2019年8月28日水曜日

希望と絶望のはざまで夜中の書き物

今、真逆のエネルギーが同じくらいの強さで起こっていると感じる。

魂レベルの人生の目的は、多分信じられない速さで色んなことが人生に飛び込んで来ている。

そして内容も史上最高の濃密さを呈している。

そちらはそちらで良いとして、その上手くいく感じと、全く上手くないこととが、見事に対照的に鏡合わせのように存在している。

魂側が上手くいけばいくほど、その同じエネルギー量で上手くいかないことはどこまでも上手くいかないと、日々絶望度合いが増し増しになっている。

魂側の意図ではないんだと突きつけられてるみたいで、目をつむりたくなる。




人生でもう会えないということの意味を色んなシーンに絡めて想像してみる。

最初に出てきたのが、「声」だった。

声の記憶はギリギリある。

それはどうも期間の長さと発言量=聞いた量に比例するみたいで、期間の短さと発言量が圧倒的に少なかった声は、記憶にとどめておくのがとても難しい。

意識の深いところでは絶対的に憶えていても、表面の意識では記憶が薄れていく。

人生でもう会えないということは、声を聴くことが二度とないということなんだと知る。

姿かたちも当然視覚で捉えることがない。

耳も目もきちんと機能してくれていて、とりあえず今日も生きる時間が与えられていて、私はそういう意味では元気そのものだけど、特定の事柄になると、それをどんなに望んでも1ミリもそれが自分の人生に起こることが許されていない。

体が元気で、魂的な意図はモリモリと物事が進むのに、本当に叶って欲しいことは叶わない。

それは頭だけで叶って欲しいとでも思っているとは思わない。

私は本気のつもりでいる。

なんだけど、悲しいくらい叶ってはいけないようで、微動たりしない。




魂側の設定は今少しずつ明るみになっている。

多分そちらは、私の望む望まない気持ちは関係なく、いわば勝手に叶っていくと思う。

何度も引き合いに出しておじいちゃんごめんなさいとは思うけれども、山で行方不明になったおじいちゃんを探して欲しいと頼まれた去年の秋から、いよいよ色んなことが猛烈なスピードで動き出した。

何度書いても、さすがの私もそれってとってもおかしいことというか、1億人の人生サンプルを集めた時に、そんなことを人生で体験する人は、いても100人いるかいないかじゃないかと思ってる。

でもそれが私の人生の設定ならもはや止められないし、1年前のホロスコープ鑑定で、私の場合は星を使うのではなく「星にどうぞ私をお使いください」というタイプの人生だと説明されて、実際にそのような人生がこの1年でわかりやすい形で展開している。

何を言っているのかと思われるかもしれないけれど、実際に魂の設定レベルになると、人間側のちっぽけな頭で考えたり心で望んでいるものとは別次元の力で突き動かされるということを目の当たりにする。

この1年5ヶ月ほど、最低限の外部の接触と最低限の生活と、はたから見たら引きこもりでも、私側は多分40年分の時間をかけて動かさなければいけないほどの色んなことが一気に起こりまくっていて、未だに上手く消化もできないまま、次へ次へと容赦なく進むみたいになっている。

最低限のものだけに囲まれた生活になると、自分が本当に望んでいることたちなんか、本当にごくわずかだと知る。

私はもうあれだけ望んだ結婚も出産も本当にあきらめ始めたし、よくわからない魂の設定ももはや自分じゃどうにもできないとわかってそれについても受け入れていく他ないと思ってる。

私の望みはどんどん細分化して、もはや「それだけ?」と思うほど小さなものになった。

魂側の動きのスケールのでかさからしたら、私が本来望んでいることは本当に小さなものだった。

それさえも叶わない、叶えてもらえない自分の人生はなんなのかと思う。

私は一杯のコーヒータイムが欲しいだけだった。

そこまで自分の望みを小さくして、それでも叶わないのだから、もう何かが本当にダメなんだと思う。

魂側のダイナミックな動きによってもたらされるものは、本当に大きな感動もあるし、素晴らしい側面もある。

でも私が注目しているのはそういうことじゃない。

365日毎日念仏のように願いまくったことは、何か大きく道を外れてるのか、叶わない。

私は、自分で自分に納得するために、最後の勝負に出た。

ダメなものを自分が納得できるように、自分に残っているすべての選択肢を使い果たした。

やるだけやってダメなら仕方ない、そう思っていた。

予想はしていたし覚悟もしていた。

なんだけど、予想や覚悟した通りの展開になっても、心は全く頑として動かない。

「仕方ないよね」の境地など、そこに至るのに私はどのくらいの時間が必要なのか、考えるだけでぞっとする。

日々の生活に残るものが少なくなればなるほど、私は何かなくてもそんなに困らない体質だとわかった。

一番わかりやすいところで言うと、お金のかかるものはとことん節約生活に入って、もはやちょっとおいしいものを外で食べることも何かと天秤にかけて、何かの方が勝ればそれさえもあきらめるみたいな生活になった。

多分多くの人は耐えられないようなことも、私はどういうわけか平気で、「それって我慢とかじゃないの?」と揶揄が飛んできても、「別にそう思われてもいいです」と思えるほどに強靭な精神力になっている。

