2019年11月5日火曜日
2019/11/04 志賀高原の紅葉
今日という日の記録。
頭の中が飛んだ。
もしかすると、もっと厳しい状況を専門家の口から伝えられる時よりも昨日の夜のたった一瞬の風景や、今日1日の紅葉を見に行く小旅行の方が私にはインパクトがあるかもしれない。
すべては私の過度な妄想と思い込みでこんな風になっていると思いたい。
本当にそう思いたいけれど、父の体はけっこうな勢いで弱っている。
一過性のものと信じたいし、治療するなり薬を飲んだら良くなるものだと思いたい。
だけど、今日、父と母と私とで長野に紅葉を見に行った時、「来年はあるのかな…」と何度も思ったし、なんなら桜はどうなのか、もっと言うと正月はどうなのかまで、何とも言えない感じがひしひしと伝わってきた。
こんなのたまたまだと思いたいけれど、来週家族全員が揃う。
36歳になろうとしている妹が地元の友達の結婚式に呼ばれていて、姪っ子、父にしたら孫を連れて帰ってくる。
それに合わせて、真ん中の妹も仕事の休みを取って帰ってくる。
妹たちにはまだ何も言っていない。
妹たちも多分見たらわかると思う。
何で来週にそんな家族みんなの予定が合わさってしまうんだろう…。
夏の終わりには私を家から出す計画が両親から伝えられて、その時には妹たちが帰ってくるのは決まっていたから、ずっとどこかで「その時私はどこにいるんだろう」と思っていた。
何だかんだズルズルと家にいたわけだけど、毎日顔を合わせていると気付かない。
なんとなくは気付いていたけれど、まさかそんなにも異常な状態になっているなんて、わかっていなかった。
今日ほぼ1日、すぐ隣りで父と過ごしてみて、同じ空間ではなく、本当にすぐ隣りで10数時間過ごしてみて、これかなりヤバいんじゃないかと思った。
同じ屋根の下、家に互いにいても、それぞれが別々の行動をしていたり、別々の部屋にいるから、きっちりと24時間体制での健康チェックなんかしたことなかった。
だから、いつぶりなのかもわからない、少なくとも春先に桜…と思ったけれど、今記憶が蘇った、父と2人で見に行ったけれど見頃が終わっていて、ダメだったねとか何とか話した。
その時はまだそんな風じゃなかった。
その後は、毎回3歳の姪っ子付きだから、姪っ子の様子は気に留めていたけれど、父の様子など気にもならず、そして姪っ子いる時は父は普段より気持ちが上向いて元気だから、それもまたよくわからなかった。
そして10月の私は、とにかく父と母とこの何も私の中で決まらない私の今後の話などしたくなく、ごはんを一緒に食べる時間帯をずらしたのも週に2回はあったし、食べた後は私は速攻部屋に逃げ込んでいたから、父の様子を観察することもなかった。
本当におかしいと感じ始めたのは、多分この1週間から2週間だと思う。
元々偏食の父が気に入らないものを食べないのは、今に始まったことじゃなく、何十年とそうだった。
だけど、全体的に食べなくなり、好きなものも残したり最初から少なめにしてくれと言ったりと、毎度毎度面倒くさいことを言うなぁと私なんかは片付けていた。
でも今日1日一緒にいて、いよいよ変だということを目の当たりにした。
相変わらず好きなものは食べるし、タバコも吸うし、酒も飲む。
だけど、トイレの回数が異常だとわかって、そして他にもそういえば…と普段の咳とか体の痛みとか、色々サインは出ていたことに気付いた。
だから、これが私の勘違いであって欲しいし、大袈裟に捉えすぎなんだと思いたいけれど、もう私の中で一番大きなところが崩れた。
これであと10年20年と生きてくれたら本当に奇跡で、下手をすると思っているよりうんと早く終わりの時はくるかもしれない…、そんなことが何度も頭をよぎった。
人が死ぬ、それも自分の人生にずっといる人の死が近いかもしれない、という感覚はこの世の中で一番怖いことかもしれない。
本当におかしな言い方だけど、私は自分が明日死ぬことになっても、もしくは余命1ヶ月ですと宣告されても、怖くないと言い切れるんじゃないかと思うくらいに怖くないことに気付いた。
普段はそんなことが良いなんて考えたこともないけれど、本当に今の私には何も守るものがないし、やり遂げる必要のあることもない。
なんなら約束はただ1つ、6日に友達とランチに出かけることのみ。
それ以外、この現代の超多忙社会の日本ではありえないぐらいに、私は用事がない。
守る我が子とか、愛する夫とか、はたまた命を懸けてやる仕事とか、そういう「生きる」こと前提のものが何一つなく、だから明日死ぬとなっても後悔がない。
思い残すこともない。
