2019年8月1日木曜日

40歳4ヶ月




2019/07/31 真夏の晴れた日の夕空



40歳4ヶ月経過ーーー

改めて40歳という数字にビックリする。

まるで他人行儀な年齢に毎度驚きを隠せない。

書きたいテーマに意識を当てる。

確実に何かを書きたい。

だけどそれが何かというのが、まだ言葉として出てこない。

そのうち出てくるだろうと思って、これはこのまま書き続ける。

人生には正解もなければ不正解もないと思う。

40にもなると、自分も周りも悲喜こもごも色んな人生を見つけるようになる。

それぞれの人たちが色んな人生を歩んでいて、それぞれがそれで正解と思うようになった。

息巻きすぎていた20代と違って、30代はそれはそれは静かにしていた。

人生の目標がなくなって、何で生きるのか、何のために今日も命が与えられているのか、何一つわからない時間がたっぷりとありすぎた。

一人暮らしの小さな部屋の小さな天井を何度も見上げた。

答えが降ってこないと知っていても、自力で考えても出ない答えに、天から何かもたらされないかとそれはそれは期待した。

何でもいいから、すがりたかった。

自分の人生なのに、自分で舵切りすることを放棄していた。

どこかで誰かに決めてもらいたい、そう思う自分もいた。

結婚も子育ても絵に描いた餅になってから、一体何を楽しみにその先の人生を生きていいのかわからなかった。

正社員の仕事だったのに、自分が組織人間になれないと知って、さらにブラック企業的な働き方は無理とわかって辞めた。

普通の勤め人は期間限定ではできても生涯を通じては無理だと知った。

コーチングとNLPとを学んで資格証もいただいて、いや資格証は受講料で大枚払った後に追加で諭吉3人が追徴されてお金で買った。

じゃないと、NLP協会的な団体は、それを習ったと公に出せないとほざいた。

大事な規制ではあったけれど、取ってからただの一度もライセンスマークを使用したことがない。

そうした資格さえ取れば、そこそこ箔がついて、開業できるのかと思った。

考えが甘すぎた。

そんなに物事は上手く運ばない。

ビジネススキル云々ということだけに限らず、まさかの自己否定からくる色んなカラクリがその後徐々に立ち現れてくるなんて想定外過ぎた。

働き方とかいうことの前に、生き方そのものを見直さなければいけない事態が続きまくった。

外に出ては疲れて内側に引きこもり、引きこもりがある程度完了するとまた外に出る、その繰り返しを何回したのかわからない。

周りは子育てだのキャリアだのともしくはその2つの両立に忙しい。

又は何か目標に向かって見えないところでコツコツと積み重ねる。

そのどれでもない自分はどこまでも情けなく、情けないだけでは何もモチベーションになってくれず、私は一体全体何のために生きてというか生かされているのか、さっぱりちんぷんかんぷんだった。

30代もあと2年切ったところで大きな出来事が起こる。

あれはやっぱり人生のご褒美だったと思う。

貴方も私も今日も元気に命があって、お互い同じ空間で同じ空気を吸う、そんな風に貴方に会えてとても嬉しいです、ということを大真面目に日々感謝して喜びいさんで過ごした時間が訪れた。

恋でも片想いでも肩書きは何でも良かった。

なんなら全ては私の勘違いと思い込みによる誤った現実認識でも良かった。

生きることが本当に喜びで、毎日朝を迎えるのが超絶楽しみだった。

自分史上最高の喜びに満ち溢れていた日々だった。

私はその時ほど自分の命に感謝したことはなかったし、日本語が2人共通の言語だとか、今の同じ時代に生まれたこととか、そんなことさえも全部が全部とっても特別なことで、それら無くしてはあり得なかった出逢いに狂喜乱舞した。

