「この問題はすでに神々の審議会にかけられ、光の存在が出席する会議に提起されました。」
(『光の書』より)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「誰かのノード回帰の時、自分もそこにちょうど居合わせて、そして自分も影響を受けることはありますか?」
占星術講座が終わった後、毎回近くのカフェに移動して「カフェタイム」なるものがある。
それは自由参加だけど、その時でないと基本的に質問タイムがない。
講座中はとても忙しくて、先生がひたすら解説や説明をしてくれているから、質問の時間がない。
だからその後のカフェタイムで、講座の内容やその他の占星術全般に関する質問をして、先生から色々教えてもらう。
ここ最近のホロスコープ調べで、私は人様のホロスコープを無断で調べて、どうしても気になったことが冒頭の質問だった。
太陽の通り道である黄道と月の通り道である白道の交点をドラゴンヘッド・ドラゴンテイルと呼んで、ヘッドの方は一般的に今世の課題と呼ばれている。
(※私個人の感覚で人によってケースがまちまちと知って、ヘッドとテイルに関しては一般論に当てはめず、聞かれた時には両方のテーマを説明するようにしている。)
ドラゴンヘッドの方は18〜19年に一度、生まれた時のドラゴンヘッドの位置に戻ってくる。
その時を「ノード回帰」と呼ぶ。
ノード回帰の時は、あの世とこの世の交点とも呼ばれるもので、人生におけるターニングポイント的な色んな出来事や出会いが運ばれてきやすい。
私のノード回帰はその1年前にすでに終わっていて、今回私ではない人のホロスコープを出して確認してみて、ちょうど私がその人に出逢えた時というのがその人のノード回帰の時期だった。
当人はそれをどんな風に感じていたのか、もしくは何も感じなかったのか、そこはわからない。
だけど、私側の影響は無尽蔵で、これは何なのだろう?と今でも学術的な答えは得られず、ただただ私個人の体験談だけが答えになっている。
たしかにその頃、私は私で占星術の中で一番恐れられている覇者冥王星がもたらす中年の危機真っ只中で、「破壊と再生」とか「大変容」とかいう言葉にピッタリな体験を山ほどしていた。
ただ、ノード回帰と冥王星による中年の危機とは意味合いがだいぶ違う。
ノード回帰側は、普段はずっと鍵がかかっている扉が、ノード回帰により開いて、開いた場所に魂的なご縁やそれに繋がる出来事や個人的変化を迎えるものが入り込んでくるっていう感じ。
冥王星側の中年の危機は、これまでの生き方ではもう先に進めませんよ、生き方を見直しなさい!!という個人が個人の生き方を見直さざるを得ないような状況や心の葛藤はあるけれど、それがすなわち魂的なご縁を運んでくるかというと、それは違うと思う。
そういうこともあるかもしれないけれど、そういう意味よりも個人が自分に向き合わざるを得なくなるみたいな意味の方が強い。
だから私は、その人だけじゃなく、私側にも影響がすごく、ものすごーく出たのは、その人のノード回帰から私も影響を受けたのかと思った。
それで先生に聞いてみた。
先生の答えはこうだった。
「Aさんのノード回帰の時に、武士俣さん側にも影響が出るか否かってことですよね?
