分東海地区ではそこそこ大きい会社だと思われる中、
名古屋の繁華街やオフィス街からは離れたこの地にそんな本社を建設するのが不思議。
その3つが稼働しているから、とにかく方々から色んな音が耳に届く。
今朝の音は、何か重機を使っている音には間違いなかった。
だけどその重機が醸し出す音というのが、夏祭りなんかで演奏される日本古来のたて笛の音色に
そっくりで、そしてたまたまなんだろうけれど旋律までも生み出し、聞いていて心地良かった。
当たり前だけど、工事であっても祭りではないわけで、だけど音だけを切り取ったら完全に祭りの
笛の音色で、そのあべこべな感じも寝ぼけた頭には面白おかしく映っていた。
しゃきっと目覚めると、もうそのたて笛のような音色はなくなっていて、多分使用する重機が
変わったのだろう、単なるうるさい工事の音だけが残った。
2016年4月22日金曜日
250円弁当
手抜き料理の話を書いていたら、昔時々買っていた250円弁当の存在を思い出した。
当時はブラック企業での勤務をしていて、1日最低1食は外食という日々だった。
あんなにも外食が耐えられないと思ったことは、人生の中で他になかった時期だ。
毎日食べるものが変わっても、とにかく毎日毎日外で食べるということにほとほと疲れていた。
しかも、同僚や上司と食べることが多く、それもストレスの1つだった。
そんな中、ある日わたしは会社の本社の近くに250円弁当を出す弁当屋を見つけた。
揚げ物を中心に数種類の弁当があって、わたしは2~3回を除いて毎回唐揚げ弁当だった。
弁当を買ったら、近くのお気に入りの神社に行き、そこで1人でゆっくりと食べていた。
残念ながらこのお店はもう今はなく、今でももう一度食べたいなぁと思うお弁当だ。
この250円弁当の唐揚げのレベルが、ものすごく高いレベルだった。
昭和のような古い建物の1階部分がその弁当屋で、いつも2人の店員さんがいた。
1人は奥でひたすら唐揚げを揚げている人、もう1人は店頭で接客というか金の受け渡しをする人
という、実によくできたシステムだった。
唐揚げをきちんと揚げているのは見ればわかる。
しかも1つ1つ大きさが不揃いゆえ、産地不明の鶏肉でもきちんと手作りの唐揚げになっている。
味付けもシンプルだけど美味しいし飽きない。
大きな唐揚げが4~5個入っていたと思う。
ごはんも炊き立てを入れてくれてるらしく、いつもごはんはほんのり温かかった。
ピンクの漬物と小梅1つ、あとは業務用と思しきポテトサラダが少し。
野菜ゼロで不健康な感じの弁当ではあったけれど、中身は美味しかった。
当時のお昼ごはんの中で一番印象に残っているのは、その250円弁当だった。
あとは食べた店も覚えているけれど、この250円弁当ほど印象に残るものは1つもない。
当時はブラック企業での勤務をしていて、1日最低1食は外食という日々だった。
あんなにも外食が耐えられないと思ったことは、人生の中で他になかった時期だ。
毎日食べるものが変わっても、とにかく毎日毎日外で食べるということにほとほと疲れていた。
しかも、同僚や上司と食べることが多く、それもストレスの1つだった。
そんな中、ある日わたしは会社の本社の近くに250円弁当を出す弁当屋を見つけた。
揚げ物を中心に数種類の弁当があって、わたしは2~3回を除いて毎回唐揚げ弁当だった。
弁当を買ったら、近くのお気に入りの神社に行き、そこで1人でゆっくりと食べていた。
残念ながらこのお店はもう今はなく、今でももう一度食べたいなぁと思うお弁当だ。
この250円弁当の唐揚げのレベルが、ものすごく高いレベルだった。
昭和のような古い建物の1階部分がその弁当屋で、いつも2人の店員さんがいた。
1人は奥でひたすら唐揚げを揚げている人、もう1人は店頭で接客というか金の受け渡しをする人
という、実によくできたシステムだった。
唐揚げをきちんと揚げているのは見ればわかる。
しかも1つ1つ大きさが不揃いゆえ、産地不明の鶏肉でもきちんと手作りの唐揚げになっている。
