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2018年5月20日日曜日

名古屋メモリーズ③ コーチングに初めて出逢った日

『名古屋メモリーズ③ コーチングに初めて出逢った日』と題して、当時mixiに当日アップした内容をそのまま転記。

コーチングの説明会に行くまでの出来事は途中まで書いて、パソコンのデスクトップに保存中。

順不同だけど、こちらを先にアップ。
(単に今日は書く気分ではなかったから、下書き保存のこちらを先にアップすることに)



『目からウロコ ネガティブな感情』
2010年8月8日

「コーチング」という名の説明会に出かけてきた。

いつぞやに仕事で必要な資料をコピーするために仕事の帰り、ネットカフェに夜の11時過ぎに出かけた。
(当時はまだ家のネット工事の予約待ちでネットが繋がっていなかった)。

仕事でくたくた、とにかく一刻も早く資料をコピーして帰りたく、 相変わらずテンションは下がりっぱなし。

と、そんな時たまたま見かけた宣伝をクリック。
それが「コーチング」だった。

一瞬(=1分程度)見て、面白そうと思って、そのまま無料説明会に申込み。

数週間の時を経て今日行って来た。

自分で言うのもなんだけど、ああいう一瞬のひらめき、 私の場合すごいものに遭遇する可能性がとっても高い!

今日も色んな意味で目からうろこの体験ばっかりだった。

その中でも二つのすごい発見。

「人がいたらどんな風にも生きていける」

これ、どこかの名言みたいだけど、私の口からぽろりと出た言葉。

私にとって一番大切なものは何か?だったかな?
たしかそんなことを聞かれたかと思うんだけど、それがその時の私の答え。

私の紆余曲折無計画人生の一部を話して、 私には何の一貫性もなさそうに見える我が人生。

今日私の相手をしてくれた方は「人」こそが私の中で一本の道筋になっていて、 それを伝えたくて伝えたくてうずうずしているとの見解を示してくれた。

その人と話していくうちに、いかに自分がどんな逆境に立たされても「人と繋がりたい」と切に願っているのかに気付かされた。

当然、人と関わるという事は、
裏切られる事も
落とされる事も
そこから逃げ出したくなるような事も
そういうものもついてまわるのに、
私の場合はなぜかマイナスな経験すらも自分の心の奥底にある「人」との関わりを求めてそこにとどまる性質がある。

自分でも変なの~と思うけど、 言われてみれば、 たしかに裏切られてもう嫌だから人とは関わらないとかという風には今まで一度も思ったことが無いなと気付いた。

そしてもう一つの気付き。

「ネガティブな感情」

去年の11月末に今の仕事に就いてからずっと私に付きまとっているこのネガティブさ。

4度退職願を出し、
それでもなぜか居残り、
自分でもいい加減嫌だと思い、
とにかく来年の春は晴れて退職!と日々自分に言い聞かせながら 毎日このネガティブさんと付き合っている。
というか格闘している。

そんな話をした後に今日言われたこと。

「ネガティブな感情を持つという事は、 他のことがやりたいというサインを自分で自分に送っているという証し。
ネガティブなものも必要があって生じる」

言われてみればまさにそう!

今やってること絶対違う。

とにかくやりたくない。

なぜこれを選んだのか何度悔やんだかわからない。

でも人相手の商売だから、 途中で投げることを誰よりも私自身が良しとしていない。

私じゃなくても出来る仕事なのは百も承知。

けど、途中で投げたらさすがに子どもたちに何となく申し訳ない。

偽善と言われようが申し訳ないものは申し訳ない。

だから区切りのいいところまで続けてそれでやめようとずっと思ってる。

そういうぐるぐるな感情を一気に簡潔に見抜いてもらって、ものすごい爽快感。

すごくプラスのパワーを名古屋のオフィス街のビルの6階でもらってきた。

信号が変わるたびに動き出す車たちを横目に見ながら、
全然自然に触れていないのに
不思議とナチュラルヒーリングとやらに導かれた感じ。

ということで、これから何回に渡るかわからないけど、
コーチング受講決定!

