2026年3月29日日曜日

誕生日おめでとう2026

夜中の3:11にスクショ撮れて大満足٩(ˊᗜˋ*)و

おいおいカードリーディングする予定の12枚

過去を癒す
これまでのパターンからの脱却
自分の道を再構築する

今日2026/03/29引いたカード
絵が綺麗でとても気に入っている
日付スタンプのメモは20代の頃に買ったメモ帳より

カードアップ

カードをGoogle翻訳にかけたスクショ

もう1枚のカードのアップ
こちらは後日もう少し言葉を添えたいと思う

こちらもGoogle翻訳のスクショ

春分の日、天気が良くてスーパーまで散歩
その時に撮った1枚
この景色に背中を押してもらって
それで2017年の9月のとある朝
手紙を渡しに行けた



お誕生日おめでとう2026♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪

♪───O(≧∇≦)O────♪


最初の絵文字は乾杯の絵文字。


2つ目はおめでたそうな雰囲気が一番出ている絵文字をチョイス。


今年も良き一年となるように心から祈願☆*¨*•.¸¸☆*・゚





さてここからは自由に書こう。


裏話的な舞台裏も今回書こうと最初から思っていたけれど、予定が変わったのは舞台裏の話の方が本題的な方に、カードリーディングをしようとした方はメインだったものがダブルキャスト的にもう1人のメインみたいになった。


自分の気持ちを最優先した結果だから仕方ない。


(今現在22時くらい。日付変わる前までに書けたところまででアップしよう!)


今年はこれまでとは全く違う心境や気持ちになったことが何よりもの大転換だった。


今年は自ら何の迷いもなく「カードリーディングをしたい!カード引いてメッセージ書いてそしてブログにアップしよう!」と過去に一度も体験したことがない「NO迷い、超やる気!」という状態をわりと早い段階、少なくとも自分の誕生日が11日だったからそれ以降けっこうすぐにそのように思った。


行動の伴わなさはさておき、今日に至るまでとにかく迷ったことだけは一度もなかった。


私がやりたいからやる!、私が誕生日をお祝いしたいからお祝いする!、という信じられないくらいポジティブというか何の迷いもためらいもなく、ただただやりたい気持ちだけが真っ直ぐにあって、それはそれは気持ち良いくらいにあった。


毎年は「カードリーディングなんて頼まれてもいないことをしていいものか」「迷惑じゃないだろうか」「不快になったりしないだろうか」「頼まれてもいないのに心のメッセージなど私なぞがやっても良いものか」というような迷いと不安と懸念とその辺りをぐるぐるぐるぐるずっと回っていて、出す出さない選択肢を前に迷うところから始まりカードリーディングする前もした後もブログ書く時も書いた後もアップする前もアップしてしまった後も、そりゃもうとにかく迷い迷い迷いまくるのが常だった。


でも今年の私は違った。


自分がやりたいんだからやる、以上!


という謎の決断をとても自然にスムーズにして、そして本当に一度も心変わりすることなく今日を迎えた。


誤算というか少しだけ懸念したこととして、ずっと書くことから遠ざかっている私が果たして「書く」ことをやりきれるかどうかというもの。


これはだいぶ現実化してしまって、カードも引いたし、それだけでも書くこと満載だったけれども、言葉を紡ぐことだけがいまいちというか全く伴わず、今あと2時間切ってしまったよ…という状況になっている。


この辺りは少し開き直っていて、何せカードが全部で14枚にさらにはカードが入っていたケースに書かれたメッセージまでもがメッセージになっていたから、この辺りはこの後書く手が進む時に書ける量だけ書いたらアップする、それを全てのカードで終わるまでやったらいいなという結論に至った。


