書ききれたらアップするし、途中で終わったらアップしない。
自分でも何を書いていくのか想像がつかないから、とりあえず思いついたままに書こうと思う。
→何日かに分けて書ききれたからアップすることに。珍しく、他のことは何も書かず(普段は情報が新たに出るといくつか並行してブログの下書きを書くことが多い)、これだけをひたすら書いていた。この手の話になると、どうやら集中力も与えられるらしい。ちなみにものすごく長いものに仕上がってしまった。
※このブログは、書いてアップするする詐欺みたくなっている2つの温め記事とは全く別物のイケメン上司関連の内容。
(追記)本文の中で、盾とメモ帳の写真の話が出てくるけれど、今アップしようとしたら立て続けにエラーが出てなぜかアップできなかった(T_T)。ということで、NO写真でアップ。
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からの、半日ほど置いて試したらいけた٩(ˊᗜˋ*)و
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昨日(11/27)、ペンジュラムとサーフィンボードとでいつものおしゃべりをしたら、さそり座の太陽と出た。
毎朝、ペンジュラムとサーフィンボードを使って色んなことを聞いている。
そして聞きながら深いメッセージを引き出す練習をしている。
昨日出たものがさそり座の太陽で、さそり座の太陽と言ってもなんだかピンとこないなと思って、それでネットで調べた。(←自分の興味のあることしか調べずに占星術の学びを続けてきたがために、こういう基本のキみたいなのが相変わらずわからないままの占星術4年生)
その中で猛烈に響いた言葉があって、それでこの文章を書こうと思った。
「欲しい」よりも「失いたくない」。
さそり座というのはとりあえず置いといて、この言葉に私は激しく同意、共感した。
気付けばずっとその気持ちこそが私の中にある気持ちなんだと思う。
ここからは毎回のごとく超とっ散らかった、そして妄想と現実の境目がおかしくて、さらにはどうしたらそういう解釈になるんだ!?とツッコミどころ満載の話をするけれども、本当なんだから仕方ない。
「本当」というのは私にとっての「本当」で、それに賛同してくれる人など誰もいないだろうと思う。
でも、紛れもなく、私にとっての「本当」になる。
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イケメン上司に対して、イケメン上司が「欲しい」という感覚になったことはないなと思った。
(言い訳がましいけれど、言い方がストレートすぎるし、セクハラみたいだし、いや本当にセクシャルハラスメントだと言われたらすみませんとしか言えないけれど、わかりやすい言葉だからこれでこの中は通そうと思う。)
おしゃべりしたいとか、ごはんなり飲みなりに一緒に行ってみたいとか、そういう願望は無限大に抱いたし私は今でも叶えてもらえるならどうぞよろしくお願いしますと思っているけれども、そういうことじゃなくて、とにかく「欲しい」という感覚とは違うんだなと感じる。
それは相手が高嶺の花的な感じで自分が相手にされないという気持ちからそのようになってるのかもしれないけれど、望んだところで叶わないから最初から願望を持たないように自分を抑制しているのかもしれないけれど、とにかくそういう感覚は気付けばこれまでなかったなと思った。
でも「失いたくない」はものすごーーーくよくわかる。
こちらの方がさらに一層おかしな発想なのはわかるけれども、なぜならイケメン上司と私とは何でもないから、なのに失いたくないって……( ̄∀ ̄;)。
でもこんなにもピンポイントで「まさに!」な表現はない。
ここからは色んなことを混同しながら書くと大変なことになるから、あくまでも私側の気持ちとか意識にだけ焦点を当てて書いていきたい。
なぜなら普通は、関係があるところに対して「失いたくない」という言葉が使われるのであって、何もないところに「失いたくない」という言葉の使い方は明らかにおかしい。
