2020年6月17日水曜日
㉑【おいせさん手帳】しあわせの中身
おいせさん手帳第21回目
担当:私
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6月17日
生きていくための自分だけの絶対的な条件。
紫陽花の見頃
紫陽花というのは、地に根を下ろすと毎年きれいな花を咲かせますが、花を活けるために切ると、何日ももたなくなってしまいます。私たちの体も日々何かに根を下ろして、命が育まれています。楽にそして自分らしく生きられる条件がどんなものか自分に聞いてみましょう。一生付き合う自分のために絶対に譲れない条件が必ず存在しています。
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生きていくための絶対の条件ー
真っ先に思い浮かんだのは、「自分の内面を見ること」だった。
この話の中にあるように、紫陽花というのはあんなにきれいな花を毎年咲かせるのに、一度切り花として切られて飾られると、本当に何日も持たずにすぐ枯れてしまうらしい。
言われてみれば、紫陽花の切り花なんてほとんど見たことがない。
なのに、大地に根を下ろすと、紫陽花の期間は基本的に何週間でも花を付けているし、そして毎年毎年梅雨の時期になると決まって咲く。
植物たちのその生命力の神秘さと強さにはいつも驚かされる。
だから「生きていくための条件」について書こうと思った。
紫陽花が土に根を下ろすことが必要なように、私には何が必要だろう…って。
ところが、得意の布団の上でうたた寝チックに半分寝落ちしているうちに、「しあわせな光景」がいくつも浮かんできて、そうこうしていたら、そのしあわせな光景を箇条書きプラスショートストーリー的な説明を付けたら、それが良い気がしてきた。
だから今回は路線変更。
✳︎誰かを心の中で想えること✳︎
これは本当にしあわせ度が高い。
心の中に誰かがいてくれて、その人を想えるというのは、それも呼吸するかのごとく自然と想えるのは、とっても素敵なこと。
そういう人に引き合わせてもらえるのは、人生の中でも1番の贈り物って呼んでもいいかもしれない。
✳︎今年も紫陽花を見に行く計画をひっそりと立てて、心待ちにできること✳︎
冒頭の紫陽花の写真は、去年のあじさい公園のスナップ。
新潟に帰ってきた最初の年、ペンジュラムがハローワークに行く代わりに私に案内してくれた場所だった。
本当にきれいで、あれから4年連続行っている。
今年が5年目になる。
今年もあの紫陽花たちを見に行けるのかと思うと、とっても楽しみ。
毎年の季節の楽しみがあるって、贅沢な未来の計画なんだと気付いた。
✳︎本気アンド本音のメール✳︎
私の英語の師匠のトムさんからメールが来ていた。
なんだったかな?と思って開けたら、先週お願いした件への返信だった。
トムさんへのお願いは、トムさんの名前を出して、トムさんが教えてくれたことを若造に伝えたいけれど、良いかどうかの確認に対しての返事だった。
2週?3週?くらい前から、専門用語の英単語について、社内の中ですったもんだしている。
なんと、何も考えずに、上が「じゃあ次からはこの言葉で!」と言って、それというのが正しく使える時がかなり限られた文の時だけで、素人がそのまま使うと「おいしいトースト」が「おいしくトースト」というトンチンカンな英語になるもので、非常にまずいことになりつつある。
そんな悪の根源を今から新しい会社の歴史に刻むなんて私は絶対に嫌で、ぎゃあぎゃあ騒いだ。
トムさんにスーパーヘルプを求めて、この上ない素晴らしい回答を得た。
その内容を、私の立場で言うと適当にあしらわれる可能性大ゆえに、トムさんにトムさんの名前を出させて欲しいとお願いした。
トムさんからは二つ返事で大丈夫と返ってきて、代わりに上役たちの目に触れることのないようにそれだけは気をつけて欲しいと綴られていた。
その理由というのが本当に感動的で、おおよそこんな風だった。
自分の保身のために言ってるのではなく。
もし上役の目に触れると、トムは何をまた勝手なことを言っているんだ?首を突っ込むのはやめろ!と言われ、最終的にこれまでみたいに陰ながら私や私のいる英訳関連の部署の助っ人ができなくなるから、それを避けるために名前が上の目に触れないようにして欲しいとあった。
あまりにもかっこよすぎて、鼻血ブー状態だった。
おかげで、社内の超しょうもない、本当に色々終わっているちっぽけでくだらないことがどうでもよくなった。