基本的にノード回帰の時は、例えばAさんならAさん側には何かしら大きな変化が人生に流れ込んできやすいです。もちろん魂的なご縁とかも出てきやすいです。
そうした時にそのタイミングで武士俣さんがAさんの人生に居合わせることがあっても、武士俣さんの方に影響が出ることは基本ありません。その時にちょうどAさんの人生にいるということはあっても、言うなれば『そこにいる・巻き込まれている中の1人』というだけで、武士俣さん側が大きく影響を受けるということはないですね」
それを聞いて、真っ先に「神々の審議会」云々のフレーズが頭をよぎった。
その人にまつわることは、ホロスコープでさえも説明できない何かなんだというのはわかった。
冒頭の言葉(=「神々の審議会」云々の言葉)が入っている本『光の書』は、ノム(占星術講座のクラスメイトでeat LOVE邸の住人)がある時に教えてくれたものだった。
今1つ1つ紐解いてきてわかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ノムたちが自分たちの日常を料理・写真・文で表したものを、ネットで『eat LOVE』というタイトルでアップする(開始時期:2018年の秋)
↓
ノムが『eat LOVE』のサイトを私に教えてくれる(2019/6/18)
↓
ノムに『eat LOVE』に出てくる「オラクルブック」を見たいとリクエストする(6/19)
↓
ノムから「オラクルブック」のタイトルが『光の書』という名前だと教えてもらう(6/19)
↓↓↓
教えてもらったすぐ後に、「うちに泊まりに来ない?」と誘ってもらう(6/19)
↓
『光の書』をノムとミッチーのアトリエで見せてもらって、そしてその時に冒頭のメッセージを本からもらってくる(6/25)
(↓
ノード回帰について、先生に質問する(6/26))
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これだけ色んなことが重ならないと辿り着けない本だった。
アトリエでノムがノムの次回個展の絵を見せてくれた後、「そうそう、ぶっしーが見たいって言ってた本、これだよ」と言って見せてくれた。
見せてもらう前から『光の書』は、私がいた場所からちょうど見えるところにあったけれども、話を遮るのもおかしな話だったし、ノムの絵を見ることに本当に楽し忙しかったから、本どころではなかった。
最初パラパラとめくっていたけれど、ノムが赤いかわいい缶を持ってきて、これでどのページを見るのか決めてから見るんだよと教えてくれて、その手順の通りにやった。
ノムに「まずは聞きたいことを思い浮かべてね」と言われて、それを思い浮かべた。
私は一言
「〇〇さんとのことについてヒントをください」
とだけ質問した。
今後どうなるだとか、そもそもこの掴みどころのない関係が何なのかなんて、恐ろしすぎて聞けなかった。
どんな答えを聞いても消化できるとはとても思えなかったから、当たり障りのない「ヒントをください」という、超漠然とした質問にした。
ノムは赤い缶から、茶碗やガラスのカケラを出してきて、そこには色んな模様が描かれていた。
ノムいわく、本に付いていたカードを使ってもいいんだけれど、せっかくだから自分でそれを作って、そのやつで自分は引いていると言っていた。
そのカケラたちも素敵すぎて、私は胸ズキュンだった。
1つ1つおそらく危なくないように手で磨いただろうことと、シンボルも本の見本を見ながら写しただろうことと、色んなプロセスが詰まったこの世でただ1つのその占いセットに私はときめいた。
それを目を閉じながら2つ引いて、そして出てきた順にどのページを見るのかが決まるようだった。
言われた通り2つ引いて、ノムに見てもらった。
「2だ!2なんて初めてかも。最初の方だよ」とかそんな説明を受けながら見せてもらった。
その見せてもらったのが、写真にある本の1ページ。
「この問題はすでに神々の審議会にかけられ、光の存在が出席する会議に提起されました。」…この部分を読んで突然ストンと腑に落ちた。