「失う」というのは、基本的に所有していたり有している何かに対しての反対語なわけで、土地もないのに土地を失いたくないとは言わないし、社会的地位がないのに地位を失いたくないとは言わない、そして誰かとの人間関係も同様、何もないのに関係を失いたくないとは絶対に言わない。
だから今回も相当おかしなことを言っているのは百も承知で書いている。
まずは、今のイケメン上司と私とにスポットを当てる。
実際に、今の状態が「失いたくない」と感じた時に最初に脳内に浮上してきた。
今のこの状態、言葉で説明すると、一方的に私が好き放題にブログに書いて、そしてイケメン上司は自分の好きなタイミングでブログを見る、ブロガーと読者とでも言っておけばいいのか、全くそれも違うけれども、とにかくこの言葉で説明しても何もかもが可笑しな感じの状態、それを失いたくないと思った。
この状態も「欲しい」と思って手に入ったわけじゃなくて、まさかの宝くじ1等を当てるよりもさらに低い確率のこと=本名晒してブログに書いて発信することをやってイケメン上司にそれが届くこと、それが何だか知らないけれども、イケメン上司も見つけてくれて…という何がどう作用したのかわからないけれども、なぜか作用して起こってくれたもの。
人間の欲深さたるや半端なくて、こういう状況が手に入ると、今度は「真面目に連絡くれないかしら?」などと願い、叶いもしない願い事を一心に願い続けること4年。
だから、発信する人と読む人とで役割分担的な感じで今がある。
でもこれさえも願ってもみないミラクルだったわけで、こんなことが自分の現実に起こって手に入ることだとは想像もしていなかった。
さらに言うと、ブログを再開して丸4年経ったけれども、まさか4年もそのような状況を享受できるなんて超超超……×無限大に想定外だった。
この状況が普通ではなくて特別なのは今も基本的に自分の中で忘れてはないけれども、ある程度日常に溶け込んでくれたあたりから、「失いたくないな…」というのは常日頃ある。
こういう状態も「欲しい」よりも「失いたくない」が何よりもしっくりとくる。
そもそも欲しいと願うことさえ「宝くじで1億円が当たりますように」と願うことに似ていて、現実に本当に届いたらいいなとは思ってもこういう状態も欲しいと思ったのとは違う。
欲しいなんて何だかおこがましいというかお門違いみたいな感覚がある。
でも「失いたくない」は、理論理屈なんかなくて、心の奥底から湧き出てくる真の感情みたいな感じ。
呼吸を自分じゃ止められないのと一緒で、失いたくない気持ちも自分でどうこうできるものじゃない。
書いててわかった。
「欲しい」はある種、意図しているというか、そのように気持ちを仕向けるみたいな、意識が働いているみたいなのに対して、「失いたくない」は考えたり意図して生み出すのではなくて自然と勝手に湧き上がってくるものという感じ。
例えば、イケメン上司から連絡が欲しいなんて考えるとわかりやすいけれど、それもかなり自然な願いではあるけれども、失いたくないみたいな自分全体を揺るがすような自分じゃどうにもならない感覚とは違う。
前者はそうなったらいいなに対して、後者は自分でも止めることなんかできないくらい不可抗力的なものという感じ。
イケメン上司のことになると、その不可抗力的なものがなぜなのかたくさん出てくる。
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次に、イケメン上司には自ら誘うのか誘われるのかはわからないけれど、年末の某イベントに一緒に出かける相手がいることを初めて知った時を思い出した。
イケメン上司が転勤でいなくなって3ヶ月くらいした時だった。
この時の自分も、「イケメン上司が欲しい」じゃなくて、イケメン上司にまつわる全てのことを「失いたくない」という感じだった。
(言葉がおかしくてごめんなさい)
元々何とかなる相手ではないから、イケメン上司が他の人と出かけようと親密な感じであろうと不思議はないし、私なんかは世界で一番関係ない人と言っても言い過ぎじゃないくらいに何でもない人なわけで、私が反応してしまうのは仕方なくても反応したからと言ってどうなるわけでもないのは頭ではエンドレスそのように自分を戒めるみたいなことを言い聞かせていて、でも気持ちは全く追いつかずに七転八倒みたいになっていた。