味付けもシンプルだけど美味しいし飽きない。
大きな唐揚げが4~5個入っていたと思う。
ごはんも炊き立てを入れてくれてるらしく、いつもごはんはほんのり温かかった。
ピンクの漬物と小梅1つ、あとは業務用と思しきポテトサラダが少し。
野菜ゼロで不健康な感じの弁当ではあったけれど、中身は美味しかった。
当時のお昼ごはんの中で一番印象に残っているのは、その250円弁当だった。
あとは食べた店も覚えているけれど、この250円弁当ほど印象に残るものは1つもない。
手抜き料理バンザイ
料理熱がどんなに冷めようと、何もかも面倒くさくご飯の用意をしたくなかろうと、お腹は減る。
放置しておけばそのうち収まるなんていう欲に食欲はならないから、最終的に台所に立つ。
最初に少しだけ余談をはさむと、「1人暮らしなら買って食べた方が安い」と世間でよく言われる
あの言葉、わたしは丸っきしの嘘だと思っている。
嘘と言うより、わたしの経済感覚だったら嘘と断定している。
ウニだの大トロだの牛のステーキだのと言うのであれば、外で食べた方が値段はさておき良い質
のものを食べれると思う。
だけど名もつかないような家庭料理を外で食べるのと家で作って食べるのとでは、たとえ1人
暮らしでも絶対に作って食べる方が安い。
唯一頻繁に外で買うものは、揚げ物くらい。
これは経費の問題ではなく、揚げ物専用鍋がないのと油の後始末の問題があるから。
家にある深鍋のフライパンは26cmもあるから揚げ物したら500mlは油を使うことになり、最終的
に油の始末に困るのは目に見えている。
しかも揚げ物は、回数を重ねてないだけあって下手くそだ。
準備と揚げ物の完成具合を頭に入れたら、絶対に買う方がお得でおいしい。
そんなこんなで、基本は自炊でごはんをまかなう。
ただ、ここ数日の料理熱のなさにはほとほと困っているし、かと言って外で食べたいとも思わない。
それで昨日今日とで試した簡単手抜き料理。
料理とも呼べない代物かもしれないけれど、ざっくりとレシピなぞ紹介。
昨日は、「鮭と梅の炊き込みごはん」。
あら、言葉にするとえらい美味しそうな、そして手の込んだ料理のような名前。
そんなわけなく。
1.5合の白米に同量の水を入れた後、鮭の切り身1人分としょっぱい系の梅干し2つ。
それを入れてあとは普通に炊くだけ。
わたしがしたことは、米を研いだのと、それぞれの具材をそのまま(切り身なら切り身のまま)
炊飯器にちゃぽんと入れただけ。
あとはスイッチオン。
炊き上がったら、しゃもじで鮭と梅を刻むようにごはんと混ぜ込むだけ。
味が足りなければ、炊きあがってから塩でもゴマ油でも適当に足せばいい。
ちなみに食べ飽きたわたしは、最後天かすを入れたら思いの外おいしかった。
今日は、「カレースパゲティ」。
今日はもっと手抜き。
これはいつかの弁当に使おうと思っていたレトルトのカレーを使用。
少し前まで、週5回の弁当生活を送っていた。
月~金の週5勤務もさることながら、この毎日弁当持参というのも非常に荷が重かった。
いかに手抜き弁当を作るかが勝負で、それである時レトルトのカレーを持参してはどうかと思い
ついたのだった。
カレーも自分で作る方が安くおいしくできるから、あの高級系のレトルトは極力避けたい。
ある時イオンに行ったら、イオンブランドのレトルトカレーが50円?60円?70円?その辺りの
値段で売られていて物は試しと思って買い置きしておいた。
だけどいつまでも使うことなく、弁当生活は終わった。
このカレーの存在すら忘れていたけれど、つい1~2週間前、他の乾物を出した時に目に入り、
そうだそうだこれもいつか使おうと思っていたのだった。
スパゲティを茹でて、同じ鍋でレトルトカレーも温めた。
そういうことを一緒の鍋ですることに抵抗のある人には勧められないけれど、平気な人はそれで
洗い物少なく済んでいいと思う。
味は可も不可もなく。
とりあえずまずくなくて良かったと思った。
鮭と梅干しの炊き込みご飯もカレースパゲティも材料費だけなら100円を切る。