死んだ後の諸々の手続きを思うと、周りに最後まで迷惑かけるなぁぐらいなもので、そして余命1ヶ月と言われても私はそうしたら今の生活を1ヶ月続けて終わりを迎えるような気がする。
コツコツと手紙は書くかもしれない。
あと、死後に残ると困るものは処分するかもしれない。
だけど、それだけのような気がする。
そんなアホなことも考えながら、私は自分が死ぬことに対してはそもそもの生きることに対しての執着がないから、世の中の1日も長く生きたい人たちやその家族全員を敵に回すようだけど、本当にそんな風になっている。
だけど、これが自分以外の誰かが死ぬとなると話は全く別で、私は昨日の夜にトレーナー越しに見えた父の痩せ細った肩周りを見て以降、まともな思考回路にない。
さっきまでそんなことをネットサーフィンするフリして考えていたら、それだけで2時間以上が過ぎて驚いた。
思考はひたすら変なところにどんどんいく。
家を出てスキー場の住み込みの仕事の申し込みも保留にした。
明日の朝、母に聞こうと思っている。
今どこか遠くに行くことが果たして本当にいいのか、わからないと思った。
近くで自宅から通えるところに派遣でもバイトでも行くわと思った。
これで本当に何もなくはなくても少しの治療で何とかなるのなら、その時に動けばいい。
これまで疎ましいと思っていた父の考えや行動やはたまた仕草が疎ましいものではなくなった。
それは見事な変貌ぶりだった。
目の前で人が生きているって、こんなにすごいことなんだと骨の髄まで染みてわかるようになって、細かいことが考えられなくなった。
息の音がする、生きている気配があることの壮大さと同時に、これがいつか消えて無くなると思ったら本当に気が変になりそうだった。
海老蔵が麻央ちゃんが亡くなった直後に会見を開いたけれど、あんなのどうやってできたんだろう…と思った。
2日前の夜に父から、私が名古屋から新潟に帰りたいと電話してきた時「お金だな、とピンときた」と言ってきた。
私はその通りだから反論はしなかったけれど、心の中ではどうしてそうまでなった私のことをそんな風に悪い方からしか捉えないんだろう?と思った。
私からすれば、そうまでなったというのは、いきなりお金が底つくわけではないし、そうなるまでの色んなプロセスや心の葛藤、どうにもできない無力の自分、最低最悪なところまで落ちるから(お金だけじゃなく心もボキボキボキっと何重にも折れる)、それを全く加味されずにそう言われてしまうのが本当にやるせなかった。
だけど、父の死が突然近いのかもしれないと思ってから、それはガラリと変わった。
父はお金云々の話をしているのじゃない。
父はただただ私を心配しているだけだった。
そして、そんな風に私を心配するのは、この世で父と母だけだとわかった。
死んだら、見えないところでは見守ってもらえるかもしれないけれど、もうこんな風にヤキモキしながら心配してもらえなくなるんだな…と思ったら、心の一番根っこのところがいきなり空っぽになりそうなくらい衝撃があった。
何度も何度もこれは私の過大な妄想でありますように、と祈っている。
私が帰りたいと言ったそのすぐ後、実は父からまた再度電話がかかってきた。
私はワンワン泣いてて電話に出なかった。
「🍻お父さん🍻」という画面の表示がずっとずっと途切れずに出ていた。
出なきゃと思っても出れなかった。
切れた後、90秒以上鳴らし続けてくれていたことがわかった。
そういうものがいつかは無くなるんだ…とこれまでの私はただの一度も想像したことがなかった。
たった一瞬目にした父の小さくなった肩が、私に一気に色んなことを見せ始めている。
初めてそこは冷静に思えたことだけれど、私は結婚相手も子どももいなければ、きちんとキャリアも積んでいない、莫大な教育ローンを組んでアメリカまで出したのに、何も実らない、挙げ句の果て実家に戻り引きこもりのようになる、そんな娘を父が本当のところどう思っているのかはわからない。
だけど、本当に何一つ父に安心材料みたいなのを見せてこなかった自分というのがわかった。
だからと言って私が改心するようなことには全くなっていないけれど、父も私を見て何も安心できないのは無理もないなと思った。
きちんと世の中的に身を立てることだけが親孝行ではないけれど、親からすると自分の手塩にかけて育てたものが少しでも良いものである方が、自分の安心感や自分を肯定したり努力が報われたと思うことなのかもしれない。
そうしたものを何一つ示してこなかった私は、後悔とは違う、自分を責めるのとも違う、だけどどこか親に対しての申し訳なさはある。
