【これは今となるとたられば話になるけれども、もしイケメン上司が親切なことを私にしてくれなければ私は下手すると最後までイケメン上司のことに気付かなかった気もする。】
魂テーマや魂ガチ計画が人生にもたらされる時、本気の100%全力の1ミリのズレもないことが寸分違わず起こる。
その時もまさにそうで、それまで一度も実施されたことのない駐車場にある倉庫の片付けとやらが行われることになった。
そもそも暑いし、誰が誰さんかなんて全くに近いくらいわからなければ、そんな中でするグループ作業的なことに不安しかなかった。
しかも私も「外で作業する」くらいしか説明を前日に受けてなくて、それ何するの!?状態だった。
いざ始まってみると、何をするのが正解かはわからなくても、とりあえず人目に付かないところでせっせせっせと手を動かしていたら大丈夫そうと途中でわかって、それで私は倉庫の陰に隠れるようにして手を動かしていた。
そんな時に突然イケメン上司は私のところにやってきた。
必要なものを手渡して、それですぐにまたどこかに行った。
イケメン上司のことは、初日に外の張り紙で名前を見た時と中で初めての挨拶を交わした時から名前と顔を一発で覚えて、だから「彼は誰さんだろう?」なんていうことにはならなかったけれども、あまりに突然のことすぎて最初は全く状況を飲み込めずにいた。
今iPhoneの時計に付いてる秒針を見てきたけれど、時間は10秒どころか2、3秒だったんじゃないかと思う、イケメン上司が私のところに来てやりとりした総時間数は。
そのくらい超短い時間というか瞬間がなければ、私はイケメン上司の存在感に気付けなかった。
イケメン上司は他の人たちと比べてわりかし事務所内に滞在している時間も長かったけれども、かと言って余計なおしゃべりは基本誰ともしないし、イケメン上司の席から私の席は死角のようになっていてどちらかが事務所内をウロウロしないと姿は見えなくて、さらに私は慣れない仕事でとにかくかなり気をつけないと色々やらかす心配もあって、周りの人たちを見ている余裕なんか全くなかった。
私は本気で朝のおはようございますと帰る時のおつかれ様です、お先に失礼します、くらいしか言葉を発してなかったから、誰からしてもダンマリな置き物の人状態で、人との接点なんてのはイケメン上司含めて皆無に近かった。
そんな風だったから、イケメン上司の存在そのものは知っていても、だからなんだというようなこともなく、ましてや職場ゆえにそこに色恋的なものを求める気もなければ出会いも期待なんかなくて、ただただ仕事をしに行く場所という認識でしかなかった。
だからあの日、突然のように現れたイケメン上司は、今思うとあれは魂と魂とが引き合わせてくれた瞬間なんだろうと思う。
本当にその2、3秒のやりとりが全てを変えた。
初日こそわからなかったけれども、その頃にはイケメン上司が事務所内のトップだということはわかったし、さらにはそもそも所属する企業が違うから関係者たちはやりとりしても私はそこには一切関わらない仕事しか担当してなかったからイケメン上司と私とは関わりようがなかった。
私はそれで困ることもなかったし、元々余計なおしゃべりをしないイケメン上司とそもそも仕事中も何ひとつ喋らなくて良い状態だった私は、さらには席は互いに死角同士で(言うなればイケメン上司の席が縦長型のコンビニの右奥のレジの場所なら私はそこから直線で真逆の位置にある飲み物が陳列されてる大きな冷蔵庫前通路の中央付近の場所)、そんな風だったから私の中にはイケメン上司はその時までいるのかいないのかと言われると表層の意識では限りなくいないに近かった。
潜在意識ではイケメン上司の声を懸命に聞き取ろうとしていたり、実は存在そのものにものすごい安心感を覚えていたりしたけれども、そのことに気付くのはもう3ヶ月くらい先の話で、当初はとにかく同じ空間の中にいれど全く関わり合いのない人、という立ち位置だった。
事務所内には現場に出る人たちも何人かいて、その人たちも誰が誰かなんてわからなかったけれども、あまり事務所にいない人たちとわりかし事務所にいるイケメン上司との近寄り難さはどちらも五十歩百歩という感じだった。