「失いたくない」なんて本当に変だけれど、同じ時代・同じ星に生きているはずなのに、どうやっても交わらないわけで、別世界にそれぞれが知らないところで生きている、当たり前すぎるくらい当たり前なことを知りつつも、私の中では「失いたくない」相手なんだと今振り返ると「なんだかピッタリな言葉」と思ってしまう。
ちなみにその情報は、イケメン上司の個人の意志がよく表れていると思って、相当打ちのめされた。
私との時間は1分たりとも捻出が不可能で、別の誰かとの時間は本人が誘ったのか誘われたのかどちらにしても捻出可能なんだと知った。
少なくとも共に過ごしたいというイケメン上司の意志が確実にある。(そして私とは過ごしたくないという意志が明確に示されている。)
そういう行間を読むみたいなことまでして落ちるところまで落ちたけれど、こうして書くとすごく無理があるのがわかるけれど、やっぱりイケメン上司を失いたくないという気持ちだったのは間違いない。
イケメン上司と他の誰かとか、イケメン上司と私との無関係なところとか、そういう現実のこととは関係なしに、引き裂かれたくないみたいな気持ちが湧いて出てくる。
それはイケメン上司が欲しいとかいう話ではなくて、イケメン上司が私の人生の中で失われていくみたいな感覚がどうにも耐え難かった。
失いたくないって、こういう関係の無い相手に使う言葉では絶対にないけれど、この時も含めてやっぱり感覚は「失いたくない」なんだなと改めて感じた。
*
改めて言葉を眺めた時に、今度はイケメン上司がいた時の時間と空間、4年前の夏から秋にかけての時に焦点が当たった。
目の前にいた時の方がもっと顕著だったなと今さらながらに思う。
イケメン上司のことが気になって気になって仕方ないと自ら認識できるようになってからも、あまりにも自分が無茶な相手を気になっているという自覚は常々あったから、「イケメン上司が欲しい」なんてなったことは感覚として一度もなかったように思う。
自己否定の塊みたいではあったけれども、でも私もそこそこの人生経験と自分のツッコミどころ満載の生き方や社会的な立ち位置なんかもわかるからこそ、単純にイケメン上司みたいなタイプの人が私みたいな人を選ぶなんていうのは、どこをどう切り取っても想像できなかった。
万が一何かが間違って私が選ばれたとしても、なんだか私で申し訳ないみたいな気持ちにさえなる。
そんな風に日々無意識に感じていたからこそ、イケメン上司が欲しいなんていう大それたことは全くと言っていいほど思わなかった。
イケメン上司と知り合うためのもしくはそうしたことを意図したお茶なりご飯なり飲みなりの時間は欲しいと思ったけれども、本当にそれ以上を求めるのは自分の中で違和感というか、それは自分が傷つきたくないという気持ちだってかなりあったものの、なんか欲しいっていうのとは根本的に違っていた。
けれども、「失いたくない」は当時からもどういうわけかあったように感じる。
多分本当に最初に自分でもそれをわかるくらいに感じたのは、イケメン上司の異動を知らされた時だった。
知らされてから2日後に私は突如手紙を書き始めるわけだけど、その時の強烈な感覚は強いて言うなれば「失いたくない」が一番近い。
あの時は無我夢中すぎて何にもわからなかったけれども、よくよく考えてみたら私は人生で一度もそういう感覚になったことが他にない。
関係もないのに失いたくないなんて本当の本当におかしな話だけれど、失うことは何よりも怖かった。
手紙だって付き合えるかもしれないとかそんなことを想定して書いたのとは全く違う。
大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、もし私が戦場に行くなり行くことがわかった人を送る側の人間なりになったとするなら、「今生の別れ」をどうしても想定してしまうだろうけれど、それくらいの終わりを、絶対に今を逃したら永遠に交わらなくなることを恐怖のように感じて、そんなの嫌だとか絶対に起こって欲しくないとかいうそんな程度の話じゃなくて、大真面目に怖くて、それでもう二度と人生で会えなくなるかもしれない、希望は捨てられないけれど生きて会えることはないのかもしれない、それを強烈に感じて、そういう感じが手紙を書くことに繋がった。