早速次の予約入れてきた。

考えてみれば。

今の仕事に就いたおかげで。

1、組織の中で働く事は無理。
2、今の仕事は好きではない。
3、長時間の拘束と自由時間の激減が苦痛。
4、自分の好きなことを仕事にしたい。
5、どこにいても出来る仕事をしたい。
6、31歳、本気で今後の身の振り方を考える。

まだまだ続くけど、
そんなこんなの気付きのおかげで。

ぼんやりとですが、
私のいつかの目標は「起業」です。

自分のペースと自分の時間、そして自分が好きと思えること、
それらを全て融合させる一番の解決法は「起業」のような気が。

今日の方は家庭持ちで40歳になってからの転職、起業。

その方が言っていられた言葉。

「前は仕事が終わらなくて夜中をまわってもうどうにもこうにもならない状態だったけど、 今は好きなことをしてそれに夢中になって、そして気付いたら夜中をまわってる」

(それでもサラリーマンしていた頃よりもずっとずっと自分の時間、家族との時間が増えたって言ってた。
そして1ヶ月の長期休暇も取れてると。)

私もそうなりたい。

仕事が終わらなくて
職場に泊り込んだり
休日に出たり
(今はもう100%やめた。
それで私以外の誰にも迷惑がかからないのなら、
別に今すぐしなくてもいいと思えるようになったから)
そういう日々とは決別したい。

