2020年2月18日火曜日

サビアンシンボル(星)のつれづれ

2019年10月29日付けのブログ下書きよりーーー



2年前の吉祥寺にあるスープカレー屋さんでのやりとりを思い出す。

スープカレーを注文した後、自分の席のすぐ近くにあった本を手に取った。

よくある何月何日生まれの人の性格を366日分収録したものかと思った。

そう思って中を見ると、どうも様子が違った。

私が誕生日辞典と思った分厚い本が、実は誕生日辞典ではなく、何か予言めいたことを言う本だということに気付いた。

夢中で過去数年分を振り返ったら、本当にその通りのテーマが人生にやって来ていた。

只者(ただもの)ではないその本に私は見入って、携帯で写真を何枚か撮った。

そんなことしているうちに、女店主さんがスープカレーを運んできた。

その本面白いですよね、と店主さんも言った。

そうしたら店主さんは続けて、
「もし気に入ったなら、近くのコンビニでコピーしてきてもいいですよ。まぁ携帯で写真も撮られたようなのでそれでもいいんですが、本当に良かったらコピーを取りに行かれても大丈夫ですから」
と私に言った。

私は驚いた。

これまでだって、色んなお店で本を食い入るように見たり、適当な紙にメモしたりしたことはあったけれど、本のコピーを勧められたのは初めてだった。

ますます只者ではないその展開に私は驚きを隠せなかった。

食べ終わった後、自分の手荷物をお店に置いて、本当に私はすぐ近くのコンビニにコピーを取りに行った。

今もそのコピーした紙はある。

それが私が人生で初めてサビアンシンボルに出会った瞬間だった。




その2ヶ月後の2018年の節分の翌日、私はサビアンシンボルと再会することとなった。

その時私は人生で初めてのホロスコープ鑑定を受けた。

鑑定書の中にどこかで聞いたフレーズが出てきた。

色々記憶をたどる中、スープカレー屋で見つけた本のコピーが頭をさえぎった。

コピーを出して見てみると、全く同じような内容が鑑定書に書かれている。

それは「サビアンシンボル」というものらしい。

点と点が繋がった。

鑑定の後、今は絶版となった『未来事典』を注文した。

スープカレー屋さんで見た本と同じ本を私はそれから2週間ほどすると手にした。




2019年の9月の終わりのこと。

サビアンシンボルは使い勝手が良くて、星読みの時にも使うけれども、そこまで根詰めて調べることはなかった。

未来事典も時々見たり、占星術のクラスメイトだったノムとはよく話題に出して話したりはするけれど、いわばその程度のものだった。(多分十分マニアック( ̄∀ ̄;))

サビアンシンボルはとても使えるけれど、それに対して疑いの目など持ったこともなかった。

サビアンシンボルに初めて疑いの目を向けたのは、この間の9月の終わりの満月の時だった。

満月の星読みの記事をいくつか読んだ。

わりと多くの占星術家の人たちは、サビアンシンボルも使って星読みをする。

例えばこの間の「牡羊座の満月」なら、サビアンシンボルは「リングにあがる拳闘士」というもので、自分で勝負するみたいな意味にとることができる。

通常星読みは、人それぞれ読み方の好みやスタイルがあるにしても、満月や新月なら月だけではなく、その他の天体とも重ねて読み合わせる。

その牡羊座満月の日の星読みが「仲間と協力して夢を叶えよう」みたいなものが何人か続いて、私は単純に違和感を感じた。

その意味を導く要素がないわけではないけれど、やっぱり変。

そこで私は日本語のサビアンではなく、英語のサビアン原文を読んで確かめたくなった。

英語原文でもその解釈なら仕方ない、それを受け入れよう、でも違うなら私はその違いを自分の中で採用しよう、そう心に決めてサビアン調べを英語でした。

未だによくわかってないのだけれど、サビアンシンボル自体は、1925年に霊視(チャネリング)ができる女性(以後、職業名の「チャネラー」)と占星術家の男性とでやったのが最初だった。