それくらいにイケメン上司に対しての心の距離感があって、さらには関わる機会もないもんだからますます存在として遠い人で、私はその当時はまさかイケメン上司がその後ものすごく自分の人生に大きな影響を与えてくれる人だなんてその時はつゆほども思わなかった。
職場あるあるだけど、顔と名前は知っていても関わり合いになることはないから、いても空気みたいとかいることさえ普段意識しないみたいな人、そういう人って必ずいるけれども、イケメン上司は当初はそういう感じだった。
そして本当に仕事で絡むことが一切なかったから、どうやっても近付くこともなければ用事も皆無で、さらに人見知り強めのイケメン上司と日々何も喋らない状況ではもっと貝みたいに潜って人見知り発動の私とが話すなんて絶対にないわけで、そんな風に3週間ほど過ごしていたから、だからイケメン上司と私とは接点もなく単に同じ空間にいる人でしかなかった。
しかもそこでは私は個人の社内メールもなければ(今どき珍しいけれど本当に不要だった)、私を示す名札もなく、仕事の質問をする事務の女性たちとしかやりとりがなくて、それ以外はずっとダンマリ静かに黙々と業務をこなすだけだったから、そもそも私が「武士俣」という苗字であることを認識されてるのかも不明だった。(ちなみにどう最初に伝えられたのかは知らないけれども、イケメン上司は初日から私の苗字は知っていた、と後からその証拠となるLINEのやりとりをイケメン上司と個人的に仲良しのSさんから見せてもらった。ちなみにSさんは派遣の人が新しく来るとは知らされていたけれど、それが武士俣という名前の人だとは知らされてなかった模様。)
そんな風だったから、職場での居づらさや居心地の悪さは半端なかったし、そちらと慣れない事務仕事でテンパってて、周りを見る余裕なんて全くなかった。
そのくらいの状況下にあったから、イケメン上司はいてもどうやったって関われない人だったから、私の方もイケメン上司と何か起こるなんて想像さえできなかった。
そんな折に開催された外掃除だった。
それも20年近く?以上?お勤めされてる事務さんが外掃除なんか過去に一度もしたことがないと言っていて、そんな千載一遇な機会がその年の6月の終わりになぜかもたらされて、その時に初めてイケメン上司と小さなやりとりが生まれて、そこでようやく私はイケメン上司の存在を頭の方でもきちんと認識できるようになった。
今思うと、それはイケメン上司だったからそのような反応になったんだと思う。
そもそもは、本当に私のぬけさく的なことが発端となったわけだけど、それは何もイケメン上司ではなくて他の誰かが気付いてイケメン上司と同じことをしてくれた可能性だってゼロではなかったと思う。
今までそんなこと考えたこともなかったけれど、もし同じことを他の人が私にしてくれたとするなら私はどう反応したんだろう…、って今回初めて考えてみた。
単純に誰がしてくれても喜んだと思うしありがとうという気持ちも湧いたと思うけれど、イケメン上司に対して抱いたような感覚にはならなかったって断言できる。
行為そのものは、誰がしてもイケメン行為になる。
だけど、私が反応したのは行為の方というよりもイケメン上司の存在そのものだった。
だから例えばそれが別の行為であったとしても、そのしてくれる相手というのがイケメン上司なら私はその時と同じような感覚になったと思う。
私はイケメン上司にもイケメン上司がしてくれたことも自分の反応にも、とにかく全部に驚いた。
それまで早く終われー!早く終われー!と念じていた人が、そこが瞬時に切り替わって、いきなり急にイケメン上司が気になって気になって仕方なくなった。
その後、もう片方の女性グループと作業交代するまで私は同じように手を動かしながらも、イケメン上司の足元を探して見ていた。
顔はさすがにガン見なんかしてたらおかしいし、いくら帽子をかぶっていたと言えども頭の角度が作業する方向と違えばおかしいし、うっかり目なんか合ったらそれも困ると思って、それで当たり障りのない足元を探して見ていた。
