2015年11月30日月曜日

ミスの程度と対応

今の仕事、色々不満続出。

仕事内容の不満はそこまで強くない。

ちんぷんかんぷんなこと満載でも、もうそれは仕事の性質の問題だからあきらめもつく。

人間関係というよりも、諸々の対応の在り方にものすごくわたしは不満を抱いている。

例えば今日。

わたしのうっかりで、本来わたしでもやれることを「やれないこと」と勘違いし(業務が多すぎて

とてもじゃないけれど覚えられない)、違う人に引き継いだ。

そうしたらそれについてお叱りを受けた。

「あなたもやれることだから、やれることはやって下さい」

これはまだその通りだからわたしも納得。

その後に、「あなたがそれをしないことで、わたしの負担が大きくなる。その負担に答える余裕は

今後なくなる」と付け加えられた。

今こうして文章で書いてみると、これもごもっともな話だからわたしもそこでイラッとしなくても良い

ことだったんだと気付く。

それでもわたしは相手の発言を聞いてとてもイラッとした。

言い方もそうだし、自分がどれだけ大変かアピールが強くて、それに対して「じゃあお互いに気持ち

よく仕事するためにはどうする?」という部分が欠けている。

わたしの言い分も聞かず、頭ごなしに自分の窮状だけ訴え、だからあなたがもっとしっかりしたら

いいのよ、ってそれ違うでしょ?と思う。

わたしのうっかりがとんでもない大問題を引き起こしているのなら、まだわかる。

そういうレベルのものでないものも、とりあえず怒る、注意する、そしてうだうだと何か余計な言葉

を付け足して話す。

一番相手に伝わらない方法でお話されることが、不思議で仕方ない。

とりあえずガツガツと自分の言い分だけお話すれば相手に伝わると思っているのだろうか。

とにかく残念なコミュニケーションを取る人たちが多くて驚く。


今回の仕事を通じて知り得たこと。

とにかくこれまでどんな仕事でも、ものすごく人に恵まれていたこと。

わたしのうっかりややらかしは、今に始まったことじゃない。

だけど、これまでご一緒した方たちは実に寛容だったと思うし、フォローの仕方も上手だった。

基本的に「失敗から学べばいい、次に生かしたらいい」ということをとても自然に教えてくれる

人たちに囲まれていた。

やらかしても、まずは「どうしてそんなことになったのか、そのプロセスを聞く」ということをして

くれる人たちが実に多かった。

もう今のところでそういうことは求めてもいないけれど、それでもそういうフォローの在り方や、

実際にミスが生じた時の対応の仕方を見せてくれる大人たちに出逢えたのは、ものすごく幸運な

ことだったと思う。

もし今の仕事が社会人最初の職場だったら、終わっていただろうなぁと思う。

頭ごなしにがつがつ言っても、馬の耳に念仏状態になってしまう。

それよりも、何かあったらフォローしてもらえるという安心感と、その人には迷惑をかけられない

から、とにかく自分のできることは自分できっちりと責任を持って取り組もうという意欲、その2つを

とてもバランスよく与えてもらっていたと思う。

ないものねだりをしても仕方ないけれど、今はその両方が欠けていて、変なプレッシャーと緊張、

失敗してはいけないという圧迫感、何かあっても守ってもらえなさそうという不安、そんなものたち

で埋め尽くされている。

世の中にはこういう職場環境も存在するんだ、と別の意味でとっても感心している。

とにかく今は自分の精神安定のために、あれこれ気持ちを緩めることに余念がない。

2015年11月28日土曜日

1枚の重み