そして好きなことして気付いたら「もうこんな時間!」となっていたい。
手芸で針を進めるように、
夢中になってそれで時間が過ぎてた!という環境に身を置きたい。

これから手探りで探していく。
ただずっと怖いだけのここ数ヶ月間のネガティブさんに比べたら
今はわくわくしている。
漠然とだけど、先を想像するのが何となく楽しい。

ちょっとずつ前に進めそう。

そんな予感がした今日。

ドミニカから帰ってきて初めて息を吹き返したような感じ♪



【追記 2018/05/20】
文中に「資料」とかかっこよく言ってるけど、必要だったのはたった1枚の仕事の某イベントの会場までの地図…。

たった1枚の地図のためにネットカフェとかあり得ないと思いながら行ったら、コーチングの説明会の存在を知った。

2010年8月8日、そこが私の今いる場所に辿り着くための入口だったと言ってもいい。

そこからまた8年かけて今の場所に辿り着いた。

8年の間に起業的なこともしなかったわけじゃない。

だけど、当時はどうして進まなかったのか自分でも今ならよくわかる。

私がこの8年の間で体験したことたちは、9割の人にはドン引きされる。

理解は基本してもらえない。

理解してもらえないならまだしも「何やってるの?何で始めなかったの?何か形にしなかったの?正社員とか考えなかったの?」とかいうような質問は浴びるほどに受けた。

色んな人たちからの軽蔑的な視線も気持ちも本当に感じてた(色々言われたことも多々あった)。

だけど、私は今だからはっきりとわかる。

私がしたこの8年の体験は、私の人生の中で絶対的に必要な体験だったこと。

これらの体験が周りの人にも理解されるのは、私がそれを活かしてからだと思う。

それまではまだしばらく、言われて嬉しくないことは言われてしまうかもと思う。

でも今はその体験によって得たものが計り知れないぐらいに凄いものだと気付いたから、言われても前とはまた違う風に受け止められる気がする。

周りから大非難を浴びた体験たちは、私の財産になってる。

私にはそれがわかっていて、そしてそれぐらいに貴重な体験を自分の人生の中で手に入れられたとわかっているから、だから揺らがずに済む。

自分以外の誰かの価値観じゃなくて、自分だけの価値観の中でそれを今私にできる最大の自己肯定感で受け止められるようになったから大丈夫。

偉そうに言うと、
【自分が一番価値のないと思ってる自分に対して、それでも大丈夫だよ、と言ってあげられること】
それが最大のターニングポイントだった。

私はそれをするためにこの8年があったと言ってもいいぐらい。

他の人はわからないけれど、私には一番人生で難しい課題だった。

なぜなら、私こそ、何かしてなければ自分は価値のない人間だと思い込んでたから。

30歳になるまでは、何かをすることで、外側から自分の価値観を高めることをしてた。

それが当たり前だと思ってたし、実際にそうできてたから、そうやって人生は作り出すものだと思い込んでた。

そんな20代とは真逆の体験をしたのが30代だった。

私は30代で失うものの方が多かった。

むしろ世間的に歓迎されるものは1つとして手にできなかった。

キャリアも結婚も子どもも家やお金というような財も何1つ築けなかった。

でも私は引き算のような人生を送って良かったと思ってる。

もし私が上に書いたようなことを手にできてたとしたら、反対に人生の後半はもっともっと大変になってたと思う。

足し算の人生を生きたとしても、私の場合は根深い自己否定が根底に強烈にあったから、いつかは動けなくなったと思う。

社会的に評価されるものがないとダメなんて思って生き続けてたら、私は多分メンタルをかなりやられたと思う。

もしくは、メンタルに出ずに体の病気として出たか。

そしてこれは私個人の感想だけど、自分の築いたものがでかければでかいほど、ダメージも大きくなったと思う。

そういう意味で、30代で引き算の人生を送ったことは、人生長い目で見たら、本当に今で良かったと思う。

私は自分がそんなにも自己否定しまくってるなんて、少なくともコーチングの説明会の時には全く気付いてなかった。

何年もかけて自分の内面を見て、そしてようやくわかってきたことだった。

今だって自己否定は普通にする。

でも、してもその後セルフケアできるようになった。

そして、自分のそれらの体験とそして1つ1つの細かなプロセスが全て必要なものだったと気付いたのは、この4月から自分のホロスコープを読み解き始めてから。

そして、その経験がこれから先の私を支える。

色んな角度で支えてくれる。


あまりにも気まぐれな名古屋シリーズだけど、これは時間かけてでも自分の備忘録として完成させたい。

2018年2月3日土曜日

名古屋メモリーズ ②名古屋出発前の3つの出逢い


40社ほど受けて唯一内定がきた仕事の勤務地が名古屋だった。

正直名古屋というのが縁もゆかりもない土地すぎて、すごく迷った。

外国には住めるくせして国内のある都市となると途端に不安だらけになって、もう少し転職活動を延長してもいいんじゃないかと思った。

さらには仕事の福利厚生の面でも不安なところが出てきて、本当にそこに飛び込んでいいものかと思った。

でも私は名古屋に行くことを最終的に決断した。

どうして名古屋にしたのか、今でもその理由をとてもよく覚えている。

私の名古屋行きは2人の人と名古屋のある場所との出合いで決まった。

今振り返ると、その3つの出来事は本当に寸分の狂いもなく起こってくれていて、そのうちの1つでも欠けてたら、もしくは起きたこととは別のことが起こっていたとしたら、私は名古屋に行かなかったと思う。

実際に名古屋行きやその勤めた会社に関して警告を出してくれてた人たちもいた。

だけど私はそれでも名古屋を選んだ。

今日はその3つのことについて書きたい。

 

1:トモさん(仮名)との出逢い

ドミニカから日本に帰国してすぐ、私は東京に住んでいる妹の紹介でマッサージに行った。

それは池袋の駅から徒歩3分くらいのところのタワーマンションの一角にあった。

看板も宣伝も一切出ていない。

紹介されなければそんなマンションの一室にマッサージ屋さんがあるだなんて誰も知らないだろう。

妹も仕事の人から紹介されたとのことだった。

それがトモさんだった。

本当のプライベートサロン風で、大きな水晶やら名前の知らない石やらが置かれていて、初めて目にするタイプの空間だったけれど、とても居心地が良かったのは覚えている。

私は帰国して3日目前後でどうやら行ったらしく、後から妹からこんなことを言われた。

「史子が最初にトモさんのところに行った時は、史子時差ボケでほとんど寝ていて覚えていないって言ってたんだよ。

そして名古屋の話が出た時に、トモさんにそれとなく聞いたら『名古屋武士俣さんに合ってると思いますよ』って言われて。たった2回しか会ってないトモさんに合ってると言われてそれで決めた史子見て、本当に驚いた」

