2020年6月1日月曜日

星読み・茶封筒・命のバトン





求めていたものが何かを知った。

ずっと見ないようにしてきたけれど、いざその状況を体験すると、まざまざと自分の欲しているものが何かわかってしまう。

また1人で妄想界へと意識は飛んだ。





午後の遅い時間にイケメンエンジニアの硬派さんが「武士俣さん」と話しかけてきた。

はたから見ると、小型のコピー機にコピーしたものを取りに来ただけみたいに映るだろうけれど、硬派さんの体はコピー機の前ではなく私のデスク側にあって、私のごちゃごちゃした机の向こうから私は呼ばれた。

仕事上硬派さんは私に用事があることはまずないから、珍しくまた英語の部品名でも確認したいのかと最初思った。

硬派さんは私が「はい」と言うと、続けざまに「まだ読み終わってないんです」と言った。

私は最初何の話を硬派さんがしているのかさっぱりわからなくて、硬派さんの次の言葉を聞いた。

「ほら、実家で読んだって言ったじゃないですか…」

と聞いて、そこでようやく星読みの話だと気付いた。

硬派さんの話はこうだった。

実家に持って行って読み始めたけれども、あれから実家に帰れていない、だからもう少し時間がかかること、全部読んだら武士俣さんに声をかけます、おおよそそんな内容だった。

それを聞いて一気に自分の心が和らいだし、疑心暗鬼になっていたことも即座に解消された。

なんなら硬派さんに「読んで具合悪くなってない?」と聞いたら笑われて、「そんなわけないじゃないですか!大丈夫です」と返ってきた。

急ぐものじゃないからゆっくり読んでください、と言って二言三言言葉を交わして、硬派さんは席に戻って行った。





実は、ずっと硬派さんが何も言ってこないからどうしたんだろうとは思っていた。

気にはかなりなっていたけれども、どう聞いていいかもわからなければ、もしかして本人が触れて欲しくないのかもしれないし、はたまた全てなかったことにしたいのかもしれないとか、いくらでも悪い方に想像はいった。

何も言ってくれない硬派さんにも怒りに似た感覚も出てきたし、自分の中でああでもないこうでもない…とグルグルして、だからもう何か言ってくるまでそっとしておこうと思った。

それが硬派さんの行動で一気に解消されて、そして短いやりのりの中で本当に大切にしてくれてるだろうことも伝わってきて良かった。

あの分厚いAll手書きの鑑定書は、硬派さんも1人でゆっくり読みたかったり、奥さんには見せられないと思ったのかもしれない。

やましいことなんて1ミリもないけれども、それと相手の受け取り方はイコールとは限らないから、あえて見せないようにしているのかもしれない。

その辺りは知らないけれども、いずれにしてもそこまできちんと扱おうとしてくれてるのはひしひしと伝わってきたし、硬派さんも適当にするのじゃなくてきちんと向き合いたいと思ってる気持ちは話しててわかった。

相変わらずの誠実ぶりだった。

さらに、伝えられたタイミングも、不定期に訪れる私が硬派さんの席に行く時ではなく、わざわざ私の席にまで来てくれたことも大きかった。

硬派さんが私の席に自主的に来てくれたことは数えられるほどしかない。

だから余程のことがなければ、硬派さんは来ない。

何も言ってこない硬派さんを見て、自分の中で星読みしたことをどう捉えていいのかわからなくなっていた。

自分から何か言うことも考えたけれども、それも硬派さんの性格を考えると、さらに変な気を使われそうでそれもなんだかなぁ…と思った。

そんな折に不意にやってきた硬派さんで、本当にそのためだけにコピーを取りにくるフリして来たのはわかったから、それだけでテンションが上がりまくった。←基本単純。





心のモヤモヤの整理が早々と終わると、私はまたもや妄想界へ妄想トリップを始めた。

本当はこういうやりとりをしたかった。

気にかけてくれてるってわかれば、私はそれだけで良かった。

硬派さんに渡した星読み鑑定書と過去のある時に渡した茶封筒とでは、内容も違うし、硬派さんのが本人希望で世に誕生したものなら、茶封筒はお願いもされてなければいきなり渡されて、かなり迷惑なものだっただろうこともわかる。