12星座それぞれの記号と1〜30の数字を書いた全部で360枚のカードを無作為に手に取って、チャネラーの女性がそこから見える映像なのか言葉なのかを言って、占星術家の男性がそれをメモするというものだった。

そこから色んな流派ができたのか何なのか、英語だと5つはどうやらサビアンシンボル流派みたいなのがある。

何がなんだかよくわからずに調べていると、あるサイトに行き着いた。

それがレニーさんという人が解釈したサビアンシンボルとの出会いだった。

いくつか前のブログでも少し触れたけれど、レニーさんの解釈は魂に届くようなメッセージになっている。

私はレニーサビアンに一目惚れのような状態でハートを鷲掴みにされて、そしてそれ以降私はせっせせっせとサビアンシンボルとレニーさんの解釈とを英語で書かれたものを日本語に訳して、さらに自分が感じたものも一緒にメモしている。

360個もあるものに手を出したわけで、本当に全部やるのか定かではないけれど、とりあえず40個目に突入した(о´∀`о)。

さらに、ノムが教えてくれたある占星術の理論とレニーさんの解釈とを組み合わせることを思いついて、それにもやる気が勝手に出まくって張り切ってやっている。

そしてもれなく本物のヒラメキだったようで、翌日朝から鈍いくせにすごい強い痛みの頭痛で、ほぼ1日寝て過ごした。
(大事なことに気付いたり、レベルアップすると、どうもその後体調が一時的におかしくなる)

書き忘れたけれど、日本語の満月の日のサビアンの解釈はやっぱり原文とは大きくかけ離れていて、それが本筋ではないことがわかった。

さらに言うと、日本語に訳された時に、色々落ちていたり抜けていたり誤訳されてたりして、それが今の日本語版で出されているサビアンシンボルだということもわかって、ますます私は原文に触れることの大切さを感じた。

ニュアンスや訳が違うまま、そしてそこから個人が個人の感じたものを発信するとなると、もはや本当のメッセージは届かなくなる。

私は原文とそして原文をいくつも読んでそこから感じたことをまとめてくれたレニーさんの文章を訳したいと思った。

本当にエネルギーが通っているものなら、絶対にわかる。

その感覚を大事にしたい、そう思って訳している。




色々前置きが長くなったけれど、ここから先が本当に今回書きたいこと。

今、英語に触れて英語で翻訳している時、私はその行為も好きだし、それをしている自分の自己肯定感も半端なく高いし、人生で一番前向きな気持ちで英語と付き合えているように感じている。

「自己肯定感高い」なんて、初めて言ったかも(笑)。

私は大学を卒業してから今のサビアンシンボルの和訳をするまで、ずっとずっと英語コンプレックスがあった。

この私の英語コンプレックスは、「英語力があるのに使っていないことへの罪悪感」だった。

もったいない、と言われ続けた私の英語力。

これは今でも言われる。

たしかに、アメリカに4年もいて、大学も出て、TOEIC 925点(世界共通英語テストで、その時は世界中のその時の全受験者のトップ3%に入る成績だった)なんていう高得点を叩き出した人が、ただの一度も英語を使わない。

でも、私は私でやらない理由があった。

そもそも、私は英語には興味がない。

これは今もだけど、基本的に英語に興味がない。

そして、たしかにすごい英語力は身に付けたけれど、元々赤点ギリギリみたいな英語力の人がそんなところまで上がったわけで、そんなの一朝一夕に完成したものではなく、ものすごい努力が裏側にはある。