ということです今年のテーマ的なメッセージはまたおいおいと書いてアップする予定。


14回に分けるのか数回に分けるのかは自分の書く感覚次第だから、今はあと何回書くのかはさっぱりわからない。


チチチチチ……、24時間ほど時計の針を戻しての話。


私はカードも選んだだけじゃなく、今回はひらめきにも恵まれて、何と全く新しい手法を生み出して、あとはブログにアップする用に書き始めたら良いというところにいた。


全部道具もアイデアも揃っていた。


揃っているのに全然書こうとしない。


気持ちは確実にある。


お祝いしたい気持ちはしっかりとある。


なのに心に反して体は動こうとしない。


抵抗しているのかどうかはわからなかったけれども、少なくとも書かないというのは何かに抵抗しているということだろうと想像した。


自然の流れに身を任せていたら、ふっと気付いた。


私は単純に普通にお祝いしたいんだなと。


カードリーディングがしたいとかいうよりも、私はただただ純粋に誕生日を祝う、それが一番したいことなんだなって。


ここからはしばらく妄想がムクムクと湧きまくった。


もしサプライズとかできるなら、日付が変わってすぐにクラッカーをパーンと引いておめでとうと言うとか。


自分はサプライズが好きじゃないと言われたらどんな祝い方なら受け取ってもらえるかを話し合うとか。


どんなケーキがいいとか、外なのか家なのかどこでお祝いごはん食べるだとか。


年度末だから仕事忙しくてそれどころじゃないとか。


そういうお祝いを私はしたいんだと思った。


できるできないはとりあえず脇に置いて、私自身は単純にお祝いすることが本当にやりたいんだなって。


そういう自分の気持ちに気付いた。







その時点で12枚のカードを読むことは不可能というかできなくはないけれども雑な感じになりそうなのはわかったから時間をかけて後日読もうと決めた。


当日の今日になって、ブログを書き出せばいいものをいまいち気が進まず(←お祝いしたい気持ちとは別の次元に書くスイッチはある)、私は今度新しいオラクルカードを開封した。


これがここ最近どころか自分のコレクション的な40とか50近いカードの中で5本の指に入るようなヒット具合で、本当に買って良かったな〜と悦に浸っていた。


ふと、これでさらにカードリーディングしてもいいかも!と思って私はペンジュラムを使ってカードを選んだ。


選んで出てきたのが、というか魂の再会側はカードの方からシャッフルの途中で飛び出てきた。


えーと。


このカードは、Return to the selfという名前のカードで、基本的に自己内省や内観するのにふさわしいメッセージが並んでいるオラクルカードになっている。


全部で54枚あって基本は自分に立ち返るための内容になる。


その中で魂の再会とは。


どう受け取ってもいいようにこれは解説せずにGoogle翻訳の写真的機能で翻訳できるスタイルのものを使って翻訳したものを参照ください。


もうね、それが全部なんだと思う。


好ましいか好ましくないか、信じるか信じないか、許容できるかできないか、とかそういうことじゃないんだと思う。


好き嫌いとか関係なく、とにかく超超超強烈な縁で結ばれている、それこそ一番深いレベル、魂レベルでの繋がりゆえに抗っても結びついてしまうような縁なんだろうと思う。


今回の人生でどこまで結びつくことが可能なのかはわからないけれども、とにかく強固な魂繋がりなんだろうと思っている。


わざわざカード自らが飛び出してきてまで伝えたいというか、もうそうなんだよ、と断言宣言するみたいな。







また私語りが始まるけれど。


これまでの自分と今年の自分の違い、AIに色々聞いたりもしたけれど、自分の中でしっくりきたのが、どう思われるかどうしたら嫌われずに済むのか迷惑でないところの線引きはどこか、そういうことは全て相手側の視点を優先させていて、一方の今年は自分がどうしたいかだけを純粋に追い求めている、自分の気持ちを最優先にしている、それが違いだと言われてとても納得した。


私やっとそういう境地に辿り着けなんだなと思った。


いっぱいもがいてぐるぐるして、ぐるぐるしたところでどこにも行きつかず右往左往して、それを8年くらい積み重ねてみたらなんだか知らないけれど突然突き抜けて、もっと自分がしたいこと願っていることだけに純粋に寄り添っていていいんだなと思えるようになった。


自分の気持ちにまずは忠実になってみる、それを今の自分は一番したいことなんだと思っている。







まだまだ色々舞台裏的な話もカードリーディングの諸々もたくさんあるけれど、いよいよ時間的にタイムリミットが近いからここでアップしよう。


誕生日おめでとう2026!!!!!