出逢いには恵まれたけれど、それと相手との関係性がイコールになるわけじゃない。

あれは本当にご褒美で、ご褒美はご褒美らしく消えて無くなってしまった。

心理的に手が届かないだけじゃなく地理的にも手が届かないところへと行ってしまった。

そこを境にオカルトワールドへようこそ!ハローマイオカルトフレンド!な世界へと勝手にフェーズが変わった。

オカルトワールドへの移転希望なんか出した覚えもないのに、オカルトよろしくなことはどんどんパワーアップした。

私は愛と喜びに生きたいのに、なんなら希望の職種は専業主婦なのに、何でお願いもしていないオカルトワールドが来る!?、それも超絶受け入れ難かった。

欲しいものは人生からは消え、代わりに普通からは程遠い摩訶不思議なことたちが次から次へとやってきた。

スピリチュアル分野や産業はやりたい人だらけだし、何もやる気のない私じゃなくてよかろうもん、なぜに私におかしなヘンテコ機能を付け足されたのか、解せなさすぎた。

オカルト勢力は衰えることを知らず、私にホロスコープという星読みの技術をもたらした。

お金が超超超カツカツでも、星読みの学びのお金はどういうわけかキレイに毎回用意できた。

お金が困窮する度に毎度毎度思った。

これ多分行かなきゃいけないんだ、と。

お金が底突くぐらいの時なのに、「なぜかこれにはお金を使えた」の使えた先は、100%と言わず1000%絶対的なものを人生にもたらしてくる。

そこまで入れ込んだ占星術ではないのに、毎回毎回月末の支払いと占星術用のお金を見て、「今月こそ無理かも」と思いながら9回通い通したわけだから凄すぎた。

9回目の最後、多分これが本星だったと思っているけれど、eat LOVEという名の「愛を食べる」会に招待してもらった。

星読み講座のモチベーションの低さとは裏腹に、eat LOVEの会への参加権獲得には心も体も躍った。

時々ブログでホロスコープ(星読み)のことを書くけれど、私がせっせと熱心に書く時は、あれは自分のことか自分に関わる何か大切な人かことかの二択で、それ以外には基本星読みに興味がない。

なのにきちんと通えた講座で、それはもっと別の目的あってのことだと思っている。

別の目的というのは、神の采配レベル、神々の審議会決定事項的なもので、私にはそれが何かわからない。

講座で私はゲイのクラスメイト「ノム」、eat LOVE提唱者に出会った。

いまいち距離感の縮まらない占星術講座のクラスメイトたちに、占星術たるものそういう関係なのかもしれないと思った。

友達探しに行ったわけじゃなかったから、まぁある意味想定内だった。

ノムとも最初から仲良くなったわけじゃない。

なんだけど、「同志」、文字通り、同じ志の者、出会わずには終われない。

きちんと出会うようになっていた。

同じ志というのは、魂レベルの志が同じということ。

表現方法や生き方は違っても、「これは譲れない」または「これを信じて生きている」的なものが同じになる。

書きたいことが山ほどあるけれど、とりあえずいくつか同じものをノムと私は好んだ。

一番好きな作家は吉本ばななさんとか、好きな料理家は高山なおみさんとか。

ノムは私が言葉にしたいものをポンと簡単に言葉にして見せてくれた。

色々発想がぶっ飛んでいていつもはセーブしながら話すのに、ノムの時はそれを一切しなくて良くて楽チンだった。

セーブしてきたものは、すなわち私の生きづらさの根源だった。

子どもの頃から、世の中にいまいちフィットしない自分のことはわかっていて、そこを隠したりないものに仕立てたりねじ曲げたり時には調整して小出ししたり。

ノムの前ではそれをしなくて良かった。

そして、何でノムが同じ志かわかったかと言うと、つい数時間前、私はとうとう自分と同じことができる人を目の当たりにしたからだった。

ノムは、私の魂からのメッセージをつらつらと喋って教えてくれた。

最後の方にノムは言った。

「ペンジュラムにちょっと聞いてみる!」

「やっぱりそうだった!
今の話、ぶっしーから情報もらって喋ってた!」

私は自分と同じことができる人に出会ったことがなかった。

だから当然私は反対側の、要は伝えてもらう側の体験をしたことがこれまで一度もなかった。

話を聞いててわかった。

私の知ってることも知らないことも両方あった。

でも、知らないことも違和感はなくて、そういうことなんだろう…と反発心のひとかけらもなく素直にそう受け取れた。

そして、私は自分がノムにそれをお願いしたのもよくわかった。

もちろん自分じゃお願いした記憶はない。

お願いもきちんとしたわけじゃない。

だけど、何でノムだったのかはわかる。

ノムは私を絶対に傷付けないというのがわかるから。

傷付けないけれど、それは何かを避けたりもしない。

傷付けない方法で確実に大切なメッセージを伝えてくれる。

それが本能レベルでわかっているから、だから私は無意識にノムにその係をお願いしたんだと思う。

ノムを見て、自分に与えられているものというのは、すごい崇高なものなんだと思った。

そして、とても大切な役割でもあると。

なのにまだまだ抵抗しまくりな自分もいて、その自分との歩み寄りはこれからの課題だと思う。

同志だと思ったのは、根本に持っているもの、人生の方向性とか生まれた目的とか生きていく上でのゴールみたいなものが同じだと感じたから。

そして、大事なメッセージを伝える時の姿勢とか心持ちが同じだと感じたから。

40歳4ヶ月、まだまだ人生迷いまくり、40にして惑わずという孔子の名言は、あれは嘘だなと思う。

孔子はそうでも、私はまだまだまだまだ迷いまくりですが何か?、と思う。

でも、40歳4ヶ月、安定した生活に愛に満ち溢れた生活です!なんてものよりも、今の状況の方が私らしいのかもしれない。

専業主婦とかお母さんとかいう肩書きからは程遠い人生でも、それでも生きている自分がいる。

世の中に子どもも残さず、納税額もとても少なく、決して褒められた生き方じゃないけれど、それでも今日も生きている。


2019/07/26  真夜中に眠れなかった日

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