トモさんにそう言われたことはよく覚えている。

だけど、それで決めたと妹の前で言ったことは一切覚えていなかった。

しかもそれを妹が私に言ってきたのは、名古屋に行ってから最低でも2年か3年経ってからだった。

トモさんにどんな風に切り出したのかも、相談する風な感じで言ったのかも、そういうことは覚えていない。

だけど「名古屋武士俣さんに合ってると思いますよ」と静かにほほ笑みながら言ってくれたことは覚えている。

そして私はトモさんが霊視的なことができる人なのかどうかはわからないけれど、もしかしたらそういうことが多少はわかってた人なんじゃないかなと今になって思う。

少なくともトモさんは、百発百中体の悪いところを毎回言い当てる人だった。

ある時私は本人に直接何でわかるのかを聞いたことがあった。

「お客さんに会うと、その人の痛いところが私も痛くなるんでそれでわかるんですよ」と言っていた。

世の中そんな人がいるんだとびっくりしたと同時に、だからいつも確実にその時に悪いところとか弱ってるところをケアしてもらえてるんだなと思った。

すごい余談だけど、それを最初聞いた時「それすごい!」と思ったしトモさんにもそう言ったけど、まさか自分も名古屋にいる間にそれとは別の体感覚が出てくるようになるなんて当時はゆめゆめ思わなかった。

それもいつかの名古屋シリーズで書いていく予定。

最初に言うと、私が名古屋に行った理由は、そういうあまり聞いたことのないような自分の力に気付いたり、それが当たり前だよということをさらりと言ってくれる人たちに出逢ったり、そういう私をそのまま受け止めて付き合ってくれたり、そうした知恵がわんさかと与えられたり、そういうことのために行ったようなものだと思う。

全く想像もしていなかったことが次々起きて、だからこそ名古屋に行ったんだろうなぁと思う。

 

2:神社との出合い

2次面接で人生で初めて名古屋に行った時のこと。

その日は朝新潟を出てそれで名古屋に直で行った。

これも全部全部予定調和だったと今だからわかる。

 

当時私は、就職活動をしつつも、全国あちらこちらと言っても基本的には本州の部分のどこかにいる友達にたくさん会っていた。

本気で自分の生き方に迷っていた当時の私は、色んな人に会ったらいいと思って、暇とちょっとした小金を持っていたから、それらを利用して本当にあちらこちらに出向いて友達に会ってきた。

その時のこともいつかは書くかもしれないけれど、今は割愛。

そんなことを同時進行でしていた私は、一度面接のために新潟から遠くへ行く時は、一気に色んな予定を詰め込んだ。

だから面接も自宅から行く時もあれば、どこか友達の家から行く時もあった。

名古屋の時は自宅から直で行って、おそらくその後色々と予定を詰め込んだと思う。

その日は自宅から行ったものだから、母親が朝弁当をこしらえてくれて、それを持たせてくれた。

母はスーパーやコンビニの弁当の容器を取っておいて、そこに詰めてくれる。

だから弁当は食べたら適当なゴミ箱に捨てればいい。

その日もからあげや卵焼き、おにぎりの入った弁当を持ちながら、そしてスーツケースを持ちながら、会社の本社に行った。

面接の前なのか後なのかは忘れたけれど、その弁当を食べるにあたり私は場所を探さないといけなかった。

本社のある駅に着くと、ビルビルビル+アスファルトだけという場所に圧倒された。

弁当を食べる場所なんてとても見つけられそうにもなかった。

自力で見つけるのは無理だから、人生で最後になるだろうガラケーの地図を開いて、近くに公園とかがないかを探してみた。

GPS機能を最初に開発した人には心底お礼を言いたい。

1つ神社がヒットした。

本社から徒歩2分もあれば行ける。

弁当を広げられるかどうかはわからないけれど、とりあえず行ってみようと思って地図を頼りに行った。

その神社に行って驚いた。

私が子どもの頃よく遊んでいた近所の社ととても雰囲気が似ていた。

のちのちよく見ると、その神社のような厳かな雰囲気は私が遊んでいた神社とは似ても似つかない気がしたけれど、それでも足を一歩踏み入れた瞬間、「本町に住んでた時のあそこと一緒だ」と真っ先に思った。

それは懐かしさだけじゃなく、安心感のような安堵する気持ちも同時にもたらした。

そして私はそれを見て「名古屋でやっていけそうな気がする」と直観で思った。

何の根拠もないけれど、その場所に立ってそこの空気を吸った時に、「大丈夫」と思えた。

ちなみにこれは後から会社の人たちに聞いて知ったことで。

本社から徒歩2分の場所にも関わらず、その神社は駅を背中にしたら本社とは真逆の方向にあって、本社が左側にあるなら2つの大きな幹線道路をはさんで右側にその神社はあった。

