今その手紙がどんな風になっているのかは知らない。
受け取り手側のストーリーは何一つ知らない。
これから書くことは私側のストーリーで、現実に起こったこと・私の心の中のことが中心になる。
いつかどこかのタイミングで目に触れること届くことを祈って…。
2017年10月9日
当初こんなことを赤裸々にブログにアップする予定はなかった。
自分で書いていても恥ずかしさや穴があったら入りたい気持ちに駆られて仕方ない。
ブログに書こうと決めたのも、ほぼほぼ思い付きに近かった。
手紙の相手とはもう会えなくなった。
そしてこんなこと書いても相手に届くなんていうのは、確率で言えばミクロの世界。
だけど、会えなくなってからあまりにも不思議なことがいくつも重なるから、自分を通じてそれを発信してみようと思う。
これでもし何かが起こったのなら、本当にすごすぎる。
現実的に会えなくなってからも、その前からも、もうおかしな位におかしなことが起こっていたし起こっている。
まずわかりやすいことの1つに、手紙の相手の名前を至るところで目にすることが多くなった。
テレビなら、ちょうど出ていたゲストの人の名字とか、ドラマの中の役柄の人の名前とか。
昨日はちょっとした待ち時間に餃子特集の雑誌があったからそれをパラパラと眺めていたら、最初に紙面で紹介されていたトップバッターの店名がその人の名字と同じで、さらにはその店を紹介したその店とは無関係な著名な方までがたまたまその名字の人だった。
おとといは、友達の中学生の娘と一緒に英語の教科書を見ていたら、英語の例文にその名前がばんばんと使われていた。
その名前じゃなくても他にもアルファベットで書きやすくて言いやすい日本語名ってあるじゃん!って突っ込みたくなった。
いつだったかはとうとう同姓同名の人の名前をタウン情報の新聞みたいなところで目にした。
そんなにこの名字って名前って多いのか??と突っ込みたくなる位、その名前を目にしない日はない。
そして、このブログを書こうと思った日のことも忘れない。
その時はまだ正直迷っていた。
書いてどうするんだろう?っていうのが冷静になった時に毎回出てくる自分への質問だった。
私の場合、「○○をしよう」と思ったり考えたりしてから行動するよりも、パッと頭にひらめいたらそのままそれを行動に移しているという方が多い。
だから最初に「ブログ」と頭の中に浮かんだ時、「え!?書くの??」と思った。
冷静になればなるほど、書くことの意味がますますわからなくなった。
そんな迷いの中、車を走らせていた。
その日は中秋の名月、新潟は雨だった。
だけど夕方になって一瞬晴れて、職場を後にした直後の橋のところで、きれいな月がたくさんの雲の合間から顔を出しているのを見た。
夕陽はなくても、雲の途切れた一部の西の空が茜色に染まっていた。
夕焼け雲と明るい月を同時に見れるなんてない!と思って、すぐ近くの大きな駐車場に車を停めて空を眺めた。
ふと、そうだ、これをもっと高台から眺めよう!と思い立ち、車に戻ってその高台を目指すことにした。
高台に向かうには、普段の帰宅経路とは異なる道を行く。
異なる道を通ってすぐぐらいに「5-55」のナンバープレートの車とすれ違った。
もうライト点灯しないと真っ暗なのに、555の数字だけはぽんと目に飛び込んできた。
「555=GO GO GO」ブログ書けってことかな?なんて勝手に思っていた。
このところ、ぞろ目ナンバーは日常と化す位にたくさん見てるからそんなに新鮮さもなく、そのこともすぐに忘れてまた高台を目指した。
ある交差点で左折した。
住宅街中心の道路だから、左折するまでその先にどんな車が走っているのか全く見通しがきかない場所だった。
そして次は右折だから前の車に続いて右折レーンに入ると、なんとその前の車はとあるお店の車だった。
私は度肝を抜かれた。
そのお店というのが、その手紙の相手の名字が入っている店名だから。
漢字ごとそっくりそのまま入っている。
しかもそこは小さな個人店だから、何台も何台も車を持っているとは到底思えない。
せいぜい1台か2台だろう。
そんな車の真後ろにどんぴしゃで辿り着いた。
それだけでも驚きだったけれど、その後も話は続いていてさらに度肝を抜かれた。
せっかくだから、その車に付いて行って、そのままその店で買い物してから高台へ行こうと思った。
店はすぐ近くなのはわかっていたから、そのまま車に付いて行けば間違いないだろうことも。
車に付いて行くと、変な道に入るなぁとは思った。
