今日(11/7)届いた本。
マニアックな占星術本を探し始めて1ヶ月くらいになると思う。
『スピカ占星学』なる本は、当初買うリストに入ってないどころか、その存在すら知らなかった。
マニアックな本たちを探す中でたまたま見つけたフレーズ
「お客さんがその問題に対して成熟するのを待つんや」
というものを吐いた人が「カリカリ博士」という、どんだけでもふざけた名前で、でもその言葉や言葉が意味する世界に魅せられた私は、カリカリ博士なる今は亡き人物が気になった。
(出典:スピカ占星学)
探してようやく行き着いた古本で、中身も知らないし何なら本人が書いたのではなく関係者が追悼の意を添えて出版した本と知って、余計に不安しかない本ではあったけれど、逆に占星術ではなくもっと物事の真髄に触れる話を関係者たちが回顧して文章を寄稿したかもしれない…、と思い始めた。
カリカリ博士なる人が同志たちに言った言葉を知れるかもしれない。
最悪本当に違うなら、手にしてから手放してもいいと思った。
そして、今回だけはペンジュラムがものすごい勢いでYESを強く伝えてきて、何がそんなにすごい本なのかわからないまま東京の中野にあるマニアックな中古品を取り扱う店から買った。
ホームページを開いて見ると、フィギュア盛りだくさんみたいな店で、そんな店で眠っている占星術の本って真面目にどんな性格のものなんだろう?と思った。
しかも、メール便なら150円の送料のところ、660円だと注文後連絡が来た。
間違いかと思って、メール便対応が可能なら変更して欲しいと返信したら、規格外の大きさだから660円宅急便扱いとのことだった。
ますますどんな本が来るのか訝しげに思ったけれど、とにかく手に入れて見てみないことには気が済まないとわかって、注文をした。
届いて想像を絶する内容のものが届いたけれど、少しだけ読むとペンジュラムが激推しした理由がわかった。
ちなみに想像を絶するというのは、表紙をめくって数ページはまずカリカリ博士の写真が写真集ばりに何ページにも渡って続く。
イケメンでもなければ、絶対に好きにはならないタイプの顔で、それだけでも十分インパクトがあった、もちろんよろしくない方の意味で。
さらには、本人死後の本だけあって、本人が書いた文章はないんじゃないかと思った。
ますます失敗した気がした。
だから、適当にめくって、本人とのおしゃべり記録みたいなページから読み出した。
カリカリ博士とスピカ占星学の名前の由来が説明されてた。
ちなみにカリカリ博士は「1926年くらいかな、ドイツの無声映画でカリガリ博士というのがあってね、その語呂がおもしろいでしょ。で、字画を計算したらカリカリになってん」で、スピカは「恒星の名前でね、金と女と名声に恵まれるという意味があって、それでつけてんけどねー、んー、全然効果ないわ。どんどん反対の方へ行ってるとゆうか…。」とのこと。
(出典:スピカ占星学)
どちらもずっこけそうな話だった。
そんな感じなのに、私は珍しく本を読み進めた。
占星術の本は一気に読み進めることはなくて、少しずつ気が向いた時に読んでるけれど、カリカリ博士の本は会話形式のところはとりあえず一気に数ページ読んだ。
読んであるところを見て止まった。
その言葉に触れるためにペンジュラムが買え買えと薦めたのかもと思ったくらいに、そこでピタッと止まった。
「心というのは、人と人の間の空間にあるもの」
(出典:スピカ占星学)
これはカリカリ博士の言葉でもなく、関係者の言葉でもなく、今回寄稿した人の1人が何かの本で見たとあった。
言葉を読んだだけで、私は絵面まで想像した。
今回ももれなく登場したのは、過去に勤めた職場のイケメン上司だった。
私の脳内の絵面は、新潟にいる私と何百キロと離れているその人との巨大空間の間に丸いボールみたいに心がドンと横たわっているような感じだった。
そしてその後、今と3年前とを比べて気付いた。
その人が本当に別格であること。