おとといから突然寒くなりだした。

一気に気温が下がり、そろそろ暖房器具もクローゼットから出さないといけないなぁと思う。

新潟にいた頃は、この時期暖房なんて当たり前、タイヤもスタッドレスへ交換済み、

そして早い年は11月中に雪が降る。

家から見える遠くの山には、当然のごとくてっぺんが白くなっている。

名古屋の冬はそこまで急激にやってはこないものの、この数日の冷え込みで冬を感じた。

さすがに羽毛布団1枚だけでは寝る時寒く、昨日の夜から毛布を1枚足した。

たった1枚の毛布なのにこんなにも温かさが違うとは、ものすごく新鮮だった。

眠たくて頭の中はぼけていたけれど、それでもその温かさにどれだけ救われたか。

たった1枚の毛布の威力を感じ、今日のブログのタイトルは「1枚の重み」にしようとひらめいた。


この1年は、瞬間瞬間はものすごくスローモーションのように過ぎる時もあったけれど、気付くと

1つまた1つと月が変わっていった。

気付けばもう11月が終わる。

台所で何かをしている時に、大体「あぁもう○月なんだ」と思うことが多かった。

正直、年の初めは、今の自分の姿や生活を1つも想像できなかったから、とりあえずここまで

これたことにものすごく感動している。

外は寒いし家の中も暖を取らないと寒くなってしまったけれど、この寒さに感動できるほどの復活

を遂げた気分だ。

自分の行き着く場所が全然思い浮かばなくて、考えることも考えられなくなって、次の一歩が

なかなか見出せなくて、本当に苦戦、苦戦の連続だったこの1年。

だから、ある程度何かを持って11月を迎え、さらに12月を迎えられるなんて夢のまた夢だった。

寒い冬が終わり、桜が咲く季節を迎え、梅雨、酷暑の夏、そして秋・・・といくつ季節を過ぎても

わたしは何も決められずにいた。

数年前、気に入って買った日付のスタンプの月を1つまた1つと手動で動かす度に、その月の

変更に全くついていっていない自分にものすごく焦った。

季節はめまぐるしく変化しているのに、自分は何も変化していない。

そして刻一刻と自分の決断の時が迫っているのに、何を決断して良いのかすらわからなかった。

だからこの寒い時期になった今を、とりあえず今日やること1週間後にやることがあるというのは、

この上ない喜びに満ちている。

決して好きなことばかりで全部が埋め尽くされているわけじゃない。

それでも何かしらすることがあるというのは、心強い。

とりあえずの羅針盤的なものを自分の中に持って進んでいる感じはある。

この羅針盤だって半永久的なものじゃない。

期限の付いてる羅針盤だ。

それでも羅針盤らしきものすらなかった今年の大半を思えば、それが1つあるだけでも気持ちの

持ちようが全然違う。

何に対して安心しているのか言葉ではうまく説明できないけれど、すべて未知の世界に今足を

踏み込んでいるのにも関わらず、なぜか安心感がある。

たった1枚の毛布が温かさを提供してくれるように、この羅針盤が得体の知れない安心感を

与えてくれる。

2015年11月26日木曜日

冬の空

今日は満月。

昨日から一気に冷え込み、今日はまた一段と冷え込んでいる。

さっきベランダに出て満月を探した。

東の方向に満月は浮かんでいた。

すっきりと晴れ渡っている空には、星もちらほらと見えた。

ザ・都会までいかなくても一面コンクリートのご近所で無数の星を見つけることは難しい。

でも、冬の空で空気が澄み渡っている晴れの日だと、いつもより少しだけ多く星が見える。

今日は満月の近くにうっすらと存在している星を見た。

北極星だろうか?