よくよく思ったら、そのシューズを履いていたのを見たのはその時限りだった気がしなくもないけれど、イケメン上司がいなくなった翌年か翌々年、市内で一番大きな図書館の駐車場で車を出す時だったのか何か待っていた時だったのか、サイドミラー越しに小学生の男の子がそのシューズと同じ色のシューズを履いているのが見えて、それを見て当時の風景が一気によみがえって涙が出た時があった。
その色を見て、「あ!あの色だ!」ってすぐにわかったくらい、そうやって細胞に刻むように記憶したんだなと思う。
サイドミラーに映ったスニーカーは豆粒みたいな小ささだったにも関わらず、そんな小さなものが記憶を一気によみがえらせた。
イケメン上司のいた風景は普段とは別の回路で覚えているらしく、小さなキッカケだけで一気にそして鮮明に色んなものが浮かび上がる。
その外掃除の時がイケメン上司を本当に自分でもわかるくらいに意識した初めての時だった。
そして当時は全くわかっていなかったけれども、私にもわかるくらいに魂同士が再会した歓喜の時というのがその時だった。
*
イケメン上司がしたイケメン行為は、当初私の中で「イケメンだから女の人の扱いに慣れていて、そういうことを日常的にスマートにこなしてるんだろうなぁ…」と思った。
それが率直な私の感想だった。
私がそういうことをされるのに不慣れなのは何にも疑問がないけれども、イケメン上司がどうやらそんなに気の利く方ではないと仲良しのSさんが言っていたのを聞いて驚いた。(イケメン上司がいなくなった後、イケメン行動にはどんなものがあるかと2人で仕事中に話が盛り上がって、イケメン上司が実際にしてくれたことを話したら「そんなに気の利く方じゃないと思うんだけど…」とSさんは驚いてそう返してきた。たしかに重いものをさっと持ってくれたりはするけれど、そういう細かいことにまで気付くかな…?とかそんな風に言っていた。)
何せイケメンがイケメン行為をしてくれたわけで、それは別に私じゃなくてもいつの時も必要に応じてまたは場の空気を読んで他の女性たちにも自然にやっている、そう私は思った。
でも、これは仮定でしかないけれども、もしかしたらイケメン上司本人からしても、実はイレギュラーな行為だったのかもしれない。
いつかの人生の時に共に過ごしただろう魂と魂とが今回の人生でもお互いに再会してお互いの存在に気付くには、ある程度のイレギュラーな出来事とイレギュラーな普段とは違う行動が必要なのかもしれない。
私側のぬけさくぶりはイレギュラーも何も普段通りだったけれども…( ̄∀ ̄;)。
それもある意味シナリオとしては必要なわけで、なぜなら私が抜けずにきちんとできていたとするなら、その瞬間こそこの世に現象として表れなかったから、やっぱり私のぬけさくゆえの落ち度は超重要な事項になる。
で、そのぬけさく的なことによってもたらされたイケメンによるイケメン行為は、私にイケメン上司の存在を気付かせてくれた。
これまでみたいに、事務所にいる人とか社内のトップの人とかそういう感じじゃなくて、本当に「!!!!!」となるような圧倒的な存在感を放って、その瞬間からはもうどうやってもそれまでと同じにはならない、もう何にも気付いてなかった過去の状態には戻れない、ここから先はイケメン上司の存在を知らない自分として生きていくことは不可能になる、そんな風だった。
「ここから先はイケメン上司の存在を知らない自分として生きていくことは不可能になる」ってなんだか大袈裟な言い方に聞こえるかもしれないけれど、本当にそうだった。
そしてそれは一瞬の気の迷いとか何か勘違いの上に成り立っているんじゃ!?と自分のことを猛烈に疑ったり否定してみたりしていたけれど、その後長い時間をかけてそうではないことを理解していった。
ちなみに否定も混乱もして当然だと思う。
過去に縁のあった人、それもちょっとじゃなくてかなり深い繋がりのあった人、なんていうのは早々人生で出会えるものじゃない。
もちろん生きているうちにたくさんの人に出会うし、その中の片手で数えるくらいはとても強い縁の人だというのは感覚的にも想像がつくし、実際のスピリチュアル系の学びなんかでもそのように謳われてることが多い。
仮に片手で数えるくらいの人が過去世でも強い縁のあった人だとして、その中でも最高峰のトップオブ魂繋がりの人があるとするなら、イケメン上司が多分そうなんだろう…と思う。
