2015年4月16日木曜日

茶碗と本心

さっきごはんを作っている時に、一気に3つの茶碗を割った。

1枚の小皿を取り出すのに、きちんと正面から引き抜けばいいものの、

面倒くさがって横から引き抜こうとした。

それが運のつきで、丸小皿のふちが4つ重ねてあった茶碗に直撃し、

あっという間に茶碗は床に散らばった。

4つのうち1つは奇跡的に無事で、残りの3つは見るも無残な粉々の姿かたちになってしまった。

3つのうちの1つに関しては、旅先で2日間も買った小さなお店に通い、それでようやく決断して

うちにお持ち帰りしたものだった。

色も形も大きさもとっても気に入っていた。

残りの2つもきちんとストーリーがあった。

1つは、私が茶碗がない(実際に一時期ゼロだった)とぼやいたら、それを聞いていた人が、

うちでは使わないからと言ってわざわざ4つもプレゼントしてくれたものだった。

4つのうちすでに3つは、今日と同じような理由で割り、そして今日最後の1つが割れた。

もう1つは、名古屋から電車で1時間程の瀬戸焼の産地、瀬戸市のカフェで手に入れたもの。

神戸からきた友達の方が内情に詳しくて、あのカフェでパフェとか頼むと茶碗がもらえるよ~、

ということで冬の寒い日に二人で和パフェを食べてもらってきた茶碗だった。

全部ストーリーのある茶碗ばかりだった。

実際に割れて、割れた瞬間呆気にとられたけど、それ以上に私は自分の反応に驚いた。

もっとショックを受けるかと思いきや、ショックをあまり受けていない。

あまり深くも考えずに、とりあえず割れたものたちを片付けようとすぐにほうきとちりとりを手に

掃除を始めたぐらいだ。

片付けて、ごはん作りの続きに戻った。

やっぱり旅先で購入したものは、惜しかったけれど仕方ないとも思った。

しばらくしてから、本当はどれも手放したかったものだということをはっきりと感じた。

人からのいただきものと瀬戸のカフェでのプレゼント茶碗は、使う頻度が低かった。

お気に入りの茶碗たちを乾かしてるとかまだ洗ってないとか、

そういう事態になって初めて活躍する茶碗たちだった。

ということは、そもそもそんなに気に入ってはいなかった。

そして旅先で手にしたお気に入りの茶碗。

割れてはっきりと感じたのは、扱いのストレスから解放されたことだった。

色も形も大きさも申し分ない茶碗ではあった。

ただ1つだけ、たった1つだけどうしても神経を使わずにいられなかったのは、

その茶碗の取り扱いだった。

私が食器を選ぶ基準の中に、「扱いやすい」というのがある。

色んなものを使っていくうちに気付いたことだけど、割れにくい質感のタイプのものがある。

言葉ではうまく説明できないけど、触った感じでわかる。

陶器は陶器でも、明らかに割れにくいものというのがある。

その割れた茶碗は、ほんの些細なミスも許されないぐらい繊細な質感だった。

洗う時、乾かす時、使うために取り出す時、食べ終わってから流しまで運ぶ時、

その1つ1つに神経を使う茶碗だった。

がさつなわたしが少しでも自分のがさつさを矯正するのには良いかもと思ってはいたけど、

やっぱり神経は使う。

かなりな回数を使いこんでも、その神経を使うことには慣れない。

割れてから気付いたのは、もうそんなに神経質にならなくて良いということ。

そして、小さなちいさなストレスでしかなかったし、我慢できないものでもなかったけど、

やっぱりプチストレスであったことには変わりない。

それが嘘偽りない自分の本心だった。

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