これが今生最後かもしれない、イケメン上司に伝えられる最初で最後の機会かもしれない、まさに全身全霊、命を懸けたみたいな感じで書いていた。
自分の人生からイケメン上司がいなくなってしまうことが怖くて、あの時は本当に動物みたいな感覚の、理性とか常識とか全てぶっ飛んで、残るは本能みたいなところだけで、その感覚だけで動いていたと言うよりも突き動かされていた。
この間ある動画を見ていた時に、直感というのは危機回避能力でこれは絶対に避けたいとか危ないから自分をその危険から守るとか、そういうことのために使うものだということ、現代は動物に食べられる危険が常日頃から転がっている原始時代のような時と違って普段から身の危険が迫っているなんてないわけで、そういう意味では直感が働きにくい時代だというようなことが説明されていた。
あの時の突き動かされた感覚は、本当に命の危険みたいなものを自分は感じていたと言ってもいいと思う。
前にも後にもあんな感覚になったのは人生でその時一度きりだった。
例えば最近の私は天然石とルーン占いと呼ばれる文字を使った占いとを組み合わせるための準備に精を出していて、それこそ感覚だけでやってるようなところがある。
そして普段にはない集中力なんかも出せているけれども、そんなのは比べ物にならない。
過去のそうした対人系の記憶を辿っても、イケメン上司に手紙を書いた時のような感覚になった人など他に誰もいない。
訳の分からない感覚に驚いている暇はないくらいに、とにかく何事も挟ませないくらいの勢いと突き動かされ方だった。
自分の意志で書いていることには間違いなかったけれど、感覚としてはかなり異次元というか、死を覚悟する、人生の終わりを覚悟する、そのくらいの感覚に近かった。
「失いたくない」は、死や終わりが見えてるとするなら、そうした時に湧き出るだろう感覚に近い感じがする。
人生で本当に大切なもの、そうしたものに対して「失いたくない」となることが人間の本能だとするなら、本当にそんな感じだった。
*
書きながら気付いたことがあった。
何にも関係が無い今の状態こそが実は一番心の願いが叶っているのかもしれない。
「無い」ものに対して失う心配は基本的にしなくて済む。
例えば今だって、というかイケメン上司がこのブログを読んでくれているかもと気付いた時からずっと、これがずっとずっと続くわけじゃない、いつかは終わりが来るということを毎日自分に言い聞かせている。
何でそんなことをするかって、この関係とも呼べないちょっと変わった状態さえも私は心底失いたくなくて、これが無くなってしまうことがとてつもなく怖いから。
仮に無くなっても、命は無くならないし、何か生活に支障が出るような困り事とは違うけれども、そういう次元の話じゃなくて、もっと生きていく中で自分の根幹を揺るがすみたいな、不安や心配に正体がないのはわかっていても、自分の中で確実に大きな影響が出るのはわかる。
そんなこと起こらないから心配しなくてよろし!、という話ではあるけれども、もしイケメン上司と現実的な関係を持てたとするなら、その時は失うかもしれないって私はその恐怖と常に今よりももっと向き合うことになるんだろうか…なんて想像すると、今みたいな何も無いことがある意味では安全パイなのかもしれない…と思った。
もしイケメン上司と親しい関係になれたのなら、関係にあぐらをかけるくらいの余裕があればいいけれど、そうじゃなくていつかは失うかもとずっと心配してるんだろうかと想像すると、今はそうした心配から完全に解放されてるわけで、深層心理(潜在意識)が望んだこと、思っていることが現実に反映すると考えるなら、たしかにこの離れた状態こそが自分の望んだものかも…なんて薄らぼんやり思った。
さらに矛盾しているけれど、その不安や心配を抱えることになったとしても、イケメン上司と何かしらコミュニケーションが取れるようになりたいし、もう一度会えるものなら私は会いたいと思っている。
自分の心の中の矛盾にムムムとなりながらも、それが本音だから仕方ない。