それもこれも全部全部わかっていて、反応ないことも覚悟して、それでも渡すことを選んだものだった。

後出しジャンケンみたいに、後からブーブー言うつもりもなかったし、色んな意味で最初から仕方ないとものすごい諦めと一緒に押し付けてきたものだった。

頭では全部わかっていたつもりでも、本音はやっぱり違う。

硬派さんとやりとりしたから余計とわかった。

反応が欲しかった。

それも「気にかけてる」と私がわかる反応が欲しかった。

硬派さんがあの分厚い鑑定書を、適当に扱うのではなく、自分なりに秘密の本みたいにして誰にも見られないようにしている工夫がなんだかとっても嬉しかった。

そして、それを言うためにわざわざ私のところに来て、社内メールでもない携帯の個人メールでもない、あえてきちんと面と向かって伝えてくれたことが本当に嬉しかった。

私がいい加減にはしなかったように、硬派さんもいい加減にはしていない。

茶封筒の主だって、もしかしたら硬派さんみたいに大事にしてくれたかもしれない。

多分だけど、ぞんざいにしてる可能性より本人のやり方で大事に持っている気がする。

そうは思っていても、そんなのは私の想像の域でしかなくて、本当のところは何も知らない。

そういうのは本人が伝えてくれなきゃ私には絶対に知り得ない。

硬派さんも元来ベラベラと喋る人じゃない。

間違えても私の席に立ち寄って世間話したりとか絶対にない。

だからこそ、硬派さんが来る時は本当に大事な何かを伝えたり確認したりするためだとわかる。

そういう反応が欲しかった。

もちろん、そんなのハードルが高いのも、私が望み過ぎなのも、そもそも反応ないことを覚悟したことも、ぜーんぶ知っているけれども、本当は反応が欲しかった。

それも、「迷惑だった」とかそういう系の方じゃなくて、私が覚悟決めて書いて渡して良かったと思える反応が欲しかった。

自分側の選択が、これで良かったんだと思える反応が欲しかった。

このままずっとズルズルいくのか、いつか何か流れが変わるのかは知らないけれども、せめて迷惑とか不愉快ではなかったのなら、そうではなかったことを生きているうちに教えてもらいたい。

言葉にできないなら一言「言葉にはできない」とだけ伝えて欲しい。

私にもよくわからないけれども、何の理由もなく、この私のダラダラと長い、起承転結もない文章をそう毎日チェックできるものじゃない。

そうする理由と茶封筒一連の出来事の時の姿が私にはどうしても重ならない。

私はエスパーや霊視者じゃないから何もわからないけれども、ただ少なくとも何かしら意図や意志が働かなければこのようなことにはなってないと思う。





>>>5月最後の日曜日の夜

上のところまで書いていたら癒しメイトのノムから連絡がきた。

そのまま電話することになった。

私は土日ほぼ寝て過ごしていて、日曜の夜でさえもなんだかボーッとしていた。

テンションはどちらかと言うとローテンションで、話したいテーマもなければ、むしろ「今日はこのテーマ!」なんて決めて話すような元気はなく、そうしたらノムも今日は何も決めずにのんびりと話したいということで、すぐに2人の間に同意ができた。

「特に電話する理由はない」「特にこれと言って話したいことがない」、いわゆる不要不急のおしゃべりを、何も決めずダラダラと流れに任せて話せる相手がいるというのは、本当に恵まれたことだとお互いに言い合った。

そんな出だしから、ノムと私のおしゃべりは始まった。

ノムはまるで私のこのブログの下書きを見ていたかのように、こんな話を聞かせてくれた。

ノムは電話の少し前まで録画したドラマを見ていたとのこと。

どういうわけか3年前くらいに録画した昼ドラを見たらしい。

倉本聰脚本の『やすらぎの刻』という、老年期の人たちを題材にしたドラマで、見たことはないけれども、その存在は知っていた。

ノムがどうしてそのドラマを3年越しに見たのか理由はさっぱりわからなかったし聞かなかったけれども、本当にこのブログの下書きの直後の話だったから聞いてて心底驚いた。

ノムが見た回の中で、加賀まりこの友人女性が自殺をして、その自殺する前の日に彼女は加賀まりこに手紙を渡したとのこと。

それを受け取った加賀まりこは、「自分は死ぬ前に誰か手紙を書いて渡せる相手がいるだろうか」と考え、そして考えたけれどもそんな人は誰もいなくてそれがとても寂しいことだというような話を石坂浩二にしたらしい。