月のすぐ隣りにいつも陣取っている星があったと思うけど、何星かは忘れた。

新潟の空を思い出す。

実家の近くは、今のところに比べたらうんと街灯が少ない。

その分星もよく見える。

しかも新潟の冬の寒さは半端ないから、その寒さゆえの空気の透き通り感も名古屋とは比べ物に

ならない。

新潟の冬は、ほとんど晴れの日がない。

毎日くもりか雨か雪のいずれかだ。

だからわずかばかりの晴れの日の冬の夜空はとっても貴重だ。

そんな中で見る月は格別で、そして月のすぐ近くの星も新潟で見ると大きく見える。


月を見たのには理由がある。

ちょっと勇気の要る申込をネットで丁度するところだった。

最後の「申込」ボタンを押せば、申込は完了するというところだった。

それがどんな結果となるのかは、神のみぞ知るの世界だ。

だから少しばかりの勇気が必要だった。

その勇気をもらうために、ベランダに出て月を眺めた。

寒いから1分も外に立っていられなかったけれど、それでもその月と薄らぼんやりと見える星を

見てたら、もう結果はどちらでもいいと思えた。

結果がどちらに転んでも、また満月を見てはいいなぁと思ったり、過去の良いシーンを思い出す

きっかけになるだろうということがわかったから。

もちろん良い方に転じて欲しい。

でもそれは五分五分の賭けで、うまくいかない可能性だって十二分にある。

だからこそ月を見て心を落ち着けて、そして部屋に戻って「申込」ボタンを押した。

結果を聞くのは早くて明日、遅ければ週末。

もうどちらになっても、申し込んじゃったものは仕方ないと思っている。

またこれを書き終えたらもう一度外に満月を見に行こう。

満月見たって結果が変わるわけじゃないけれど、せめて気持ちだけでも満たすもので満たして

いけたらいいなぁと思っている。

2015年11月25日水曜日

なりたくない大人

日曜日の午後、スタバに行った時のこと。

iphoneの不具合を直すためにwi-fiの環境が必要で、そのために行ったスタバだった。

思いの外、設定に時間がかかって3時間半も滞在したのに、結局は最後まで直せずに終わった。

最後席が隣りになった中年の男女の組合せの会話がひどかった。

何せスタバの席の配置だ、隣りの会話は丸聞こえとなる。

女性の方には中学生の娘がいるとわかり、年は二人とも40代に見えた。

そもそもこの二人の組合せも何なのか、最後の最後まで謎だった。

夫婦ではないのはわかった。

でもかと言って、アバンチュールな関係でもなさそう。

じゃあ友達かと言えばこれもまた違う。

きょうだいということもないだろう。

仕事繋がりでもなさそうだった。

とにかくどんな繋がりのどんな二人なのか、全然最後までわからずじまいだった。

この二人の会話がひどいと言っても、男性の方は相づち以外言葉を一切発していなかった。

だから女側の方しか実際は話をしていない。

そしてその女の話が最初から最後までひどかった。

とにかく、ずっと誰か第三者の結婚か恋愛話しかしていない。

結婚か恋愛話が悪いわけじゃない。

悪いと感じたのは、自分以外の誰かの話をずっとしていたから。

それもものすごく親密な友達の話をしているのではなく、遠からず近からずみたいな人間関係の

中の誰かのうわさ話や聞きかじった話ばかりだったから。

悩みを相談されたことをまた相談しているという風でもなく、「○○はこの人との関係どうしよう、

って話しててさぁ、わたしはさぁ××て思うんだよね。でもそういうのって本人たちの気持ちが大事

じゃない!?・・・・・・」という具合に、本当にしょうもないことを話していた。

百歩譲って本人の悩み相談ならまだわかる。

なのに、全く関係のない人の人生を勝手に覗いて、それについてああでもないこうでもないと解説

しているという風なのが延々と繰り返されていた。

そして一通り話し終えると、「じゃあそろそろ行きましょうか?」と言って二人は去って行った。

それこそ全くの他人の人生について評価を下すなんて、わたしの方こそ余計なお世話だけれど、

こんな大人にだけは絶対になりたくないと思った。

日曜日、時間もお金も使って人と会っている。

その人と家族のようにずっと一緒にいられるのであれば、そこで聞いた話もありだけど、二人が

夫婦でないことは話の内容でわかった。

