初めて足を踏み入れる場所、例えば誰かの家だったりオフィスだったり、そういうところに行くと妙に目につくものがある。
誰かが作り上げた空間には、その人やそのグループ・組織特有の色がある。
そういうものの中でひときわ目を引くものがある。
それがのちの何かと結びついていると気付くのは、ずっと後の祭り。
その場所に初めて足を踏み入れてようやく周りを見渡すぐらいの余裕が自分にできた頃のこと。
部屋のすみっこにあるにも関わらずすごい主張をしているものがあった。
時は6月。
1枚のダウンジャケットだった。
最初その存在に気付いた時。
「今6月だよね?梅雨っていうか夏だよね?季節は夏。もう季節は春が終わって夏。百歩譲って春先まで着てたとして、なんで今もダウンがあるの?」
とそれはそれは批判的な目でそのダウンを眺めていた。
場所からいって、持ち主は一人しかいない。
私が初めて足を踏み入れた時からあったもので、もうそれが一体いつから放置されてるものか真偽のほどは定かではなかった。
当たり前だけれど、何でダウンをそこに置いてるんですか?なんて聞ける相手でもなかったから、気にはなったけれど大人の礼儀として口をつぐんでいた。
なぜかそのダウンだけはいつもいつも自然と目が行っていた。
そこだけ異彩を放っていたから。
当然日に日に薄着になっていくわけだけれど、季節の進み具合とは逆行するかのようにそのダウンはそこにずっと居座り続けた。
その空間の他の景色はあっという間に自分の目に馴染んだけれど、どういうわけかそのダウンだけは毎度毎度ものすごく奥にあるし常に目につくものでもないのに、いつまでも見慣れることがなかった。
掃除をする時なんて、思わず「ダウン…」と見なくてもいいのにそちらにわざわざ目の向きを変えて注視するぐらいだった。
今振り返ってみても、他にももっと注目を引きそうなものが至る所にあるのに、私はなぜか最初からそのダウンだけが気になって気になって仕方なかった。
そして今となっては、もうそのダウン以外に風景で気になったものは他に思い出せない。
ある時から私はその場所の掃除を避けるようになった。
結局そこを掃除したのはたぶん3回ぐらいだと思う。
しなくなったのには理由がある。
ダウンを中心としたその一角は、私にとってものすごく気になる場所で、掃除をすればそこを自由に眺めることができるのは知っていた。
だけど、色んな思いが自分の中で渦巻きだしてからは、どうにも近寄りがたくなってしまった。
近寄りたいのに近寄りがたいという矛盾した思いが常にあって、最初の頃何も気にせずに掃除をしていた時と同じような態度でそこには立てなくなった。
なんだか勝手に見てはいけないような、そんな気持ちもあった。
だから他のみんなが多分やりたがらない掃除の係を積極的に務めて、代わりにそこの掃除を避けるようになった。
もうひとつは、いつかは終わりがくることを無意識で感じていたんだと思う。
そこの景色が変わる様を見たくなかった。
これまでだって色んな終わりを経験している。
それまで当たり前のようにいた人たちが、卒業・異動・引っ越し・退職・人間関係の解消、それぞれの理由で終わりを迎える。
別に誰かとの終わりを迎えるのは初めての経験じゃない。
だけど、今回だけはこれまでと勝手が違っていた。
この文章を書くにあたり、私は自分の過去のことを色々振り返ってみた。
思い出せる限り、私は自分がそこに残り相手が去っていく姿を見届けるという経験をほとんどしていない。
仕事でとってもお世話になった方々をお見送りしたことはあったけれど、そういう方たちとはその後も人間関係は続いてプライベートでも時々会っていたから、本当のおしまいを経験していなかった。
付き合った人たちは、理由は何であれ、最後の瞬間はいつも私がその場を立ち去っていた。
だから相手はそのままその場に残っていて、物理的に言えば相手が見送る方で私が見送られる方だった。
一人だけ連絡がつかなくなった人がいたけれど、それはそれで特殊な感じで「去る」のとは違っていた。
9割以上、私は自分がその場所を去る、見送られることがなぜか多かったから、だから相手が去る姿を見届けるというのは、ほぼほぼ初体験と言ってもいいぐらいだった。
そんなことつい昨日ぐらいまで知らない事実だったけれど、立ち去る誰かを見届ける経験がほぼほぼない自分にとって、その終わりは並々ならぬ心の準備が必要だと感じ取っていたんだと思う。
だからいつかすべてがなくなる日までの移り変わりを見届けたくなかった。
定期的に掃除をすればそこがどんな風に変わったか瞬時にわかってしまう。
そんなのは見たくなかったし知りたくなかった。
だからそこの掃除だけはものすごく意図的に避けていた。
具体的な終わりの時期を知ってからは、私はその近辺を見ることさえ避けるようになった。
それぐらい目にしていたくなかった。
そんなことを言ったところで、当然物は1つまた1つとなくなっていったし、今ではそこに存在していた物たちは一つ残らずなくなってしまった。
ただそのすべての流れの中で、一番大きな衝撃だったのは、ある朝そこに行ったらそのダウンがなくなっていた日のことだった。
たった1枚のダウン。
空間全体の中でそのダウンが占める面積なんて1000分の1にも満たないと思う。
ましてやあってもなくても困らない。
そんなところに私が注目してたのなんて私以外の誰も知らない。
持ち主だってそんなの知らない。
そのダウンがなくなった日、私はその場で泣き出したいぐらいに悲しかった。
悲しいことはたくさんたくさんあったけれど、その中の1つがダウンがなくなった日だった。
夏なのにダウンってどういうこと?なんて批判的に見ていた頃の自分がうらやましかった。
まさかそのダウンが私が何にも気付いていない頃からすごい主張をしていただけじゃなく、そのダウンのある風景がいつの間にかとても特別なもので、それがある人の存在を示しているものになっているなんて思ってもいなかった。
やけにその場所がきれいになってもう「いなくなります」宣言を言葉なしでされているよりも、まだごちゃごちゃしていた頃にたった1枚のダウンがなくなった時の方が私には遥かに衝撃が大きかった。
当たり前だけど、もうダウンはそこにはない。
だけど、小さなものでもその人の存在を記憶に焼き付けられるようなものがある。
本当になんてことないダウンだった。
特別なデザインでも色でもなかった。
特別だったのは、夏の暑い時期にあったということだけ。
そしてこれからシーズンを迎えるというその前に、ダウンともども目の前の景色から消えてしまった。
私はこの3週間、色んなシーンを思い返していた。
意図的に思い返すこともあれば、「そういえば…」という感じで自然と思い出したこともある。
その中の1つにダウンがあった。
そしてようやく最後の瞬間を直視するぐらいの準備が整い始めた。
その瞬間はとうに過ぎ去ったし、もう「過去」という時間軸の中にしか存在していない。
だけど、私の中ではずっとずっと見ることを避けていた。
脳裏に焼き付くぐらいの衝撃があったけれど、私はもう痛いのは嫌ですぐに蓋をした。
これから先、私がどんな気持ちの変遷をたどるかは知らない。
だけど、色んなアップダウンを経験する中でも1つだけ心に響いた言葉がある。
「私の人生に現れてくれてありがとう」
~時間旅行の途中で思い出した~
アルヘニの背中
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