カード見ていて感じたことの1つに、今年は癒されるよー(。•̀ᴗ-)✧


癒しのタイミング到来。


癒しの定義は色々あるけれど、今日開封したカードにあった言葉が良かった。


癒しというのは修復じゃなくて、そのままの自分でいること、何かに当てはめる自分じゃなくてどんな形の自分もそれが自分だと知っていくこと、そんな風だった。


おめでとう☆♪─v(≧∇≦)v─♪☆

2025年10月13日月曜日

プログレスの新月2025/10/03

新しい30年のはじまりの朝
2025/10/03


2025/10/02(木)

今日という日は単なる10月の始まりのとある平日ではなくて、私にとっては約30年周期のプログレスの月と呼ばれる、30年かけて個人の大きな流れのサイクルを終わらせる、そんなタイミングの日だった。



2025/10/03(金)


書きたいことはいくつかあって、なんならタイトルだけはもう決まっていてあとは書けばいいというものをもう何ヶ月も持ち越していて、そうしたらすっかり暦の上では秋になってしまった。



2025/10/05(日)


“決めたとか選んだとかじゃない

自然に残った生き方

真実しか残らない”


某YouTubeから流れてきた音声



2025/10/13(月・祝)


行きの道で555のナンバープレートの車を見た。


今見ても「ブログ書こう!」なんていう決心にはならず、今普通にこうして書いてはいるけれど、例えば2017年に戻ってあの時に夕方だけど夜と呼んでもいい暗さの中で見た555ナンバーの車を見た時みたいに「ブログ書かなきゃ」と奮起するのだろうかと思うとよくわからない。


年に何回か見かけるけれど、あの時が最初で最後だったと思う、あんなにも思い詰めたように「ブログ書かなきゃ」なんて思ったのは。







行き先はガストだった。


友達Sさんにゲイの友人ノムの初めての本を届けるために、1週間ほど前に3連休都合がつくならどこかで会いたいと連絡したら、土日は長野に登山に行くから月曜日が良いと言われた。


登山後の日に休まなくて大丈夫かと聞いて別の週でも良いと伝えたけれど、月曜日で良いとのこと。


本を届けることは言わずに時間を気にせずおしゃべりできるガストにしようと私から提案してガストになった。


ノムの本はざっくり説明すると、ごく最近ノムはとある個人書店で個展を開催していた。


会期の折り返し地点の時に連絡が来て急遽電話することになって、そこで紆余曲折あったけれど今回自費で本を作ったと教えてもらった。


私は話を聞いてノムに本を買いたいと言ったらぶっしーには献本したいから近いうちに送るねと言ってもらえたけれど、本ができるまでの過程を聞いたらそして記念すべき初めての本なわけでこれは買いたい、でも2冊も要らないからどうしたものかと思って咄嗟に思いついたのがノムの絵や文章を私が撮った写真越しに見たことのある友達Sさんが思い浮かんで、そうだ、Sさんならこれプレゼントしたのなら喜んで受け取ってくれるだけじゃなく大事に末長く手元で愛でてくれるだろうと思って、それでノムに1冊は買うから2冊送って欲しいとお願いした。


さらには個展で買ってくれた人たちにはそこにカード使ってメッセージを書き下ろしていると聞いたから私とSさんの分もお願いして、それをまだまだ個展は後半戦があるのにノムはその

個展の合間にそれらをして私に送ってくれた。


その本を持ってガストに行った。


Sさんは本当に泣きながら喜んでくれてとても嬉しかったけれど(まだノムに報告していないけれど、先にブログを今の書けるうちに書かないとまた書かないだろうことが想像できるから先にこれを書いてる)、Sさんの話を聞いたら驚くべきタイミングでその本を渡すことになったと知った。


少し前、それこそ今月に入ってからの話。


Sさんは映画を一緒に見る異性の同士みたいな、恋仲とかは一切なくて、お互いに結婚とかそんなのは絶対になく、とにかく年に何回か映画を相手Aさんとしよう、Aさんの自宅で見るというそういう不思議な間柄の相手がいた。