心の種類にも色々あって、でもその人がいた時に感じていた心と今日々の中で横たわっている人間関係の中にある心とは全く別物だと気付いた。
されていることは同じでも、感じ方が全然違う。
今の日々の人間関係に困ったものが1つある。
先に言うと、「気持ち悪い」。
スーパー幼稚すぎて意味不明な男が1人いる。
ある時から私は奴に無視されている。
理由はわからない。
考えられるのは、いちいち私が細かく何かを指摘してくることが嫌なのか、派遣なのに態度がでかいのか、そんな辺りではないかと思う。
ちなみに細かい指摘は、もし指摘せずに流したら逆に会社の看板を汚すようなもので、指摘しない方が1000%問題になる。
だから私は自分が悪いことをしてるとは全く思わないし、彼以外の人たち大御所も含めて少なくとも私の指摘に耳を傾けてくれるし、指摘した不具合は百発百中に近いくらい、大御所だろうがぺーぺーだろうがその時の担当者の最終判断で修正されるのが常々の展開になっている。
奴からの無視は別に構わないけれど、なんと奴は仕事の連絡をしないという、本当に社会人としてどうなのかと思う無視をしている。
それは上司にお願いをして、上司が根回しをして今のビッグプロジェクトに関しては私も含めて関係者の名前を具体的に出して、全員に連絡するように通達してくれたこと、そしてちょうど物事が大きく動き始めた日、奴は休みを取っていて、本来なら奴が担当する調整連絡係を仕事がきちんとできる別の人が代理でその日は担当したら、そのままできる人(硬派さん)が継続して担当する流れになった。
硬派さんが関わってくれることになって、とりあえず私は仕事がスムーズにできるようになった。
仕事はやりやすくなったし、困ったことは全て硬派さんに直接伝えて直しなり調整なりをお願いすれば良くなって、本当に助かった。
仕事はいいけれど、日常的な無視はずっと続いていて、それが空気としてとっても気持ち悪い。
ここ最近は、奴は変わらないのはわかったし、だけど超絶気持ち悪い状況は同じだから、いかに自分の中の気持ち悪さを減らせるか、その調べ物をして実践している。
リアル心理実践をして、何が役立つかをひたすら模索している(苦笑)。
人間性の低さに加えて人としてバカすぎるとわかっていても、気持ち悪いのはそう簡単に消えてくれないから、私はあとどのくらい今の職場にいるのかわからないけれど、残りの時間平穏に過ごせるように、そのための努力を自分の心がある程度安息するまでやろうと思っている。
関係ないけれど、これはお金が解決してくれないことの1つだなぁなんて思った。
これ1億積んでも気持ち悪さが軽減することはなくて、今のところにいる以上は自分の力でなんとか自分の心の状態を改善するしかない。
そんなことを思ったら、3年前のイケメン上司の時は「気持ち悪い」なんてただの一度も思わなかったことに気付いた。
私がごはんに誘ったら、イケメン上司はそこからわかりやすいぐらいに私のことを無視した。
普段接点がないから最初は気付かなかったけれど、ある時仕事の伝言をしないといけなくなって仕事の伝言を本人の席の前に立って直接したら、完全に無視されてることに気付いた。
短い伝言だったけれど、完全なる無視を決めこもうとしているその姿や場の空気を見て、私の心はボキボキに折れて本気で目の前で泣き出すかと思ったほどだった。
ありとあらゆる理性をかき集めて、最後の「お願いします」まで声を変えずに言い切ったところまで今でもよく覚えているし、その後自分の席に戻って心の中に重たいものが広がるのを感じながら、今すぐ立つとおかしいかも…と思って泣くのをグッと堪えながら、いつどのタイミングかそれは忘れたけれど、私はトイレとかに隠れてその後泣いた。
仕事中に泣いたのは社会人になってから3回目。
最初の2回は自分の心が不安定なところに強烈なパンチに見舞われたから涙が出て、でもそれは相手云々のことではなかった。(その時もその場は普通にやり過ごして、そっとトイレに逃げた)