これイケメン上司側の事情に当てはめて考えたら、私と連絡取るだの会うだのなんて、日常を脅かし色々と面倒しかないだろうから、そもそも起こらないなと思った。
日常の延長に私はいないし、私のような新しいリズムを仮に自分の生活の一部に投入するとなると、一気に日常が不穏なものになるだろう。
だからと結ぶのは変だけど、ブログを見るだけにとどめておくのは、そうした事情を思えばわからなくもないなと思った。
本当にどんな感覚や気持ちがイケメン上司の中にあるのかはわからないけれど、1つだけ私にもわかるのは、私と距離を置いておくことがイケメン上司にとって何よりも平穏無事でいられるということ。
武士俣さん=ディストロイヤー(destroyer)…破壊者
みたいな不名誉な図式がイケメン上司の中にあっても何ら不思議はない(涙)。
そんな図式さえもものともせずに、「ここは1つ、連絡でも取ってみようか」ーーーなんてなればいいのに。←もはや喜劇のような妄想( ̄∀ ̄;)。
*
今回こんなことを考えていた時に、スルリと出てきた感覚。
「自分を出す」というタイプの人間関係を、失礼を承知の上で言うと、イケメン上司は自ら遠ざけるというか、少なくとも今の人生の中で持ったことがないんじゃないかと思った。
(心の声:あー、言っちゃったよ…( ̄∀ ̄;))
彼女やら好きな人やら気心知れた友達やら、そういう人たちはもちろんいただろうけれど、相手側がイケメン上司に向かってくる距離感はさておきイケメン上司側から見た相手というのは、どうしても自分を出すなんていう気持ちになれないとか、どこか距離を置いてるとか、透明の壁をそっと置いておくとか、そんな感じなのかな…なんて思った。
もちろんそんなことは知らないし、大方は私の妄想だし、実は全然違うのかもしれないけれど、そんな気がしている。
さらに言うと、私に向けたような普段は絶対に出てこないだろう一面は、私も決して嬉しい感じにはならなかったけれども、あの冷たくて突き放すような感じは、もしかしたらイケメン上司の中でもそういうものを出そうと思ったのか出さずにはいられなかったのかはわからないけれども、そういう意味で私なんかはとてもレアな体験をしたのかもしれない。
少なくとも誰彼構わず出すわけではないのはわかるから、私なんかはうっかりトリガーになったのかもしれない。
私の距離感が多分おかしいのと(自覚がないけれども、人との境界線が良くも悪くも曖昧なところがあると指摘をされたことがある)、元々私自体がイケメン上司がということではなくてわりかし人間関係のゴミ箱的になりやすいのと(これは自分でもわかる。なぜかハブられやすいとか当たられやすいとか、他の人には見せないだろうダークな面を見せられるとか、そういうのはある)、私側の発してるものがそうさせたのかもわからないけれども、とにもかくにも、あまり自分を外に出さないイケメン上司がダークサイド的な面を私の前で出してきたのはある種とても特別なことなんじゃないかと改めて思った。
私の前だから出そうと思ってそうしたんじゃなくて自然とそのようになってしまった感じはするけれど、もしその場面にテレビのバラエティ番組みたいに字幕を付けるとするなら、「魂たちが素の自分をさらけ出そうと決めてきて、これがそのワンシーンです。」とかなってそう。
まぁ単純に私がやって来るのが嫌だったとか私そのものが受け付けられなかったとかいう理由だって十分に考えられるけれど。
誰にとっても自分を外に出すことは生きていく中でテーマとしてあると思うけれど、特にイケメン上司の場合はそれがさらに大きなテーマになっている気がする。
で、ここからはさらなる妄想でしかないけれど、そういう行為って、イケメン上司からして初めてのことだったのか過去にもそういうことを誰かの前でやったのかはわからないけれど、究極のところ、「この人の前ならダークサイドな自分を出しても大丈夫」と思って出していたとするなら、光栄なことだなと思う。
これは心理でもコーチングでも他の療法でも鉄板のやり方というか考え方だけど、心理的に負荷がかかるものを初めてする時というのは、いきなり難しいことをやるんじゃなくて本人がギリギリ安全と感じるところから始める。