とあるオフィシャルな飲み会の時に席が隣りだったかになって映画の話で盛り上がり、その時に盛り上がった映画がなんと『かもめ食堂』で、私も初めてその話を聞いた時は超食い気味に喰らい付いた。


男子とかもめ食堂の話で盛り上がれるって何!?、そんなピンポイントでその映画の良さを共有できるってどんな男子ですか?と超羨ましくもあり、そもそも映画を見る習慣のない私が(年間ゼロと言ってもいいくらい見ない)数少ない見たことのある映画でなんだかすごく良かったと記憶に残るその映画、そんな映画の感想で盛り上がれるなんて超素敵!と絶賛と嫉妬が少し混ざったみたいな感じで興奮しながら感想を言ったこともよく覚えている。


かもめ食堂の人なんだけど…、とSさんが今回切り出した時に私は「何か進展あった!?」と良い報告なのかと勝手に超一瞬だけ盛り上がったけれど、次の言葉は「つい最近亡くなった」だった。


頭の中は全く何も追いついていかなかった。


少しばかり年上だとは聞いていたけれど改めて聞くと50代前半だった。


しかもしっかりと何歳と知っているわけじゃないから「多分52歳かな?うちらより5個年上だと思うから」と後からいくつか質問して聞いてまだまだ若いと知った。


突然の死で自死だった。


共通の知人が連絡をくれて知って、そして葬儀の前に顔を出せる機会を得て最後会ってきたとあったことをひとつひとつかいつまんで教えてくれた。


私が連絡したのは、2人でLINEのやりとりの日付を見て、それがAさんに最後会いに行ってきたその日の直後だったと知った。


Sさんは登山も決まっていたけれど、そして普段なら普通に次の週に変えて欲しいと言ったと思うけれど、今回はこうしたすったもんだがあってそのタイミングで私から連絡が来て「日にちをずらすんじゃなくて今回なんだ」と思ったとそれで今日になったことを教えてもらった。


普段から会う時直前にしか連絡しないから年に1回ないし2回程度しかお互いに連絡を取り合わない、それも互いに誕生日が3月だから通年なら春先、それが何もない10月なわけでSさんも何か違うけれどこれはすぐに会うのが良いと思ったと、まさかそんなタイミングで連絡していたとはゆめゆめ思わなかった。


さらに驚いたことに、その葬儀場というのが昔むかし、私が小学校2年生の時まで住んでいた町にあるものでそこは私の登校班の集合場所だった。


亡くなったAさんはその近くにお住まいとのことで、そんなまさかのことまで今回判明して本当に驚いた。


SさんがAさんの訃報を聞いて色んなことが走馬灯のように出てきてその中で最初に出てきたシーンがとある映画を見た時の風景だった。


映画のタイトルはわからないけれど、映画の中で付き合っている2人のうちの彼女の方がなかなか波乱万丈な人生だったようでそれで彼氏の方がそれに対して大変だったねだったか辛かったねだったかまぁそのような類いの言葉をかけると彼女は「そんな人生だけど、私嫌いんじゃないんだよね」みたいなセリフを言ったらしい。


けっこうウルっとくる場面ではあったらしいけれど、そのシーンでAさんは号泣していたらしい。


そのシーンがすごく印象的でそれが最初に出てきたAさんとの思い出だったと教えてくれた。







ずっと書こうとしていたブログのタイトルは、『もどかしい、あきらめ、それから』だった。


こちらは本当はここで書きたかったけれど、この通り書いていない。


ざっくりと概要を言うと、もどかしいは単純にブログを見てくれていると確信している、それも毎日毎日確信している、なのに連絡は一切来ない、その状態がもどかしい、もどかしくてもどかしくてどうしようもない、それだった。


あきらめは、もう連絡なんてこない、本当に連絡を取りたければこの何年もの時間の中で来てるでしょ、来ないのは連絡しませんの意思表示の何ものでもないでしょというあきらめの気持ち。