しかも神社は幹線道路から脇に1本入った道に入らないと見えないようになっていて、その脇道も用事がなければ絶対に通らない道だった。

だから会社の誰に聞いても「そんな近くに神社があるなんて知らなかった」と皆が言っていたのも無理はない。

そこは私だけの秘密基地みたいで、私は実際に仕事に行ってからもよく1人で通ったし、そして仕事を辞めてからもそして最後名古屋を出る時も本当に何度も何度もその神社には通った。

なんなら、去年のお盆休み、当時三重に住んでいた妹夫婦+姪っ子を訪ねに行った時、名古屋にも立ち寄ってその神社に行ってきた。

とにかく、母親が持たせてくれた弁当のおかげで私はその神社に行くことができた。

もしあの日友達の家から名古屋に向かっていたら…

もしあの日母親に荷物になるから弁当とか絶対にいらないと言っていたら…

もしあの日母親が弁当を作ろうと思い付かなければ…

たられば話になってしまうけど、本当の本当に全てのことがぴったりと重なり合わないと絶対に出合えない場所であったことは確かだった。







 

3:ハローワークのおじさん

仕事が内定してからも私は名古屋に本当に行くかどうかをずっと迷っていた。

それはトモさんの言葉の力も、偶然出合えた神社の存在さえも帳消しになるぐらい、不安の方が大きかった。

というより不安しかなかった。

そこに追い打ちをかけるように、年上の友達の友達からアドバイスをもらって、それをその通り会社に聞いたら、曖昧にしか答えない会社に余計と不信感を募らせた。

友達の友達は企業にお勤めの方で、福利厚生に関してとても詳しかった。

20代の私は採用のされ方も特殊であれば、日本の学生がする就職活動をしてないから福利厚生の言葉すら知らずにいた。

ましてや企業の福利厚生なんてもっと知らなくて、それで友達の友達が入れ知恵をしてくれた。

私は会社に電話をかけて、有給・退職金・年金あたりについて問い合わせたと思う。

これは無知だったから本当に良かったことで、これが普通に福利厚生についてきちんと知識があったのなら私は100%その仕事を断っていた。

とにかく歯切れが悪く、的を射ない答えが返ってきた。

ここでどうこう聞いてもらちが明かないと判断した私は、数日後今度はハローワークに行って相談した。

内定をもらったけれど、その会社の福利厚生について不安があるから相談したいと受付で言って、それで自分の番号が呼ばれるまで待った。

 

細かい質問は忘れたけれど、まず最初に聞いたのは「週休制ってなんですか?」だったことは覚えてる。

週休2日制という言葉しか見たことなかったから、「週休制」という意味がわからなかった。

おじさんがそれは週に1日の休みという意味で、労働基準法的には違法にはならないと説明してくれた。

まずはそれだけで心が折れた。

「えっ!?週に1日しか休みないの?」とそれはそれは驚いた。

これも余談だけど、ドミニカで私がいたところというのは、「南の島の大王はその名も偉大なハメハメハ」のハメハメハ大王の歌にあるように「雨が降ったらお休みで」という職場だった。

嘘じゃなくて本当で、朝雨が降ってそのうち小雨になってから仕事に行った最初の日のこと。

行ったら同僚から「フミコ、何で来ちゃった!?今日は雨だから誰も来ないよ。休みなんだよ、こういう日は」と説明を受けた。

それにも驚いたけれど、私は続けて聞いた。

「今日みたいに朝雨降ってても途中で止んだりした日はどうしたらいいの?」と聞いた。

すると同僚は「そういう日は僕に電話して!フミコ僕の番号持ってるでしょ?聞いてくれたらいいよ。じゃないと、来るのだって交通費がかかるんだからお金がもったいない」とまで言われた。

「とにかく雨が朝降ったら来なくて大丈夫だから!」と念を押された。

だから私はその日以降、朝雨が降ったら本当に仕事は連絡もせず休んだ。

最初は違和感があったけれど、そのうち味をしめて「明日雨が降りますように」という実にアホな願い事をするようにまでなった。

(ドミニカ人の名誉のために言うと、こんな職場ドミニカでも珍しいです)