そうだった、そうだった、心が通うコミュニケーションと、個人の感情を抜きにした「今ここでの最大の利益は」という視点で仕事のクオリティを上げることに尽力するのが私は好きだったと思い出した。
くだらないことは、やっぱりくだらない考えの人が絡んでいて、それは全然テンションが上がらないどころかモヤモヤの種にはなっても気持ちを上げてはくれない。
もう何と思われてもいいから、そこからは離れることに、一線を置くことに決めた。
✳︎日常の愛とやさしさ✳︎
東京にいるヒーリングメイトのノムからLINEが来た。
6月に入ってから本当に気持ちが落ちて疲れてなんだかいつまでもジメジメとした重鈍い感覚に支配されてる風で、普段なら超楽しみなノムとの電話も乗り気にならない、鬱々とした感じが続いていた。
ノムは恋人ミッチーが作ってくれたブロッコリーとチーズのトーストや、ミッチー手作りの夕飯の写真、花の写真、木漏れ日的な陽が映った家の中の窓の写真、あり2匹が食べ物を運んでいる動画、そしてノムが描いた花の絵の写真をいくつも送ってくれた。
それを見て、食欲ない時に食べるおかゆやうどんみたいな、あのタイプのやさしさがじわじわと心に染み入った。
あの弱った時に五臓六腑(ごそうろっぷー今読み方を初めて知った)に染み渡る、じわじわと温かさや熱が体のすみずみに伝わる感覚をノムの写真と動画と短い私を気遣う言葉からもらった。
それだけでしあわせな気持ちになれた。
✳︎お祝いの日に気をもまなくてもいいこと✳︎
日付を見て気付いた。
昔のある時期なら、その日はお祝いをする日だった。
本来お祝いはおめでたいからお祝いで、ウキウキワクワクするものだと思う。
だけど、いつからかその日は気の重たいものとなって、楽しみとは程遠い形に転じた。
お祝いどころか自分のメンタルを保つのに精一杯だった。
そんなことを思い出したら、今はその心配を1つもしなくていいというめでたさを思った。
そして、そのことに思い悩む苦しさや虚しさから完全に解放されてる今の自分を見て、本当に今しあわせだなとしみじみと思った。
若い頃、「しあわせになる」ってなんだろう?とずっとわからなかった。
そして、しあわせというのは「なる」ものだと思っていた。
今思うのは、しあわせは「感じる」ものだし、しあわせを感じるにはどれだけ心が柔らかくて感知するセンサーがあるかだと思う。
そして、その感じる力は、ある程度訓練することで鍛えられるし手に入る。
ないものは数え上げてもキリがない。
そしてないものや手に入らないものは、追い求めても、それが夢や喜びに向かうものは別だけれど、自分を疲弊させるものなら、追いかければ追いかけるほどしあわせから遠のく。
生きていくのに絶対にしあわせが必要とは思わない。
しあわせを感じられないぐらいに落ち込んだり悩んだり泣き通したりしたことなんか、数えきれないほどある。
それでも息が絶えないわけだから、大きくしあわせから外れても身体的に生きてはいけるというのは、自分の人生を見たらわかる。
でも、少しでもしあわせを感じられると、生きている毎日が潤う。
心がやさしくなって、自分といるのが楽チンになる。
感動する力も高まるし、その時の自分は、表面はわからないけれども心の内では笑っている。
ニコニコしている。
ふと思った。
しあわせは自分で作れるって。
トムさんからのメールを読んで、それがはっきりとわかった。
トムさんから今回のようなメールをもらうには、いきなりはもらえない。
もらうまでのこの数ヶ月、私は私でトムさんとの人間関係を築いた。
トムさんがそこまでぶっちゃけたことをメールに書いてくれたのは初めてだった。
そんな内容を送ってもいいと判断してもらえるだけのやりとりを私としたから、そうやってメールが私の手元にやってきた。
もう1人の呆れるくらいにいい加減な人との対応を見たら天と地ほどの差がある。
もし私がいい加減な人と同じことをトムさんにしていたのなら、トムさんは絶対に私のことを信用しなかったと思うし、今回のメールなんかは火種にしかならないから送ることはおろか書かれることさえなかったと思う。
そうしてもいい、その判断の材料となるものは、普段の自分が作っている。
もちろん普段から良い風に思われようとかいう意図で動いているのとは違う。
だけど、色々やりづらいのは嫌だから、とにかくその時その時でやれることはする。
しあわせはそうしたことの上に舞い込んでくるのかもしれないなと思った。
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