その人の時だけだった。
されたことと言うよりも、その人からそのようにされてしまったことが本当に堪えた(こたえた)。
そしてその後に実際に面と向かってやりとりできたのはその人の最終日で、それまで3週間近くあったけれど、その間気持ち悪いなんてただの一度も感じなかった。
ただただ悲しく、ただただ寂しく、止まらない時間の前で何も為す術もなく、ひたすら迫る最後の日に向けて私の心の中はありとあらゆる悲しみや寂しさやその他の暗くて重たいものだけで覆われていた。
その人が私を気持ち悪がってるかもとは思ったけれど、私側はそんなことは一切なかった。
無視の種類も違うし、私の感じ方も全然違うけれど、今回のカリカリ博士の本で気付いた。
見えないところに横たわっているものは、見えなくても人によって感じ方が全然違うこと。
そして、今現在のものは超絶気持ち悪いけれど、イケメン上司の時はそんなことは一切なくて、私は何とかそれさえも守ろうと必死だったこと。
「心というのは、人と人の間の空間にあるもの」
これも私の超勝手な解釈だけど、この言葉に励まされた。
人と人との間の空間は、何も目に見える物理的な空間だけじゃない。
目に見えないところにも空間は存在している。
遠方にいる友達やその友達から連絡が来たりする場面を思い出すと、その感覚がよりリアルにわかる。
お互いに見えないし会えない。
それでもふと脳裏に浮かんで連絡を取り合う。
そこには確実に、2人を繋ぐ心がある。
心が交わるからこそやりとりできるってわかる。
イケメン上司が何を思ったり何を考えたりしているのかはわからない。
わからないけれど、確実に何か感じるからこそ私のブログを見るんだと思う。
それは私の心のギュッと硬くなったところを癒してくれる。
現実的には何も繋がってないし、連絡が来ることもないし、生活圏は何百キロと離れてるからバッタリ会うこともない。
でも見えなくても相手の何も知らなくても、このブログが待ち合わせ場所のような機能を発揮して、とりあえずちょびっとだけ繋がっている風になれてる。
その人側はさておき、私側から見て、その人と私の間にあるところに心がある。
その心に自分が救われている。
変な言い方だけど、ブログを見てくれてることがその人の命の確認に繋がっている。
時々、今日も生きてるんだなぁと思う。
そして、その人が生きてて良かった、と思う。
心があるっていうのは、そんな風にして相手の存在を命の時間を感じるための状態のことを指すのも1つだろうと思う。
3年ぐらいかかって、私はこの状態を受け入れるようになった。
第一希望は、その人の見えるすぐ隣りでその人が年をとっていく姿を見ることだった。
不思議な感覚だけれど、隣りで生きるとか一緒に生きるとかいう言葉より、隣りでその人が年をとる重ねる姿を見たい、最初にそう思った時に言葉はしっくりきても何とも不思議な感覚すぎて変なのとも思った。
だけど、半年ぐらいして、人生で初めてのホロスコープ鑑定を受けた時に、①いつかの過去世で私は10歳ぐらいまでしか生きられなかった男の子だったこと、②その時にペンジュラムを自分の友達のようにいつも近くに置いていて大切に持っていたこと、③その男の子の意志を今生強く引き継いでいること、④その時身近にいたのがイケメン上司だったこと、を伝えられた。
ちなみにホロスコープ鑑定は本来そんなことを聞きに行くものじゃないし、鑑定士さんも基本的には成人してから何かが視えることはなくて、でも必要性があるとそういう情報がやってくる、そう伝えられた。
必要性というのは、その内容に関わる人物たちの魂から伝えられる、鑑定士さんの意思や判断ではなく、相手側の意志や判断から伝えられるものだと言われた。
さらには、私の場合、私よりもイケメン上司側からの意志で今回はこの情報がもたらされてることも言われた。
さっきわざと番号を①〜④と振ったのは、実際にその順番で伝えられたから。