全体を読むと、「神々」だの「光の存在」だの「高次元」だの「天」だの「創造主」だのと、スピリチュアル用語満載な上、全体的に抽象度高めな内容になっているけれど、それゆえに私もきっちりと理解できたわけではないけれど、大切な部分は伝わってきた。
後半にある
「事態を無理に推し進めようとしてはいけません。(中略)先に進むのは、すべてを理解してからです。それまでは動いてはいけません。」
の部分を読んで、あぁ…( ̄O ̄;)となった。
(『光の書』より引用)
私からして、山で行方不明になったおじいちゃんをペンジュラムで探して欲しいとか、他人の抱えている問題をまるですぐそばで見ていたとしか思えないぐらいにそこでの情報を話も聞いてないのに詳細にキャッチしてしまうとか、そうしたオカルトワールドよりも、その人の存在やその人が人生に現れてから今日に至るまでの流れの方が不可解過ぎて理解にものすごく苦しむ。
私からして、この世の中、自分の人生の中で、一番理解できないものが、その人にまつわるあれこれで、今日も変わらずに「なんだろうこれ?」と思っている。
死者の霊魂が自分の部屋にいるとかよりも、私からするともっともっと不可解なのがその人にまつわる色んなこと。
ホロスコープを色んな角度から、なんならペンジュラムのホロスコープまで出して見比べて、異常な量の探究心?執着?で分析しまくってもまだ足りず。
今度は幻の本、『光の書』からヒントを得ようと東京都内のとある場所へと出かけて、そこでわざわざヒントをもらってくるとか。
『光の書』は絶版になっていて、中古本がありえない金額に釣り上がっていることを今回知った。
そんな本に巡り合えて、そしてお手製のサイコロ的なグッズを使って必要なメッセージのページがどこかを探し当て、そうまでして手にしたメッセージだった。
私が真っ先に思ったのはこうだった。
「〇〇さんのことは、神々の審議会にかけられるレベルのことなんだなぁ」って。
それにはものすごく納得した。
私が知っている自分の価値観、世の中にある価値観、他の人たちからシェアしてもらって知り得た価値観、それら全部を総動員しても、私には何をどうやったって理解できないのが、その人の存在でありその人にまつわる色んなエピソードだったりする。
だから、どんなに知識や分析から得た情報やその人を前にしていた時に見ていた風景やいなくなってからの数々のぶっ飛びエピソードでは到底説明できない諸々が「神々の審議会」の一言で説明できる風に感じた。
そんなものが本当にあるのかどうかなんて、三次元に住む私たちにはわからない。
だけど、私には一番しっくりくるのが「神々の審議会」だったし、もうそのレベルなら、自分がどんなにジタバタしたり、このブログでああでもないこうでもないと叫んだり、墓参りや各種願掛けにいそしんだりしても、そりゃ動かないよね、と思った。
人間的な視点で言えば、その人が私に連絡一本入れれば事の展開は新たな方向に動くだろうし、反対に連絡ないわけだから嫌がられてるの一言で片付けたらいい話だと思う。
でもそうではないものを私はずっと見てきたわけで、この説明のつかない諸々が何かなんてわからなければ、そこにinしている自分も相手も何なのかと思っている。
神々の審議会レベルなら、色んなことが人間的な言語で説明できるわけないと思った。
そして人間が知るレベルからは計り知れないことが見えないところでは動いているんだろうなぁとも思った。
ホロスコープからも読み解けなかったもの。
先生から、他者のノード回帰の時に私側には影響が及ばないと言われたこと、そこと神々の審議会のフレーズが重なった。
少なくとも、私側は星の影響を元々ものすごく受けやすい。
それは過去の冥王星の動きを分析すると出てくる。
例えば、過去の冥王星の主だった転換期の配置は、
・学校での強烈なイジメに遭う時
→人間関係のテーマに冥王星がin
・社会人になって児童養護施設の勤務を開始した時
→深い人間関係又は共同体の中で大切な何かを継承するテーマに対して冥王星がin