いつだったかは、日本人の友達と飲みがメインなのか麻雀がメインなのかわからない休日を過ごした日、帰る頃大雨となって帰れなくなり、私は翌日晴れ渡っているにも関わらず職場に電話して「昨日○○という町に来て雨で帰れなくなったから(←これは本当)、だから今日は移動するだけで終わっちゃうから仕事休むね」と電話をした。

「OH、NO!それは大変だね。フミコ気を付けて帰ってくるんだよ」と言ってもらい、しれっと休んだ日もあった。

そんな生活をして日本でも転職活動という名のニート生活を半年ほどして、その後いきなりの週1の休み…。

もうやっていける気が0%どころかマイナス100%だった。

その後も福利厚生のことについてハローワークのおじさんからあれこれレクチャーを受けた。

ぱっと見、定年間近のおじさんだったと思う。

それもこの道最低30年は国家公務員というおじさんだったと思われる。

そのおじさんが、色々私が聞いてそして説明してくれた最後、私にこう言った。

「武士俣さんが大丈夫と思ったら大丈夫ですよ」

もう1回言う。

国家公務員のおじさんが、安定第一のようなおじさんが、

「武士俣さんが大丈夫と思ったら大丈夫ですよ」と言ったのだった。

しかもおじさんは安易に言ってるのではなかった。

それは福利厚生とかそういうことじゃなくて、私の人生そのものに対してのアドバイスみたいだった。

それを聞いて、私はとりあえず大丈夫だと思った。

そしてダメならすぐに戻ってきたら良いんだ、と気を楽にして名古屋に向かった。

 

私は今でも思う。

トモさんが「名古屋武士俣さんに合ってると思いますよ」と言ってくれたこと。

面接の日、母親が弁当を持たせてくれたおかげで自分が子どもの頃よく遊んでいた社と雰囲気が似ている神社に巡り合うこと。

ハローワークのおじさんが「武士俣さんが大丈夫と思うなら大丈夫ですよ」と言ってくれたこと。

そういうことって後にも先にもそれ1回きりで、そしてそれらの出来事がなければ私は名古屋に行く決心が絶対につかなかった。

人生の巡り合わせには不思議なものがある。

ハローワークのおじさんにはそれ1回きりしか会っていない。

担当者は毎回違っていたし、そんな相談はそれ一度きりしかしなかった。

トモさんは今もトモさんにしかできない癒しをどこかでしてると思うけれど、その数年後日本を離れて海外で施術を始めた。

だからもうあのサロンに行ってもトモさんはいない。

神社はあの通り、会社の人で知ってる人は他に誰もいなかった。

すべては巡り合わせで、それは今思うと、私が名古屋で必要な出逢いと必要な体験をするためには私が選択を誤らないように私の人生に現れてくれたんだと思う。

~名古屋メモリーズ~

名古屋メモリーズ ①転職活動


30歳になった私が本格的に転職活動を始めたのは、2009年の夏だった。

日本帰国=無職確定だった当時の私。

結婚という選択肢が完全になくなった私には、働く以外の選択肢がなかった。

結婚して専業主婦とか、誰かとどこかで暮らし始めるという選択肢がない以上は、もう自分で自分の人生を進んでいくしかなかった。

20代の私は2つの異なる福祉関係の仕事をしていて、そして2つの仕事ともすごく特殊な感じで決まったから、企業に対しての就職活動というのはその30歳の時が初めてだった。

タワーマンションに旦那様と引っ越した絶賛つわり中だった大学時代の友達を訪ねて、人事や面接もしていたその子にまずはどんなスーツを着て行くのかや、面接の受け方、職務経歴書の書き方、その他諸々指導受けながら、まるっきりの手探りで始まった就職活動だった。

40社は受けた。

ガチの就職活動だったから、履歴書はさておいても職務経歴書や志望動機はその都度書き変えて、作業そのものが本当にしんどかった。

しかも「絶対にこういう仕事に就きたい!」なんていう強い思いなど1ミリもなく、まずはどの仕事なら少しは興味を持てるかから検討して探していかなければならないところからのスタートだった。