毎回思うけれど、30代の10年間で強烈な状況に何度もなったおかげで、私はドン底でも人生を楽しむ術だけは身につけた。

ある種の処世術みたいなもので、それはこれから先の人生でも大いに活躍してくれると思う。

メンタルトレーニングに励んだわけじゃないけれど、究極に限られた状況になると、もはや自分が心から望んでいることはとっても数少ないとわかる。

つい昨日かおととい、車の中で「自分にとって死ぬ時に望むものは?」なんてことを考えた。

余談だけど、期間限定の米の仕事は片道30分強かかる上に距離数も20キロ越えしていたかと思うから、運転の途中から意識の状態が変わる。

自分の深い部分にアクセスできるみたいになる。

その時は「知名度」というテーマの話をノムとのやりとりでしたばかりだったんじゃなかったかなと思う。(ノム=占星術講座で知り合って、今双方で書く仕事を一緒にするという名目の上、互いに色んな意見交換を交わしている)

知名度に興味のない2人は、どこまでも興味がないという結論にしかならないのだけど、私が車の中で考えたことは別のことだった。

知名度は要らないけれど、私は最後自分が死ぬ時に何が欲しいかな?と考えた。

1人の車の中は、そういうことを考えるのにもってこいの空間だと感じる。

出てきたことはとってもシンプルだった。

誰かに私のことを憶えてもらえる、それはたくさんいなくて良くて、1人そういう人がいたら本当にいいなぁと思う。

憶えてもらう私の姿は、アホっぽくていいし、不器用で記憶されてもいい。

それは何でもいい。

誰かの心の中に私がいたと記憶される、そういう人生でありたいと思った。

これはきょうだいや友達ではなくて、自分のパートナー的な人にそれをして欲しい。

パートナー的なことも、魂側の意図を今目の前で見ていて、強烈な事実に行き着いたゆえ、より一層絶望感が増したのもある。

これはまた未来変わるのかもしれないけれど(本気で変わって欲しい)、私が思うに、ここまで私が1人人生なのは、多分1人の力でとことん自分癒しをする魂の目的があったからだと思う。

私の友達にシングルマザーの子がいるけれど、その子の話を聞くといつもいいなぁと思ってしまう。

色々あっても、子どもが生まれてからその子の生きる原動力は子どもが支えている。

彼女はそうとは言わないけれど、そうなのは話を聞いていてよく伝わってくる。

私は自分の性格を見てわかるけれど、もし私に子どもがいたり夫なりパートナーがいたら、私はその人たちとの生活を守るために生きると思う。

そういう存在は、欲しいからといって手に入らないということはものすごくよくわかるから、そんな幸運に恵まれたのなら、私はその人たちやその人たちとの生活を自分の人生の真ん中に置いて生きる自分はものすごくよく想像できる。

だけど、それをすると、私が自力で立ち上がる力は多分埋もれたままになるのと、そしてそうなると魂側の設定はAll無視する自分のことも安易に想像できる。

このブログの中に何度も何度もしつこいぐらい書いたけれど、魂側の設定は私からして何1つ望んだ記憶もなければ、そもそもかなりヘビーだから、ヘビーと最初からわかっていたら絶対に手をつけない。

しかもこれこそ致命傷だと思うけれど、私はその設定に対してそもそも興味がない。

自分癒しをするのは興味があるからじゃなくて、そうでもしないと自分が生きていくのに苦しすぎるからやってるに過ぎない。

要はここまでの状況にならなければやらないこと。

そして、そのやった色んなことが魂の設定に対してどうでも必要なことなんだろうと思う。

そうなってくると、パートナーや子どもがいない方がある意味正解で、究極の1人こそが私をここまで強くするのはよくわかる。

そういうことまでわかってきてしまった今、だからこそ死ぬ時に誰か1人に、それは私にとっても大切な誰かに私のことを憶えてもらいながら死ねたら、これほどしあわせなことはないと思う。




何の話をしていたんだったかな…と我に返った。

本当はノムとの間に起こっている様々なことが目白押し状態で、それを先に書いてしまいたい気持ちはあるけれど、夜中に目が覚めて書きたい気分なのはこっちの方だった。

魂側はトントン拍子な感じ。

ちなみにそれは、自分に合ってる仕事をするとかパートナーに恵まれるというのとはおおよそ違う。

トントン拍子というのは、ものすごい速さで傷が癒えていて、さらに癒えた分今度は魂側の設定をする状態に近づくわけで、はたから見たら「ぶっしー何も変わってないね」にしかならない。

だけど、私側からすると過去の色んな痛みが癒えてるのはわかる。

そちらがトントン拍子であればあるほど、自分が望んでる小さなことが叶わない現実を前にひたすら絶望しか浮かんでこない。

まさに、叶うエネルギー量と叶わないエネルギー量が、「量」的には一緒なんだろうと思う。

真夜中に書いたから、しかもずっと半分眠たい中で書いたから、内容も果たしてどんな風なのかいまいちわからないけれど、このままアップしようと思う。

私の中で一番キツイのは、無視されること、無視され続けること。

ノムとの間に起こっている希望のようなものの裏側で、無視され続けてることも私にはあって、そこはもう絶望一色という、私がそれを受け入れるにはまだまだうんと時間が必要なことが横たわっている。

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