私はある種長年の色んな人間関係の場面で色々体験満載みたいなところもあるから、少しのことで誰かをとてつもなく嫌ったり、相手が嫌なことをしてきたからと言ってバッサリと関係を切るとかいうことも基本はない(つもり)。
イケメン上司は私の何も知らなかったわけだし、こんなの私のヘンテコな理屈みたいではあるけれど、本能的な感覚で「出してもOK」のGOサインが出ていたのかもしれない。
実際に私は自分のメンタルはガタ落ちにはなったものの、イケメン上司のことを嫌いになったりイヤな人認定したりとかはしていない。
どんな風でも嫌いになんかなれなかったというのが本当のところでも、そういう視点からしても、自分を出す相手という点において私はとても適任というか、無意識の中で選ばれた相手だったのかもしれない。
練習台というか。
無意識の領域ではお互いに実際に起こったように起こることを了承していたのかもしれないな…なんて思った。
これ書きながら元々何について書いていたんだっけ?と最初の部分を読んで、「失いたくない」について書いていたことを即思い出した。(寝起きに寝ぼけた頭で書いている。)
イケメン上司側のことをあれこれ想像してもそれは想像の域を出ないから確信めいたことは何一つ言えないけれど、自分側はわかる。
強烈な風当たりが最後の瞬間とその前の仕事の伝言の時にあったわけだけど、今振り返るとどちらの時も私の中で「失いたくない」がやっぱり一番の強い部分だったなと思う。
どんなイケメン上司の姿を見せられて突きつけられても、それでも私は失うことの方が比べ物になんかできないくらいに怖かった。
相手がどんな風でも、私にとってはイケメン上司がイケメン上司である限り何でも良かった。
イケメン上司を失わずに済むなら、他のすべてのことは本当の本当に何でも良かった。
*
今回書きながら、いつもにはない冷静かつ客観的な自分が出てきた。
ちょうど仕事が2年が終わって3年目を迎えた。
2年というと、ドミニカ共和国にいたのが丸2年でそれと同じ長さの時間を今のところで過ごしたんだな〜なんて思った時に、2年もあれば実に色んなことが起こるしあれこれ変わってもおかしくはないということも実感した。
そんなこと思ったら、もしかしたらイケメン上司の隣りには誰かがいても普通におかしくないと突然何の根拠もなくそんなことを思った。
何で私のブログを見てくれているのかはわからないけれども、そのこととイケメン上司の心の向かう先とは決してイコールじゃない。
誰かが隣りにいたり、誰かから誘われたり誘ったり、はたまた誰かのことを想ったり想われたり、そんな日常が4年もあればあっても全くおかしくないし、何もないと考えることの方が難しいな…なんて思った。
もし本当にそのようなことになっていたとしよう。
そうしたら私の中はどんなかな…?なんてしばらくぼんやりと考えた。
受け入れ難いけれども、自分にとってイケメン上司と出逢ってからのことはなんだろう…って。
思いついた日から今これを文章に起こすまで数日のタイムラグがあるものの、思いついた時のことはとてもよく覚えている。
シャワーを浴びていて髪の毛のシャンプーを洗い流すために目をつむっていた。
「勲章」って出てきた。
イケメン上司がどこでどう生きていようと、私がどこでどう生きていようと、全てのことはその状況によって左右されるものじゃない。
私の人生で史上最高の人生のご褒美が、イケメン上司が私の人生に現れてくれたことだった。
そしてそこから私側の人生が加速度的にオカルトワールドへようこそな濃度がじゃんじゃん天井知らずに上がっていったけれど、そういうことも含めて、イケメン上司の存在なくしては今の私にはなれない。
甘い関係どころか何の関係にも発展できなかったけれども、それは単なる結果論の話で、プロセスについては無限大に広がっていった。
波乱気味でも必ずいつも小さな希望は忘れずにいられた。
心のお守りのようにしてイケメン上司の存在がいつもある。
それはいつの時もやさしく、尊く、温かみのあるもので、そういう人に出逢わせてもらえたことの幸運だけは何回も何回も飽きることなく自分の中で噛みしめている。
イケメン上司がいた人生の時間は、私にとっては勲章のような時間に感じた。