女は男性に「娘に、パパとママは何で一緒に寝ないの?って聞かれたけど、もう結婚して何年も

経てばそうなってくるわよ」と言っていて、あぁ夫婦ではないんだと確信した。

せっかくせっかくお互いの時間をすり合わせて会えているのに、こんなにも身も蓋もない話を延々

としてしまうなんて、ただただ呆れるばかりだし、そしてそれしか話題がもしないのだとしたら、

何とも悲しい大人だと思う。

他にもっと語り合うことがあるだろうに。

語り合えないような関係性なら、わざわざ時間作ってまで会わなくていいだろうに。

ものすごい消化不良を起こした話の連続だった。

あそこで相づちしか打っていなかった男性に聞いてみたかった。「話、面白いですか?」って。

年を重ねれば重ねるほど思う。

話の引き出しひとつ取っても、その人の生き様が表れるって。

2015年11月24日火曜日

相手を試し中

自分でもものすごく嫌らしいと思ったけれど、どうしてもどうしても相手の深層心理を試したくて、

今相手の出方を見守っている。

これが恋愛だったら苦しい駆け引きになるけれど、仕事だからそういう苦しさはない。

代わりに、こちらの期待から大きく外れた場合、それはそれでショックだろうから許容範囲内で

相手が対応してくれるといいなぁと思っている。

元々誰かを試すようなこととか心理的駆け引きは得意じゃない。

隠し事も下手だし、嘘も上手に使える場面と嘘の一つも言えない場面とがある。

今回そもそも相手を試そうと思ったことには理由がある。

1ヶ月近く口で約束されていたことがあった。

その口約束を条件に、わたしもその仕事の契約を結んだ。

口約束の部分は、わたしにとってとっても重要なことだった。

それは相手も知っての対応をずっとしてくれていると思っていた。

ところが直前になって、その約束は180度全く別の方向に転換されることになった。

そしてその方向転換に関し、「所詮他人事ですから」と言い放った相手にわたしはものすごい

不信感を抱いた。

聞き間違いであって欲しかった。

この数回の話し合いの場は何だったのだろう?と思った。

わたしが何度も懇願していたこと、何度も口に出して言っていた希望は何だったのだろう。

方向転換された内容よりも、それに関してOKのサインをずっと出しておきながら土壇場で変更し、

さらにそれに対して他人事と言われたことにわたしはショックを受けた。

仕事云々よりも、人としての部分にわたしは大きな疑問を抱く結果となった。

そこで大きく何かが崩れてしまったことはもう仕方ない。

気持ちを切り替えようと自分でも思っている。

そこでわたしは、もう1つの賭けに出た。

賭けと言っても、自分が担当する仕事の部分の質問を投げかけて相手の返事を待っているだけ。

実はこの返事も延びている。

しばらく様子を見ていたけれど、返事が来ないからもう一度わたしは連絡をした。

その返事がどんな風にくるのか、どのタイミングでくるのかを見守っている。

これ以上がっかりするような結果を招きたくないけれど、もし招くことになったら・・・。

それはその時に考えよう。

昔からそうだけど、仕事上のミスは人の命に関わること以外は、基本仕方ないと割り切っている。

人間がすることだから、わたしもそうだし他の誰かも間違うことはある。

ただ大事なのは、その間違いやミスが起こった時に、どう向き合ってどう対応するかだと思う。

そういう時こそ人間性がものすごく問われる。

間違いが悪いのではなく、その後の対応が悪ければ仕事全体も悪い方に足を引っ張られる。

逆に間違ってもその後の対応が良ければ、その後も何だかんだと良い具合に回っていく。

もうどうかそこが外れませんように、と今は祈るばっかりだ。

大きなはずれがやってきたら、もうその時は仕方ない。

さっき書いた通り、そうなったらその時に考えよう。

2015年11月23日月曜日

酔っぱらい奇行記

のんべえ友達と久しぶりにたくさん飲んだ。

1軒目のチョイスを誤り、そそくさと2軒目へ移動。

2軒目では1リットル入りの焼酎やかんが有名で、ぜひそこに行こうとなった。

水割りで一人5杯以上は飲んだ。

ただ閉店時間が早く、そこも中途半端すぎてもう1軒で〆ようとなり、小袋が食べれる中華料理屋

に行った。

2軒目から3軒目へ移動する時、片道3車線の大きな幹線道路を渡ることになった。

横断歩道はとりあえず100m以上先。