申し訳ないと感じるのなら、それを行動に示せばいいのに、私はまだあいも変わらずウダウダ、グルグルと自分の中で堂々巡りが繰り広げられている。
特に強烈だったこの10年、終わってみて何も後悔やそれに似た気持ちはないけれど、むしろ最近じゃその渦中本当に頑張ったなぁなんて思ったりすることも出てきたぐらいだけど、唯一両親が好むようなものを何一つ見せられなかったのは心残りなところがある。
両親が好みそうなことを選ぶのも、それもありかもしれない、父がこんな風に見えてからそのように思う部分が出てきた。
自分でも出てくるままに書いているから、話は飛んでいるだろうし、何を思って何を書いているのかもさっぱりわからないけれど、どうしても残したい、そう思って書いた。
明日には明日の風が吹きそうだから、そして小さな何かは時間の経過と共に忘れる。
もう後戻りはできないから、せめて残せるものは残したいと思った。
今日長野の志賀高原で、晴天なのに午後2時台の気温は2度というおかしな場所で、私は景色の写真も少し撮ったけれど、少し離れたところから父の後ろ姿を撮った。
その場で泣きそうになりながら撮った。
お願いだから、来年も紅葉を見させてください、とお願いすることすら怖くてお願いできなかった。
願掛けLOVEな私がお願いすることが怖いなんて、本当に終わってた。
怖いのとも違うかもしれない。
とにかく受け止めきれない。
父が何を望むかは知らないけれど、もし余命宣告を受けるような事態であるなら、私は父がしたいようにして欲しいと思った。
タバコが吸えないとかお酒が飲めないとか偏食父が好むものが食べれないとか、そんなのは制限したくない。
色んなものを犠牲にして生きてきた人だから、専門家が考える体に良いものではなく、本人が欲するものを最後まで選べる人生だといいなぁとそんなことまで私は考えた。
遺影は姪っ子と撮った写真の父の顔の部分だけがいいなとか、そんなことまで私は思った。
だから、ここに書いたこと全部全部笑い話になったらいい。
私の思い込みが行き過ぎた話で、全て妄想で、検査受けたら大したことなくて…。
しばらく気持ちの整理をするために、このブログはその整理のために使おうと思っている。
途中のものもあるから、そういうのは気が向いたらアップ。
またこうしたことを突然話し出すかもしれない。
関係ないけれど、2つ3つ前に書いた「蠍座新月のつれづれ記」が、同じ人から読まれているのかそれとも何人かの人なのかどうかは知らないけれど、空前の大ヒットのようでやたらと読まれている。
過去の自分が書いた文章が誰かの目に止まる、という話をつい最近、ゲイの友達のノムから聞いた。
ノムは自分のインスタのストーリー(←24時間限定で表示される機能の模様)に7、8年前の自分が書いたものをアップしているらしい。
自分問答とノムが言うそれは100人近くから読まれていて、その反応具合に驚いたと言っていた。
私はそんな100人とかいう数字では全くないけれど、私の過去の日記の一部も同じような感じなのかもしれない。
であれば、ここに書いたこともいつかは過去になるわけで、これは人に読んでほしくて書いてるのとは違うけれど、自分が自分のことを整理するのに、もしくは吐き出すのに、この場所ほど今回適した場所はない。
読んだところで何にもならないだろうと思うけれど、私は吐き出さずにはいられない。
いよいよ何を言いたいのかわからなくなってきたから、ここでおしまいにしよう。
明日の朝、またいつもと変わらない朝を迎えると思う。
その朝は、もう永遠ではなく、カウントダウン付きの朝だということ、それを数時間後の私は確実に胸に刻む。
父に何もできなかった私は、そしてこの後劇的にV字回復するとも思えない私は、せめて自分を隠さずに葛藤しまくろうと思う。
誰かとのサヨナラが近づくことの恐ろしさと、それはいくら自分の感情だと言われてもそれこそが今の私だから、今ある気持ちにとことん付き合おうと思う。
それをすることで、父との時間が少し景色が変わる。
父の前で泣けないから、せめてここではボロボロ泣きながら書いたってそれは許される。
本当の一期一会がスタートした。
いつかはわからないけれど、いつかの終わりに確実に向かい始めている。
だから、上手く向き合えない自分であってもそこを向くことでしか、もしくは向き合えない現実から逃げ惑うしかないという気持ちを自分の中でOKにするしかないように見えて仕方ない。
やり直しが効かないのが人生だから、もうこのまま読み返さずにアップする。
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