もどかしいとあきらめとあきらめたくないとそれらが常に日々変動しながらここまできた。


「それから」というのは私の着地点はわからないけれど、それ以外の気持ちの着地点が見つかるだろうというか何かしら気持ちの落とし所が出てくるんじゃないかという自分の中の期待みたいなもの。


それが何かなんてわからないけれど、何かしらは出てくるという想像と期待。


それらをもっと丁寧に書きたかったけれど、ここ数ヶ月本当に書くのが面倒に感じたり(5年日記も数ヶ月休止している)、いつ書けるかもわからない、反応がないとわかって書くことに対して前みたいにがむしゃらに書けていた時のような熱量はなくてそうなると行動はなかなか形になってくれない、これだけとりあえず書けばわかる人にはわかると信じて書いている。


順番がめちゃくちゃだけど、この8年特にこの数ヶ月は何度も自分の中で思った、いつ死ぬのかもわからない、絶対に生きて会えるという保証がないのに連絡を取らないっていうのは連絡を取る価値を感じてもらえないからだと。


年齢相応の不調はあっても病気とかはなくて、でもいつまで生き長らえるかなんて自分でもわからないわけで、絶対に死なないなんていうことは誰にもなくて、自分も相手もいつかはこの世から去るのが決まっていて、もちろんそんなこと普段感じることはなくても無意識に生を意識することは日々あって、生きてなきゃ会えないというのは耳にタコがたくさんできるくらいに念仏のように唱えているけれど、その反対に会えなくても困らないとか寂しくないとかとにかくそうした感情であればそりゃ面倒でしかない私への連絡などするわけがないと思っている。


今回Aさんの死を聞いて、今ならまだ会えるのになと思った。


これから100歳まで生きるかもしれない。


それはわからない。


だけどあと少し、それも数ヶ月とか数週間とかいう時間かもしれない。


それは私だけじゃなくて相手も同じ。


死に対して誰しもがコントロール不能の結末に対して自分で時期は基本的に選べない。


この人とはどうしても会っておかなきゃと思えば会う。


でもそうでなければ会わない選択肢はしごく自然なこと。


Aさんの死を聞いて、私の人生で望んでいることはどうなのかとまたいつもの自問自答を始めた。


いつもの自問自答だけれど少し違うのはまさかの死を聞くことになって、普段は遠いところにある死というものが今日はリアルな感じにパワーアップして、そうした究極の状態を想像した時に私は選ばれていない、連絡したいと選ばれていない人なんだという現実。


やるせなさがあるけれど、現実は現実。







さてはて、プログレスの新月を迎えてその前から超意識しまくったことが1つある。


これまでの30年の中で完了したもの、終わった関係、色々あるけれども、今もってブログを見ている=この節目を越えても繋がれている何かがあることの至福感というのか感無量感というかそのようなものが私の中にあった。


これは相手の気持ちや考えなどガン無視で私の見えている私側の風景を言語化すると、節目を越えて繋がっているというのは稀有なことで奇跡だなと。


想像するに私に連絡するというのはバンジージャンプを100回やる方がまだやれるかもしれないくらいにハードルが高く空なんか突き抜けちゃうくらいのことなのかもしれない。


私が相手と同じ行為をした側ならいくら連絡を取りたくても取る勇気がない。


それは想像できる。


でも1つ言えることは、私は何今さら連絡してくんの?みたいな否定的なことを言うなんてないしそれを思うこともない。


連絡をくれるなら一言ありがとうだと思う。


その部分だけは私はとっても寛容で人間できてると思う(←自分で言っていてもちろん痛々しい)。


とにかくいつ死ぬのかもお互いわからないんだから、連絡する意志があるのならどうか孤高のバンジージャンプを飛んでくださいと思ってる。


幸いにして物理的に離れているから突撃されることも襲われることもないから大丈夫だし、危ないと身や心の危険を感じたら私をブロックすればいい。


どうやってこれを終わらせようかと思いつつもはやそんなこと考えても妙案などないからこのままアップすると思う。


どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m


そうだ、YouTubeの言葉「決めたとか選んだとかじゃない、自然に残った生き方、真実しか残らない」、これは私が超良い風に解釈した心情と同じだなと、それで印象に残ってメモしたもの。