それを聞いた石坂浩二も自分なら誰に書くかを考えて、考えた末思いついたのは亡くなった奥さんとのこと(この辺り、いかにも男性だなぁと思う。余談だけど、老人ホームに入る入居者たちはほぼほぼ、男性は奥さんの写真を飾り、女性は子どもの写真を飾るらしい。そして、ボケた時、女性は旦那のことは忘れても子どものことは覚えている傾向にある一方、男性は奥さんのことだけは最後まで覚えているらしい。)。

ノムもうろ覚えだけど…と言いながら、石坂浩二が発したセリフを聞かせてくれた。

石坂浩二は「手紙っていうのは、愛を伝えること。そして手紙を書けるというのは、愛を伝える相手がいるということ」というようなセリフを言ったらしい。





真面目に胸の辺りが震えそうになった。

その後も普通にノムとおしゃべりを続けたけれども、私は慌ててノートを開いてノムが言ったことをメモした。

ブログに続きで書こうと即座に決まった。

ノムと私は最近よくテレパシーの話をする。

冗談抜きで、ノムが今話そうと思っている言葉をその直前に「ノム、〇〇って次言うだろうなぁ」なんてものすごい速さででもぼんやりと浮かべていると、本当にその思った言葉がノムの口から飛び出す。

ノムも同じことを言うし、さらには「なんか今僕が喋っているんだけれど、言わされてるのとも違うけれども、なんかぶっしーの代わりに代弁してる感覚がある」なんて言う時もある。

とにかくそうしたことがちょくちょく起こるけれども、その時は本当にもしかしたら茶封筒の主と茶封筒と私とが繋がるように、ノムがその話を突然したのかもしれない。

さらに言うと、加賀まりこや石坂浩二が考えたように、手紙は誰でも彼でもに書けるものとは違う。

相手がきちんと生きていて、伝えたい想いがあって、そして書く意志と書くための体とを兼ね備えて初めて書ける。

手が不自由だったり、書く気がなかったり、はたまた書けても相手が死んでいたのなら書いても渡せない。

手紙って本当に幾つもの条件が綺麗に揃って、そこで初めて成立するもんなんだなぁと改めて思った。

そして、それがたとえ一方通行でも、そういう相手に出逢えるというだけで、本当に奇跡なんだと知る。

茶封筒は、加賀まりこと石坂浩二のそれぞれの役が発した言葉そのものなんだと、そしてそれはどうやったって届かないものでもそれでもやっぱり価値あるもの、私にとっては生涯価値あるものとして生き続けるんだと思った。





>>>6月最初の月曜日

上のことは、今日6月最初の月曜日に書いている。

この後、ガチな話を全力で書こうと思っている。

茶封筒や星読みからは少し離れるけれども、「生きてるってこういうことなんだ」と思い知る場所に今日は行ってきた。

知り合いの方が4月の終わりに亡くなって、その亡くなった方がいつもいた場所に今日初めて行ってきた。

知ってる人がいないというのはとても変な感じで、いないことの方が違和感だった。

その場所に立ってみて、生きてることの凄さを本当に静かにでも強烈に感じて帰ってきた。

だからこそ、茶封筒も本当にあれは生きてる特権であって、たった1つのボタンが掛け違えば、全てが変わるんだということもまざまざと感じた。

亡くなった方は自殺だった。

生きてるということは、当たり前みたいに感じてしまうし、普段なんとなくのリズムで生きていると「生きてる」ことの自覚さえなくなるけれども、本当はそうじゃない。

あれは今日も生きる選択をしないことには、いくら命が与えられていても全うすることのできない大きなことなんだと思い知る。

だから、手紙を書くことも渡すことも、それは自分も生きていないともちろんいけないし、相手も生きていないともちろんいけない。

その2つが重なって初めて織りなされる。

そういうことも思った。

頭の中は色んなことが去来して上手く言葉にできない。

だけど、ただ1つ。

本当にあの時私は決断できて良かった。

手紙を書くことも、何の面白味もない茶封筒で手渡せたとは言えない押し付けたであっても渡せたことも。

生きてるって、そういうことを現実に本当に叶えてくれる最強ツールなんだと知る。



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