そんなことをシャワーを頭に浴びせながら回想していた。
勲章なんて人生でもらったことないな…なんて考えた時に、「そういえば!」と思い出して、クローゼットの段ボールをいくつも開けたけれどなくて、どこにしまったのか全く覚えてないけれどもあるとするなら…と思って屋根裏の物置部屋に上ったら出てきた。
ドミニカを去る前に職場の方々一同からいただいたもの。
それが冒頭の写真。
で、勲章的なものは何アピールかよくわからないけれど記念にアップして( ̄∀ ̄;)、もう1枚のもっと何をアピールしたいのかわからないものの方が私の中の一生の思い出の品だなと思って、そちらもパチリ。
盾が見つからなかった途中、イケメン上司と同じ職場にいた頃に私が使っていた仕事用のメモ帳を見つけた。
もちろん意図的に残している。
パラパラとめくったら、イケメン上司の名前があった。
何ページかイケメン上司はそのメモの中に出てくる。
もちろん仕事用のメモだけど、そして今読むと中身は覚えていなくても、そこにイケメン上司の呼び方「◯◯さん」と書いてメモしたこと、すなわちイケメン上司がいた空間に私も居合わせたこと、それは他の何にも変えられない足あとが残っているアイテムで、ドミニカでもらってきた盾よりももっともっと価値ある勲章的なものだなと感じた。
ちょうど手元の近くに、今度天然石の特徴を書いたカードを作成するために買ってきたカードがあったから、仕事の情報はそれで隠して写真撮影をした。
イケメン上司の名前のところには、石川県の某所にある洞窟の中で拾ってきた石で(拾って持ち帰って良いとなっているスポットがあった)、それで名前のところを隠したら大きさがピッタリだった。
どうでもいいことだけれど、この石、家に持ち帰ってきてからどんどん石の模様が浮かび上がって色も変化したという不思議な石。
今もなんなら少しずつ変化していて、見ていてけっこう面白い。
それはそうと、メモ帳の中ではイケメン上司が永遠に失われることはないから、そうやって残るものを1つでも持てて良かったなとつくづく思った。
イケメン上司側の私生活がどのようでも、そこに私が入る余地など全くなくても、手元の当時のメモ帳は一生ものだし、そこには歴史が残り続けてくれるから、どうにもならない現実を悲嘆するんじゃなくて、このようなものを持ち続けられる現実を私はこの先も大切にしたらいいんじゃないかと思った。
失われない記憶と失われない自分の足あと&イケメン上司の名前が残ったメモ帳。
そういうものも価値ある一品だと知る。
*
友人ノムと日曜日の昼下がりに久しぶりに電話をした。(11/28)
前回電話した時からかれこれ2週間くらい空いたように思う。
その中で、ノムが最近ある女の人から恋愛相談をされた時の話が出た。
ノムはその手の相談が苦手だし、その時もカードリーディングをしてカードから出てきたものをそのまま伝えたんだけどさ〜なんて言いながら、続けてこんな風に言った。
(ノムのカードからキャッチするメッセージは、とても深いもの尚且つ人生の指針みたいなのがやってくるのと、それを感知されてる人たちから度々依頼やら紹介やらされている。)
「その子には、その相手というのは、結婚するとか生活を共にするとか一緒にいてどうこうとかいう普通の関係じゃなくて、魂同士がお互いに必要とし合っているというか、だから日常やら生活やらがどうこうということではなく、表面上は別れて何も関係がなくなったとしても見えないところではずっとお互いに影響し合っている、そういう感じなんじゃないかとカードから出てきたメッセージとして伝えたんだよね」
続けてノムは言った。
「ぶっしーと似ているなと思ってさ」
「どういうこと?」
「もちろん状況とかは違うんだけど、その子は付き合って最近別れた相手でぶっしーと◯◯さん(イケメン上司)の状況とは違うけれども、そういうことじゃなくて、根本が似ているっていうかね。
ぶっしーがしていることって高度な愛だと思うんだよね。
だってさ、◯◯さんが(ブログを)見ているかもしれない、という状況だけで、何がどうなるとか何か見返りを求めてとかじゃなくて、ただただ純粋に自分の言葉で書き続けて発信し続けているでしょ?
