こうした風景には本来縁がないんだ…としみじみと思った景色
カレーライスを作るママ役のメイ
アンパンマンたちの家を建設
お盆帰省中の姪っ子メイと児童館に行ってきた。
その児童館は、日中の子育て支援は0〜2歳を主に対象にしていて、メイのように年少と呼ばれる3歳児はほとんど来ない。
年少ともなると、保育園なり幼稚園に行くから、メイのような年齢層は基本来ない。
だから今日なんかは若干少しだけ大きなおねえさん風で、乳飲み子やそのきょうだいに混じってのメイはやたらと大きく見えた。
うちは何せ徒歩1分のところだから、軽装で最小限の荷物だけ持って行く。
うちら2人が一番乗りで、少しずつお母さんたちが増えていった。
お母さんたちは基本みんな弁当・着替え持ちで、ほぼ1日児童館で過ごすようだった。
今日は親子リズム教室の日で、他に4人のお母さんと6人の子どもたちがいた。
保育園2年目のメイは、手遊びもリズム体操も絵本の読み聞かせもとても慣れていて、保育園とは違う流れに興味を持って臨んでいた。
お母さんたちに交じって、母親体験・ママ友疑似体験みたいなことをしながら、途中から意識は他のところに飛んでいった。
相変わらず、ママ友ではないけれど、お母さんたちに交じって話をそれとなくしたり、表面は笑顔を浮かべながらも距離の取り方を超吟味するみたいな時間には疲れた。
リズム体操は楽しかったけれども、それをしてくれる保育士さんを見て、自分はその職には就かないこともはっきりと悟った。
そこにいる何人かの女性たちを見ていて、私は全く違う人生なんだと再認識した。
子どもを産み育てるとか、旦那さんを支えるとか、子どもの知育に力を入れるとか、それはどれも私の人生に全くないものだった。
外国で暮らすよりも私は自分が異次元の世界に生きているみたいに感じた。
同じ性別で同じ地域で生活しているのに、私は全く別の場所で生きているみたいだった。
年齢も大きく違うのではなく上も下も一回りぐらいの差でしかないと見た目から感じたけれども、私は性別が同じ以外は何も同じじゃない自分をものすごく客観的に見ていた。
夕方、妹と夕ごはんの買物に出かけた。
その時に、妹の同級生の妹とその子どもたちもいて、少し離れたところにいたうちら2人はその様子を見ていた。
妹が「あれだよ、マサキの妹のまみちゃん」と言った。
マサキくんは私もうっすらと知ってる。
まみちゃんに関しては、ちょうど今のメイくらいの年だった頃のまみちゃんを知っている。
2人のお父さんが子供会の役員で、子どもにものすごく近い係で子どもの育成に関わっていたから、そこに小さなまみちゃんが時々来ていたから知ってる。
まみちゃんは車で5分ほどの地域にあるお母さんの実家に大人になってから養女として入って、婿取りでその家系を引き継ぐことになったと妹は言った。
大人になったまみちゃんは、小学生の男の子を筆頭に4人のママになっていた。
昼間の児童館での体感したこととまみちゃんを見て感じたことが1つの線で繋がった。
そして、お盆に入る前に占星術講座のクラスメイトだったノムが、自発的に私のホロスコープを読んでくれた上で綴ってくれた文章が頭の中にじんわりと響いた。
近いうちにアップしたいと思っているけれど、ノムは私の星を読んで、【ぶっしーの、専業主婦になりたい、みたいなことと、そこへと人生が流れない話は、ぶっしーの金星が、「したかたないよね」とはっきり示しているねえ。夫のために生きる。というスケールではない人生なのだから、しょうがないのだな。】と言った。
他にも、【ぶっしーは、もうやるべきことを決めて、定めて今回の人生にやってきているとしか思えない。
みんな、誰しもそうなのかもしれないけれど、実際はわからないが、多くの人は、余地というものがたくさんある気がする。
たとえば、素材は決まっているけど、チャーハンにしてもいいし、ドリアでもいいし、おかゆでもいいみたいな自由さがありそう。
けど、ぶっしーは、そういう感じがしない。】と言われたこととが色々頭の中を駆け巡った。
ノムの言葉は私をこの上なくやさしく包んでくれて、諭してくれた。
自分1人の時はそこまで感じないけれど、こうして同性の他の人たちの人生を垣間見ると、その辺りをもっと強く感じる。