その辺りの地理に詳しくないから、もしかしたらそれが近道なのかもしれない位に最初は思っていた。
そうしたらその車は突然止まり、すぐ横の駐車場に車を停め出した。
最初どこに停めているのかわからなかったけれど、よく見渡してみると知っている建物だった。
さらに驚いた。
その停めた建物というのが、あるお店の従業員とか業者専用の駐車場で、それがなんととんでもない事実と一瞬で繋がった。
その何日か前、手紙の相手と私の共通の知り合いのAさんから聞いた話があった。
何でその話になったのかは忘れたけれど、Aさんはその手紙の相手からあるお店のポイントカードをもらった、という話を突然何の前振りもなく私にしてきた。
Aさんが「もう少しでポイントいっぱいになるところだったから、相当通い詰めてたよ」と説明していた。
Aさんは何も知らないから普通の日常会話のように私に突然そんなことを言ってきたけれど、まさかその時の話がその何日か後に目の前で繰り広げられている出来事に繋がっていくなんて誰が想像できただろう。
そう、その名字の入った店名の車は、そのAさんがもらったというポイントカードのお店で停まったのだった。
その車にそもそも遭遇してビックリしていたのに、さらにビックリした。
しかもAさんがそんなコアな情報を何だか知らないけれど私に教えてくれたからその偶然にも気付けたけれど、その情報を知らなければ私には何の意味も成さなかったと思う。
何だろう?この絶妙なタイミング!?と狐に包まれた気分だった。
私はその車が停まったお店には用事がないから、そのまま道なりに進むことにした。
まだ頭の中が衝撃でいっぱいのところ、さらに偶然は重なった。
道なりに30メートル程走らせた後、大通りへ続く交差点に入るところに出ると、丁度前の車が右折待ちをしていて、その車が手紙の相手と同じ車種の車だった。
車種だって思い起こせば、たまたま2回か3回駐車場で本人が車に乗っているところを見かけたから知り得ただけだった。
何だこりゃ??と思った。
唖然茫然とするしかない位に、いくつものシンクロが起こって、とにかくビックリのし通しだった。
そこまで来た時に、ブログ書こうって決めた。
何だかよくわからないけれど、こんな意味不明な偶然がいくつもたかが2~3分の中で一気に起こるなんていうことは人生の中でもそうそうないわけで、しかもその偶然はどれもある特定の人物に繋がっていることばかりで、もうそんなの起こる方が有り得ないと言わんばかりの確率で目の前で起こっていることがわかったから。
ちなみに、ポイントカードのお店に反応したのにはもう1つ別の理由がある。
実はそこは私が去年の夏に地元に戻ってから受けた10社近くの会社の1つだったから。
だけどそこは話を聞くだけにして、結局は受けることもしなかった。
そしてその時のことはよく覚えている。
応募しようと思った仕事は、そのお店の中でも一般職ではなく技術職の方だった。
その技術を積むということに関して、もう何年も前からいつかは本格的に習おうかと思っていて、手始めにそこから入っていくというのも手だなと思っていた。
それに関してあれこれ説明があるから、まずは一度会社の人と電話で話してから私がどうしたいかを伺います、とハローワークの人を通じて言われた。
だけどその時、今の携帯になってから一度も起こったことがない不具合が、まさにそのタイミングで起こった。
なぜか画面がフリーズして、電話の着信はわかるけれど、一切の操作ができなくなっていたから電話にさえ出られなかった。
知ってる限りの対処法を試したけれど、どうにもできずにいた。
ハローワークの人の仕事じゃないのに、担当者に「iphone使ってますか?」と聞いて、そうだと言うから自分の不具合を見せてその解除の方法を知っていたら教えて欲しいとお願いした位だった。
その人も自分の仕事じゃないのに一緒になってあれこれ方法を教えてくれて、それでも直らない=電話に出られなかったから、最終的には携帯が復活次第、私の方から会社へ連絡するということになった。
ハローワークから書類をもらった後速攻でドコモショップに走り、ドコモショップで電話借りてiphoneセンター的なところに電話して、それで携帯の不具合の解除をしたのだった。
あんなこと前にも後にもあれ1回きりだった。
3年半近く使っていてそんな風になったのはそれっきり。
そう、その不具合でてんやわんやした時に関わったお店だった。
何でそんな不具合がまさにそのお店と関わる時だけ起こったのか、当時は全く気にもならなかったけれど、そしてそれっきり私とそのお店の接点はゼロでそんなこともずっと忘れていたけれど、