買って食べるとしても、100円で一食が賄えるものなんて今どきそうそうない。
カップラーメン位じゃないかと思う。
おにぎり1つ、パン1つでは、お腹が満たされない。
鮭と梅干しごはんなんかは、大きめのおにぎり5個分に相当するのに。
いずれにしても、調理時間10分以下で簡単にできるこの手抜き料理のすごさよ。
洗い物というおまけはついても、洗い物だってたくさんはない。
3分もあれば終わるような洗い物の量だ。
個人的に、この究極の手抜き料理をもっと究めたいと思っている。
もちろんそれは、今回のような料理熱が著しく低下し、台所に立つのも面倒な位の時のために。
放置しておけばそのうち収まるなんていう欲に食欲はならないから、最終的に台所に立つ。
最初に少しだけ余談をはさむと、「1人暮らしなら買って食べた方が安い」と世間でよく言われる
あの言葉、わたしは丸っきしの嘘だと思っている。
嘘と言うより、わたしの経済感覚だったら嘘と断定している。
ウニだの大トロだの牛のステーキだのと言うのであれば、外で食べた方が値段はさておき良い質
のものを食べれると思う。
だけど名もつかないような家庭料理を外で食べるのと家で作って食べるのとでは、たとえ1人
暮らしでも絶対に作って食べる方が安い。
唯一頻繁に外で買うものは、揚げ物くらい。
これは経費の問題ではなく、揚げ物専用鍋がないのと油の後始末の問題があるから。
家にある深鍋のフライパンは26cmもあるから揚げ物したら500mlは油を使うことになり、最終的
に油の始末に困るのは目に見えている。
しかも揚げ物は、回数を重ねてないだけあって下手くそだ。
準備と揚げ物の完成具合を頭に入れたら、絶対に買う方がお得でおいしい。
そんなこんなで、基本は自炊でごはんをまかなう。
ただ、ここ数日の料理熱のなさにはほとほと困っているし、かと言って外で食べたいとも思わない。
それで昨日今日とで試した簡単手抜き料理。
料理とも呼べない代物かもしれないけれど、ざっくりとレシピなぞ紹介。
昨日は、「鮭と梅の炊き込みごはん」。
あら、言葉にするとえらい美味しそうな、そして手の込んだ料理のような名前。
そんなわけなく。
1.5合の白米に同量の水を入れた後、鮭の切り身1人分としょっぱい系の梅干し2つ。
それを入れてあとは普通に炊くだけ。
わたしがしたことは、米を研いだのと、それぞれの具材をそのまま(切り身なら切り身のまま)
炊飯器にちゃぽんと入れただけ。
あとはスイッチオン。
炊き上がったら、しゃもじで鮭と梅を刻むようにごはんと混ぜ込むだけ。
味が足りなければ、炊きあがってから塩でもゴマ油でも適当に足せばいい。
ちなみに食べ飽きたわたしは、最後天かすを入れたら思いの外おいしかった。
今日は、「カレースパゲティ」。
今日はもっと手抜き。
これはいつかの弁当に使おうと思っていたレトルトのカレーを使用。
少し前まで、週5回の弁当生活を送っていた。
月~金の週5勤務もさることながら、この毎日弁当持参というのも非常に荷が重かった。
いかに手抜き弁当を作るかが勝負で、それである時レトルトのカレーを持参してはどうかと思い
ついたのだった。
カレーも自分で作る方が安くおいしくできるから、あの高級系のレトルトは極力避けたい。
ある時イオンに行ったら、イオンブランドのレトルトカレーが50円?60円?70円?その辺りの
値段で売られていて物は試しと思って買い置きしておいた。
だけどいつまでも使うことなく、弁当生活は終わった。
このカレーの存在すら忘れていたけれど、つい1~2週間前、他の乾物を出した時に目に入り、
そうだそうだこれもいつか使おうと思っていたのだった。
スパゲティを茹でて、同じ鍋でレトルトカレーも温めた。
そういうことを一緒の鍋ですることに抵抗のある人には勧められないけれど、平気な人はそれで
洗い物少なく済んでいいと思う。
味は可も不可もなく。
とりあえずまずくなくて良かったと思った。
鮭と梅干しの炊き込みご飯もカレースパゲティも材料費だけなら100円を切る。