就職活動はしんどいだけの何ものでもなかったけれど、一つだけ決めていることがあった。

ずっと長いこと心理やカウンセリングをもっと専門的に極めていきたいという気持ちを持っていて、仕事しながら学ぼうと決めていた。

だから私は東京都内の仕事ばかりをひたすら探していた。

東京ならそういうことを専門に学べるスクールがいくらでもあるだろうと踏み、実際に行きたいスクールも見つかった。

記憶にある限り、採用された1社を含め5社の面接に行った。

もしかしたらもう1、2社面接に行ったかもだけど、40社も受けながら面接に行けたのはごく一部だった。

その採用されたところが名古屋だった。

私はその1社からのみ内定をもらった。

1次面接は東京で、なんと妹が当時住んでいたところから歩いて行ける場所にあった。

1次が通り2次面接の連絡を受けた時、次は本社の名古屋ですと言われた。

もちろん名古屋になんかさらさら行く気のなかった私は、1次面接でも東京採用希望ということを熱くアピールしてきたし、それ以外の選択肢なんてまるっと考えていなかった。

名古屋も単に面接のためだけの名古屋と思って行った。

そして面接の後、名古屋採用での連絡を受けた。

全く望まない名古屋採用。

誰も知っている人がいない名古屋。

かろうじて行きたいと思っていた学校が名古屋にも名古屋校として存在していることがわかったけれど、やっぱり不安しかなかった。

それでも行こうと決めた理由は、1つにはもう就職活動が本気で嫌になっていたから。

山ほど不採用通知を受け取り、とにかくどこでもいいから就職したいという気持ちでいっぱいだった。

安易にとりあえず働きながらまた考えればいいとも思った。

でもその先が名古屋というのはどうにも解せなかった。

本当に嫌なら、すぐに辞めて帰ってきたらいい、親もそれに対しては全く反対しなかったから、それで名古屋行きますと返事した。

でも本当に名古屋行きを決めた理由はもっと別の理由だった。

当時面白いことが3つほどあって、その3つが一番の決め手であったことはまた別の回で書きたいと思う。

当時の私は、いつでも辞める覚悟で、1週間程度の旅行に出るようなスーツケース1つに最低限の着替えと茶碗と箸だけを持って名古屋に向かったのだった。

住民票も新潟に置いたまま、当時は国民保険だったからそれも新潟の市町村のまま、それで名古屋に行った。

それが2009年の11月のことだった。

 

今日(2017年12月6日)、仕事帰りの車の中で1つ思い出したことがあった。

その就職活動の真っ最中、仲良くしている友達からお見合いの話を持ってきてもらったことがあった。

友達は仲良くしている年配のご夫婦から、そのご夫婦のエリートサラリーマンの若いお友達の嫁候補がいたら紹介して欲しいとお願いされていた。

条件は、①外国で暮らしたことのある人、そして②結婚したらとりあえず今は中東勤務だから中東のどこぞの国に住むのがOKな人、の2つだった。

その条件ならぶっしーいけるでしょ!と思って、そしてその友達は私が常々「夢は専業主婦♪」などと言っているのを耳にタコができるぐらい聞いていたから、だからその話を持ってきてくれたのだった。

当時、いつまでも決まらない仕事にやりたいこともわからない自分に、現実逃避したいことは山ほどあった。

とりあえずの嫁ぎ先が中東というのももちろん引っ掛かったけれど、私は即決でその話を断った。

仮にとんとん拍子に話が進んで本気で中東に行くことになったとしたら、私はそこで何をするんだろう?って思った。

もちろん憧れの専業主婦だったとしても、「それは私の道じゃない」ってはっきりと感じた。

色々整理できない気持ちも常に自分の中にあったし、今は結婚とかそういうことではないと思った。

結婚はしたくても、なんか今じゃないし、きちんと理由は言葉で説明できなくても何かが確実に違うのはわかっていた。

名古屋行き自体も相当な迷いの中で選んだことだったけれど、名古屋行きは選べてもその縁談話は選べなかった。

今思うと、名古屋に呼ばれていたと思う。

どの会社を受けるかも選べないような感じだった私が、その縁談話だけはものすごくはっきりと「NO」の答えが出せていた。

そして私が名古屋に行くと決めた3つの理由は、実に不思議な流れで運ばれてきたものばかりだった。