・病気の人を手かざしで治すヒーラーの先生に初めて会った時(=私の人生の道の最初の突破口みたいなもの)
→スピリチュアルな世界に対して学びを深めるステージに冥王星がin
ノロノロとしか動かない公転周期249年の冥王星が私のホロスコープ上の主要な切り替わりの部分を通る時には、上に書いたような劇的なことが起こる。
冥王星が特定のテーマに関わると、「破壊と再生」が起こる。
先生いわく、冥王星の影響というのは、草一本残さない、そのぐらい徹底して破壊して地ならしをするそう。
だから、言われてみたらたしかに、「破壊」と呼べるような出来事がわんさかやってくる。
どの時にも共通して言えるのは、自己の破壊( ̄ཀ ̄;;)。
一度は破壊されるけれど、古い価値観が叩き壊されて、そしてその後はより生きやすくなる価値観(←再生部分)がもたらされる。
ただ、冥王星、容赦ないよという感じ( ̄ཀ ̄;;)。
だから、その冥王星の影響が、他の人は知らないけれど、私の場合は過去子ども時代にさかのぼってもわかりやすく出ているから、元々影響が出る体質というか人生の性質みたいなのがあると思う。
他にも私は元々他の天体たちからも影響を受けやすい配置を持っていて、それは過去にたくさん調べたから自分でもわかる。
だけど、その人とのことに関しては、その色々影響を受けやすい私よりもむしろその人のホロスコープの方が強く関係していて、私の方は若干「ついで感」が否めない。
だから、自分だけで説明しようとすると、ちょっと無理な部分もある。
だからこそ、先生がノード回帰の影響を説明してくれた時、本来なら私には影響がないのがセオリー通りで、私が体験したようなことはある意味イレギュラーだと思う。
だけど、それらが「神々の審議会」なるものが裏で関与しているとするなら、あぁなるほど…と思う。
一番証明の仕様がない説明になってはしまうけれども、私の中で一番しっくりくる説明になる。
私からしたら、そういう次元の話なんだと思う。
いい年した大人たちがこの訳の分からないことにいつまでも片足を突っ込んでいて抜けようとしないこの状況、おかしすぎるけれども、私もまともだとはただの一度も思ったことがないけれども、これなら納得できる。
ほんのりとでも「そうなら仕方ないか」と思える。
私が「神々の審議会」なるものに抱いたイメージは、魂のテーマの中でも最も重要な内容を審議する場所なんだと思う。
例えば、今日の夜何を食べるとか、1ヶ月後に友達と会うならどの店にするとか、そんなことではなくて、誰と誰をどういうタイミングで引き合わせたり引き離したり、又はどちらにしてもどういう学びを目的としてその状態をもたらすのか、そんなような内容が決定されるみたいなイメージがある。
なぜなら、近くにいたら近くにいたで体験することがあって、離れたら離れたで体験することがまた別にある。
そして、見た目には何の絡みもない2人が、相手側はさておき私側は尋常じゃない影響が出まくっていて、これは何ですか??状態になっている。
想定外に期間がズルズルと長引いていて、この終わりの見えない、消えそうにもない、着地点も向かう方向性もさっぱりわからないみたいな状況にこれまた長く居座っている。
神のみぞ知る…、そんなレベルで、私には手も足も出ない。
私の中では毎回絶句するほどのピンポイント率で空の星模様が私の現実に色々影響するのを見て、私の中でホロスコープはすごいツールだと感じている。
そのホロスコープでさえも導き出せなかったようなものすごい勢力を持った影響がその人を通じて出まくっていて、それは何だろう…?となっていた。
だからこそ、「神々の審議会」はピッタリなフレーズだなと思った。
そして、「無理矢理推し進めようとしてはいけない」とかいうのが、まさに!という感じ。
正しくは、推し進めたくても、そんな風に思い通りになんか何一つ進まないのがこの全てにおいて共通していること。
これ何ヶ月か前からうっすらと気付いていたけれども。
神々の審議会の決定なのか( ̄∀ ̄;)、時間の経過と共にその人とわかるサインのようなものがまどろっこしいものではなく、もっとわかりやすいサインで来るようになった。