買って食べるとしても、100円で一食が賄えるものなんて今どきそうそうない。
カップラーメン位じゃないかと思う。
おにぎり1つ、パン1つでは、お腹が満たされない。
鮭と梅干しごはんなんかは、大きめのおにぎり5個分に相当するのに。
いずれにしても、調理時間10分以下で簡単にできるこの手抜き料理のすごさよ。
洗い物というおまけはついても、洗い物だってたくさんはない。
3分もあれば終わるような洗い物の量だ。
個人的に、この究極の手抜き料理をもっと究めたいと思っている。
もちろんそれは、今回のような料理熱が著しく低下し、台所に立つのも面倒な位の時のために。
2016年4月20日水曜日
自己分析とシェアする理由
いつからか忘れたけれど、「あれ?どうしてこんな風に考える?」「どうしてこういう風に感じる?」と
自分に問い掛けることがとても多い。
ほぼ毎日と言っていい位にそういう思考が勝手に働く。
今日は保育園時代の自分の記憶があれこれ出てきて、そこからもっと色んなものが複雑に絡まり
あって今に至っていることに目をつけた。
何をどうやって言葉に起こしていいのかわからなかったけれど、保育園時代の記憶から出てきた
言葉は、出てくる度に携帯をオンにして携帯のメモに綴った。
そうした言葉は、5分とか時間を置いて他のことをすると絶対と言っていい程忘れる。
だからなるべくすぐにメモする癖までついてる。
何でそんなことするかって、それが自分を知るヒントになるから。
自分を知る作業が楽しいからしていると言うよりも、それが自分を少しでも生きやすく楽しくする
ための手掛かりになるだろうと思っているからしている(と思う)。
去年くらいからそうした分析やプロセスをアメブロにアップするようになった。
みんなわたしの話を聞いて!という体では書いていない。
多分多かれ少なかれ「生きづらいなぁ」とか「苦しいなぁ」とかいう部分の根幹に迫るもの、そして
それがわたし1人だけが世の中で体験していることではなく他にもいるだろう人たちにも、こんな
ことしたら楽になれた、わかるようになった、というのを伝えたいという感じで書いてる。
このブログは完全に日々の徒然記で好き放題書いているけれど、アメブロは違う。
せっかく良いことを知り得たから他の人にも言ったらどうなるか?みたいな半ば実験的な感じで
書いてる。
実は今日、このブログもアメブロも書く前に発泡酒350mlと共に夕飯を食べた。
夕飯を食べたら、しかもアルコールを体内に入れたら、基本的にはもう何もしたくなくなる。
ただただゆっくりしたい、という感じ。
今日もそのつもり満々でいた。
だけど、今日の午前中に気付いたことは、どうも今のうちに言葉にしておかないと明日にはまた
言葉に紡げないのではないか?と不安みたいな気持ちと、今だからこそ書けるというわけの
わからない自負とがあって、パソコンを開いた。
うまく言葉にできなくても、とりあえず出てきた通りにキーボードを叩いた。
今も頭の中がごちゃごちゃしているけれど、何も吐き出さずにいた頃よりは幾分かすっきりして
いる。
何だろうこの感覚って思う。
答えは見つからなくてもいいから、この今の感覚を言葉に乗せれるのは今しかないからとりあえず
書いたという感じ。
自分に問い掛けることがとても多い。
ほぼ毎日と言っていい位にそういう思考が勝手に働く。
今日は保育園時代の自分の記憶があれこれ出てきて、そこからもっと色んなものが複雑に絡まり
あって今に至っていることに目をつけた。
何をどうやって言葉に起こしていいのかわからなかったけれど、保育園時代の記憶から出てきた
言葉は、出てくる度に携帯をオンにして携帯のメモに綴った。
そうした言葉は、5分とか時間を置いて他のことをすると絶対と言っていい程忘れる。
だからなるべくすぐにメモする癖までついてる。
何でそんなことするかって、それが自分を知るヒントになるから。
自分を知る作業が楽しいからしていると言うよりも、それが自分を少しでも生きやすく楽しくする