そして、①②③は、鑑定を受ける前にもらった情報だった。
その男の子の自分のことは何も思い出せないけれど、それを読んだ瞬間に声が震えるほどに私は泣いたし、そして目の前のペンジュラムを見て私はそれが本当だとわかった。
何一つすぐにできるものがない私にとって、ペンジュラムだけが唯一練習も努力もなくいきなり使えて、さらにはものすごくマニアックな高度な使い方を自分でどんどん開発していったから、その話を聞いて合点がいった。
時々自分でも何でこんなことができるんだろう?と思っていたから、その話を聞いたことで繋がった。
④は、鑑定士さんに会いに行って実際の鑑定の時に伝えられたことだった。
しかも、ただ伝えられたのではなく、イケメン上司の話の時だけ鑑定士さんはしばらく何かと交信してる風で意識はここにあらずみたいな感じだった。
鑑定士さんがしばらく違うところに意識を飛ばしてるだろうところを私はただボーッと見ていて、そして鑑定士さんが今ここに戻ってきた時にイケメン上司がどんな風に過去世で関わっていたのかを鑑定士さんが視たり感じたりしたまま教えてくれた。
そして、イケメン上司について、隣りで年をとるのを見たいとかいうあの不思議な感覚も、その話を聞いてようやく腑に落ちた。
年をとるのを見るというのは、深く紐解くと、「長生きしたい」ことがわかる。
それも単に「長生きしたい」だけじゃなく、長生きして少しでも長く自分が大切に思う人との時間が欲しい、その人の生きる様子を見ていたい、長く生きて色んなことを共有したい、そういう気持ちが含まれての今生だったのかな…と思った。
相手もだけれど、自分も長生きしていないとそれは叶わない。
互いに元気に生き長らえてこそ初めて実現するもので、まぁもちろん現世としてはそれだけじゃなく互いの意志も必要だけれど(苦笑)、そこを言い出したらどうにもならないから止めるけれど、とにかくそんな風に思った人だった。
色々こじつけのようではあるけれど、イケメン上司の最終日の最後というのは、私が帰る前に棒読みのような挨拶を交わした瞬間ではなく、本当に私が立ち去る瞬間に見たのが最後だった。
その最後の時というのが本当に変で、イケメン上司は私の姿が絶対に自分の目に触れない位置に、ものすごく変な立ち位置で立っていた。
しかも、もうパソコンも郵送できるように箱にしまってないし、本人ももう時期去るからそんなに大がかりな仕事もそうそう残っていないだろうに、どういうわけかものすごく変な位置に立って、現場側の上の人と話していた。
現場側の人は自席にいて、そこというのが隣りも後ろも広々としてるのに、イケメン上司はどういうわけか超狭いその現場の人の目の前にキスができそうなくらい近くに立って、ちなみにその位置だけが唯一私を見なくて済む位置だから、当時の私はそれも見てさらにそんなにも嫌がられていたのかと思って、より一層心がボキボキボキボキ折れたけれども、その半年後くらいにホロスコープ鑑定を受けて上のような話を聞いた時に「もしかして…」と思った。
過去世の話を整理して想像すると、当時は私の方が先に死んでいて、さらにはその死にゆく私を見届ける家族的な立ち位置にイケメン上司はいて、もしその記憶が本人さえもわからない深いところに刻まれたままだとするなら、最後の瞬間の行動もわからなくもない。
もちろん、私側の超都合の良い解釈だというのも重々承知の上で言うと、もし本当にそういう事情が裏側にあったとするなら、あの最後の時にとった行動は本人にとって自己防衛的なものだったのかもしれない。
変なたとえだけれど、心が痛いのと魂が痛いのとは、全然違うと思う。
例えば今の職場の気持ち悪い状況は、あれは心が痛いというか、意識レベルで気持ち悪いと感じるものでも、基本時間が経つと忘れる。
そしてはっきり言ってどうでもいい。
でも、イケメン上司の時は全て違っていた。