今のところ、こんなにも影響力があって半端ない存在感を放っている人なんて他に出会ったことがない。
その存在感や影響力というのが人智を超えたレベルでとにかく普通じゃない。
そりゃその普通ではない感覚がやってきたら混乱も否定も普通にするよねー、と思う。
言葉にするとわかるけれど、イケメンがイケメン行為を施してくれたからと言って、いきなりその人の存在感が圧倒的な強さで自分の中に迫ってきたり、はたまた喋ったこともない相手が存在しているだけで自分の生きる喜びが引き出されるなんて、はっきり言って尋常じゃない。
いい年した大人がしれっと言うことじゃないし、頭の中大丈夫!?とつっこまれてもおかしくないレベルの話だと思う。
でも本当にそうだし、こういう状態に慣れたは慣れたけれども今でももし誰かに「それって変だよね」とか「頭大丈夫?」と言われたのなら、私はそのように言ってくる人が仮にいたとしてもそれを否定するつもりはさらさらないし、「だよねー!」と自分さえも賛同したくなるところは相変わらずだから、そのように捉えられても仕方ないと思っている。(そもそもあまりにもおかしいと自分でも認識しているから、このブログに書いてるようなことは口頭では絶対に言わない。ツッコミどころ満載すぎるし、そもそも40もだいぶ過ぎた大人がしかも独女がそんなこと言っていたら、世間からは痛々しい目で見られて終わるだろうと思う。それに耐えられるメンタルはさすがにないから、そういうことは人前で決して言わない。)
*
自分の心の機微を書きながら、イケメン上司側にはどんな風に印象として残っているのかな…と思った。
武士俣という苗字のおかげで苗字萌えみたいなことはあったようだけど、そういうことじゃなくて、私という人がどんな風に見えていたのか知りたい。
イケメン上司からしたら私は空気や風景と化していて、本当に私という人が何らかの印象を残した最初は私がごはんを誘った時かもしれない。
外掃除の日も、私側にはものすごいインパクトがあったけれど、イケメン上司からしたらたまたま見たら私に不足しているものに気付いたに過ぎないのかもしれない。
そもそも何でブログを読んでくれたのかそれさえも謎すぎるけれど、例えば私が外掃除の日準備万端で、ごはんなど誘わず、手紙も書かず、ブログも書かず…という実際と真逆のことになっていたのなら、私自体の存在がそもそも何もなく、事務で来ている派遣の人ね、くらいで終わって、ましてや4年も経った今は存在そのものさえ忘れ去られて終わったと断言してもいい。
例えば苗字も武士俣じゃなくて、佐藤鈴木みたいなどこにでもありそうなものなら、名前もインパクトなし、存在もインパクトなし…、もう今頃は全て無し!無し!無し!の一点張りだったこと間違いない。
特別な存在になりたいとかいうようなことは望んでなれるものではないけれども、何かしら私という人がイケメン上司の人生に足跡を残すみたいなのには大真面目に憧れた。
何がどう作用して今のような感じに至っているのかはわからないけれど、どんな風に私というのが映っていたのか、少しの間イケメン上司の目を借りてのぞいてみたい。
「あいつ抜けてるな…失笑」とか「色々やらかしてるよ」とか、ありのままの副音声付きで見たり心の声を聞いてみたいというのは今でも思っている。
そこに至るにはあまりにもハードルが高すぎるけれど、本当の本当に知りたい。
*
また気ままに同じことでも飽きずに書くだろうから、ここは1つピッチを上げてこのブログを書き終えてしまいたい。
ちなみに途切れ途切れで書いているから、どれも書き足りない感があって、またいつか似たようなことをくどくどと書く気がする。
その時はまたその時で、自分のブログなんだから誰にも遠慮せず書きたいように書けばいい、と開き直った。
相変わらずすごいなぁと思う小さな出来事に遭遇したのは、つい2日前のこと。
今週からまた怪しげな風が吹きまくっていて、連日残業をしている。
2日前、残業をした後、私は大きな商業施設に諸々の用事を足しに行った。
大きな商業施設はそこそこお客さんもいたし、店内に流れるBGMや館内放送とかで、そこいら中に音が溢れていた。