必要だったからしたけれど、私は全く英語のことが好きにはならなかった。

今でも思うのは、英語(外国語)を楽しく学べる人というのは、それだけで1つの才能だと私は本気で思っている。

私は自分の英語力を上げた実践だけはあるから、上げ方は知っている。

だけど、それは全く楽しくないプロセスで、それを楽しめる人は神とか天とかから楽しむ才が与えられてるとしか思えない。

そんなの個人の感じ方次第という人もいると思う。

だけど、私は基本的に英語を学ぶプロセスは楽しいと思えない人だった。

isとdoesの違いがわからないところからのスタートの人だったから、色んなことは常に難航しまくりだった。

今ここに至るまで、私が2語ないし3語ずつに分けて英語を訳していたなんて、それぐらいやらなきゃ本当に全く訳せなかったなんて思いもしないと思う。

そうしたことをしてきたから、決して私は英語を学ぶことが楽しいからやったのではなく、必要があってそうしていただけだった。

そもそも英語力を身につけたくてアメリカに行ったわけではなかったから、私は社会人になってからも英語を使った仕事をするなんて考えたこともなかった。

最終的に児童養護施設の仕事が決まったけれど、受ける途中の頃に1件英語の事務の仕事を受けたことがあった。

イマイチよくわかってないまま行くと、そこは服飾の会社で、それとは別に社長が趣味で錦鯉を飼っていて、それの売買を英語でするための英語事務員の募集だということがわかった。

今でも覚えているけれど、なんだかすごく嫌だった。

当時は何が嫌なのかわからなかったけれど、多分その場の空気が馴染んでいなかったんだと思う。

そして、どんなに想像しても英語を使って仕事をする自分や、錦鯉に関わる自分は想像できなかった。

最終的に縁のあった児童養護施設に決まったけれど(これもものすごい不思議な流れに運ばれてそうなった)、それ以降今に至るまで仕事で英語を使ったのは、塾勤めの時に子どもたちに少し教えたぐらい。

あとは友達の娘の英語専属の家庭教師と東大受験の子の英作文を見るだけだった。

「東大受験の子の英作文」って言うだけで、なんだか自分がものすごくできる人みたいな気分になれるから、そして頭が良くて賢いみたいなスーパー勘違いだけど、こんな時でもないと勘違いできないから、思わず言っちゃうv( ̄∀ ̄)v。

ぶっちゃけると、東大作文の中には、英語でことわざが書かれていて、それの意味の説明とそれについて自分の経験や意見を述べよというのがあって(過去問)、
・まずことわざを訳せず
・訳せたところで日本語の意味がわからず
・日本語の意味や用例を調べて
・それから添削
という、地頭の色々足りないことで困ったことは多々あった。

よほど英語だけ見ている方が色々わかって、東大レベルの日本語は、日本語でさえも東大レベルという恐ろしい状態だった。





2020年1月9日

上に書いた下書きを見つけた。

それを書いていた当時、まさかまさかのその1ヶ月後くらいに自分が英語関連の仕事をするなんて、思いもしなかった。

占星術関連の英語はストップしているけれども、ある程度仕事の生活リズムが掴めるようになったら再開したいと思っている。





2020年2月13日

占星術の英語はずっとストップしたままになっている。

今はひたすら工業用語の英語を学んで、さらには英語を使って他言語を読み解く作業までしている( ̄∀ ̄;)。

もれなく他言語も問題勃発で、触るもの触るもの大型地雷が毎回もれなく一緒に付いてくる感じが止まらない∑(ΦдΦlll。

それこそ占星術というかサビアンシンボルに絡めて言えば、36歳から45歳くらいまでの私の指針は
「全身で飛び込む」

言葉の通り、全身全霊で飛び込むことを私の魂はどうやら設定している。

だから最近の状況なんかはまさに「全身全霊で飛び込む」ことの最たる例だと思う。

そんなの目指してるつもりはなくても、そうした状況が毎回プレゼントされている(苦笑)。

もはや魂の修行にしか見えない今日この頃。

だけど、1つだけ言えることは、占星術を知っておいて良かったこと。

占星術を通して私は自分の人生の流れやパターン、特徴をかなりよく知ることができた。

今みたいに触るもの触るもの、超地雷級の問題が隠れていることも、星たちの情報を紐解くとなるほど納得だし、自分のそもそもの人生の設定からもそうした事が起こりやすいのは知っていて良かった。

知らなけりゃ、何で毎回毎回私の人生はこんな風なの!?と余計な悩みを抱えたかもしれない。

いずれにしても、また落ち着いたらサビアンシンボル英語版の読み解きを進めたいと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