自分でもどこから来るのかわからないくらいに色んな感情が渦巻いていて、寝ても覚めてもずっとある感覚だったし、基本「忘れる」という選択肢がないまま今に至っている。
そのくらい強くあるものに対して負荷がかかると、それは逃げ出したくもなるだろうし、背も向けたくなって当然な気がする。
さすがに本当に気持ち悪いとか生理的に受け付けられないとかであれば、ブログを見るなんて自分の首を絞めるだけで良いことなんか何もない。
イケメン上司から見た私がどんな風なのかはわからないけれど、本人からしても掴みどころのないものを湧き上がらせるスイッチみたいなのかもしれない。
週末に読んだ、とある人のブログがとても感動的だった。
その女性春さんは、職場で息子ほど年の離れた男性がいわゆるナンバー1のソウルメイトと思われ、でもこの度長年勤めた職場を退職すると決められた。(ナンバー1というのは、繋がりの強さ的に1番という意味)
全ては読んでいないけれど、職場内の彼とのやりとりをいくつか読んで、その情景が私がイケメン上司と体験した瞬間と2つほど似ていた。
起こったことは違うけれども、場の空気や相手の反応が似ていて、それを見つけてからというもの、ここ数週間何回かに分けて読んだ。
見たところ、春さんという女性は、社内でもとても仕事ができて、かなり上の立場にある方だと思われる。
春さんが辞めるに当たって、社長やら会長やらが登場してしまうあたり、普通の平社員という感じはしない。
文章を読んでいてもとても聡明な方だとわかる。
そんな彼女が魂の繋がりが一番強いと思われる男性に職場で出会って、そしてそのストーリーがあれこれと描かれている。
直近の記事に、とうとう彼も含めて社員全員が彼女の退職を知ることとなった旨が書かれていた。
他の人たちは反応が何かしらあったけれど、彼の方はずっと沈黙を守ったままだった。
春さんはもうこのまま何もなく退職して、全ての縁が切れて彼との間には何も残らないだろうとずっと思っていた。
ところがある日、夜遅くに会社を出ると、たまたま彼と出口の辺りでかち合ったらしい。
普通に挨拶してすれ違ったかと思ったら、5メートル近く離れてから彼の方が春さんの方を向いて、本当に辞めてしまうのかを聞いたらしい。
ちなみにそんな風にどストレートに聞いたのは、社内で彼だけだったとのこと。
本当にそうだと答えてそれで終わるかと思いきや、彼の方が退職して落ち着いたら飲みに行こうと春さんを誘った。
まさかの展開で春さんは驚いていた。
春さんはそのことを「奇跡」と呼んだ。
淡々と今書いているけれども、それを読んだ時、どこの誰かも知らない春さんに対して嬉し涙が出た。
春さんの数年に渡る葛藤は、まさに私の葛藤そのものだった。
状況も違うし、春さんたちは飲みに行ってもいいくらいのやりとりを数年間に渡って積み重ねていて、私とはまるっと状況が違うけれど、それでも読みながら自分もどこか救われるような気持ちになった。
色んなことが普通じゃないし、ひたすら己の修行みたいなこと満載すぎるけれども、それでも小さくても希望を持つこと、希望を持つことを自分に許すこと、そして希望を持って今日という1日を毎日積み重ねていくこと、そうしたことに対する力をもらえたように感じる。
さすがの私もそんなに図々しくイケメン上司の毎日に土足で踏み込むようなことはしたいと思っていない。
せめて生きている間に、何かしら本人から連絡が来たら本当の本当に御の字だと大真面目に思っている。
自分が特別でありたいと「思わない」と言ったらそれは嘘になるけれど、でもかと言ってそんなものは強制するものでも無理強いするものでもないから、そんなことを気にして連絡が取れないのなら申し訳ないと思う。
自分自身も自分の人生も色々普通じゃないのはわかっているから、そういう私をあなたのパートナーにしてください、なんて絶対に言えない。
そんな高望みなことはしないし、その人の人生をそっとしておくぐらいの心遣いはもちろんしたいと思う。