ための手掛かりになるだろうと思っているからしている(と思う)。
去年くらいからそうした分析やプロセスをアメブロにアップするようになった。
みんなわたしの話を聞いて!という体では書いていない。
多分多かれ少なかれ「生きづらいなぁ」とか「苦しいなぁ」とかいう部分の根幹に迫るもの、そして
それがわたし1人だけが世の中で体験していることではなく他にもいるだろう人たちにも、こんな
ことしたら楽になれた、わかるようになった、というのを伝えたいという感じで書いてる。
このブログは完全に日々の徒然記で好き放題書いているけれど、アメブロは違う。
せっかく良いことを知り得たから他の人にも言ったらどうなるか?みたいな半ば実験的な感じで
書いてる。
実は今日、このブログもアメブロも書く前に発泡酒350mlと共に夕飯を食べた。
夕飯を食べたら、しかもアルコールを体内に入れたら、基本的にはもう何もしたくなくなる。
ただただゆっくりしたい、という感じ。
今日もそのつもり満々でいた。
だけど、今日の午前中に気付いたことは、どうも今のうちに言葉にしておかないと明日にはまた
言葉に紡げないのではないか?と不安みたいな気持ちと、今だからこそ書けるというわけの
わからない自負とがあって、パソコンを開いた。
うまく言葉にできなくても、とりあえず出てきた通りにキーボードを叩いた。
今も頭の中がごちゃごちゃしているけれど、何も吐き出さずにいた頃よりは幾分かすっきりして
いる。
何だろうこの感覚って思う。
答えは見つからなくてもいいから、この今の感覚を言葉に乗せれるのは今しかないからとりあえず
書いたという感じ。
2016年4月19日火曜日
すごくラッキーだなぁと思うこと
ここ何年かの読書は、基本的に図書館に頼っている。
特に小説は、よほど欲しいとならない限りは図書館から借りて読む。
そもそも、あまり本を繰り返し読む習慣がない。
95%以上の本は、人生で一度きりの読書でそれっきりになることが多い。
だから余程これはまた読むだろう!とひどく惹かれるものでないと、まずは買わない。
だけど、書店に行けば「これ読んでみたい!」と思わせる小説がある。
手に取ってほんの少し読んだだけで、または帯を見ただけで、これは何か面白そうと感じるもの。
そんなにたくさんはないけれど、たまにそういう手の小説に出くわす。
話題の新刊ともなると、図書館も揃って手に入れるのが名古屋市の場合はならわしのようだけど、
まぁとにかくすごい予約数だ。
ちなみに今一番気になっている小説は、全館合わせて予約数300を超えている。
当たり前だけど、そんなの予約することもない。
わたしが予約するのは、少なくとも誰も借りない手のものすごーく存在感が薄いもので、下手すると
書庫とかにしまわれているタイプで、だけど徒歩圏内の3つの図書館には在庫がないというもの。
そういうものは予約する。
わざわざ借りに行くのも面倒だし、ましてやその手のタイプは大型書店にも在庫がない。
むしろ図書館の方が確実に在庫を持っている。
そういうタイプの本は予約する。
だけど、予約数が0や1ではなく、何十・何百の単位になるような話題本は予約したことすら忘れ
そうだから手を出さない。
で、今日ふらふらと3つの図書館のうちの1つに行ってきた。
今日行った図書館は多少遠いため、そんなに頻繁には行かない。
せいぜい年間で片手で数える程度。
何が借りたいとかあったわけではなかったけれど、とりあえずふらふらと館内を探索。
今さらだけど最近覚えたことの1つに、例えば「赤川次郎」「あさのあつこ」のように著者単体で
看板が完成するタイプの人たちではなく、「その他 あ」に分類されるようなところこそ穴場だと
いうこと。
「その他」に入る小説家・著述家は、1冊又は数冊程度の出版実績の方たちが多い。
個人的には、そういうところからよくも知らずに借りてきた本の方が、うんとヒットが多い。
去年の暮れか今年の頭ぐらいにこの妙技を覚えて以来、ひそかにはまっている。
そして今日もそれでいくつかの「その他」を見て回った。