次の目的地に向かって歩いていたら、イケメン上司の下の名前が聞こえた。
「えっ!?」
足を止めて、その音のする方を見た。
とある商品の紹介VTRで(VTRって言葉を間違えてる気がする…)、それをしばらく見た。
その中でまた名前が、正しくは名前と同じ音が音声として流れた。
何という嬉しい偶然だろう…と思った。
しかも、その日からどんどん忙しくなって、気忙しく疲れも蓄積されていくことになるわけだけど、そんな折にまるでエールのようにその人の名前が耳に届くって凄すぎるシンクロだなと思う。
プレゼントみたいだった。
しばらくその紹介VTRを見ていてわかったけれど、全部で何分くらいのものかは想像がつかなかったものの、名前が出てくるのはその工程の時だけであとは全く名前は出てこない風だった。
音の情報は多かったし、流れていたものだってたくさんの情報がある中の名前のところは一瞬だったのに、そこだけは切り取られたかのようにきちんと耳に届くってすごいこと。
何かに守られてる、って私が思うのも私が大袈裟なんじゃなくて本気でそう思えてしまうくらいに、いつも色んなタイミングで色んなものが届く。
イケメン上司の意志とは全く関係なくても、私が元気がないとか大変な時は、どこからともなくイケメン上司にまつわる何かしらがふと舞い降りてくる。
それは4年前からずっと変わりなく続いている。
そしてそのパターンの傾向として、私がしんどい時や大変な時、一大事な時ほど、そんな風にしてイケメン上司の名前や何かイケメン上司を表すものが私の元に届く。
仕事はしばらく重たい内容が続いているけれども、その重たい内容が想像していた以上に続く初期の段階でそんな風にイケメン上司の名前を聞けたのはすごく良かった。
元気も出たし、根拠はそれになるけれども「大丈夫なんだろうなぁ」と自然といつものように思えたし、実際に何とか大丈夫になっている。
今書いてて思ったけれども、そういうことの恩恵を私はこの4年という月日の中で数え切れないくらいに受けていて、それが自分の生きることへの支えとなったり自分の人生を信頼する力になってくれてる。
イケメン上司側から見た私が何であっても反対に何でなくても、私側が享受しているものはいつも豊かで無限大で自分の生きる力に直結しているわけだから、それで十分だなと思った。
イケメン上司が何か具体的にしてくれたというのはその4年前の外掃除の時くらいでも、そういうことじゃなくて、ただただ存在してくれてることが私の中の一番大事な根幹の部分を絶対のものにする、本当の意味での生きる力を与えてくれる、他に類を見ないすごいことをしてくれてるわけで、それこそは他の誰も真似ができない。
ここで切り上げて、読み返さずにアップしてしまおう。
もう少しだけ書きたいこととずっと書き途中になっていることがあるから、それらを書き終えるまではしばらくこの内容が続きそうな予感がする。
会うことももうないのに、全く会ってもないのに、それでいてこんだけ情報てんこ盛りって、それも昨日今日だけじゃなくて4年もの間そうだなんてすごすぎる。
それだけで、イケメン上司の魂は今生の責務を果たしてるんじゃないかとさえ思う。
本人は認めなくても、自分の存在だけで誰かを元気づけたり勇気づけたりするって、それって最高にすごい偉業だと私は思っている。
社会の中で色々貢献することが素晴らしいことだという風潮に日本という国はなりがちだけれど、私は社会に貢献することよりも自分が知らないところで自分の存在そのものが誰かの生きる力や心の支えになることの方が何千倍と貢献度が高いと思っている。
イケメン上司はそんなの信じないかもだし受け付けないかもしれなくても、私の方からするとそれが真実になる。
私は4年前の夏の日も今も、いつの時も絶対的なものをイケメン上司の存在から受け取っている。
陳腐な言い方かもだけど、本気でイケメン上司には感謝しかない。
本気で心から感謝している。
ありがとう、といつも思う。
ありがとう、といつも思えるくらいの人に出逢えた私は本当に恵まれた人だと感じる。
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