時間が経過するとわかるけれど、例えば一時期ある広告をやたらと目にしていた時期が続いた。
その人の持ち物がそっくりそのまま広告になっていたけれども、それは気のせいだと思っていた。
気のせいにしてはほぼ毎日のように見ていたけれども、それも全然違うシチュエーションで見ていたけれども、「気のせい」と思っていないと自分の不安がやたらと引き出されてしまうから、毎回「たまたまだよ、たまたま」と自分に暗示をかけるように言い聞かせていた。(←こんなこと自分で言うのもどうかと思うけれども、本気でそういう暗示とかを全力でやっていた自分はかわいらしいと思うv( ̄∀ ̄)v)。
だけど、ブログを通じての繋がりがわかり出したあたりから、そういうよくわからないサインは消えた。
ブログに関しても、私としてはそれがこっそりでもいいから読んでもらえてるとわかるのは単純に嬉しい。
特に私側が意図して書いたものがピンポイントで読まれるのは、きちんと伝わったと知れて、私にしかわからない安心感みたいな、心の中の深いところに何か小さな小さな絆みたいなのが注ぎ込まれるみたいで、私的には気に入っていたりする。
(ちなみにツボがいまいちわからない記事が何で繰り返し読まれるのかはさっぱりわからない( ̄∀ ̄)。そんなに面白いのかと思って読んでみたけれども、私にはわからなかった。)
今日、この間初めて見た石坂浩二声優としての主演劇場版映画『歎異抄をひらく』のCMを見た。
最初に見た時に、その時は心身共々疲れ切っていてテンションがおかしかったところにたまたま一瞬だけど見て、それ見て心の落ち着きを取り戻すキッカケになったCMだった。
今回が2回目のCMで、前回は見逃した内容を今回は落ち着いて見ていた時だったから、しっかりと見れた。
【誕生と再生の物語】がテーマらしい。
【誕生と再生の物語】という部分が私にはしっくりときた。
そのCMも私にだけわかるサインが含まれていた。
だけど初めて見た時は、細かいところまではわからなくてそのままになっていたけれど、時を経て再度見たら、もっと深いメッセージが奥にはあった。
普通ならスルーするCMも、その人がひと絡みするときちんとメッセージが届くんだから不思議で仕方ない。(←メッセージはそれこそ本人じゃなくて、「神々の審議会」からだと思う( ̄∀ ̄;))
今回東京に向かった日の深夜、バス停に着いて駐車場に止めた車から降り立つと、半月が見えた。
天気悪かったのに、その時だけくっきりはっきりと半月が見えて、そして駐車場からバス停までの1〜2分の道の途中でまた月は雲に隠れた。
半月を見て、真っ先にその人と私の関係みたいだと思った。
人間の目で見て、半月は月が半分しか見えない。
それは月が欠けたように見えて、まさか月自体がいつでもまん丸だなんて、私は学校で月について学ぶまで知らなかった。
それまでの私は、月の方が勝手に姿かたちを変えるのかと思っていた。
月は、見えている明るい部分も見えていない暗い部分も両方常に持ち合わせている。
どちらか片方なんてことはない。
両方があってひとつ。
その人と繋がっていると思うのは難しいことだった。
今だって書いてて「本当に!?」と相変わらず疑いの目が晴れない。
だけど、見えないところで多分ものすごく繋がっていて、そして今は半月で見えない側の方しか見えてないから疑いまくりだけど、本当は明るい方、すなわち見える形で繋がることもあるのかもしれない…なんて思った。
それは「神々の審議会」という言葉に出会う前のことで、でも半月を見てものすごくそのように強く強く思った。
それは単なる私の願望と言われたらそれまでだけど、この普通ではない繋がり方は何の意味もなくて繋がったというよりも、何かあるから繋がったと私は思っている。
そして、そう思う1番の理由は、この会えもしないやりとりもできない、何一つ目に見える繋がりがない何百日と過ごして、いざという時になると本当にその人だとわかる何かを知ったり、本当にこれ1人で抱えるの!?という超辛くて仕方ない時にその人の名前とかを耳にしたり、それをものすごい数で体験して「繋がっている」と感じた。