お目当てのものたちは残念ながらなかった。
だけど、まさか2冊もいつかは読んでみたいと過去に思っていた本に出逢うとは思ってもなかった。
それぞれ3年前、3年半前にどの書店でも山積みになっていた話題の小説だった。
1冊については、また最近人気が出てきたようで、2つか3つの書店で最近見かけた。
絶対に予約が入っていてもおかしくない(事実、20弱予約が入っていたことをさっき確認した)、
そんな本なのに普通に棚にぽんと並んでいた。
そう、予約もせずなぜかいとも簡単に借りることができた。
こういう時、すごくラッキーだなぁと思う。
そして、過去に「いつか読みたいなぁ」と書店に行く度に思っていた本たちとこうして図書館で再会
できる時も、これまたものすごくラッキーだなぁと思う。
特に小説は、よほど欲しいとならない限りは図書館から借りて読む。
そもそも、あまり本を繰り返し読む習慣がない。
95%以上の本は、人生で一度きりの読書でそれっきりになることが多い。
だから余程これはまた読むだろう!とひどく惹かれるものでないと、まずは買わない。
だけど、書店に行けば「これ読んでみたい!」と思わせる小説がある。
手に取ってほんの少し読んだだけで、または帯を見ただけで、これは何か面白そうと感じるもの。
そんなにたくさんはないけれど、たまにそういう手の小説に出くわす。
話題の新刊ともなると、図書館も揃って手に入れるのが名古屋市の場合はならわしのようだけど、
まぁとにかくすごい予約数だ。
ちなみに今一番気になっている小説は、全館合わせて予約数300を超えている。
当たり前だけど、そんなの予約することもない。
わたしが予約するのは、少なくとも誰も借りない手のものすごーく存在感が薄いもので、下手すると
書庫とかにしまわれているタイプで、だけど徒歩圏内の3つの図書館には在庫がないというもの。
そういうものは予約する。
わざわざ借りに行くのも面倒だし、ましてやその手のタイプは大型書店にも在庫がない。
むしろ図書館の方が確実に在庫を持っている。
そういうタイプの本は予約する。
だけど、予約数が0や1ではなく、何十・何百の単位になるような話題本は予約したことすら忘れ
そうだから手を出さない。
で、今日ふらふらと3つの図書館のうちの1つに行ってきた。
今日行った図書館は多少遠いため、そんなに頻繁には行かない。
せいぜい年間で片手で数える程度。
何が借りたいとかあったわけではなかったけれど、とりあえずふらふらと館内を探索。
今さらだけど最近覚えたことの1つに、例えば「赤川次郎」「あさのあつこ」のように著者単体で
看板が完成するタイプの人たちではなく、「その他 あ」に分類されるようなところこそ穴場だと
いうこと。
「その他」に入る小説家・著述家は、1冊又は数冊程度の出版実績の方たちが多い。
個人的には、そういうところからよくも知らずに借りてきた本の方が、うんとヒットが多い。
去年の暮れか今年の頭ぐらいにこの妙技を覚えて以来、ひそかにはまっている。
そして今日もそれでいくつかの「その他」を見て回った。
お目当てのものたちは残念ながらなかった。
だけど、まさか2冊もいつかは読んでみたいと過去に思っていた本に出逢うとは思ってもなかった。
それぞれ3年前、3年半前にどの書店でも山積みになっていた話題の小説だった。
1冊については、また最近人気が出てきたようで、2つか3つの書店で最近見かけた。
絶対に予約が入っていてもおかしくない(事実、20弱予約が入っていたことをさっき確認した)、
そんな本なのに普通に棚にぽんと並んでいた。
そう、予約もせずなぜかいとも簡単に借りることができた。
こういう時、すごくラッキーだなぁと思う。
そして、過去に「いつか読みたいなぁ」と書店に行く度に思っていた本たちとこうして図書館で再会
できる時も、これまたものすごくラッキーだなぁと思う。
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