妹は年齢的に今、子育て真っ最中の友達、これから結婚式挙げる友達、不妊治療中の友達とが混在している状態にある。
姉妹だから気兼ねなく色々話すけれど、明らかに妹と私とは生きる世界が違う。
妹は見えない世界のことも占星術のことも興味津々だし、そういう話もたくさんできる。
これはついこの数年の中で知ったことだけど、子どもの頃に関して言えば、妹の方が完全にオカルト体質で色んなことがわかってしまうタイプだった。
今妹にはその要素は1ミリもなく、むしろそんな体質は1ミリもなかった子ども時代を送った私の方が今はその気(け)がある。
妹は興味を持っても「興味がある」ところにとどまれる。
私は興味の有無を確認するよりも早く先に事象が現れて、そこに自分が入らざるを得ないような状況になってしまう。
妹の口から、秋にある友達の結婚式の招待客や料理の話、友達がしている不妊治療の話は、私からして異次元的な内容で、遠い国の言葉を聞いているみたいだった。
そこには立つことのない自分の人生の輪郭を、静かに心の中でなぞった。
8月に入ってから色んなことが一気にありすぎた。
ノムが伝えてくれた私の人生の中身や、ノムが誘ってくれた自分の根幹に関わる仕事の機会は、もう止まることのない勢いと強さがある。
仕事は今調整中で、仮にやることになっても今回一度きりの単発モノ。
その辺りはおいおい書いていく予定。
そうこうしているうちに、私は10年越しにずっと聞きたかったことを聞く時が巡ってきた。
10年前にはどうしても知ることができなくて、それでものすごく悩まなければいけなくなったことを今になって知ることとなった。
知れたことは良かった。
だけど同時に、もうそこにはいない自分のこともよくわかった。
10年前の人生のターニングポイント的なところで起こったことの真実を今知ることになった。
到底受け入れられなかったことも、今の私から見て、そうでなくてはいけなかったことを知った。
ノムとの仕事に向けての細かな打ち合わせがある程度終わった頃、妹と姪っ子が帰ってきた。
そこからは、プリキュアごっこだのパーティーごっこだの保育園ごっこだのと、超地に足の着いた遊びざんまい(修行ざんまい)が始まった。
片や宇宙の果てまで飛んでいくようなぶっ飛んだ内容たち(=魂的なテーマ)と、それとは真逆の人間社会に存在している色んな現実物語たちとが交互に現れて、私のテンションも普段とはけっこう違う感じになった。
そのうちに、「後悔はしたくない」「自分でやりきってダメなら、そのダメの現実を受け入れたい」となって、今朝この数日ずっと意志固めしたことをとうとう行動に移した。
その2時間後に私はメイと児童館に行った。
そこで感じたことが冒頭に書いた内容。
あと半日もすればメイたちは家に帰って、その翌日からは私は米の収穫所での短期の仕事が始まる。
何が書きたかったのかわからなくなってきたけれども、こうやって色んなことが自分の中を通過する中で、絶対的に変わらないものというのが見えてくる。
様々なことに対して私は「あきらめる」ことをした。
最初からあきらめたんじゃなくて、そうせざるを得なくなってそれでそうした。
色んなことがドタバタと入れ替わり立ち替わり起こる中で、唯一後悔したくなくて動いた今朝のことだけが、自分自らアクションを起こしたことだとわかる。
それもまた常軌を逸していて、とてもじゃないけれど、児童館にいた女性たちには言えそうにもないことだった。
生きる世界が違うってそういうことなんだと思う。
だけれど、自分が全身全霊を賭けて、それでも貫きたい何かがあるというのは、私にとってとっても珍しいことだった。
今の色々まとまらない感じや混乱している感じこそ、今の私の状態そのままなんだと思う。
今とっても混沌としていて何にもわかってはいないけれど、これがあと1年すると今ある色んなことの意味が今よりはわかるようになっていると思う。
そして、究極、すべてはなるようにしかならない、そう思っている。
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