何でそんな不具合がまさにそのお店と関わる時だけ起こったのか、当時は全く気にもならなかったけれど、そしてそれっきり私とそのお店の接点はゼロでそんなこともずっと忘れていたけれど、
まさかそんなことがこんな先の未来に繋がる点と不思議な一致をすることになるなんて、その時は思いもよらなかった。
ふと思ったことがあった。
結局はその仕事とは何の縁もなく今に至るわけだけれど、もしあの時その道に行くと決めて実際にそのお店で働くことになっていたとして…。
そうだとしたら、手紙の相手に出逢うことは絶対になかった。
店員とお客さんとして知り合うことは、そういうタイプの店ではないからなかったと思う。
そう、そこでは仮に顔を合わせることがあったとしても、私を見て私が武士俣さんなどという認識を持ってもらえるような関係には絶対にならなかっただろう。
そう思うと、色々不思議なことの連続だったなぁというのがよくわかる。
こんなのほんの一部で、もう書ききれない位にいっぱいいっぱいヘンテコな偶然が他にもいくつもいくつもあった。
いくら鈍い私でも、さすがに「これは何かがおかしい」と感じるレベルの起こり具合だった。
1つ1つの出来事や起こってくること、目にすることは何の繋がりもないように見える。
だけど、なぜかそういうことがある日突然交じり合って重なってくる。
そしてたった1つの偶然じゃなく、いくつものことが多数の偶然となって現実に現れる。
たまたまにしてはできすぎだと思う。
関係ないけれど、ついこの間思い出したことがあった。
今の仕事の直前にしていた仕事で、手紙の相手と同じ名字の方がいた。
普通にどこにでもあると言えばある名字なんだと思う。
そこまでは特筆することはない。
だけど私が思い出したことは、そんなことじゃなかった。
当時そこには45人位の人が働いていた。
基本的にお昼休みは休憩室でごはんを食べていたけれど、月に2~3回は外で用事を足すために出ていた。
たった一度だけは、どうしてもラーメンが食べたくて1人でラーメンを食べに行ったことがあった。
今考えたら鳥肌が立つ位の偶然だけれど、その手紙の相手の名字と同じ店名のラーメン屋に入って、そしてまさかそんなところで同僚と呼ぶには怖れ多い自分の父親くらいの年齢のその同姓の方にそこでばったり会ったのだった。
その方も外に出るのは週1か2とのこと。
当然毎日その店に通っているわけじゃない。
まさかそんなところで誰かに会うとは思ってなかったから、相手から声を掛けられて私はあまりに驚いて大きな声を出してしまった位。
また別の時も、その方と昼休みばったり近くの郵便局で出くわしたことがあった。
45人もいる中で、そして9ヶ月働いた中で、昼休みに外でばったり遭遇したのはその手紙の相手と同じ名字の男性だけだった。
しかもその職場は2交代制のお昼休憩で、必ずしも同じ時間の休憩になるとは限らない。
同じ時間になるのは、単純に2分の1の確率。
だから、そもそも同じ時間に休憩で、丁度2人ともが滅多にしない外出をして、さらにたまたま同じ場所に居合わせるって、どれだけの確率だろうと思う。
そうだ、その男性とはもう一度ばったりと出会っている。
仕事を辞めてから用事があってその近くまで行った時のこと。
その仕事に関する特設窓口が開いているのを知っていたから、誰がその日の担当かは知らなかったけれど挨拶がてらふらりと立ち寄ってきたんだった。
そうしたらその時もその男性が担当で、「なんだかよく会いますね」みたいなことをお互いに口にしたような記憶がある。
当時はその男性との偶然の遭遇にただただ驚いていたけれど、まさかその男性と同じ名字の人に数ヶ月後出逢うとは、当然そんなの知る由もましてや想像することもなかった。
それが何だという話だけれど、おかしな位におかしな偶然がいくつもいくつも転がっていて、私はその偶然に出くわす度に驚きと奇妙な感覚に襲われる。
出逢った日から今日でちょうど4ヶ月。
本当に濃密な4ヶ月だった。
自分の中では何年分にも相当する時間的な重みを感じる。
実際にはまだ4ヶ月しか経っていないのが変な感じさえする。
この4ヶ月で私の生活は激変した。
4ヶ月前の私も今の私も同じ人間ではあるけれど、見てきた風景も起こった出来事も予測不可能な位に色んなことが起こった。
時々思うこともある。
手紙を書かず渡さずのままの方が、もしかしたら楽しい思い出だけを持って終わりにできたかもしれないって。
でも私はそれを選ばなかった。