でもわたしたちが行きたいのは道路向こうのすぐ目の前。

日曜日の夜だから車も通っていない。

二人で「行っちゃおうか!?」と互いに言葉で確認し、わたしたちは中央分離帯の植木をまたいで

道路の向こう側を走って目指した。

中華料理屋も初めて行くところで、とりあえず「小袋があったら入る、なかったら別の店へ行こう」と

なって、小袋のあるなしを確認。

あるとのことで店内に入る。

実はこの辺りからわたしの記憶は怪しくなる。

小袋もぎょうざ一皿もビールも憶えているけれど、味なんててんで憶えていない。

おいしかったのかそうでなかったのかもわからない。

二人で何の会話を交わしたのかさえ憶えていない始末。

友達いわく、この辺りでわたしは「気持ち悪い」と言い出したらしい。

じゃあ帰ろうかとなり、まだ余裕で自分の家に帰れたのになぜか友達の家に向かった。

その辺りもどうして友達の家に泊まろうとなったのか定かではない。

たくさんの出口のある駅だったけど、一体どの出口の階段から地下鉄に下りたのかも全然記憶に

なくて、気付いたら友達の最寄り駅だった。

この辺りは、わたしはとりあえず横になれる安心感からか気持ち悪いのは収まったと思われる。

代わりに友達がものすごく具合が悪くなっていた。

トイレで吐いてくるという友達にわたしはとりあえず改札出て待ってると言った。

これは何かしら二人とも飲まないと翌日がひどくなることは、いくら酔っぱらっている頭でも十分に

理解できた。

しばらく出てきそうにない友達を置いて、すぐ近くのコンビニでヘパリーゼを2人分購入した。

店員のおばさんがわたしの横にぴったりとついてヘパリーゼを買わせてくれた。

にも関わらず、わたしはその後高級ヘパリーゼをどうしたのか憶えていない。

飲んだのかその辺に置いてきてしまったのか、でも朝起きたらコンビニの袋があったから飲んだ

ものと思われる。

改札に戻っても友達の姿はなく、駅員さんに友達がトイレで吐いていて戻らないと訴えたら、

迎えに行って下さいと言われ、わたしはもう一度改札の中に入り友達を迎えに行った。

丁度トイレから出てきた友達と、さぁ早く家に帰って寝よう!と言い、おそらくこの辺りでは2人共

無言で家路に着いたに違いない。

友達は家のトイレでも激しく吐いていたけれど、眠さと酔っぱらいの疲れとでその音さえもすぐに

耳に入らなくなり、次に起きた時は朝の4時過ぎだった。

二度寝をして、7時過ぎに目覚め、さらに三度寝をした。

気持ち悪いことが自分でもわかった。

完全なる二日酔いだった。

とりあえず荷物の確認をしようと思い、かばんの中を見てこれまたびっくりした。

何を思ったのか、かばんの中身をすべてスーパーの袋に移していた。

通常の思考回路では到底できない摩訶不思議なことを、酔っぱらいの頭は遂行していた。

一通り見て、携帯電話と別の友達からプレゼントされたタオルがないことに気付いた。

携帯電話がないことに青ざめ、かばんの隅から隅まで、そして例のスーパーの袋を透明にも

関わらずもう一度中身を取り出して見たけれどない。

携帯がないことに冷や汗をかいたけれど、立ち上がってみるとなんとちゃっかり友達の家の電気を

借りて充電していた。

しかも100%充電となっていて、一体いつ充電をしたのかさえ憶えていない。

結局友達からもらったタオルはどこかに置き忘れたのだろう。

プレゼントしてくれた友達にタオルを失くしたと連絡したら「飲んで楽しかったらいいじゃないの~」

と明るい返事が返ってきた。

わたしより重度の二日酔いになった友達は、ベッドで布団かぶりながら「ぶっしーまたね」と挨拶

するのが精一杯だった。

1日静養コースの二日酔いの様子だった。

二人で飲み過ぎたねと言いながらも、またいつかの時はこうして飲み過ぎるんだろうなぁと思い

ながらわたしは朝の電車に揺られて自分の家を目指した。


大人になればなるほどわかる。

ここで言う「大人になる」というのは、単純に年齢を重ねるという意味での大人になるということ。

年甲斐もなくがしがしと飲んで食べてしっぽりと人生の話をして、そして二人でもれなく二日酔いを

経験して、中央分離帯の植木をまたいだり、げえげえ吐いてみたり、そういうことができる友達を

持てること、そういう友達と時を共有すること、それがどれだけすごいことなのか。

