2020年3月18日水曜日

青い鳥

祈ることが日常になった。

会社の中はカオスすぎて、とにかくやれる事を1つ、また1つと積み重ねるしかない。

それは何とかなってもならなくても、とにかくやるしかないから、ひたすらに目の前にきたものをこなしている。

今朝、朝の車の中で、緊張の糸がプツッと切れたのか、涙が一粒二粒と出てきた。

悲しいとかじゃない。

いっぱいいっぱいになって、なんだかホロっと来てしまった。

派遣とは思えない責任ある仕事が次から次へとやってきて、そして良くも悪くも何か発言するのも提案するのも何てことないから、ある種普通にやれてしまう。

今日も今日で、それこそその箇所が導入されて以降誰も言い出せなかったことを、資料作って、2つの選択肢を提示して、どちらか多数決で多い方を採用すると書いて(←変更してもらってもいいから、原案を周りに聞きつつも独断で作った)、明日それが大御所たち又は大御所の秘書的な人たちに渡されることになっている。
(実務上の負担が大きいにも関わらず、これまではそれを誰も指摘せずに「やる」しかないと思って為されていたことを、私はこの度それに代わる代替え案も資料作って「廃止」を訴えた。「継続」か「廃止」を問う2択になっている。)

さすがの私もビビって、なんだか心細かった。

そういう時に、私は1人の人の存在を思い浮かべる。

連絡もできない。

会えるわけでもない。

何一つできることはないけれど、心の中で思い浮かべる。

思い浮かべるというよりも、勝手に思い浮かぶ。

今日も今日で思った。

ふと、その人が私にしてくれたことは、よくよく考えたら、別に相手が私じゃなくても私と同じ状態の女の人を見かけたのなら、その人は私にしてくれたことと同じことをしただろうと思う。

私が特別でもなんでもなく、本当に単に状況を見て、自然と普段からしてるだろうことをその時もしたに過ぎない、別に相手が私でも他の誰かでも同じだっただろうと思った。

自分が特別扱いされた!なんていうのは思わなかったけれども、心が舞い上がったのは本当だし、そこからますます何か自分でも止められないものにハマっていったのは違いなかった。

時々、当時のことが夢のように感じる時も最近は増えてきたけれども、やっぱりあの時はあの時で現実だったんだな…なんて思った。

そんなことを思いながらいつも通る農道に入る道を右折した。

友達が教えてくれた、田んぼのど真ん中にある「青い鳥」という名の喫茶店。

青い鳥…。

その人が私に大丈夫と言ってくれてるわけでもなんでもないけれども、青い鳥が究極の状況下で出てきて、それはすなわち私の今ある仕事の状況も大丈夫なんだろうと思った。

色々大丈夫じゃないし、キャパオーバーな感じも無きにしもあらずだけど、強烈な状況になればなるほど、私はその人のことを思い出す。

会えなくても繋がってなくても、ただただ思い浮かべるだけでパワーがもらえる。

ましてや、その人に関わる大きなサインが友達を通じて伝えられて、これ以上ないくらいに「大丈夫」なんだろうと思った。

友達が何も知らずに職場の上司を乗せて行った先というのは、ただその人の名前の入っている洋菓子屋さんだっただけじゃない。

そこというのは、私がこのブログを再開する一番のキッカケを作ったところだった。

そこの運搬用の車にはその人の名字が漢字のまま入っている。

その車はお店の人にある時確認したら、1台しかないことがわかった。

この世にたった1台しか存在しないその車に、このブログを再開しよう…と考えたまさにその日の仕事帰りに、私は右折レーンに入ったら目の前にあった。

目の前にその人の名前が大きく入っているその車を見て、私はブログを書くことに決めた。

ブログを書いたところでどうにもならないと思っていても、それしか伝達手段がなかったわけで、私は唯一の手段に賭けることにした。

嘘みたいな本当の話で、ブログがある種の繋ぎみたいな、繋ぎと呼ぶにもちょいと抵抗があるけれども、少なくともまさかのまさかで、本人も目にしているというのは、始めた後何ヶ月も経ってから知った。