自分でもこれまで感じたことのないような何かを感じていて、そして本当にどんな形でもいいから相手のことをもっと知りたかったし、相手に近付きたかった。
「これまで感じたことのないような何か」について、私は自分の内側で感じていることにとても違和感を感じていた。
本当にそういう感覚を人生で一度も体験したことがなかったから無理もなかった。
しかも相手のことは「知っている・知らない」の二択なら、限りなく知らないに近かった。
「これまで感じたことのないような何か」について、私は自分の内側で感じていることにとても違和感を感じていた。
本当にそういう感覚を人生で一度も体験したことがなかったから無理もなかった。
しかも相手のことは「知っている・知らない」の二択なら、限りなく知らないに近かった。
さらに年齢が妙齢であることや社会的立場やいつかは必ず遠くに離れてしまうこと、そうした大人の事情を考えたら、動かない方が絶対に傷付かないのは知っていた。
ましてや相手の気持ちなんか何も知らないから、当然リスクもあった。
リスクはリスクという想像のものではなく、現実に大打撃を私は受けた。
心もぽきぽきと折れた。
そして相手にはさぞかし迷惑やら負担をかけたことだと思う。
悪いことをしたつもりではないけれど、心が重たくなってしまうものを相手に渡したのかと思うとそれは素直にごめんなさいと謝りたい。
だけどやっぱり私は動かずにはいられなかったと思う。
自分の体の奥の奥の方から意味不明な何かに突き動かされている、そういう感覚でしかなかった。
それは普段の生活では絶対に出てこない自分の本音みたいな部分だと思う。
頭で考えたのなら、100%動かない。
何をどう考えても、すべての条件を並べても、動くことの利は何もない。
むしろ動くことで不利が生じるだけ、と言い切っても過言ではない。
だけどそんな理性さえもぶっ飛んでしまう位に、自分の内側から出てくるものがあった。
失うことや不利な状況、そういうものさえも抑え込んでしまうパワーが前に出てきてしまった場合、体の方が勝手に動き出す。
ある意味動物的な動きだったけれど、本当にそんな風だった。
損得を計算する余裕なんかもなく、ただただ自分の中から出てきたものに対して素直になる、もうそれしか成す術がないと言わんばかりの勢いだった。
だから、あの意味不明な積極性や実際の行動は、別に積極的な性格だからというのではない。
そうでもしなければ、待っていればいつかは伝わるなんていうものではなかったこと、待っていたらいつかは相手をもっと知れるなんていう可能性が限りなくゼロだったから、だから動いただけだった。
「(こういう場面で)動く人は積極的だから自信があるから動くんじゃなくて、自分に自信がないから動く」と書いてあったのをある本で最近見た時に、まさに自分のことだと思った。
待てば何とかなる相手ではなかったから、自分が動くしかなかった。
だから動いたことで出てきた結果は、もう仕方ない。
時間をかけて受け止めていくしかない。
だけどそういうこととは別に、今も自分でもどうしていいのかわからない位にやりきれなさみたいなのが残っている。
私の中に残っているやりきれなさは、この結果や心にどんときた大打撃とかじゃない。
そんなのはまたいくらでも立ち直りがきくものだと思っている。
そうではなくて、せっかくそういう人と出逢えても人生が交わらないことへのもどかしさみたいなものにやりきれなさが残っている。
そういう人に出逢えること自体、奇跡と呼んでいいと思う。
ましてや人との出逢いに心惹かれないようになってきた自分を見て、そういう人に出逢えたというのは奇跡の中でも最高の5つ星級の奇跡だったりする。
私はあきらめが悪く、意味不明な偶然たちが重なったように、これから先の未来で奇跡が起きないかなと本気で願っている。
会えなくなったからと言って、私の中では大きな変化は他に訪れてくれなかった。
もうどうでもよくなったり、すっぱりと諦めたりできたらどんなにかすっきりするだろうと思う。
むしろ忘れさせないように毎日のように色んなところで偶然名前を見ているようじゃ、ますます切り離せなくなる。
多分私は、自分が飽きてしまうその時まで奇跡を願い続けるんじゃないかと思う。
私が願う奇跡とは、相手の意思の元、いつの日か再会すること、そして一緒に時間を共にすること。
私が願う奇跡とは、相手の意思の元、いつの日か再会すること、そして一緒に時間を共にすること。
~手紙のbefore~
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