今朝のしとしと降る雨を耳で感じながら、突如思い出した『雨降り族』の話。
「武士俣さんに『雨降り族』の話しをプレゼントします。
南米のアマゾンの奥地に雨降り族という部族が住んでおります。
雨降り族って変わった名前ですが、その名の由来は、
雨降り族が「雨降りダンス」を踊ると必ず雨が降ると言われているからその名になりました。
ではここでクイズです。
『なぜ雨降り族が雨降りダンスを踊ると雨が降るのでしょうか?』
答えは、
『雨が降るまで踊り続ける』です(笑)
何が言いたいのかと言うと、
武士俣さんの降らしたい雨は何ですか?
もし降らしたい雨が見つかりましたら、降るまで踊り続けてください。
必ず雨は降ります。」
これは30歳の時の就職活動の際、不採用メールと一緒にプレゼントされたお話。
今振り返ってみても、粋な担当者だったと思う。
(その時の細かい経緯とかはアメブロの方に書いたから省略。)
今年はなぜか七夕がすごく楽しみだ。
「何か自分の願い事を願える」という行為がとても特別に感じる。
「願う」じゃなくて「願える」。
「願うことができる」という、自分の中に小さくても希望があるということが本当にうれしい。
ここ何年か前の七夕の日。
何も願えなくて、何を自分が望んでいるのかもわからなくて、泣きたくなったことがある。
その時のわたしは大真面目に、自分が何をどうしたいのかわからなかった。
今だって100%全部何を望んでいるかはっきりしているわけじゃない。
それでも1つでも2つでも自分の望んでいるものが何かというのはわかる。
それを知っている、というのがとても特別だ。
そんなの当たり前と思う人からしたら「何言ってるんだ?」ってなると思う。
でも、わたしからしたら、自分の願望や希望すら何一つわからずにもがいてあがいた日々が
あったから、何かを心から願える、ただそれだけでしあわせだと感じる。
叶う叶わないの結果の部分がどちらに転んだとしても、叶えたいと望むことを持てる、というのは、
それだけで生きている価値がぐ~んと増す。
七夕=7月7日には、個人的に別の意味もある。
過去にさかのぼって何も変えることはできない、と自分で自分に一生懸命言い聞かせなければ
いけないような事情を含んだ日だ。
でも今年は、本当の本当に、心から「まぁ仕方ないか」と思える自分がいる。
多分すべてはそうなるように仕組まれていただろうし、それが自分の人生において予め計画
されていたことだとしたら、なるべくしてなったと捉えてこれから先も生きていく方が楽だという
ことにようやく気付いた。
この数年間の中で一番心が軽く、そして願い事を思い描く愉しみを含んだ明日の七夕。
心が静かに躍っている。
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