とにかくそんなこんなのお店に友達は行き先も知らされずに上司に言われるがまま行ったら、そこだったという。

友達の職場からなら15分から20分かかると思う。

その時間をかけるなら、駅前にも行けて、そっちの方がよりどりみどりな銘菓や地元有名どころの菓子があるけれども、あえて県外のお客さんがどういうわけかその店の名物まんじゅうの大ファンで、それでそのまんじゅうを買うために友達はパシリにされていた。

だから友達がひっくり返ったのも無理はない。

ちなみに店舗は、私が一度だけ友達を連れて行った時しか友達は行ったことないから、方向音痴の友達は場所を知らない。

そんなこんなを思い出して、そういうさらなるありえない色んなことを思った先にその人はいて、私は大きな何かに守られているんだろう…と思った。

私の勘違いでも色々誇張して自分の都合の良いように解釈しているでも、もはや何でもいい。

そんなありえないことを聞いて、その人を思い浮かべて、それで私は守られていると感じて力をもらえる。

それもかなり大きなこと(今回ならおそらく10数年は少なくとも誰も指摘しなかったことを廃止しようと提案するなんて、正気の沙汰じゃできない)を前にした時に、これ以上ないタイミングで現れるその人の何かは、私にとって大きな心のお守りになる。

ギリギリのところに立っている時に、その人のサインは現れる。

私の日常の祈りがまるで届いたみたく、何かしらやってくる。

夏の日、本当に雲ひとつない青空の日だった。

外にいたその人と私含む面々は、黙々と作業をしていた。

その時、たった一瞬だけその人は私の元にやってきた。

素敵な気遣いをその人はさっとするだけしたら、すぐに自分の持ち場に戻っていった。

まさかその時のことがその後ずっとずっと残って、今も私を元気づけたりやさしい気持ちにさせてくれるなんて、当時の私もだしその人だってそんな未来は思い描けなかったと思う。

その人からしたら、天災のように私が降りかかってきたかもしれないけれど、私からしたら生涯忘れない瞬間をプレゼントしてもらった。

そして、そこから私はオカルト的な不思議な体験をどんどん体験することになるけれど、そのいつの時もその人の存在が心にあって、それによっておかしな状況にも向き合ったり立ち向かったりしていける。

ずっとずっと変わらない。

相手を神格化しているとかそういうのじゃないけれど、実際にパワーをもらえるのはずっと変わらない。

普通の友達のように、それこそ男友達のように不意に連絡を互いに取ったり会ったりするような関係は望めないけれども、窮地や危機になればなるほどその人の存在感は増す。

今も色々厳しいことの連続だけれど(今日から480ページもある英語の取説を1人で全部見て、不具合を直し始めたところ。納期が月末にあって、それまでに一通り全部やりきらないといけない。多分これまで1冊丸々全部1人で点検した人なんかいないと思う)、それでも私の中には自分の信念もあるにしても、それ以上にその人の存在があることでそんな無茶なことにも向かっていける。

もはや何を祈っているのかも自分でもわからないけれども、いざという時のその人の存在なのは間違いない。

とてつもなく痛い人みたいだけれど、私の人生なんだから自分がそれによって力をもらえたり生きやすくなるならありだと思う。

その人と私が一般社会の枠に当てはめたら何の関係もないということになってしまうけれども、それで今の私は困ってはないからいい。

会わないのも会えないのも仕方ないと思っている。

だけど、私が心の中で自由に何かを感じるのは迷惑もかからなければ、私にはこの上なく良いことだから、私は私で好きなスタイルで心の中はいたらいい。

祈りが日常に溶け込むのも、自分がこうなってみてわかった。

人が祈るのは、そこから大きな力をもらえるからだと思う。

何の根拠もなくても、何かひとつ心の中心に置いておけるもの、存在があったのなら、それだけで強くいられる。

夏の青空とは違う色の空の下で、気付くといつもいつもその人がいる。

ただただ真っ直ぐに、ひたすらに、その人からパワーをもらっている。

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