今回も今回で、その人はその人なりに色々動揺したんだろうなぁと勝手に思った( ̄∀ ̄)。
勝手にというか、そうだろうと自分のブログの統計を見てそう思った。
その人しかさかのぼって読まないだろう記事が何種類かある。
その中でも特に「ここぞ!」という時に読むだろうものがある。
ここぞという時というのは、ハッピーな気分の時じゃなくて、それとは反対の種類の気分の時を通過しているだろう時。
私の妄想力もここまでくるとあっぱれだなと思うけれど、本当にこれだけ時間をかけると過去には知り得なかった未来に辿り着ける。
そして、色々分析できるぐらいに、たくさんの事柄が積み重ねられた。
私がひたすら書き続けたように、その人はその人で自分の気持ちに沿って気になるものを読み続けてきたんだと思う。
この記事の後、eat LOVE邸におじゃまさせてもらった話が続いていく。
この話とeat LOVE邸はある意味同時進行的だったから、どちらが先にきても良かった。
最初なんとなく、スッキリした気持ちでeat LOVE邸のことを書きたいから、これを先に書こう…と思った。
でも書きながらわかった。
こちらを私が最初に書きたいんだと知った。
eat LOVE邸メンバーは別にすぐのすぐに書かなくても待ってくれる。
むしろ書かなくてもそれを気にしたりはしない。
だけど、こっちは、こうやって少なくとも私が口にしなければ永遠に伝わらない。
私が口にできることは、少なくとも文章に興そうと思っている。
今回の東京行きはこれまでとは違った。
これまでは次に行く時が定まっていて、もしくは未定でもある程度のスパンを空けてでも行く予定があって行っていた。
今回は最後と知って、そしておそらく先生はもう講座を開催しないことも何となく感じた。
中級講座は先生の方もやろうかな…と元々口にしていたから実現したけれど、これ以上はもう多分しないんだろうなぁと思った。
私にとって占星術講座に行くのは、裏側ではその人との物理的距離が近付く意味もあった。
それがなくなった今、もう本当に近付くこともないんだなぁと静かに思っている。
強制ではない最後の宿題をネットで先生に送ったら終わる。
それを聞いて「先生の中で次はない予定でいる」ことを感じた。
だから今回はこれまでとは全く違う気持ちで東京に向かっていた。
「神々の審議会」のメッセージ以外は相変わらず音沙汰もなく新潟に帰ってきたわけだけど、私の中ではこれまでとは違っていた。
今後突発的な何かがなければ、名古屋にいた頃のように、何年も東京に行かない、そんなことも普通に今も可能性としてある。
私は過去に一度も「遊びに行こうかな」という理由で東京に出かけたことがない。
元々用事がなければ、東京に限らずどこにも行かない超インドアな私は、基本的に用事をベースにしか動かない。
占星術に関しても、私が占星術をどのように活用したいのかがはっきりしてきたから、もうしばらくは講座を探してでも行きたいと思わない。
反対に今は、自分が「これだ!」と感じた方法をとことん極めたいと思っている。
(ずっと延期になっているけれど、eat LOVE邸の話が終わったら、ホロスコープ鑑定デビューの話に移行しようと思っている。なんなら、姪っ子との記録簿もまだあるし、5月にさんざん具合を悪くした喉の不調話もまだ書き途中のままになっている…。)
そんな風だから、しばらく学びは独学中心になると思う。
独学というよりも、自分のスタイルを確立するためにむしろ学びじゃなくて今度は実践を増やしていく時期に入りつつある気がする。
それはすなわち、学びのために外には出ないということ。
最後の最後まで距離は遠いままだったなぁと思う。
話がどんどん逸れてきたけれど、物理的距離はこのまま一生埋まらない気がする…と思いながらも、私は私で伝えたいんだなぁと思った。
伝えたところで、神々の審議会レベルのことじゃ私個人ではどうにもできないけれど、それでも伝える手段があるうちは伝えたいと思っている。