ただ1回でいい、生きている間に普通にやりとりできたらいいなぁと思う。
本当に普通のやりとりを近くにいた時に1回でもできたら良かったなと思うし、それができていたのなら今は全然違う状況にあったと思う。
色々間違えたなとも相変わらず思う。
自分がばあさんになってからでもいいから、その時が来てくれるのなら気長に楽しみに待っていたいなと思う。
友達とか名前のつく関係は目指さなくていいし、1回連絡を取れたからと言ってしつこく付き纏うとかもしない。
嫌われることをしたいのとは違うから、本当に普通におしゃべりして終わりで十分だと思っている。
魂の繋がりだからと言って、今世も特別に何かしらの関係を持つ必要はないと私は思っている。
私は本当にただの一度も自分がその人にふさわしいなんて思ったことがない。
そして「ふさわしい」という枠で言うなら、いくらでももっともっとふさわしい人が必ずいる。
それは残念だけど、多分私じゃない。
だから、もう何かを期待するとか変に警戒される風な感じで近づく気は全くない。
そもそも1回でも会いたいと言うこと自体が重たいのかもしれないけれど、希望を言うくらい許されたっていいと思う←開き直り。
ふと、書いている時に、私がもしイケメン上司の後輩くんの立場としていられたら、もっとお互いに良かったのかな…なんて思った。
だけど同時に、もし私がそうだとするなら、何にも気付かずに終わったかもしれないとも思った。
あくまでも異性という形で出会わなければわからなかった、そんな気がした。
でも異性は異性でも、どうでも付き合うとか結婚とかする必要はないし、それこそ性差を超えた友達もありだったと思う。
その辺りの接し方?ふるまい方?は私は案外上手だと思う。
その人と仲良しのSさんが思い浮かんだ。
Sさんの立ち位置に憧れる。
趣味で繋がれるってなんて良いキッカケなんだろう。
そして、色々無理しなくていいのがとても羨ましい。
Sさんは既婚者だから変な心配や警戒をしなくていいし、その人もSさんには素の自分をどの程度かはわからなくても少しは出せていたんじゃないのかな…なんて思う。
人間関係って狙ってできるものではないのはわかっているけれども、もしそういう入札システムみたいなのがあったり券売機みたいなのがあって選べるのなら、「とりあえずご飯友達」みたいなのをポチったのになと思う。
話がどんどんおかしな方に流れていっているけれど、魂繋がりに階級があるとするなら、もっとライトなものでお互いに気持ち良く時間が過ごせる関係性だったら良かったのかもしれない、なんて思うこともある。
趣味とか飲み仲間とか、そういうのだったら、少なくとも今みたいな感じとは違って、可も不可もない関係性を持てたかもしれない。
でもそういうのではなく、超ガチなやつで、完全に魂の修行系で、自己研鑽+魂の成長第一で、俗世的な人間関係は残念ながら当てはまらず…。
そういうのも手伝って、その人の異性的なパートナーの位置に私がいることはないだろうし、そもそも選ばれるとは全く思っていないし(思っていないも何も、現実選ばれていない)、それなら何にも当てはまらないままでも小さなやりとりができる関係が良かった。
本当に星読み担当とか、魂メッセンジャーとかでも良かったのになぁなんて思う。
生涯一度きりの係でも私は喜んでやるのに!といつも思う。
話が脱線しまくるから、この辺りでアップしよう。
心の話からどんどん脇道にそれて(いつものこと)、気付けば何の話をしていたのかさえも忘れるくらい。
どうやったって構えてしまうだろうけれど、襲ったり付き纏ったりしないから、安心して連絡くれたらいいのにな…、といつも思う。
ちなみにこれだけ書いておきながら、彼女や奥さんがいればそもそも連絡なんかしないか…とも思った。
すべては神のみぞ知るの領域。
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