7年8年の付き合いの友達になるけれど、上っ面の人間関係ではなくてお互いに格好悪いところも

至らないところもそのまま突き出してがはがはと笑い合えるというのはすごいことだと思う。

タオルをプレゼントしてくれた友達は二人の共通の友達だけど、その友達も二人だったら絶対に

楽しく飲むというのを知ってくれているから、良かったじゃないと言ってくれる。

もちろん3人で飲み交わしたこともたくさんある。

多くを語らなくても、たった一言「二人で飲んだ」と言えば伝わる。

逆に、その友達と二日酔いの友達が二人で飲んでも、わたしは同じように二人のお酒を楽しむ

姿をとても簡単に想像できる。

今窮屈な人間関係に身を置いていることもあって、余計とこの解放感たっぷりの人間関係に

ものすごく助けられている。

窮屈な方ではわたしは自分のことを1つとして語らない。

聞かれたことは最低限答えるけれど、それ以上は何も言わない。

言ったところで伝わらないだろうというのもある。

でもこの飲み友達と言い、そう頻繁には会えなくてももう何年にも渡って仲良くしている友達とは

自分の人生や自分の今のことを話せる。

安心して話せる。

すごい失敗をしても、それすらも一緒にがははと笑い合える、または一緒に泣ける。

二日酔いは最低だったけれど、二日酔いになった故気付けた人間関係のありがたさもあったから

総じてとても良かったと思っている。

2015年11月22日日曜日

小さな花壇の物語

うちから2ブロックほど北上したところのお宅に小さな花壇がある。

幅は50cm程度で長さが3mほどだろうか。

家のすぐ脇にその花壇はあり、そして花壇の脇は公道だから、家と公道の間の小さなすき間が

花壇になっている。

本当に小さな小さな花壇ではあるけれど、この花壇が実に素晴らしい景観を伴っている。

どうやらそのお宅は2世帯住宅で、下に老夫婦、上に子ども夫婦という風で、下の老夫婦がその

花壇をいつも丁寧に世話している。

そちらの方角はスーパーに行かない限り通らない場所で、だからそもそも月に3~4回程度しか

通らないけれど、それでも月に一度は老夫婦が二人で花壇の世話をしている姿を見かける。

その二人の掛け合いも面白くて、綾小路きみまろが喜んでネタにしそうな掛け合いだ。

じいさんもばあさんも、都合が悪くなると互いに「おまえが悪い」と言い合っている。

それでも何だかんだ言いながらも、二人の協力の手は止まず、最後にはきれいに整えている。

春には桜、夏から秋にかけてはバラ、そしてそれ以外にもホームセンターで買ったと思しき花たち

が彩りを添えている。

本当に手を掛けられた花壇だというのが通っただけでわかるから、いつもそこをチェックするのが

わたしにとっては楽しみの1つでもある。


さかのぼること3年前の春。

知り合って半年ほどのとても気の合う年上の女性を我が家に招待した。

うちから一番近い大きな駐車場があるスーパーに車を止めてもらい、うちまで一緒に肩を並べて

歩いた。

途中でそのお宅の花壇の横を通りすぎた。

その時に、「わぁ~きれいね~、この桜」と二人でその年初めての桜を一緒に見て感動した。

小さな花壇だから桜も小ぶりだけど、その年初めての桜をものすごい至近距離で見ることが

できたわたしたち二人は感嘆の吐息をもらした。

あれ以降も何度もうちに寄ってもらっているけれど、その花壇の脇を通る度に二人でその花壇に

目をやり、その時々の花のきれいさに心を奪われている。

もちろんその花の姿の裏には、例の漫才のような老夫婦の手が加わっているからこその美しさ

であることは間違いない。

どうしてだろう、わたしはその老夫婦の姿を見ているからわかるけれど、年上の女性はおそらく

一度も見てなくてもそのきれいさがまっすぐに伝わる。

花が大好きな方で、そのお宅の花壇だけは唯一足を止めて何かしらの感想を述べている。

他にも立派な庭のおうちもあるのに、その家の小さな花壇だけがなぜかいつもその女性の心を

奪っている。

今は冬に向けて枯れ木や枯れ草は取り除かれ、バラ用の手作りの支柱とこれからどんどん葉っぱ

を落とす小さな桜の木だけが取り残されている。

少し寂しくなった花壇の脇を通り過ぎ、今日は彼女とのやりとりを思い出していた。

花壇からは華やかさが失くなっているけれど、心の中は温かい思い出でいっぱいになっている。