これは東京にいる間に限ったことではないけれど、とにかくその人の存在が自分の中から抜けない。
これはeat LOVE邸メンバーと蜜月な魂ミーティングを開いていた時でさえそうだった。
いつもに比べたらすごくマシだったけれども、それでもゼロになんか絶対にならない。
自分でもその人が別格なのはわかってる。
eat LOVE邸メンバーは間違いなく「魂の家族」って感じだった。
想像していた以上にすごい集いで、生涯を通じて忘れられない時間と出逢いになった。
そうなんだけど、その人はまた全く異次元に存在する人という感じだった。
eat LOVE邸が本当にはっきりとした形の関係を見れるとても貴重な場だったから、余計と真逆の感じのその人との関係が目立ちまくりだった。
「関係」なんて書くことさえ忍びない感じがする。
eat LOVE邸メンバーが満月(=よく見える)だとするなら、その人は新月(=姿かたちさえ見えない)という感じ。
いずれにしても、eat LOVE邸メンバーとは集いが終わった今もオープンなコミュニケーションが取れているけれども、その人とは相変わらず沈黙を前に私も色んな妄想力を働かせて考える…、考えたところで答えなんか出ないからこの全てが宙ぶらりんな状態にまた身を置く…、という流れに否が応でもなっている。
本当はもう何も書かないにしようかと行く前なんかは思っていた。
もう十分すぎるぐらいに書いたし、色々読みたければ過去にさかのぼればいくらでも記事があるし。
そして、相手からの反応が一切ないのに書き続ける自分もどうなのかと感じた。
一番最後の理由がもう何よりも強くて、だから書き足りないことはまた書くかもしれないけれど、当初こんなことをまた赤裸々に書く予定はなかった。
だけどこうして書いたのは、「神々の審議会」という言葉を見て色んなことを思ったのと、そして何よりもその人も気にしていることがわかったからだった。
何を気にしているのかは知らないけれど、その人にしかわからない何かがある。
そしてその何かが何なのかはわからなくても、「何かがある」ことだけは私もわかるようになった。
そして、とてもおかしな話ではあるけれど、その人が読むと知っているから私も書ける。
本当お願いだから連絡してきてと思うけれども(なぜなら、こんな話を公開処刑のごとくここに丸っと書くのは嫌だから)、ただ連絡しない別の意図や理由があるなら仕方ないから、せめて私は私の言葉を綴ろうと思う。
順番や私側の気持ちが色々あべこべすぎるけれど、それにどうこう言っても何も動かないから、私は私の動かせることにだけ集中する。
そして、今は「動かせる」中でもその人にこうして伝えるのが優先順位として一番高いからこうしている。
今、10日ぐらい前に書いた自分の文章を読んで「あ!」となった。
もしかして、eat LOVE邸へ行けたのは、もちろんそこで出逢える人たちがいたというのが一番の理由だったけれど、それ以外にもそうでもならないと私側が限界だったのかもしれないなぁと。
私はもう本当にしばらく、私の中では年単位でのしばらく、東京に行くことはないだろうことを知っていた。
そして、最後の切り札を使った私には、連絡を取る術がないこともわかっていた。
eat LOVE邸へのお泊まりが決まるまで、私は今回こそ本気の孤独を感じに東京に行くんだと怯(おび)えるように思っていた。
ただでさえよくわからないところに最後の印籠が突き付けられて、私は本気で途方に暮れていた。
講座はいいとしても、東京に行くのが怖かった。
もう色んなことが誤魔化せないし言い訳もできない、それを目の当たりにする勇気なんかちっともなかった。
「もう本当に何もないんだから、いい加減認めたら?」と冷静な自分側からの通告もずっとずっと続いていた。
あまりにバタバタとしていて忘れていたけれど、本当はそんな風だった。
そんな時にeat LOVE邸へ招待してもらって、そこで私は命拾いをして、さらには「神々の審議会」のヒントまでもらってきた。
寸前のところで助けられた。
助けられただけじゃなかった。