相手に何を求めてるわけでもない、自分の言葉で書いて、そういうのって見えないところで相当何か大きく影響してるんじゃないかと思うんだけど。
『無償の愛』って言うのかな?
なんかそんな感じをぶっしーを見ていて感じるんだよね」
私はノムに、そう言ってもらえて嬉しいと返した。
そんな高尚なものでは全くないし、書いているのも超我欲全開だし、ここまでくるともはや何のために書いて何を目指してるのかさえわからない感じは常々あるけれども、そのように第三者の目に映ったとするなら光栄だし、たしかに言われてみれば、状況に左右されるようなものとは違うことだけはわかる。
相手の状況がどうであれ、私の中にあるものは変わらないんだろうと思う。
相手に全くされていなくても、ここに来るまでに積み重ねてきたものは何一つ変わらない。
そして例えばイケメン上司が結婚したとかそういうことをこの先に知る日が来たとしても、私の中ではこんなにも人生に影響を与えてくれた人も他にいないわけで、聞いたその日から気持ちがビシッと切り替わるとか何か過去のものが変わるとかいうこともない。
強いて言えば、こういうことを書くのを止めるくらいだと思う。
イケメン上司の私生活を邪魔したくないし、それこそ私はなんなんだ?って話なわけで、非常識でキチガイめいたことはしたくない。
イケメン上司の人生がこれからどんな局面を迎えようと、私の中に現れてくれたもの、残ったもの、影響を与えてくれたもの、勇気づけられたり安心感を与えてくれたもの、そういうことは何にも変わらない。
そういう境地にまでとりあえず至れたから、私は残りの人生もそこそこ自分は大丈夫なんじゃないかと思っている。
無い物ねだりをこれからだってするかもしれなくても、根本のところはある程度自分の中のすり合わせが上手くいってここまで来れた感は多少ある。
こういう関係性もこの世にはあるんだろうし、仮になくても私が体験したことはまさに体験したことまんまなわけで、無関係でもありえないくらいに色んなものを、生きていく上でとても大切なものたちを、イケメン上司が私の人生に現れてくれたことで体験・会得させてもらえた。
現実的な関係は私一人の意志でどうこうできるものじゃないからあきらめている。
それはそれ、だけど私が体験したことは関係性なんか関係無くしてしまうくらいに、それは壮大で深遠だったとしか言いようがない。
例えば棚からぼた餅級に超運良く誰かしら共に生きるパートナーと未来に巡り会えたとして、そういうことが起こってもイケメン上司のことは生涯に渡って忘れないだろうと思う。
イケメン上司側からして私が忘れ去られようが存在さえ消えてなくなろうが、私側から見たイケメン上司の姿は変わらない。
そしてそういうことを思う度に、イケメン上司というのはそういう立ち位置のパートを担ってくれた唯一無二の人なんだと思っている。
イケメン上司が私をどう思うかには全く左右されない、たとえ死ぬほど恨まれていたとしても私側の方は何も変わらない。
すべては私の気持ち1つ、それがあるから私はこの先も大丈夫と思える。
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