「神々の審議会」のヒントを得たことで、ストンと肩の荷が下りた。
ずっと肩肘張って、全然大丈夫じゃないのにそういう気持ちをスルーしたり奥に押し込めたりして、本当はどうしていいのかわからなくて途方に暮れてるのに、それさえも抑え込んでいた。
というところに行けたeat LOVE邸で、そしてやさしい気持ちにたくさんさせてもらって、それで最終的に今これを書いている。
それこそ、神々の審議会にかけられて、そろそろ限界だからそこに風穴を通そうと計画されたのかもしれない。
で、これはあくまでも私の予想だけど、私が限界なように相手も相手で何か限界だったのかもしれない。
私は自分が沈黙を保てない人だからわかるけれど、沈黙を貫き通すというのは時に吐き出すよりもうんと力が要る。
もちろん、沈黙を通すのと吐き出すのとどちらが得意なのかは人それぞれだけど、仮に沈黙の方が得意でもそれにだって限界は必ずある。
その人がなぜ沈黙を貫き通すのかは知らない。
だけど、それはもしかして私が思っている以上に忍耐力を要するもので、そして沈黙の裏側では自分との闘いみたいなことが延々と繰り広げられているのかもしれない。
これも勝手な思い込みかもしれないけれど、その人が読む記事たちというのは、多分その中のどこかにその人の代弁的なメッセージが入っているんじゃないかと密かに思っている。
書いといてなんだけど、私は相当意図して書いたもの以外は、何を書いたか基本的に忘れる。
だから、読まれた記事のタイトルを見ただけでは何を書いたのかさっぱり思い出せないなんてこともよくある。
思い出せなくてその記事を見にいくと、はっとなることがけっこうある。
その人は私とは違って、きちんと覚えているようで、本当にドンピシャで特定の記事たちに行き着いている。
それこそこの間、その人の趣味友達的存在のSさんに会った時、何で読んでるってわかったの?と聞かれた。
それは、あまりにもピンポイントでその人にまつわる記事だけが読まれていて、それが直近のことならまだしも年をまたいで全然一貫性のない日付でも、選ばれて読まれていたからだと答えた。
しかもそれが1回2回の回数じゃなくて、かなりな回数で読まれたからこそ、そうだと確信できたことも言った。
Sさんは、そんなことをその人がしてるだなんて想像がつかないと何度も言っていた。
私も全く同感ではあるけれど、これがもし反対に全くの別人が読んでいるとするなら逆におかしな話だということも言った。
仲良しなSさんでさえ想像できないことが現実に起こっている。
もし「神々の審議会」を目にしなければ、今の私が何を書いたか想像すらできない。
何を思って何を感じたか、かなり想像するのが難しい。
これもまたスーパー都合の良い考え方だけど、私が言葉にすることで楽になるのは何も私だけじゃなくて、その人側にも何かしら作用が及んでいる気がしている。
でなければ、こんなに長くて若干?かなり?支離滅裂気味な文章を読めるわけない。
私側の書く作業は、自分だけのためにやっていることだけど、もしかしたらそれがその人にだって何か意味があるのかもしれない。
もしかしたら、私には「無視」にしか見えないものも、その人からしたら「切り出せない」のかもしれない。(←あくまでも「例」で、そうだなんて頭の中お花畑みたいなことは思っていない。)
いずれにしても、決定的な地理的距離感やこの相変わらずの音沙汰がない状況はもうどうにもできないけれど、少し前の切羽詰まった感じは少し和らいで、代わりにこれまでとは少しだけ違う視点(神々の審議会)が入ったことで見え方も本当に少しだけ変わった。
ちなみに「神々の審議会」などと聞いて100%理解できるような物分かりの良さは持ち合わせていない。
ぶっちゃけ、細かいことはどうでもいいから「連絡ちょうだい」と思っている( ̄∀ ̄)。
[写真]
・『光の書』のメッセージ
・赤いかわいい缶が例のオリジナル占いグッズが入っているもの
・猫ちゃんがメインみたくなっているけれど、メインは猫ちゃんの右横にある小さなカケラたち
0 件のコメント:
コメントを投稿